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スティーヴン・ソーダーバーグ監督が信じた”愛”の物語・・・マイケル・ダグラスとマット・デーモンの怪演で蘇る”悪趣味エンターテイナー”の晩年~「恋するリベラーチェ/Behind the Candelabra」~

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先日発表された第65回エミー賞の身ミニシリーズ・TV映画部門で「恋するリベラーチェ」は、作品賞、主演男優賞(マイケル・ダグラス)、監督賞(スティーヴン・ソーダーバーグ)を始め、キャスティング賞、編集賞、衣装賞、ヘアスタイル賞、特殊メイク賞、アートディレクション賞、サウンドミックス賞の計11部門で受賞しました。スティーヴン・ソダーバーグ監督の休業前の最後の作品(劇場作品としては「サイド・エフェクト」)となった本作は、アメリカではHBOのテレビ映画作品として放映されましたが、日本では劇場映画として公開されます。

リベラーチェの芸能活動はラスベガスでのショーが中心・・・ピアニストなのでヒット曲があるわけでもありません。アメリカ以外では知られていないものの、アメリカで絶大な知名度を誇ったのは、過剰装飾のキッチュな衣装で出演し、ウィットに富んだトークで、トークショーの常連であったからでしょう。悪趣味であることを自覚し、それを”売り”にする彼のスタイルは、1980年代前半には、決して”おしゃれ”としては受け取られていませんでした。(逆に今なら、半端ないぶっ飛びっぷりに楽しめてしまうかも?)また、頑に同性愛者であることを否定する姿勢も、ゲイコミュニティーからは好意的には受け取られていませんでした。その言動から、彼がゲイであることは多くの人に明らか・・・ゴシップ誌の同性愛報道や元ボーイフレンドとのトラブルでの裁判沙汰になっても、彼の熱狂的なファン(主に田舎のおばちゃん)は、「リベラーチェは絶対ゲイじゃない!」と信じていたのだから、ファンというのは常に信じたいことしか信じないもののようです。


「恋するリベラーチェ」は、1977年から1981年までリベラーチェの恋人だったスコット・ソーソンによる同名の回顧録(暴露本)「Behind the Candelabra」を原作にしており、ふたりの出会いから亡くなるまでのリベラーチェの晩年のはなしです。二人の性的関係がハッキリと描いており、リベラーチェがベットでは”受け”あったこと(誰もが、そうだろうとは思っていたけど!)や、性的不能気味だったリベラーチェがペニスにシリコンを注入していたことも、しっかりと描いています。二人が出会いが、スコット16歳、リベラーチェ58歳の時だったことを考えると・・・倫理観的に問題のある関係であったのですが、本作では未成年への性的行為であったという点には触れてはいません。

マイケル・ダグラスの声質が、元々リベラーチェに似ていることもあって、モノマネ演技としての完成度は高いです。マット・デーモンとの激しいセックスシーンをブヨブヨの老体を晒して演じる捨て身っぷり・・・また、ステージでのパフォーマンスシーンでは、(おそらく音は別に録音されているでしょうが)実際にピアノを弾いていたようでした。そして、ヘアメイク/特殊メイクの素晴らしさは、驚愕のひと言・・・豊作の冒頭シーンでは、シワシワの老け顔(特殊メイクなし)でマイケル・ダグラスは登場するのですが、フェイスリフトの整形手術とケミカルピール後の若返った顔は、パンパンでツルツルなのです。


御年42歳となるマット・デーモンは、16歳から25歳を演じているのですが・・・冒頭では、肌がピチピチ。1970年代後半にゲイの間で人気のあったブロンドボーイを見事に再現していました。リベラーチェに囲われ始めて徐々に太っていく体型、若いときのリベラーチェの顔に似せて整形手術で変化していく顔、麻薬で身を滅ぼしてボロボロになっていく様子など、見事な特殊メイクによって、鬼気迫る変貌をしていくのです。

本作には、マイケル・ダグラスとマット・デーモンの他に、有名俳優が出演しているのですが、特殊メイクが上手過ぎて誰なのか分からないほど・・・リベラーチェの母親を演じるのはデビー・レイノルズ、リベラーチェのマネージャーを演じるダン・アクロイドは、クレジットを見るまで気付きませんでした。リベラーチェとスコットの整形手術をする医者役にロブ・ロウが扮しているのですが・・・本人もフェイスリフトで顔が歪んでしまったという設定で、相変わらずの繊細な美形と相まって、なんとも異様な存在感がありました。


父親と息子のような関係でもありながら、性的関係もあるというのは・・・多くの人には理解し難いかもしれませんが、ゲイの世界では”ありがち”のこと。実際、ボク自身も19歳の頃に、20歳以上も年上でお金持ちの男性と付き合ったことがあります。自覚していたわけではありませんが、年上の男性に”父親”的なイメージは重ねていたところがあったかもしれません。当時(1980年代前半)、アジア系を好む白人ゲイというのは、裕福なおじさんが多かったのですのが・・・お金を出してもらって美容室や日本食レストランを始めるという日本人ゲイというのは、少なからずいたものだったのでした。リベラーチェとスコットほどの年齢差というのは極端なケースかもしれませんが・・・ゲイの関係に於いては、金銭のやり取りを含めた父親のような存在で恋人というのは、ひとつの恋愛関係のカタチではあるのです。

現在、AIDSは死に必ず直結するわけではありませんし、ゲイ”だけ”が発症する病気という認識でもありません・・・しかし、本作の舞台となった1980年代は違いました。リベラーチェが亡くなる直前のシーンは、特殊メイクかCGなのか分かりませんが・・・ガリガリに痩せ細り、灰色っぽい肌をしているマイケル・ダグラスの姿が、AIDSで亡くなった友人たちの最期に似ていて、ボクは非常に衝撃を受けました。「エイズで死んだ年老いたオネェなんて思われたくない」というのは、リベラーチェらしい言葉です。1985年にAIDSで亡くなる直前、ゲイをカミングアウトしたロック・ハドソンとは対照的・・・リベラーチェは自らゲイであることを死後でさえ公にすることはなかったのですから。


売名行為以外の何物でもない”キワモノ”の原作を、リベラーチェとスコット・ソーソンの”ラブストーリー”として描ききったことには、ボクは少々驚きました。リベラーチェから寵愛を受けた若者というのは、スコット以外にも大勢いたはず・・・本作でも、リベラーチェが次から次へと男を乗り換えていたことや、見知らぬ男との不特定多数の性行為を行なっていたことは描かれています。また、スコットもマイケル・ジャクソンとも肉体関係があったと語るなど、相変わらずの売名行為を続けています。「恋するリベラーチェ」は、リベラーチェも、スコット・ソーソンも、決して「本当はいい人だった」と描いているわけではありません。それでも、本作を見た観客が二人の間には”愛”があったと感じることができるのは、スティーヴン・ソーダーバーグ監督が「そうであった!」と信じているからに他ならないのです。




「恋するリベラーチェ」
原題/Behind the Candelabra
2013年/アメリカ
監督 : スティーヴン・ソーダーバーグ
出演 : マイケル・ダグラス、マット・デーモン、ダン・アクロイド、ロブ・ロウ、デビー・レイノルズ、スコット・バクラ

2013年11月1日より日本劇場公開

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”お蔵入り”していたのにはワケがある・・・天才ファッションデザイナーの内面を暴けなかった密着ドキュメンンタリー~「ファッションを創る男~カール・ラガーフェルド~/Lagerfeld Confidential」~

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ファッションに興味がある人なら・・・「カール・ラガーフェルドの名前は知っていて当たり前!」と思うのは、今では古い考え方かもしれません。ボクがファッションに興味を持ち始めた1980年代前半には「フェンディ」と「クロエ」のデザイナーとして、すでに大御所だったカール・ラガーフェルドは、1983年に「シャネル」のデザイナーになり、翌年には自身のブランド「カール・ラガーフェルド」を開始しました。ある時期には4つのメゾンのデザイナー(シャネルのオートクチュールを含め1年に春夏、秋冬10のコレックションを発表)を務めたこともあり、1960年代から半世紀以上、御年80歳となった今でも現役・・・「シャネル」のプレタ・ポルテとオートクチュール、そして「フェンディ」のデザイナーとして活動し続けていることは”超人的”なことであります。

”ファッション・デザイナー”という括りの敷居が低くなった現在・・・流行を取り入れるのが得意なスタイリストだったり、ディテール修正や組み合わせの上手なエディターだったり、生産工場との調整に長けたコントラクターだったり、デザインをまとめるのがうまいディレクターだったり、定番のスタイルに特化したマニアだったり、古き良きを再生するのが好きなクラフターだったりと、ひと言で”ファッション・デザイナー”と言っても、”ファッション”に取り組む方向性は様々です。基本的にスケッチをベースに、実際の服をカタチにするスタッフとコミュニケーションを取っていきながら、デザインをしていくカール・ラガーフェルドは、オーソドックスな意味での”ファッション・デザイナー”と言えるかもしれません。だからこそ、いくつものメゾンを掛け持ちすることもできるわけですが・・・彼ほど器用に各メゾンごとにデザインの引き出しを使い分け、膨大な美術史や過去のファッションを組み入れ、さらに彼自身の個性さえも各メゾンに反映させているところが、まさにカール・ラガーフェルドが”天才”と呼ばれる由縁なのかもしれません。

さて、そんな天才カール・ラガーフェルドに密着したドキュメンタリー映画「ファッションを創る男~カール・ラガーフェルド~」が海外で公開されたのは、今から6年前の2007年のこと。カメラは約3年間ほどカール・ラガーフェルドを追ったということなので、おそらく撮影されているのは2003年から20006年だと思われます。何故、今になって日本で劇場公開という運びになったのでしょうか?

2000年代に入ってから、やたらファッション・デザイナーに関するドキュメンタリー映画が制作されるようになったような気がするのですが、これは1990年代以降、アメリカのケーブルテレビ局で数多くのファッション情報番組が放送されるようになり、所謂”ファッション・デザイナー”の存在が”セレブ”として認知されるようになったからかもしれません。”ファッション・デザイナー”のハイ・ファッションまでもが”情報”として流通するようになれば、ファッション的な商品を求める裾野が広がっていくので、ファスト・ファッションの需要が高まっていったことは無関係とは言えないのかもしれません。ハイ・ファッションとファスト・ファッションとの価格の格差が大きくなっていけばいくほど・・・ハイ・ファッションは服という”実体”よりも”情報”として消費されるようになり、ドキュメンタリーという形でマスマーケットに供給されるようになっていったとも言えるのかもしれません。

アメリカでDVD発売された時(2008年?)に、ボクは本作を観ていたのですが・・・先日、日本公開になることを知るまで、この映画のことをすっかり忘れていました。本作の撮影が行われていたのと、ほぼ同じ時期(もしくは、直後?)、他に2作のドキュメンタリーの撮影も行われていて・・・ひとつは「シャネル」のオートクチュールメゾンの制作模様を追った「サイン・シャネル」で、もうひとつはコレクション発表の直前の様子を追うドキュメンタリーシリーズ「コレクション前夜」の中の「フェンディ」であります。どちらも、カール・ラガーフェルドのデザイン過程を映し出すという意味で、興味深いドキュメンタリーとなっていました。本作は、それら2作とは違い”カール・ラガーフェルド”のプライベートな人間像に迫ろうという試みをしているのですが・・・手持ちカメラでの撮影者であり、本編のインタビュアーでもあるロドルフ・マルコー二監督のドキュメンタリー作家としての才能のなさを露呈してしまった”トホホ”な作品となってしまいました。日本で5年近く”お蔵入り”していたのにはワケがあるのです。

まず、ハンドカメラでの撮影が酷い・・・”盗撮”しているようなカメラアングルが多く、何を映そうとしているのかが分からない事も、しばしばあります。また、画素が荒いイメージ画像がたびたび挿入されるのですが・・・映画の尺を長くするためのような時間稼ぎ(?)をしているかのようにさえ感じられます。しかし本作で最も問題なのは・・・一を質問すれば十を答えるほど饒舌で頭の回転の早いカール・ラガーフェルドを前にして、表面的な質問の数々を投げかけるロドルフ・マルコー二の人間的な未熟さです。薄っぺらい質問に対して、本編の中でも幾度となくカール・ラガーフェルドは苛立ちを隠せずにはいられません。特に、ホモセクシャリティーについての質問のたびに、言葉を濁すロドルフ・マルコー二には、不快感さえ覚えます。カール・ラガーフェルドの度胸の座った率直さ、彼なりに筋道の通った理屈・・・インタビュー部分は100%彼ののペースで、本作の”カール・ラガーフェルド”は、あくまでも”カール・ラガーフェルド”自身が公にオープンすることを認めている”カール・ラガーフェルド”でしかありません。

「ファッションを創る男~カール・ラガーフェルド~」は、ファッションデザイナーとしての”カール・ラガーフェルド”を考察しようという意図のドキュメンタリー映画ではありません。ファッションデザイナーとしての彼の仕事ぶりを知りたい人は「サイン・シャネル」または「コレクション前夜~フェンディ~」を観た方が、彼のデザインプロセスの舞台裏を知ることができます。我々のような一般人が容易く理解できる程度の表層的なインタビューでは、天才”カール・ラガーフェルド”の内面には近づくことは出来ないということなのです。


「ファッションを創る男~カール・ラガーフェルド~」
原題/Lagerfeld Confidential
2007年/フランス
監督 : ロドルフ・マルコー二
出演 : カール・ラガーフェルド
2013年11月16日より日本劇場公開

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ジョーン・クロフォードの”マゾの女王様”っぷりが炸裂するナルシストな顔演技!・・・クラシックの名曲が過剰なまでに心揺さぶるメロドラマ~「ユーモレスク/Humoresque」~

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「MGM」を離れて1943年「ワーナーブラザース」に移籍した直後は良い役をオファーされることのなかったジョーン・クロフォード・・・しかし、1945年「ミルドレッド・ピアーズ」(アカデミー主演女優受賞)、1946年「ユーモレスク」、1947年「失われた心」(アカデミー主演女優賞ノミネート)と立て続けに話題作に主演して、見事に演技派女優として”カムバック”を果たします。これら3作品はどれも、1930年代からワーナーブラザースの看板女優として活躍していたベティ・デイヴィスに最初オファーされた役だったそうなのですが、ベティ・デイヴィスが断ったため、ジョーン・クロフォードに廻ってきたというのですから、これらの作品の高評価は・・・もしかすると二人の女優のライバル心に油を注いだのかもしれません。

「ユーモレスク」は、有閑マダムとヴァイオリニストの若い男性との恋愛を描いたラブストーリー。小説や映画だけでなく、この組み合わせって現実にもよくある話・・・若い男性を経済的だけでなく、自らの社会的地位までも利用して成功へ導く年上の女性というのは、不幸な結末に陥る”鉄板”のシチュエーションと言っても良いかもしれません。最後は若い男に裏切られて孤独になる中年女性の悲哀なんてチープな不幸ではなく・・・本作は、ジョーン・クロフォードのナルシストな”顔演技”より、女王様キャラが”マゾ的快楽”に満ちていくという崇高なメロドラマとして成立させているのです!

ポール・ボレー(ジョン・ガーフィールド)といヴァイオリニストの演奏会が中止となり、ある苦悩を抱える彼が、子供時代からを振り返るというところから本作は始まります。マンハッタンでデリを営むユダヤ系の両親の元に次男として生まれたポールは、10歳の誕生日に雑貨屋でヴァイオリンをねだるのですが、父親(J・キャロル・ナイシュ)は高価すぎると買ってくれません。しかし、ポールに強い愛情を持つ母親(ルース・ネルソン)は、息子がやりたいならばと、即座にヴァイオリンを買い与えます。他の少年が野球で遊んでいる時にもポールは熱心にヴァイオリンの練習をするようになり、やがてコンサート・ヴァイオリニストを目指して音楽学校で学ぶようになるのです。同級生のチェリストのジーナ(ジョアン・チャンドラー)はポールを愛していて、両親公認の仲でもあります。その頃、世界恐慌が始まっていて家計は苦しくなるばかり・・・ポールの兄や父親は、ヴァイオリンの練習ばかりしているポールをなじるようになるのですが、ここでもポールの才能を信じて守ろうとするのは母親です。悩んだポールはピアニストの友人・シド(オスカー・レバント)に相談して、ラジオ番組で演奏する管弦楽団の仕事を得るのですが、自我の強いポールは指揮者と口論になり、即クビになってしまいます。独奏会をしたいポールは、シドの勧めで、有閑マダムのパーティーでヴァイオリンを弾くというアルバイトをすることになるのです。

映画が始まって約30分ほど・・・ここでやっと、ジョーン・クロフォードが演じる有閑マダム・ヘレンが画面に登場します。パーティーでポールが演奏するのは「ツィゴイネルワイゼン」・・・そのヴァイオリンの音に、数人の若い男達に囲まれていたヘレンは、すぐ反応します。ヘレンは離婚2回の後、ヴィクター(ポール・キャパナー)との3度目の結婚により玉の輿にのった美女・・・デカ過ぎるショルダーパッドのドレスが威嚇するかのようです。今でいう典型的な「肉食系のクーガー女」のヘレンは、ヴァイオリンを弾くポールを舐めるように観察し始めます。ポールを侮辱して挑発するヘレンに、皮肉で返すポール・・・そんなポールの強気の態度こそが”才能の証”とばかりに満足そうな表情を浮かべるヘレンは、翌日にはポールの音楽活動に援助することを申し出るのです。

ヘレンの負担で、業界で力のある音楽エージェントのバウワー(リチャード・ゲインズ)に依頼して、ポールの独奏会を開催させます。開場にはそれほど客が入らなかったもの、「ユーモレスク」を演奏したポールは、各紙の評論家に”天才ヴァイオリニスト”として評されます。やっと”コンサート・ヴァイオリニスト”への夢が叶ったと大喜びのポールの家族なのですが・・・母親だけは、ヘレンに対して不信感を隠せません。2度もの離婚をしているヘレンよりは、ジーナのような普通の女性と家庭を築いて欲しいと願うのは、当時の母親としては当たり前の感情かもしれません。また、音楽的な援助以外に、ヘレンがポールに対して特別な関心を持っていることを母親だけは気付いていているのです。

スーツの新調するためにテーラーへポールを連れて行ったヘレンは、彼女の趣味で生地を選ぶのですが、それに反抗するポール・・・彼の選ぶ生地はグレーのストライプという品のない生地だったりします。パトロンとしてヘレンを利用しながらも、決してヘレンの”いいなり”にはならないのは、”若いツバメ”のように見られることに対してのポールなりの微かな抵抗なのかもしれません。ヘレンがポールを著名な指揮者であるフガーストロン(フリッツ・ライバー)に紹介したことにより、ポールは演奏旅行に忙しい日々を過ごすようになります。そこで休養のために、ヘレンは海辺の別荘にポールを誘うのですが・・・遂にポールは、ヘレンの誘惑に負けてカラダの関係を結んでしまうのです。久しぶりにジーナと会うと、自分のヴァイオリニストとしての野心のためにヘレンからの援助を受け続けて関係を結んだ自分に嫌気がさすと同時に、ジーナに対する気持ちも失っていないこともポールは感じるのです。勿論、そんなポールの心の動きを無視するヘレンではありません。嫉妬心を燃やして、すぐさまジーナを牽制してしまいます。


本作では、ポールを軸にヘレンとの三角関係が3つ描かれます。ひとつはポールの母親とヘレン、もうひとつはジーナとヘレン、そして・・・音楽とヘレンであります。中盤の山場・・・「スペイン交響曲」が演奏されるのですが、三人三様の思惑が曲と共に台詞なしで描かれます。ヴァイオリンを演奏するポール、客席にいるポールの母親、その隣に座るジーナ、そして舞台袖のボックス席にひとりで座るヘレン・・・旋律の盛り上がりと共に、カメラはヘレンの顔にアップしていくのですが、その表情は、まるでセックスをしているかのようなエクスタシーの”顔演技”です。ポールとヘレンが交わす視線と表情に、二人の関係を確信してしまったジーナは堪らず会場を後にして、嵐のなか外へ飛び出してしまいます。ポール、ヘレン、ジーナの三角関係は、こうしてジーナが退くことで終わるのです。ヘレンの計らいで、イーストリバー沿いの新しいアパートメントに引っ越すことになったポール・・・部屋に置かれた写真立てには、家族写真と共にヘレンの写真が飾られています。ヘレンとの関係を非難する母親に、ついに楯突くポール・・・ポール、母親、ヘレンの三角関係も、ポールが母親を断ち切ることで終わってしまいます。

それまで見て見ぬ振りをしてきたヘレンの夫・ヴィクターは、ヘレンの気持ちが自分に向くことはないと遂に悟り・・・離婚しても良いと告げます。これでポールと結婚することもできると・・・ヘレンはリハーサル中のポールを訪ねて「大事なニュースがある」とメモを託します。練習中であっても自分を優先してくれると思い込んでいたヘレンだったのですが・・・ポールはメモを一瞬見ただけで練習を中断することはありません。自分の援助のおかげでヴァイオリニストとして成功させてやったという思いと、女性としての美貌と魅力があるという絶大な自信が打ち砕かれてしまいます。ポールが何よりも音楽を愛していることを確認したヘレンは、酒場に逃げ込んで飲んだくれるのです。酒場の歌手ペグ・ラ・セントラが歌う曲がヘレンの心を表しているかのようで・・・ここでも、音楽が物語を語る役割をしています。

ここからネタバレを含みます。


ポールは泥酔しているヘレンを酒場から自分のアパートに連れて帰り、ヘレンがヴィクターと離婚することを知ります。そして、改めてヘレンに愛を誓ってプロポーズをします。不純に思われたヘレンとポールの関係も、”結婚”でハッピーエンドになるのかと思いきや・・・ポールの実家を訪ねてきたヘレンに対して、母親は「酒に溺れるようにポールに溺れているだけ・・・ポールの愛は音楽だけです」と言い切って最後の反撃をするのです。コンサートホールに行くはずだったのですが、ポールの心は音楽が独占していると再度確信したヘレンは、海辺の別荘に留まり、ラジオの生放送でポールの演奏を聞くことにします。「トリスタンとイゾルデ」の演奏を聞きながら、ヘレンは取り憑かれたように浜辺へ向かうのですが・・・黒のシークエンスが輝くイブニングドレス姿で早足気味に波打ち際を歩くヘレンの姿は、なんともシュールです。別荘から離れても、ヘレンの頭の中で音楽は流れているかのようで・・・盛り上がる旋律に、恍惚の表情を浮かべながらヘレンは海の中へ入っていきます。

「トリスタンとイゾルデ」のように、ポールは後追い自殺をするわけではありません。彼はヘレンの援助によって築いたコンサート・ヴァイオリニストという地位にしがみつき、これからの人生をつまらなく過ごしていくことを暗示するかのように、誰の姿も見えないニューヨークの街を一人トボトボと歩くポールの後ろ姿で本作は終わります。利己的な愛し方しかできない”女王様キャラ”のヘレンによる”自死”という選択は、”マゾ的快楽”に満ちたナルシストな選択のように思えますが、本作は、その”快楽”を全面的に肯定しています。そんなヘレンの役柄は、当時40代となって”女優”としての盛りを過ぎたと思われていたジョーン・クロフォードと重なり、味わい深く感じられるのです。



「ユーモレスク」
原題/Humoresque
1946年/アメリカ
監督 : ジーン・ネグレスコ
音楽 : フランツ・ワックスマン
出演 : ジョーン・クロフォード、ジョン・ガーフィールド、オスカー・レバント、J・キャロル・ナイシュ、ジョアン・チャンドラー、ルース・ネルソン、ポール・キャパナー、リチャード・ゲインズ、フリッツ・ライバー、ペグ・ラ・セントラ
1949年日本劇場公開


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ニコラス・ウィンディング・レフンとライアン・ゴスリングのタッグ再び!・・・"変態兄弟"と"鬼母"と"カラオケ警部"のバイオレント・アートフィルム~「オンリー・ゴット/Only God Forgives」~

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今年のカンヌ映画祭で上映された際、大ブーイングで不評だったと聞いていたニコラス・ウィンディング・レフン監督の最新作品「オンリー・ゴッド/Only God Forgives・・・前作「ドライヴ」のような”暴力のカタルシス”を求めてしまうと期待はずれかもしれません。本作はイチゲンさんお断り”のレフン好みの映画的ディテールやスタイルを詰め込んでいるのですから。

「ドライヴ」と同じく濃い色(赤と青)の照明、現代音楽によるアンビアントな雰囲気は、引き継いでいます。また、デヴィット・リンチ監督の「ブルーベルベット」を思い起こさせる異常な性癖、デヴィット・フィンチャー監督の「ファイトクラブ」に似たアンダーグランドの世界、スタンリー・キューブリック監督の「シャイニング」よりもスローに蠢くカメラ・・・など、レフン監督作品に共通している、好きな映画監督のスタイルのサンプリングも継承されています。なお、本作はカルト映画監督として今「旬」な”アレハンドロ・ホドロフスキー監督に捧ぐ”となっています。

「ドライヴ」と本作の大きな違いは、観客が同化できるヒーロー的キャラクターが不在なこと・・・現実と妄想の入り交じった映像で語られる物語は非常にシンプルなのですが、物語を引っ張っていくサスペンス要素も、登場人物たちの内面的な蓄積によるカタルシスも希薄なのです。それ故に本作は、レフン調の映像を楽しめないと、厳しい見方になってしまうのかもしれません。


ジュリアン(ライアン・ゴスリング)と兄のビリー(トム・パーク)と共に、バンコクで表向きはムエタイのジムを経営しながら、裏では麻薬ビジネスを運営しています。ビリーは”サド”で”ペドフェリア”というド変態で・・・ある夜、タイ人少女をレイプして殺害してしまいます。バンコクを仕切るチャン警部(ウィタヤー・バーンシーガーム)は、犯行現場に殺された少女の父親を連れてきて、父親にビリーを殺させてしまうのです。その後、自分の娘に売春させた父親の罪を罰するために、父親の片手を切り落すのです。タイトルの「Only God Forgives=神のみ許し給う」の「God=神」はチャンということなのであります。

ジュリアンは、ガールフレンドのマイ(ウィーラワン・ボンガーム)に両手を椅子に縛らせて、目の前でオナニーショーをさせるという”性的不能”で”マゾ”・・・寡黙なくせにキレると暴力的になるという相当イッチャてる奴のですが”マザコン”でもあります。ジュリアンとビリーの母親(クリスティン・スコット・トーマス)が、ビリーの遺体を引き取りにバンコクへやってくるのですが、この母親は、さらにイッチャている”鬼母”です。ひと昔前なら、アンジェリカ・ヒューストンがキャスティングされそうな役柄で、柔和なイメージのあるクリスティン・スコット・トーマスはなかなか怪演であります。

本国で犯罪組織を牛耳っているらしい母親は、兄の仇を討たないジュリアンをなじります。「ビリーだったら、即座にアンタの仇を殺してるわ!」とか、「兄弟ってくだらないことで争うものよねぇ・・・でも、ビリーのおちんちんの方が、ずっとデカっかたわ~」とか、母親としておかしいのです。それでも、ジュリアンのガールフレンドが「あなたのお母さん、おかしいわよ!」と悪口を言うものなら、烈火の如く怒るジュリアンは救いようのないマザコンなのであります。どうやら(ボクの推測も入ってます)この母親はビリーともジュリアンとも、性的な関係があったのではないでしょうか・・・そして、ジュリアンが犯罪組織の乗っ取りを狙う母親にそそのかされて父親を殺して、その罪から逃れるためにバンコクに逃げているということのようなのです。


母親は自分の手下によりビリーを殺した父親を殺害させるのですが、ビリー殺害の背後にチャン警部の存在を知ることになります。チャン警部も、自分に近づく影に近づいており・・・ジュリアンの存在を聞き取り調査していくなかで知っていきます。暴力描写は過激さを増していき、拷問、殺害による情報戦となっていくのですが・・・チャン警部は、残忍な立ち回りの後、必ずカラオケバーでタイで量産されているであろうポップソングを歌うのであります。これが「神」のように振る舞う彼の浄化行動なのでしょうか?

チャン警部は自分を襲ってきた殺し屋を捕らえて、雇い主である母親の手下を見つけ出します。その彼を拷問して、遂にジュリアンと母親の存在まで辿り着いてしまいます。チャン警部と遭遇したジュリアンは素手での喧嘩の決闘を申し込んで、自分の経営するジムで戦うことになるのですが・・・チャン警部が圧倒的に強く、ジュリアンは顔が腫れ上がるほどボコボコにされてしまいます。母親はジュリアンとタイ人の手下に、チャン警部の若い妻と娘を含んだ皆殺しを命令するのですが、時を同じにしてチャン警部は母親の滞在するホテルに乗り込んできます。そして、チャン警部は母親の喉をあっさり突き刺し殺害してしまいます。

ここからネタバレを含みます。


チャン警部の自宅に侵入したタイ人の殺し屋は、帰宅したチャン警部の若い妻を射殺するのですが、ジュリアンは娘を殺すことができません。結局、娘に銃口を向けるタイ人の殺し屋を、ジュリアンは殺害して、娘を救ってしまいます。指示された復讐さえも「不能」なジュリアンは複雑な思いで母親の待つホテルに帰宅するのですが、そこには血だらけのまま放置されていた母親の死体が残されています。母親の腹に手を滑らしていくジュリアン・・・彼のマザコンの原点は、自分が生まれた母親の子宮に戻るといくことだったのでしょうか?

ジュリアンは本作の中で、何度となく自分の両手を前に掲げるというポーズをとるシーンがあるのですが、ジュリアンは犯罪者(まずは父親を殺した殺人者)としての罪の懺悔することを望んでいたようなのです。その後、ジュリアンはチャン警部により、両手を切り落とされる幻想を見るのです。そして、チャン警部は再びカラオケバーの舞台に立ち、歌って本作は終わります。

復讐の連鎖による暴力と、幻想と現実の入り交じっ心象描写によって、ジュリアンの懺悔への過程を描いているのですが・・・ストーリーはあってないようなもの。レフン監督の世界観とビジュアルを楽しむアートフィルムなのであります。


「オンリー・ゴット」
原題/Only God Forgives
2013年/アメリカ、デンマーク
監督 : ニコラス・ウィンディング・レフン
脚本 : ニコラス・ウィンディング・レフン
出演 : ライアン・ゴスリング、クリスティン・スコット・トーマス、ウィタヤー・バーンシーガーム、トム・パーク、ウィーラワン・ボンガーム、ゴードン・ブラウン、ピタヤ・バンスリンガム
2014年1月25日より日本劇場公開


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禊(みそぎ)なしでは”沢尻エリカ”には普通の娘役なんて許されない?・・・「ぴったんこカン☆カン」番宣出演で垣間見せた”嫌われ者の美女ゆえ”の自虐で「笑いもの」になることが完全復活への道なのかもしれない~TBSドラマ「時計屋の娘」~

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「悪女について」から約1年半ぶりとなる沢尻エリカ主演のテレビドラマ「時計屋の娘」が放映されました。放映前の数日間は番宣のために、久しぶりにTBS系のバラエティ番組に出演もしていましたが、扱いは”特別枠”というわけでもなく・・・以前と比べて「エリカ様のテレビに出演」の”ありがたみ”は、随分となくなってしまった気がします。なんだかんだで高城剛と離婚をすることもなく・・・といって仲睦まじいという報道もなく、世間はエリカ様の私生活にも、だいぶ興味を失ったようにも思えるほどです。

映画「クローズド・ノート」の舞台挨拶での無愛想っぷりで叩かれた「別に」騒動は、すでに6年前(2007年)の話・・・しかし、そのことは世間は容易く忘れてはくれません。「パッチギ」「1リットルの涙」などに代表される清楚で純粋な役柄のイメージに関わらず、時々垣間みせる女王さま的なキャラと歯に衣着せぬ気の強そうな発言の数々で、徐々に世間にも”素”の沢尻エリカと役柄のイメージの落差を、世間が徐々に気付き始めたころ・・・「別に」騒動は、沢尻エリカの人としての評価を決定的にしてしまいました。沢尻エリカ程度に性格の悪い若手女優なんて他にもいるはずだけど、上手に”素”の悪さを隠して、表向きは”気さくで良い人”っぷりを演じてみせているだけ・・・”素”がバレてしまうほど、沢尻エリカは「正直」なだけだったのかもしれません。


芸術祭参加作品として制作された「時計屋の娘」は、いかにも”丁寧な作りのテレビドラマ”風であります。石巻で美容院を営んでいた母親を東日本大震災の津波で亡くした宮原リョウ(沢尻エリカ)が、ある日突然、埼玉のシャッター商店街の外れで時計屋を営む秋山守一(國村隼)の前に、ヴィンテージの”ロンジン”の腕時計を修理して欲しいと現れます。実は、その腕時計は若き日の秋山(中村勘九郎)の恋人であった国木知花子(中村文乃)にプレゼントしたものであったのです。実は、母親が保証人となって背負わされた500万円の借金の取り立て屋に追われているというリョウ・・・もしかすると、秋山は自分の父親ではないかと言い出すのであります。秋山はスイスへ時計修理の留学に行けるかもしれない・・・という下心から、上司の娘とデートをしたことをきっかけに、知花子と別れてしまっていたのですが、もしかすると、その時に知花子が妊娠していたとしたらリョウが自分の娘かもしれないのです。そうでないとしても、リョウは秋山が愛した女性の娘であることは確かであります。回想シーンとなる25年前というのは平成元年(1988年)・・・”職人気質”というのが尊重された「昭和」というよりも、バブル経済へ突入していくイケイケな時代だったわけで、当時を知る世代にとっては、本作の”古き良き時代的演出”の違和感は拭えませんでした。

”親子”かもしれない職人気質の気難しい男性と彼の娘と名乗る若い女性との”奇妙な共同生活”というのは、どこかにありそうな設定の物語です。國村隼は、そんな典型的なキャラクターを淡々と演じていますが、沢尻エリカは、「別に」騒動以前のイメージに戻るような”清楚な娘役”といったところで、それなりの気迫を感じさせます。映画「へルタースケルター」とは違って熱量はかなり少ないとしても、役柄のキャラクターが乗り移ったように演じるのが沢尻エリカならでは・・・素顔に近い薄いメイクや、垢抜けない衣装のおかげではなく、騒動の時の憎々しげな表情を見せていた人物とは、まるで別人にしか見えません。町内に住む若者の花村司を桐谷健太が演じているのですが、テレビドラマでよくあるパターンの絡み方・・・ただ、秋山と知花子の思い出のケヤキの木を守る運動を始めたり、秋山とリョウが本当に親子がどうかをDNA検査を奨めたりと、物語は花村が介入することで展開していくことにはなります。しかし、リョウにキャバクラのバイトを紹介するための”フリ”だけのためだけに、午前中は”植木屋”として働き、昼間は”ホスト”をしているという設定は、必要だったのでしょうか?

ここからネタバレを含みます。


秋山は、キャバクラでバイトしないように説教したり、追ってきた取り立て屋に直談判したりと、リョウに対して父親のような気持ちを感じ始めるようになっていきます。また、リョウも心を許して身の上話をするようになるのですが・・・彼女の身の上話によると、随分といい加減な女だってことも分かってくるのです。確かに500万円の借金というのは、結構な金額ではありますが・・・沢尻エリカほどの美人だったらキャバクラで働けば、なんとか返せそうな金額ではあります。なんだかんだと言い訳をして、どんな仕事も長く続けられない若い女が、自分の父親かもしれない男に頼っているだけじゃないか・・・と、ボクは感じてしまいました。

ただ、秋山もリョウの借金を自ら背負うほど浅はかではないようで・・・彼女の母親の形見であるロンジンの腕時計を、ヴィンテージの腕時計のコレクター(小林稔侍)に売って、借金を返そうと提案します。案の定、コレクターはロンジンの腕時計を借金とピッタリ同じ500万円で買い取ると言い出してくれるのですが、その腕時計をプレゼントされる若い愛人が、腕時計のデザインが古臭いなどと文句タラタラ・・・ベルトを交換することで商談は成立するのですが、母親の形見の腕時計に散々ケチをつけられたリョウは「あの人には売りたくない!」と言い始めます。しかし、すぐに500万円を用意出来なければ、再び取り立て屋が秋山の店にやってきてしまう・・・リョウは夜逃げすることにするのです。

夜逃げするという状況の中、唐突にDNA検査の結果が判明します。これほどの個人情報が依頼主であるリョウ本人でなく、仲介者(?)であろう花村に伝えられるというのはありえない事のはずなのですが・・・何故か本作では、検査結果は花村から秋山にだけ伝えられます。ここで、秋山とリョウは親子ではなかったということがハッキリします。しかし、秋山はあえて、その事実をリョウにはすぐ伝えずに、リョウの故郷への戻る”夜逃げ”に付き合うのです。借金を返して、また秋山の暮らす街にリョウが戻ってきた時に、DNA検査の結果は伝えれば良い事だとして・・・。さらに辻褄が合わないのは・・・夜逃げの道中、木に興味があるからという安易な理由で、リョウは花村に植木屋の仕事を教えて欲しいと唐突に言い出すことです。これから謝金の取り立て屋たちから身を隠さなければならないというのに、どうやって仕事を覚えていくのでしょうか?

リョウ、秋山、花村の三人は、津波に流されたリョウの母親の美容室があった石巻を訪れます。震災後2年半以上経っても建物のない風景を見せられると、反射的に心が痛みますが・・・感動を生むために津波の被害を利用しているかのようでもあり、リョウの母親が津波で亡くなったという設定にする必然性はあったのだろうかと感じてしまいました。別に死別の理由が病気でも事故でも物語としては成立するのですから。石巻にも秋山の街にあったようなケヤキの大木があり、その木の下でリョウは秋山に時計屋を続けて欲しいと伝えます。「一日に一人、一週間に一人のためのお客さんのために」という台詞の一字一句は、観ていて予測のつくほど使い古されたドラマの言い回しであります。

本作は、この夜逃げから2年後、まだ時計屋を続けている秋山の目の前に、借金を返しきったらしいリョウが現れるところで終わります。その後の2年間の経緯を省いて、ただ再会する二人を姿を見せるだけという・・・観てくれた視聴者に解釈は委ねるという陳腐なエンディングです。DNA検査を依頼しておきながら、その結果も知らずに2年間リョウが過ごしてきたということなのでしょうか?父親だと思って秋山の元に戻ってきたと思われるリョウに、実は親子ではないことを伝えるのでしょうか?清々しいエンディングというよりも、なんとも不穏な気分にさせられました。秋山とリョウの人生が再び動き出すところを修理して動き出す母親の形見の時計に重ねたり、25年前の思い出と彼らを見守るようなケヤキの大木が繰り返し出てくる場面など・・・芸術祭参加作品らしいテレビドラマの作りを感じさせますが、逆に古臭さを感じさせてしまうのは否めませんでした。


1年半目のTBSドラマ「悪女について」でも、本来は富小路公子が主人公のはずだったのですが、船越英一郎が物語の主人公になっていました。今回も「時計屋の娘」は沢尻エリカ主演作として宣伝されてはいますが・・・実は、國村隼演じる秋山が本作の主人公です。物語を語る視点ではない役どころというのが、沢尻エリカ本人のイメージと役柄のイメージを分離させたいという作り手側の思惑なのかもしれません。ただ「別に」騒動以降の”素”のイメージの悪さを完全に払拭することは、沢尻エリカに好意的なボクであえ難しく・・・女優としての評価はさておき、安定感のある”嫌われオーラ”は、そう簡単には消えないようです。

週刊誌やワイドショーに叩かれるだけでなく、本来であれば最も女優として輝ける20代という時期を、半ば”干された”ような状態で過ごさなければいけないということは、勿体ないのひと言に尽きます。女優として仕事をしないというのは、十分すぎる制裁であるとは思うのですが・・・「へルタースケルター」で”素”の悪いイメージを誇張したよう”りりこ”を演じても、「悪女について」で美貌の”富小路公子”を演じても、「時計屋の娘」で質素で”普通の娘”を演じても、沢尻エリカ本人のイメージは、そう簡単には変わらないようです。

キレイな女優さんというのはいるけれど、その中でもダントツの美しさの沢尻エリカは、日常生活に於いて一般人と全く同じように他人から扱われることというのはないと思います。ブスが一般的な女性とは違う扱いを受けるように、美女というのも違う扱いを受けます。一般人からすると良い事しか思いつきませんが、決して良い事ばかりではありません。例えば、美女本人の努力で何かを成し遂げても、男性の力が関与したと思われがちです。また、女性から嫉妬されたり、理由なく嫌われることもあります。男性からは、内面性よりも外見でしか評価されないことが普通です。美女にとってご機嫌を伺われることは日常茶飯事のこと・・・ブスが、その外見故に敬遠されて不機嫌になるのと同じように、美女は美しさ故に特別扱いされることに対して不機嫌になるのです。そういう特別扱いに不機嫌になる美女というのは、人を外見で判断する世間に苛立っているということに他なりません。そう考えると・・・沢尻エリカの仏頂面というのは、彼女が実はまっとうな人であるという証(あかし)なのかもしれないと思えてくるのです。

本人的には「世の中の人にどう思われよとも関係ないので、女優として仕事を見事にこなして見返してやる!」というような心境なのかもしれません。しかし、こういう”しおらしさ”のない開き直りが、逆効果で嫌われてしまうというのも、イカニモ”沢尻エリカ”らしい悪循環なのであります。ただ、世間の声を気にして、猫をかぶってみたところで、さらなる非難を受けることは明らか・・・結局、本性がバレてしまったからには、本人からの弁明の余地というのはないということなのでしょうか?

世の中が沢尻エリカの完全復活を許すためには、ある種の禊(みそぎ)が必要なのです。しかし、本業である”女優”という仕事の範疇では、どれほど蔑まされても、汚れ役をやろうとも、結果的に女優としては”おいしい”わけで・・・禊にはなりません。といって「いい子ちゃん」を見事に演じきったとことで、好感度が上がるわけでもなく・・・逆に「さすが女優、騙すのが上手い」とかしか思われないのですから。極論を言わせてもらえば・・・沢尻エリカが、女優としての”プライド”を捨てた姿を見るまでは、世間が完全復帰を許すことはないのかもしれません。

禊のひとつ方法は、バラエティ番組などで”素”の沢尻エリカが「笑いもの」になるということなのかもしれません・・・ただ「実は、天然」とか「結構、親父っぽい」とか、そんな女性タレントにありがちの笑われ方では、かえって逆効果になるでしょう。番宣で生出演した「王様のブランチ」で、撮影中に四葉のクローバーを探して喜んでいる様子をアピールしたところで「かわいい~」と反応してくれるのは、収録スタジオの中だけ・・・その気遣いが、演出を感じさせてしまいます。また、「A-Studio」での、鶴瓶の「意外に親父やな?」というツッコミも、想定内のイジり方で白々しくしか感じられません。「笑いもの」になるということは、本人的には不本意に笑われなければならないのです。


11月15日(金曜日)放映の「ぴったんこカン☆カン」は、沢尻エリカが安住紳一郎アナを、都内周辺のお店や施設を巡って”おもてなし”をするいう企画でした。数年前、ワイドショーで騒がれていた時期ならば2時間スペシャルにでもなりそうですが、今回は前半の3分の1は吉行和子と冨士真奈美の成田山の旅という2本立て・・・”番宣”の出演とはいっても”ありがたみ”のなさを感じさせる扱いでありました。扱いにくそうなゲストを上手に立てつつ、意地の悪いツッコミで転がしてしまう安住紳一郎アナは、エリカ様が他の番組の番宣では見せることのない女王様キャラの奥底にある”素直さ”や”痛々しさ”を引き出しつつ・・・絶妙に「笑いもの」にしていきます。


「機嫌悪いですか?」と下手に出るように見せかけて、表情の硬いエリカ様をイジることからスタート。最初の訪問先の中華街では、腕を組むエリカ様に対して「腕組むから機嫌悪そうに見えるんですよ~」と安住アナが指摘すると、意外にも素直に、腕組まないように努力をするエリカ様・・・しかし、手の置き場に困ってコートの襟を両手でガッシリと掴むという奇妙なポーズに、すかざす安住アナはツッコミ、「ヒーヒー」とヒステリックに笑うのです。負けず嫌いなエリカ様を弄ぶように、安住アナが意地悪くイジり、エリカ様が自虐的なカエシを繰り返す・・・最初よそよそしさを感じさせたエリカ様も、次第にタメ口調で安住アナに反論するようになります。表情からも次第に緊張感が薄れてくるのが、番組が進むうちに感いられました、「自然体でいる」と開き直りながらも・・・時折、エリカ様の瞳に見え隠れする「どうせ私は嫌われ者だから」という”あきらめ”のような痛々しさに、ボクは「同情」を感じると同時に、少々サディスティックな「満足感」も味わったのでした。


番組の最後、「別に」の一言を生でぜひ聞きせてくれ・・・という安住アナんの”無茶ぶり”には、さすがにエリカ様も応じませんでしたが、騒動から6年以上も経った今、エリカ様が完全復活するために必要なのは、謝罪や弁明でも、優しいフォローでもなく、自虐的に開き直ってみせるエリカ様を、安住アナのように意地悪~く「笑いもの」にする空気なのかもしれません。


「時計屋の娘」
2013年11月18日TBSテレビ系放映
出演 : 沢尻エリカ、國村隼、桐谷健太、中村勘九郎、木村文乃、小林稔侍

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”リアルワールド=現実”の歳月は残酷なもの・・・二匹目のドジョウ狙いの残念な続編!?~「キック・アス ジャスティス・フォーエバー」~

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ある映画がヒットすると続編が製作されることはよくあること・・・ただ、多くの続編は第1作目を超えることなく、二匹目のドジョウ狙いの残念な続編ということになってしまうこともあります。3年前に公開された「キック・アス」は、スーパーヒーローに憧れるオタク少年が、試練を乗り越えて成長するという”王道”のストーリー展開でありながら、パートナーとして一緒に戦う11歳の少女”ヒットガール”がメチャクチャ強くて、悪者をバタバタぶっ倒すという斬新な一作でありました。ヒットガールを演じたクロエ・グレース・モレッツは、この作品で大ブレイクし、子役からティーン女優へと成長しました。

ここからネタバレを含みます。


「キック・アス」の続編となる「キック・アスジャスティス・フォーエバー/Kick-Ass 2」は、原作コミック(ボクは未読ですが)では、第1作の直後の物語として描かれているらしいのですが、映画では、撮影期間のギャップと同じ4年後の物語となっています。クロエ・グレース・モレッツを始め、キックアス役のアーロン・テイラー=ジョンソンや、敵役を演じたクリストファー・ミンツ=ブラッセらの若い出演者たちにとって、この4年という歳月はある意味、残酷な時の流れでありまして・・・第1作目の大きな魅力であった”お子様”感を完全に失わせてしまうものだったのです。また、前作では過剰なまでのスプラッター描写が見物でしたが、アメリカでは非難も多かったようで、続編である本作では、かなり控え気味・・・そのため、単にキャラクター設定をなぞっただけの、凡庸なコミックヒーローものになってしまったように感じます。

デイヴ=キックアスは、前作で出会った恋人と同棲していたり、鍛えてマッチョになっていて、童貞のオタクキャラを脱皮して、確実に”オトナ”になっています。再びキックアスとなってコスプレのヒーロー集団に参加することなるのです。この「ジャスティス・フォーエヴァー」という集団でリーダー的な存在が、ジム・キャリー演じるカーネルというキャラクターで、明らかに前作のビッグダディの立ち位置を引き継いでいる役柄・・・そして、前作のビッグダディ同様に彼は惨殺されます。特殊メイクでを変形させている上に、マスクをしっぱなしなので、ジム・キャリーとはすぐに気付かないほどの怪演・・・ただ、この手の役柄を演じるには、ジム・キャリーが少々年取ったと思ってしまったのはボクだけでしょうか?さらに本作ではキックアス君の父親も殺されてしまうのですが、戦わなければならないモチベーションを上げるために、そこまで悲惨に追い込む必要ってあったのかは疑問に感じたところです。

本作では、前作の悪者のマフィアのボスの息子クリス=レッド・ミストが、ザ・マザーファッカー(悪そうなネーミングとしては小学生レベルな気がします)となり”悪者集団”を作って対抗してくるのですが、ヒーロー集団VS.悪者集団の戦いという”設定”ありきな展開・・・とは言っても、ザ・マザーファッカーというキャラの悪役としてのカリスマがなさ過ぎということもあるのでしょう。本作では髭面になって”ヒール役”っぷりをアピールしてみても、単に小汚くしか見えません。

ミンディ=ヒットガールは15歳になり、普通の高校生として女子らしい悩みも抱えるお年頃・・・派手でセクシーなイケイケの女の子グループにイジメられて、リベンジで大人っぽく大変身してみたりします。このあたりのエピソードは、アメリカのティーン向けのテレビドラマや映画で腐るほど描かれている展開・・・幼いときから人間兵器として訓練されてきたヒットガールも随分と俗っぽくなったもんです。勿論、かつてのパートナーであったキックアス君と再び組んで、ザ・マザーファッカー率いる悪の集団と戦ったり、マザーロシアという巨大な怪力ロシア女というライバルが登場するとかは、お約束の展開であります。


ヒットガールの魅力は11歳の子供(ガキ)が、大人たちをバタバタと倒していったこと・・・クロエ・グレース・モレッツが”子役”から成長するのは当然のことなのですが、ヒットガールというキャラクターの根本的な要素を、演じる役者の年齢に一致しなければいけなかったことは、続編として失敗作(?)となることを運命づけられていたのかもしれません。ただ、続編を製作するために、現在の映画製作のシステムでは数年経ってしまうのは当たり前・・・仕方ないことといってしまえば、そうなのですが。

前作では”マフィア”という”リアルワールド=現実”の悪者の存在が、ある意味、悪ふざけのようなコスプレヒーローという存在を際立たせていました。ヒットガールのコスプレにしても、カツラの安っぽかったり、マスクが大き過ぎて微妙にズレていたり・・・コスプレの完成度の低さの”お子様”感が、ボクにとってはまさに”ツボ”だったのでした。誰も彼もがコスプレであることが前提になってしまった本作では、コスプレのコミックヒーローものに対する皮肉も薄らいでしまったのです。

キックアスシリーズは、3部作で完結と原作者のマーク・ミラーが明言していて、すでに「キックアス3」となる映画の続々編の企画もあるらしいのですが・・・原作者がわざわざ「完結」と言い切るのには、どうやら登場人物がみんな死ぬという衝撃的なもの。コスプレのヒーローごっこの結末は必ずしもハッピーエンドではないということを表現しようということです。ただ、出演する役者たちは年々年を取ってしまうわけで・・・キックアスシリーズそのものが、まさに”リアルワールド=現実”の厳しい年月の流れに晒されていることは、確かなのかもしれません。


「キック・アスジャスティス・フォーエバー」
原題/Kick-Ass 2
2013年/アメリカ、イギリス
監督&脚本: ジェフ・ワドロウ
出演   : クロエ・グレース・モレッツ、アーロン・テイラー=ジョンソン、クリストファー・ミンツ=ブラッセ、ジム・キャリー
2014年2月22日日本劇場公開
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【悲報】ダリル・ハンナのさらなる劣化!・・・・・作品の質も”堕ち”てしまった元(?)ハリウッドスター女優の「どうでもいい映画」~「マザー/Mother(Social Nightmare)」~

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1980年代に活躍したハリウッド若手女優の多くは、今では”脇役”かB級作品(またはテレビ映画)でしか、その姿を見ることもなくなってしまいました。

青春映画に出演した”ブラット・パック/Brat Pack”と呼ばれた若手ハリウッド俳優の中でも、最も成功したデミ・ムーア(1962年生まれ)・・・最近では、アシュトン.カッチャーとの離婚トラブルの報道での、痛々しく劣化した姿しか記憶にありません。”不思議ちゃん”系のウィノナ・ライダー(1971年生まれ)は、万引き騒動以来奇行ばかり報道されていましたが、久々の話題作「ブラック・スワン」では、嫉妬深い年増の元プリマドンナ役という、落ちぶれたキャリアとシンクロしてしまう脇役でありました。ただ、痛いネタでもゴシップ誌を騒がすのは”ハリウッドスター”という証拠・・・完全に表舞台から姿を消してしまったり、脇役どころか”ちょい役”のオバチャンでしか見かけなくなったり、ハリウッドスターであったことさえも忘れられるよりは”マシ”なのかもしれません。

1980年代に登場した女優の中でも、ダリル・ハンナ(1960年生まれ)は印象強いひとり。1984年に公開された「スプラッシュ」で演じた人魚役は、モデル体型でブロンドという圧倒的な美人女優でありながら、天然系の可愛らしい彼女の当り役・・・また「シラノ・ド・ベルジュラック」をベースにした1987年公開の「愛しのロクサーヌ」での、厭味のない美しさが際立っていました。J・F・ケネディ・ジュニアと結婚を1990年代初めに噂されていたけれど、母親のジャクリーン・オナシス・ケネディに猛反対されて(ケネディ元大統領が浮き名を流したマリリン・モンローを思い起こさせるブロンドが嫌だったとか)ゴールインすることはありませんでした。その後、彼女のキャリアも下降線・・・テレビ映画やB級作品ばかりになってきました。ただ、2003年公開のクエンティン・タランティーノ監督作品「キル・ビル Vol.1」でのエル.ドライバー役で復活(?)・・・ただ、微妙な老け具合には、少なからずショックを受けたものです。最近は、シーシェパードの支援などの環境活動家として知られていて、元ハリウッドスターにありがちな変な方向に向かってしまっているような気がします。

ここからネタバレを含ます。


先日アメリカのアマゾンで、久々にダリル・ハンナ主演作品を発見(?)したのですが、作品の質の低さは笑い話にならないほどの酷さでありました。元々、テレビ映画として製作された作品で、オリジナルのタイトルは「Social Nightmare/ソーシャル・ナイトメア」・・・何故か、DVD/Blu-layリリース時のタイトルは「Mother/マザー」と変更されています。「自分の子供を守るためにぶち切れる母親役?」などとサイコホラーを期待したら、そこまで吹っ切れておらず・・・マニアが好きそうな”ギミック”も、驚愕の”どんでん返し”もないという中途半端な作品でした。テレビ放映の宣伝ポスターは、いかにも”ティーン向け”テレビ映画という印象ですが、DVDリリースの宣伝ポスターでは恐ろしい形相のダリル・ハンナのドアップになっています。販売側の判断で、まだまだネームバリュー”だけ”はあるダリル・ハンナをメイン(主演?)として宣伝したかったのかもしれませんが・・・「マザー」というタイトルとポスターから安易に推測できるとおりのストレートなオチなのだから、ネタバレの変更なのであります。

スーザン(ダリル・ハンナ)は郊外の高級住宅地に暮らすシングルマザー(特に仕事をしていないようなのに、お金持ちなのは謎!)。娘のキャサリン(クリスティン・プラウト)は、奨学金で大学への進学を考えている成績優秀な女子高校生・・・友人も多く楽しい学校生活を送っていたのですが、最近インターネットでキャサリンの友人らの悪口や秘密が暴露されるということが起こり始めます。「誰かにハッキングされた」と訴えるキャサリンですが、周辺の友人たちは彼女を責めるのです。キャサリンと同じ大学の奨学金を希望している親友の女友達(クロエ・ブリッジス)、黒人のボーイフレンド(ブランドン・スミス)、ゲイを隠してきた仲の良かった男友達・・・すべての友人の信用を失いつつも、キャサリンを信じて支え続けるのは母親のスーザンだけであります。しかし考えてみれば、自宅のパソコンにアクセス出来るのは一緒に暮らす母親のスーザンしかいないわけで、第三者を疑う方が不自然だと思うのですが・・・当事者のキャサリンは、プロのハッカーを雇って犯人を見つけようとしたり、疑惑を周辺に向けることで、ますます孤立していってしまうのであります。

キャサリンの行きたい大学に進学するためには家を出るしかありません。しかし、母親のスーザンはキャサリンが地元で進学することを望んでいます。娘が家から離れてしまうことを阻止するために、母親のスーザンがインターネットの書き込みや投稿をしていたことが判明するのですが・・・母親の娘に対する異常な独占欲というものをキチンと描いていないので、モチベーションのネタばらしとしては説得力がありません。母親スーザンが犯人だと分かったキャサリンの元を訪ねてきた親友の女の友達に襲いかかる母親スーザン・・・こっからが修羅場と思ったら、気が抜けるほどあっさり警察がやってきて逮捕されてしまいます。もっとぶっ飛んだサイコな展開であったならば、もっとダリル・ハンナが往年のベティ・デイヴィスの捨て身の怪演をしていたなら・・・「母親と娘の確執もの」として、ボクのようなマニアには受けたかもしれません。インパクトがあったのはDVDリリースの宣伝ポスターだけで、カルト映画になるほど面白がるようなギミックも一切ない・・・本当に「どうでもいい映画」でありました。

ボトックス注射のやり過ぎなのか、ヒアルロン酸注入し過ぎなのか、アンチエージング整形手術を繰り返した女性にありがちな妙に腫れぼったい顔と唇(!)のダリル・ハンナの”お顔”のインパクトだけは「大」・・・それも30年前に「スプラッシュ」でデビューした頃と変わらないヘアスタイルとイメージのままというところが、”劣化”度合いをさらに強調させてしまっているのです。女性も年齢と共に髪の毛が細く薄くなってしまうのに、何故かロングヘアの女性はヘアスタイルを変えません・・・ボリューム感の乏しいロングヘアほど、老け(!)を感じさせてしまうのに。ある意味、体型が崩れて、ただの中年おばさんになってしまった方が、若いときの美貌とあっさり決別できたりするのかもしれません。そこそこの体型維持してしまうと、若作りが痛々しい年齢になっているのにも関わらず、いつまでも全盛期のイメージにしがみついてしまうようで(元ハリウッド女優に限ったことではないのかもしれませんが)・・・男(ハリウッド男優)は「頭が禿げてもセクシー」「デブになっても主役」「年取っても若い女優さんと恋愛映画」であることを考えると、性差による年齢差別というのは、いまだにハッキリとあるということなのかもしれません。


「マザー」
原題/Mother
放映時タイトル/Social Nightmare
2013年/アメリカ
監督 : マーク・クォッド
出演 : ダリル・ハンナ、クリスティン・プラウト、クロエ・ブリッジス、ブランドン・スミス
日本未公開


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半世紀ぶりに大島渚監督の幻のドキュメンタリーがテレビ放映・・・自虐的な差別意識が悲痛すぎる”元日本軍在日韓国人”という存在~NNNドキュメント'14「反骨のドキュメンタリスト 大島渚『忘れられた皇軍』という衝撃」~

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銀座線が渋谷駅から出てくる高架下あたり・・・今では副都心線の入り口になっている一角に、1970年頃まで白いキモノを着た”傷痍軍人”さんが、募金を集めていたことを覚えているのは、ボク(1963年生まれ)ぐらい世代よりも上の人でしょう。

火傷を負っていたり、片腕がなかったり、片足だけだったり、両眼を失っていたり、なんらかの身体的な障害を持っていた人が多く・・・中には両足がなく台車に乗り地べたを這うように移動している人もいて、ボクにはトラウマの光景となっています。母は「気の毒だから見ちゃダメよ」と、同情的とも排除的とも受け取れる言葉をなげかけながら、幼かったボクの目を手のひらで覆ったものです。当時の日本人のどれだけの人が、彼らが元日本軍として戦った韓国人であったことを知っていたかは分かりませんが、戦争が終わって年月が経つにつれて、経済成長を始めた都会の風景に彼らの姿は似つかわしくない”目障りな存在”になっていきました。

大島渚監督に関しての文献を読んだことのある人であるならば「忘れれた皇軍」というドキュメンタリー作品のことは知っているかもしれません。しかし1963年に放映されて以来、特別な上映会以外では一般公開されたこともないし、ビデオやDVDなどのメディア化もされていないので、大島渚監督の作品の中でも観ることが難しい作品のひとつであったのです。松竹を解雇された大島渚監督は「天草四郎時貞」の後、個人プロダクションで「悦楽」を撮るまでの数年間、映画界から干されてしまった不遇の時代がありましたが、その間も精力的にテレビドラマやテレビドキュメンタリーを撮り続けていました。”ドキュメンタリー・韓国三部作”第1作目の「忘れられた皇軍」は、その後の大島渚監督にとってのテーマのひとつとなる”在日韓国人”を扱った重要な作品なのです。

大島渚監督が亡くなられてから、まもなく1年・・・ほぼ半世紀ぶりに「忘れられた皇軍」が、日本テレビにて放映されました。韓国の反日感情はますます強くなり、日本のナショナリズムが再び強まっている印象のある今・・・「日本人たちよ、これで良いのだろうか?」という問いは、常に反政府的な立場で怒りを訴え続けてきた大島渚監督らしく「加害者としての日本」を突きつけてきます。東日本大震災からの復興と、二度目の東京オリンピック開催を控えている日本は、本作が制作された時代背景と重なることがあるかもしれません。東京オリンピック開催を翌年に控えていた1963年・・・まだまだ安保闘争の政治的な活動が盛んでした。今は「反原発」「秘密保護法」などのデモ活動が頻繁に行なわれるように、国民の声と政府の路線が離れ始めているような気がするのです。「日本人たちよ、これで良いのだろうか?」と再び問われるような時勢に、「忘れれた皇軍」を再放映する意味を感じます。

わずか25分ほどの本編に記録されている映像は、衝撃的であり不快の連続です。渋谷駅ハチ公前と思われる街頭で、日本軍として戦った在日韓国人の傷痍軍人らが集まり、日本からも韓国からも、何も補償を与えられていないことを訴えます。しかし、彼らの声に足を止める日本人は多くはありません。日本政府や韓国領事館に陳情しても、それぞれの国が彼らの責任を押し付け合って、救済の糸口さえ見出せないのです。当時、日本は第二次世界大戦から、韓国は朝鮮戦争からの復興を目指していた時代・・・二つの戦争の狭間に取り残されたような彼らの存在は、どちらの国にとっても”厄介者”だったのかもしれません。

街頭演説の後、なけなしの財布をはたいて仲間たちと宴会を始めるのですが・・・いつものように口論となってしまいます。何故、彼らが喧嘩を始めたのかは、はっきりと聞き取れないのですが、カメラは一人の男をクローズアップにしていきます。彼は片手がなく、顔は火傷でただれ、歯も殆ど抜け落ち、両目の眼球もないという凄まじい形相の人物・・・本作では主役としてとらえられています。彼の眼球のない目から涙が流れる様までを、周到に撮影し続けるのです。このシーンは「忘れられた皇軍」の”語りぐさ”のようになっていて、おそらく多くの人の記憶に残るシーンであると思うのですが・・・・ボクは、この直後のシーンに最も衝撃を受けました。

宴会の後、彼は自宅に帰ります。彼には東京空襲で失明した日本人妻がいて、その妻の妹が目の見えない二人の面倒をみているというのです。彼ら夫婦の間に「昭和27年に女の子、昭和29年に男の子が生まれた」とナレーションでは語られるのですが、本作撮影当時10歳前後であろうはずの子供たちの姿はありません。街頭募金でしか生活費を稼ぐことのできない在日韓国人夫と全盲の日本人妻・・・彼らが無事に子供を育てられたのか疑問です。単に子供たちにはカメラを向けなかっただけなのかもしれませんが・・・「生後すぐに施設に預けたのかも、、亡くなってしまったのかも、何も分かりません。自分が生まれた時代に、これほど悲惨な家族が存在していたことに、頭がクラクラするほどボクはショックを受けてしまったのです。

多くの日本人にとっては無関係のように思える元日本軍在日韓国人の問題・・・大島渚監督が訴えるように「日本政府がすべて補償すべきだった」とはボクは思いませんが、韓国政府(韓国国民)と日本政府(日本国民)が、このような問題から目をそらしてしまった”ツケ”が、戦後50年~60年以上経って回ってきたような気もするのです。本作に出てきた人とは別人ですが・・・1992年に、元日本軍の在日韓国人二人が、日本からの補償年金を求めて裁判の申し立てをしたそうです。そして1994年に、彼らの訴えは棄却されて、結局、何も受け取ることはでなかったそうです。ただ、彼らの母国である韓国政府も、傷ついた自国民を日本に押し付け続けたのではないか・・・と感じてしまうところもあります。

本作について、大島渚監督の後日談を読んだことがあるのですが・・・公で語ることができないほど、もっとドス黒いものがあったそうです。ただ、撮影中に監督が彼らから、しばしば聞いた言葉というのが、ボクには本作の映像以上に心に突き刺さり忘れることができません。

「補償がもらえたら、こんな仲間と二度と会うもんか!」

最も悲惨な差別というのは、差別されている者同士がお互いを嫌悪して、差別し合うことではないでしょうか?そういう自虐的な差別は、自分に対しての「底なしの劣等感」と、他者に対しての「とめどない敵対意識」を生み出して、虚言癖や被害妄想など精神を腐らせてしまうように思えるのです。



「忘れられた皇軍」
1963年/日本
監督/脚本 : 大島渚
語り手   : 小松方正

1963年8月16日「ドキュメント劇場」にて放映
2014年1月13日「NNNドキュメント'14」にて放映

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ハリウッドでは”黒人迫害映画”が目白押しなの!・・・過酷な歴史と理不尽な差別を受ける現実を共感できないと政治的に正しくない?~「大統領の執事の涙/The Butler」「フルートベール駅で/Fruitvale Station」~

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「それでも夜は明ける/12 Years a Slave」が、第71回ゴールデングローブ賞ドラマ部門の映画作品賞を受賞しました。ブラット・ピットがプロデューサートして名を連ねるこの作品は、南北戦争後(19世紀半ば)北部で自由黒人として暮らしていた男性が、奴隷として12年間も南部の農場で生きなければならなかったという伝記を原作とした映画・・・イギリス生まれの黒人監督スティーブ・マックィーンによる本作は、ゴールデングローブの監督賞を受賞し、アカデミー賞でも作品賞を初め、監督賞、主演男優賞、助演男優賞でも有力候補です。


ハリウッド映画では、(特に白人の黒人に対する)人種差別/人権迫害を描くことは長年避けられていたところがありましたが(例外として「マンディンゴ」や「ルーツ」ぐらい)・・・ここ数年、黒人迫害を描いた映画が数多く製作されています。過酷な運命に立ち向かっていく姿は、普遍的な感動のヒューマンドラマとして、人種を超えて強く訴えるところがあるのかもしれません。黒人家政婦たちが経験した厳しい現実を描いた「ザ・ヘルプ~心がつなぐストーリー~」、黒人初メジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンの強い差別との戦いを描いた「42~世界を変えた男~」、クエンティン・タランティーノ監督の(歴史的事実には基づかない!)過剰演出による黒人の白人への復讐劇「ジャンゴ 繋がるざる者」など、意識の高いリベラルな白人の映画人にとってつくられた”黒人迫害映画”というのは・・・”政治的に正しい自らの”姿勢を公に訴えているかのようです。



「大統領の執事の涙/The Butler」は、1920年代からアメリカ初の黒人大統領が誕生するまでの現代までを描くという”エピックドラマ”・・・アメリカ現代史および黒人人権運動の歴史と歴代アメリカ大統領の知識がないと、次々と描かれる歴史的な背景を理解することは難しいかもしれません。ヒューマンドラマの”ぬるま湯”な描写に留まらず、悲惨な迫害を容赦なく描いているのは、本作の監督であるリー・ダニエルズ自身が黒人であることも無関係ではないと思えるところもあります。

1920年代にアメリカ南部のコットンプランテーションで生まれたセシル・ゲインズ(フォレスト・ウィスカー)・・・すでに奴隷制度はなくなっていた20世紀でありながら、過酷な労働と白人オーナーへの絶対服従をさせられています。セシルの母(マライア・キャリー)はオーナーの息子に乱暴に手篭めにされているのですが、それに対して一瞬不満な態度した父は、あっけなく射殺されてしまうのです。人種差別者ではありながらも、セシルを不憫に感じたオーナーの妻(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)は、セシルを「ハウス・ニガー」=「家の中で働く黒人使用人」として給仕の仕事を教え込みます。その後ホテルのボーイとして働くようになったセシルは、ホワイトハウスの執事として抜擢されることになるのです。

ここからネタバレを含みます。


アイゼンハワー(ロビン・ウィリアムス)、ケネディ、ジョンソン、ニクソン(ジョン・キューザック)、フォード、カーター、レーガンまで7人の大統領の元、時代の裏舞台を傍観しつつ”執事”として仕えます。葛藤しながらも自我を出すことなく仕えるセシルを、妻グロリア(オプラ・ウィンフリー)は理解し支え続けるのですが、長男ルイス(デヴィット・オイェロウォ)は反抗的・・・白人に仕える父を恥と感じています。白人社会に従順に従うことで中産階級の生活を手に入れた父親、黒人としての誇りを持ち黒人人権運動へ身を投じていく息子の対比が交互に描かれるのは、なんとも皮肉に満ちています。

当時は、まだ公共の場所(レストラン、公衆トイレ、水飲み場、バス席など)は「人種隔離」されていて白人用(White)、黒人用(Coloerd)に分かれていました。ルイスら、若い黒人学生たちは、白人用のバス席やレストラン席に座るという抗議をするのですが、それに対する風当たりはとんでもないもので・・・顔につばを吐かれ、汚い言葉で侮辱されるという迫害の様子を、本作では真っ向から描いていきます。ボクの母は、この時代(1950年代半ば)にアメリカ留学をしていたのですが、このような肌の色による”区別”を当然する社会に衝撃をを受けながらも・・・白人用、黒人用のどちらを自分が使うべきか迷った挙げ句、清潔な白人用を使ったそうです。

レーガン政権時代、ナンシー・レーガン(ジェーン・フォンダ)は、セシルとグロリアをホワイトハウスのディナーに”ゲスト”として招待するのですが、セシルには、自分たち夫婦が”見世物”として招待されたことなど百も承知です。ただ、これこそ差別意識の変化の賜物・・・大統領夫人にとって黒人執事の夫婦をディナーに招待することが、政治的に正しいことになったのですから、意識が進歩したことは確かです。ただ、それがほんの数十年前(1980年代)であったということは、やはり驚くべきことかもしれません。セシルがホワイトハウスの執事の職を辞した後、人権活動家となったルイスの元を訪れてプロテストに参加するところは、親子の和解というだけでなく・・・生まれてからずっと白人社会に押し付けられてきた「黒人」という立場から、セシルが解き放たれたことのような気がしました。アメリカで「黒人」という存在でいることは、精神的にも社会的にも複雑なことであるかということに気付かされたのです。

オバマ大統領が黒人初の大統領として当選後、ホワイトハウスでセシルが大統領と面会するところで本作は終わります。黒人の大統領が誕生したということは、人種隔離の時代から50年で信じ難いほどの社会の進歩なのかも違いありません。アメリカ黒人が歩まされた厳しく長い道のりを考えると重い意味を持つエンディングで思わず胸が締め付けられますが・・・全体的に感傷的なところもあり、やや”黒人観客向け”に偏り過ぎた印象を感じます。オプラ・ウィンフリー(アメリカで最も影響力のあるテレビタレント)など大物黒人セレブたちに加えて、ロビン・ウィリアムス、ジョン・キューザック、ジェーン・フォンダと、リベラルで知られる白人の大御所までも勢揃いした本作でありましたが・・・アカデミー賞の有力候補という前評判が盛り上がっていたにも関わらず、ゴールデングローブ賞もアカデミー賞もノミネート落選になってしまいました。確かにアメリカの歴史を語る上で大切な物語ではありますが、黒人の受けた迫害と人権運動の葛藤というのは、まだまだ普遍的なアメリカの物語としては受け入れられていないということかもしれません。


「フルートベール駅で/Fruitvale Station」は、。警察の人種差別的なプロファイリングにより、射殺された黒人青年のオスカー・グラントの最後の1日(2008年12月31日)を描く、実際に起こった事件を元にした作品です。

このような(特に黒人に対する)警察による暴行、殺害は、アメリカでは驚くほど頻繁に起こっています。ボクがアメリカに住んでいた1990年にも、警察による黒人男性(ロドニー・キング)への不当な暴行事件があり、その報復として”ロスアンゼルス暴動”が起こりました。遠く離れたニューヨークでも暴動を恐れて、戒厳令が出されて外出禁止となったことを覚えています。その後も、似たような事件は繰り返し起こっていることからも「黒人=犯罪者」というプロファイリングは、今でも当然のように行なわれているのです。実際の事件に居合わせた人がスマホで撮影した動画から、本作「フルートベール駅で」は始まることからも分かるように、本作は警察を告発する強い意志によって制作された映画だと言えるでしょう。

ガールフレンド(メロニー・ディアス)と4歳の娘と暮らすオスカー(マイケル・B・ジョーダン)の人生最後の日となった2008年12月31日を、黒人青年として普通の1日として追っていきます。ちょうど1年前、彼は麻薬取引で逮捕されていて、歯母親(オクタヴィア・スペンサー)の訪問を受けています。相変わらず白人男の挑発にのって喧嘩を始める息子を尻目に、母親は胸を締め付けらる思いで、あえて強い言葉で叱咤するのです。家族のためにも地に足をつけてやり直そうとスーパーで働き始めたのですが、遅刻を理由にクビになってしまっていたのです。それでも、元の職場で困っている買い物客がいると、丁寧に手助けをするオスカーでしたが・・・仕事を取り戻すことはできませんでした。再びお金のために麻薬取引の誘惑に負けそうになりますが、改めて真面目に生きることを決心します。仕事を失ったことを正直にガールフレンドに話したところ、最初は彼を責めていた彼女ですが、最後にはオスカーを優しく理解するのです。大晦日はオスカーの母親の誕生日でもあり、家族揃って祝います。ニューイヤーの花火を見に友人達と出掛けるというオスカーに、母親は飲酒運転を心配して地下鉄で行くように諭すのです。

ここからネタバレを含みます。


地下鉄が途中で止まってしまったために、カウントダウンの花火は見逃してしまったオスカー達は、再び地下鉄で帰路に向かいます。そこで、偶然がいくつも重なって悲劇が起こるのです。混雑した地下鉄の中でガールフレンドと分かれて、どこか座れる席がないか離れるオスカーに、スーパーで手助けした買い物客が声をかけます。その呼びかけに反応したのは、1年前に刑務所でオスカーに喧嘩をふっかけてきた白人男・・・喧嘩騒ぎになってしまったために、その直後に停車した「フルートベール駅」で、警察官たちがやってきてしまいます。すぐさま、オスカーと彼の友人らを捕らえる警察官・・・それは、明らかに人種差別的なプロファイリングによるものです。口答えするオスカーに警察官は両手を後ろに回して手錠まで掛けて逮捕すると脅します。それでも、無実を訴え続けて抵抗するオスカーに、警官のひとりが背中から銃を撃ってしまうのです・・・。その後、病院に運ばれますが、オスカーは亡くなってしまいます。そして、彼を撃った警官は殺人罪で逮捕されるものの、判決よりもずっと短い刑期で出てきてしまったのです。

どう考えても理不尽な事件であり、納得のいかない結末であります。ただ、オスカーは、黒人コミュニティーでは”普通”の黒人青年なのかもしれませんが、ボク自身を含め、黒人コミュニティー外で生きている人にとって、共感しやすい自分に近い人物かというわけではありません。確かにオスカーは家族思いでチャーミングに描かれています。しかし、10代で父親になるも結婚せず、麻薬取引で逮捕歴があり、遅刻で仕事をクビなるほどだらしない・・・という人物ではあるのです。もし、地下鉄でオスカーと彼の友人らのグループと同じ車両に乗り合わせたら、ニューヨーク在住時代のボクは多少身構えていたことでしょう。もしくは、別な車両に移動していたかもしれません。これは、明らかに人種や服装によるステレオタイプのプロファイリングです。見た目が”イカツイ”黒人男性だからといって、強盗ではないことぐらい頭では分かっています。ただ、海外で生活する多くの人は、自己防衛のため無意識に行なってしまっていることでもあります。

「普通の青年が遭遇した警察官の差別行為」という制作者側の訴えを、ボクは手放しで受け入れられず・・・口では「人種差別なんてしない」と言いながら、人種によるプロファイリングを無意識にしてしまっているであろう自分って「政治的には正しくないのでは?」という思いに、居心地の悪さを感じてしまうのです。

追伸:「アフリカ系アメリカ人」というのが政治的には正しいとは思いますが・・・「白人」という言い回しが差別に当たらないというダブルスタンードを踏まえて「黒人」という表現に統一しました。


「大統領の執事の涙」
原題/The Butler
2013年/アメリカ
監督 : リー・ダニエルズ
出演 : フォレスト・ウィスカー、オプラ・ウィンフリー、ジョン・キューザック、ジェーン・フォンダ、マライア・キャリー、キューバ・グッディング・Jr、レニー・クラビッツ、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、ロビン・ウィリアムス

2014年2月15日より日本劇場公開


「フルートベール駅で」
原題/Fruitvale Station
2013年/アメリカ
監督 : ライアン・クーグラー
制作 : フォレスト・ウィスカー
出演 : マイケル・B・ジョーダン、オクタヴィア・スペンサー、メロニー・ディアス、アーナ・オレイリー、ケヴィン・デュラド、チャド・マイケル・マーレイ、ジョーンズ・ケイン

2014年3月21日より日本劇場公開

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オーストリア不快映画の次なる刺客(!)ウルリヒ・ザイドル監督による「パラダイス」三部作/その1・・・主人公の自己矛盾を冷ややかに見つめる残酷な視点がエグいの!~「パラダイス:愛/Paradise : Love」~

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突然、幸せな家族を襲う理不尽な犯罪を描いた「ファニーゲーム」を始め「ピアニスト」「白いリボン」など代表作の”不快映画”の巨匠(?)ミヒャエル・ハネケ監督、少年を監禁し性的虐待をする男の日常を描いた「ミヒャエル」のマルクス・シュラインツァー監督、娼婦の過酷な環境と信仰を追ったドキュメンタリー映画「Whores' Glory」などで知られるミヒャエル・グラウガー監督など・・・どういうわけかオーストリアには、淡々とした描写でありながら何とも言い表せない”不快感”を醸し出す映画作家が幾人もいるのですが、ウルリヒ・ザイドル監督も”そのひとり”であります。

ウルリヒ・ザイドル監督は1980年代からドキュメンタリー映像作家として活躍、2001年「ドッグ・デイズ」で劇映画デビュー、2007年「インポート/エクスポート」に続いて発表されたのが、本作「パラダイス:三部作」であります。「ドッグ・デイズ」「インポート/エクスポート」では、淡々とした脈略もなさそうな描写の積み重ねで、複数の登場人物が平行に進行していく中、次第に物語を紡いでいくという構成でしたが、「パラダイス:三部作」は、ひとりの主人公を追っていくという構成となっています。カンヌ映画祭(パラダイス:愛)、ヴェネチア映画祭(パラダイス:神)、ベルリン映画祭(パラダイス:希望)に出品された「パラダイス:三部作」は、ウルリヒ・ザイドル監督の集大成といえるような作品で、淡々とした描写、広角レンズの固定カメラによるシンメトリーな構図などの”ザイドル調”は相変わらずで、3人の女性が”パラダイス”を求めて裏切られていく姿を描く”三部作”なのです。


第1作目の「パラダイス:愛/Paradise : Love」は、中年女性テレサがバケーションで訪れたパラダイスのようなケニアで、現地の男性たちに”愛”を求めながらも、自尊心を失っていくさまを残酷に追った物語。第2作目の「パラダイス:神/Paradise : God」は、第1作目の主人公であるテレサの姉・アンナが信仰によって築いた虚構のパラダイスが、下半身不随の夫と再び同居し始めることで崩れていき、懺悔の鞭が”神”への反逆となる滑稽な物語。第3作目の「パラダイス:希望/Paradise : Hope」は、テレサの娘・メラニーが肥満児を集めたダイエットのためのサマーキャンプで、ロリコンのおじさん指導員に恋をするも、冷たくフラれて”希望”を失うという切ない物語。どれも、主人の女性たちの生々しい欲望が”自己矛盾”や”自己崩壊”を招いていくという”皮肉”を感じさせる”不快映画”であります。特に、第1作目の「パラダイス:愛」から痛感させられた”虚無感”は、ボクの心を深く突き刺したのです。

テレサ(マルガレーテ・ティゼル)は、ダウン症の患者たちのケアをする仕事をしているらしい50歳(ゲゲゲ、同い年!)のシングルマザー・・・ティーンエージャーの娘・メラニーを姉のアンナに預けて、ケニアのビーチリゾートに長期のバケーションに旅立ちます。リゾートに滞在している女友達(インゲ・マックス)は「肌がココナッツの香り」「アソコがでっかい」と、現地の若い男性にメロメロ・・・ただ、バイクを買い与えるなど貢ぎながらも、彼らをバカにしているところもあるのです。現地の男性たちも、彼女のように男漁りに訪れている中年女性を”シュガー・ママ”と侮蔑的に呼んでいるという”どっちもどっち”利用し合う関係なのであります。金にモノを言わせて自分の性的な欲望を満たすというのは、日本人のオジサン達がやってきた東南アジアへの買春ツアーと同じこと・・・貨幣価値の格差によって自分の国では誰にも見向きもされない50代の太ったオバサンでも若い男性にチヤホヤされてカラダを求められるのですから、ある意味「パラダイス」なのです。それに・・・アフリカ系の男性には豊満な女性(ブヨブヨのデブの白人女性でも)に性的な魅力を感じる嗜好も、互いの利害関係を作りやすくしているという”皮肉”かもしれません。

テレサがビーチを歩けば、大勢の若い男性が近寄ってきます。彼らの目的はアクセサリーや土産物を買ってもらうだけでなく、彼女に”シュガー・ママ”になってもらうこと・・・最初は断り続けていたテレサも、アクセサリーの売り子のガブリエル(ガブリエル・ムワルーア)の褒め言葉に根気負けしてしまいます。ダンスを教えてもらったり、現地の人しか知らない場所を案内してもらっているうちに親しくなり、早々にレンタルルーム(ラブホテルのようなところ)にしけこむことになるのです。しかし、テレサはセックスの途中で逃げ出してしまいます。年上の太った自分のような白人女性とセックスをしようなんて、貢いでもらうのが目的であることは明らか・・・「愛情のないセックスはしたくない」とテレサは自分のプライドを守るのです。ただ・・・これって、性的欲望に素直になれない自分への”いいわけ”と言えるかもしれません。守るべき”プライド”が、逆に物事の本質を見失わせてしまうこともあるのですから・・・。

リゾート仲間の女友達に、外見ではなく内面を知って愛して欲しいと語るテレサ・・・確かに「恋愛の正論」ではあり、女性として望むシチュエーションであるのですが、現実的に考えてテレサのような太ったオバサンの内面を知ろうとする男性というのは・・・現実にはほぼ”アリエナイ”存在です。それでも、自己認識をしないで「恋愛の正論」を求めてしまう・・・これこそが”矛盾”の始まりであり、結果的に”崩壊”へと繋がっていく根本的な原因であり、悲劇的な結果は自業自得としか言えないのであります。そんなテレサの前に現れたのが、強引な誘いをしてこない、ちょっとシャイなムンガ(ピーター・カズンク)という若者・・・”シュガー・ママ”を求めている男たちとムンガは違って、性的なサービスで金をせびることもなく、他人の目を気にせずに街中で手繋ぎデートをして、テレサはムンガに徐々に心を許していくのです。そして、「やる」ためのレンタルルームではなく、彼はテレサを自宅へと招くのあります。

「愛は永遠」と語る純粋なムンガは、女性を扱い方もよく分かっていない様子・・・テレサは、ここぞとばかりにラブメーキングの手ほどきをかってでます。「オバサンだから」という不安は、自分がリードするという優越感で埋め合わされていようです。あっという間に、テレサはムンガの若いカラダに夢中にあってしまいます。眠っている彼のカラダの匂いを嗅いでみたり、股間の写真を撮影してみたり・・・テレサにとっては自分がイニシアティブを持てるムンガは、理想の相手なのかもしれません。誰が見ても不釣り合いな二人の関係ですが・・・微妙なバランスで成立してしまうように見えます。

ここからネタバレを含みます。


しかし、現実はそんなに甘くはありません。ムンガはテレサを、彼の妹が住んでいるという家に連れて行きます。妹の赤ん坊は病気で治療代が必要なんだと訴えるムンガに、テレサは大金を手渡すしかありません。また、彼のいとこが教えている小学校に連れて行かれ、ここでも子供たちのためという名目で、残りの現金を手渡す羽目になってしまいます。”シュガー・ママ”として金を貢いでいるのではなく、あくまでも人助けなんだと思い込もうとするテレサですが・・・次第にムンガはテレサに対して冷たい態度を取るようになるのです。そして、そのうち連絡しても、ムンガとは会えなくなってしまいます。妹の家に行ってみても、金をせびられた上に、現地の言葉で罵倒されるような始末・・・「ムンガに騙されている」とガブリエルから忠告されても、テレサはムンガを信じることをやめられません。騙されていたことを認めるのは、信じていた自分を覆さなければならないこと・・・しかし、ムンガと妹と名乗っていた女性と赤ん坊が、仲睦まじく海辺で散歩している姿を見て、テレサは気付かされます。妹というのは実は彼の妻で、赤ん坊は彼らの子供だと。ムンガを罵倒して殴るしか、怒りを発散する手段しかありません。

これで、テレサが「もう現地の男は懲り懲り」となれば、映画は終わってしまうのですが・・・ひとり傷心でビーチを歩くテレサの前に、再び現地の若い男が現れます。逆立ちしてみたりしてアピールする姿に、目を細めてしまうテレサ・・・愛を信じて裏切られた彼女は、もう”愛”という幻想は求めていません。現地の男が彼女に何を求めて近寄って来ているかなんて承知のこと・・・「愛している」とか「美しい」とか”まやかしのような言葉”よりも、肉体的に満たされたい自分の欲望を認めることで、テレサは解放されたのです。「何人の白人女とやったの?」と尋ねる自虐的な行為は、もう騙されないという防御壁・・・”心”が傷つかないように自分を守れば守るほど、本当の「愛」からは離れてしまうという矛盾。それでも、ますます肉欲を求めてしまうのは、どうしようもない”淋しさ”故になのかもしれません。テレサの行動に身につまされる人は、決して少ないないと思います。

ケニアとの経済格差により自国(オーストリア)よりも安く若い男と遊べる・・・ということもありますが、自分(ヨーッロッパ白人)とは違う人種であることで、買春行為の後ろめたさも、性的に相手を支配しようとするエゴも感じなくて済むのです。テレサの誕生日には、女友達が現地の男性ストリッパーをプレゼントに用意しています。ストリッパーが彼女達を見ても反応しないことに苛立ち、裸になって必死に誘惑を試みる女友達・・・いつしか、そのなかに加わっていくテレサは、すでに躊躇する自意識さえも失っていっているのです。遂には、ホテルのバーテンダーを自分の部屋に連れ込むテレサ・・・現地の男に金を渡せば(肉体的には)彼女の思い通りになるという”侮蔑意識”が根底にはあります。テレサの言われたままシャワーを浴びるバーテンダーですが、正直嫌々連れ込まれたという感じ・・・「白人の女性にキスしたいでしょ?」「胸触りたいでしょ?」とテレサに誘導的されても、”シュガー・ママ”をビーチで探すような男とは違って、彼はどこにでもいる普通の純粋なケニア人の男性なのです。

ベットにドーンと仰向けで横たわったまま「足先にキスして!」と命令(!)するテレサに従うバーテンダー・・・「もっと上、もっと上」と指図しながら、テレサは自分でドレスをめくって下半身を露出して股間にキスをさせようとするのですが、拒否されてしまいます。テレサの求めていたのは「する」だけの性的なサービスではなかったはずなのに、いつしか、欲望と行為が、すり替わってしまっていたのです。自己矛盾に直面したテレサはひとり嗚咽して涙を流すしかありません。ただ、翌朝になればビーチには”シュガー・ママ”を探している若い男性が沢山待っているのです。

肉体の欲望って這い出ても、再び、引きずり込まれてしまう・・・蟻地獄のような”パラダイス”なのかもしれません。テレサの痛々しさを上から目線で見下ろしているつもりでいても、いつしか自分自身とテレサを重ね合わせているボクがいるのです。


「パラダイス:愛」
原題/Paradise : Love
2012年/オーストリア
監督、脚本、製作:ウルリヒ・ザイドル
出演      :マルガレーテ・ティゼル、インゲ・マックス、ピーター・カズンク、ガブリエル・ムワルーア、カルロス・ムクターノ、マリア・ホフシュテッター、メラニー・レンツ

2013年10月25日第26回東京国際映画祭にて上映
2014年2月22日より日本劇場公開

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ウディ・アレンにしか書けない「欲望という名の電車」・・・誰からも共感されない”自業自得”の苦しみだからこそ救いがないの!~「ブルージャスミン/Blue Jasmine」~

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テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」は、ボクの嗜好に大きく影響を与えた一作のひとつ(おかしのみみ「僕はブランチの生まれ変わりだったのです」参照)・・・世界各国で繰り返し舞台化(オペラ化も!)をされているのは勿論、映像化も3回(1951年映画、1985年TVドラマ、1995年TVドラマ)されていますが、ヴィヴィアン・リーが主人公ブランチを演じたエリア・カザン監督の映画版が完成度が高く有名です。毎年、新作を発表しているウディ・アレンの最新作「ブルージャスミン」は、この「欲望という名の電車」と似た設定と物語が展開するウディ・アレン版「欲望という名の電車」とも言える作品であります。ちなみに、ブランチがつけていたスタンレーが嫌いな香水が、ジャスミンの香りというのは偶然かもしれませんが・・・。

1982年から約10年事実婚していたミア・ファローの養女だったスン・イー(当時21歳)との交際、後に結婚は、いまだにウディ・アレンの人間性を疑われる烙印となってしまったのですが・・・最近になって、再びミア・ファローの別な養女から性的虐待の訴えをされているようです。彼の場合、プライベートが作品にも反映する作風ということもあって、コメディ映画というジャンルに属する作品でありながら、どこかしら登場人物達が自責の念を感じさせるようなシニカルな視点の切れ味は、ますます鋭くなっているような気がします。


「ブルージャスミンン」は、ジャスミン(ケイト・ブランシェット)が、サンフランシスコに暮らす妹のジンジャーを訪ねるところから始まります。冒頭、飛行機の中でジャスミンが隣に座っている女性に身の上話をするのですが、これがウディ・アレンの脚本の見事さ・・・ジャスミンがどういう女性であるかを端的に説明してしまうと同時に、独り言のように一方的に自分のことばかり話している様子から、彼女がちょっと精神的に”おかしい”のではないかという印象さえも与えるのですから。そして、ジャスミンが独り言のつぶやきが、過去の回想シーンと何度と行き来する物語の時間軸を、巧みに織り込んでいきます。

彼女は夫のハロルド(アレック・ボールドウィン)とのパークアベニュー(ニューヨーク随一の高級住宅地)での裕福な生活の破綻後、新しい生活を始めるために、同じ里親に育てられた血のつながっていない妹(サリー・ホーキンス)と、しばらく同居して新しい生活を築こうとしているらしいのです。しかし、宝石も毛皮も何もかも失ったと良いつつも、ルイ・ヴィトンのスーツケースに、シャネルジャケットを羽織り、飛行機もファーストクラスというジャスミンの行動は、あまりにも”奇妙”です。お馴染みのラグジュエリーブランドを、痛々しい女性の風刺として使うとは、なんとも皮肉・・・贅沢というのは、心の隙間を埋める”鎧”であることも痛感させられてしまいます。

ジンジャーはジャスミンとは真逆で庶民的なタイプ・・・元夫のオーギー(アンドリュー・ダイス・クレー)も、現恋人のチリ(ボビー・カナヴェイル)も、労働者階級の男性。ジャスミンからすれば、そんな負け組な男を選ぶから”いい生活”ができないということになるのですが、ハロルドが大金を得ている投資ビジネスは、実は詐欺行為なのですが・・・贅沢な暮らしをすることにしか興味のないジャスミンにとって、ハロルドが金を得ている手段は大した問題ではないようです。例え、ハロルドが奨めた投資によって、オーギーが宝くじで当てた大金を失ったとしても・・・。

若くしてハロルドと結婚したジャスミンは、キャリアを持つ女性ではありません。パークアベニューの豪邸を追われて、都落ちしてブルックリン(ニューヨーク郊外のミドルクラスの住宅地)に住んで、マジソンアベニュー(世界中のデザイナーショップが並ぶ通り)のブティックの店員として勤めていたこともあるようなのですが・・・以前、チャリティーやディナーパティーで顔を合わせていた友人らと遭遇することもあり、ひどく自尊心を傷つけられたようなのです。正論を言えば「文句言わずに高級ブティックの店員やってろ!」なんですが、プライドにしがみついて苦悩するというのは、他人に理解されることもないので、心の闇はさらに深まってしまうものなのかもしれません。

ジャスミンは自分のテイストの良さを生かして、インテリアデザイナーになると考えるのですが(これも、元金持ち夫人が思いつきそうな安易な発想!)・・・パソコン学校に通ってパソコンを使えるようになったら、オンラインでインテリアデザインの講座を受けるというのですから、地に足のつかない話なのです。学校に通っている間は、アルバイトぐらいはしないといけないということで、チリの男友達に紹介された歯医者の受付をすることになるのですが・・・歯医者がジャスミンに一目惚れしてしまって、セクハラを受けてしまう始末。そこで、ジャスミンは素敵な男性(金持ち)との出会いを求めて、パソコンのクラスで知り合った女性に誘われたパーティーに、ジンジャーを連れて参加することにするのです。

そのパーティーでジャスミンが知り合ったのが、将来政治の世界への進出も考えている政府関係の仕事をするドワイト(ピーター・サースガード)・・・屋敷を購入したばかりの彼は、インテリアデザイナーを名乗るジャスミンに一目惚れして、内装のデコレーションを依頼するのです。十分な資産を持っているだけでなく、将来的には政治家夫人となれるかもしれないドワインは、ジャスミンが求めていた男性そのもの・・・あっという間に二人は恋におち、政治家になる前の数年間ウィーンへの移住を計画していたドワインは、唐突にジャスミンにプロポーズをするのであります!勿論、これでハッピーエンドということはありません。

ここからネタバレを含みます。


裕福で幸せな生活に見えていたハロルドとの結婚でしたが・・・実は、ハロルドは浮気しまくりの超女たらし。それは、ジャスミンの目が届かないところではなく、家族の友人として付き合いのある女性や仕事の関係者と紹介されていた女性・・・ジンジャーもニューヨーク訪問の際に、ハロルドの浮気現場を目撃していたものの、自分の密告によって結婚が破綻してしまうならばと黙りを決めていたのでした。しかし、ひょんなことからハロルドの浮気を疑ったジャスミンに、ハロルドは遂に浮気を告白した上に、フランス人の家庭教師の若い女性との新しい生活を考えていると離婚を申しでるのです。ショックを受けたジャスミンは「FBI」にハロルドの行為を通報してしまいます。彼女が裕福な生活を失ったのは、ハロルドが詐欺で逮捕されたから・・・ある意味、逆ギレしてしまった彼女の”自業自得”だったのです。

婚約指輪を買うために宝石店を訪れたジャスミンとドワインの前に現れたのは、ジンジャーの元夫のオーギー・・・そこで、ハロルドが刑務所で自殺したこと、ハロルドの連れ子(ジャスミンの義理の息子)がサンフランシスコの郊外に暮らしていることが判明します。ジャスミンの虚言を知ったドワインは、あっさりとジャスミンとの関係を白紙に戻してしまうのです。最後の望みである義理の息子を訪ねても、父親よりも通報したジャスミンのことを憎んでいると罵倒されてしまいます。何も知らないジンジャーに対して、まだドワインとウィーンに移住すると強がるジャスミン・・・現実さえ把握できないほどジャスミンの精神は崩壊しまったのです。

彼女の悲劇は、誰にも理解されない自業自得な苦しみに苛まれているということ・・・誰一人からも同情してもらえないからこそ、自分と社会の認識の隔たりによって、彼女は精神を病んでいったのです。公園のベンチでシャネルジャケットの虚飾の優雅さに身を包んだままのジャスミンには・・・「欲望という名の電車」のブランチのように、彼女の妄想を受け止めてくれる優しい見知らぬ紳士(実は精神病院の職員)さえいません。行き場ない奈落の底に、たった一人で佇むしかないジャスミンの”うつろ”な表情に、ボクは号泣を抑えることができなかったのです。


「ブルージャスミン」
原題/Blue Jasmine
2013年/アメリカ
監督、脚本 : ウディ・アレン
出演    : ケイト・ブランシェット、アレック・ボールドウィン、サリー・ホーキンス、アンドリュー・ダイス・クレイ、ボビー・カナヴェイル、ピーター・サースガード、ルイス・C・K、マイケル・スターレサロペ
2014年5月10日より日本劇場公開

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スティーヴ・マックイーン監督が黒人監督として初のアカデミー作品賞受賞!・・・”被害者”から歴史を描く流れは、改めて”加害者”に罪を問うことになるかもしれない!?~「ハンガー/Hunger」「それでも夜は明ける/12 Years a Slave」~

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往年のハリウッド・アクション俳優と同じ名前をもつイギリス人映画監督、スティーヴ・マックイーンの作品を初めて観たのは、今から約4年ほど前のこと・・・アメリカのアマゾンでクライテリオン(Criterion)社から発売された「ハンガー/Hunger」のブルーレイを購入した時です。当時、超円高で日本で映画館入場料よりも安く新作映画のDVDやブルーレイを買えることもあり、ちょっと気になった作品は、映画の内容についても殆ど知らなくてもショッピングカートに入れていたのでした。まだ、マイケル・ファスビンダーも無名に近く・・・「ハンガー」という作品については刑務所でのハンガーストライキを描いた作品という程度の知識しか、ボクにはありませんでした。

1981年、当時のイギリス首相だったマッガレット・サッチャーが、IRA(アイルランド共和軍)の囚人たちを”政治犯”として扱わない(普通の犯罪者と同じく囚人服を着なければならないとか)という強硬姿勢を打ち出したことに対して抗議するために、ブランケット・プロテスト(囚人服を拒否して不潔な毛布をかぶる)や、ダーティー・プロテスト(尿を廊下に流す、大便を壁になすりつける)を行ないます。しかし、抗議活動は受け入れられることもなく、当時26歳のIRAメンバーだったボビー・サンズは、自虐的なハンガー・ストライキを決意・・・66日後に餓死してしまうのです。

本作「ハンガー」は、刑務所の監視員の淡々した・・・しかし、常に暗殺されるかもしれないという日常生活、そして、囚人たちの抗議活動に対して抑制をしなければならない葛藤と、ボビー・サンズ(マイケル・ファスベンダー)が衰弱して餓死していく様子を、明確で映像言語を持った映像描写で描いていきます。本編中盤、ボビー・サンズが牧師にハンガー・ストライキを宣言する20数分のシーン以外、殆ど台詞がないのです。刑務所の監視員が行なう囚人たちへの暴力の描写には、一切容赦ありませんが、それぞれの立場の苦しみを観客に傍観させることにより、迫害されたIRAの囚人を擁護するような”政治映画”とは、まったく違う印象を与えています。ただ、ハンガー・ストライキという自虐的な手段を選んだボビー・サンズの最期を、まるで”聖人”の死のように表現しているところには、映像としては素晴らしいと感じながらも、釈然としないところがありました。

1980年代~90年代のハリウッド映画で”テロリスト”と言えば「IRA」ということもあり、ボク自身には少なからず「IRA」=「悪者」というステレオタイプを洗脳されていたところもあるのかもしれません。しかし、いかなる政治的な理由があるにしても、テロリスト活動を行なうグループの抗議を認めることは、ボクには難しいのです。本作で描かれている刑務所の監視員の暴力的な行為にしても・・・ダーティー・プロテストを行なっている囚人たちを散髪や入浴をさせたり、糞まみれの監獄を洗浄しなければならなかったからこそ。また、囚人たちの口内から肛門まで厳しくチェックしなければならなかったのは、面会時に禁じられた手紙のやり取りや差し入れを受け取っていたから。刑務所が一方的にルールを強要することは理不尽ですが、それに対しての抗議手段が”糞尿”というのは、とんでもない”嫌らがせ”・・・それに対応しなければならなかった監視員に、少なからず同情してしまうところもあるのです。

本作の映像としての力強さには感動をしながらも、IRAの行なった抗議活動に対して肯定的とも受け取れる表現には疑問を感じ・・・おそらく、アイルランド出身の映画監督マックイーンは典型的なアイリッシュの名字)による作品なんだろうと思いながら、特典映像のスティーヴ・マックイーン監督インタビューを観て、大変びっくり。本作のテーマから、ボクは監督は”アイルランド系の白人男性”と思い込んでいたのですが、映っていたのは髭面のイカツい黒人男性・・・彼がスティーヴ・マックイーン監督本人であることを認識するまで、かなり脳を働かせなければなりませんでした。そして、人種や肉体的特徴によるステレオタイプを、いかにボク自身が持っていたのかと思い知らされのです。その後、ネットで調べてみたら、彼は1999年にイギリスのターナー賞受賞歴もある”アーティスト”だということや、カリブ海のグラナダからの移民の子(アメリカ奴隷の子孫)としてロンドンで生まれ育ったことなどを知ったのでした。


スティーヴ・マックイーン監督の家庭環境や、どのような幼少期を過ごしたかは知りませんが、チェルシー・カレッジ・オブ・アート&デザインやゴールドスミス・カレッジに学び、在学中から映画製作を始めたということは、決して貧困家庭ではなかったことは想像出来ます。しかし、だからといってイギリス社会で人種差別を受けたことがないと言えば嘘になるでしょう。アート界と言うのは、金持ち白人(ユダヤ人)によって牛耳られている世界・・・ビデオ・インスタレーションのアーティストとして世界的に活動し、認められてきたことは、彼にとって”戦い”であったかもしれないのです。そんな彼が、11歳の頃にテレビで観たボビー・サンズのハンガー・ストライキのニュースに、並々ならぬ関心を抱いたというのは、迫害される”被害者側”の立場に強く共感したからのような気がしてなりません。

その後、スティーヴ・マックイーン監督は、再びマイケル・ファスベンダー主演で、セックス依存症の男性を描いた「シェイム」を2011年に監督・・・人種的な視点でのテーマ選びはしないのかと思っていたのですが、長編映画3作目で、真っ向からアメリカ黒人奴隷の迫害を描いた「それでも夜が明ける/12 Year a Slave」を監督することになります。ユダヤ系のスティーヴン・スピルバーグ監督は映画化権を手に入れてから、実際に「シンドラーのリスト」を製作するまで10年近く費やしました。これは、構想を温めていたこともありますが、1980年代前半「E.T.」や「レイダース/失われたアーク」で飛ぶトリを落とす勢いだった時に「ユダヤ系」映画監督というイメージを強く与えたくなかったことを、後に告白しています。迫害された側の人種の監督によって、その歴史を映画に描くことは、当事者だけでなく全世界的に大切なことではあるのですが、当事者に近い立場ゆえに加害者の罪を誇張してしまったり、事実ではないことまで捏造してしまう恐れもあるのです。例えば・・・ナチスのユダヤ人大量虐殺は、絶対悪による残酷ネタとして「あること」「ないこと」描かれてきたのですから。実際に起こった”事実”を見極めて描くというのは、年月が経てば経つほど難しくなることなのです。

最近ハリウッドでは、黒人監督による黒人迫害を描いた作品というのが、ある種のブームのようなところもあります。第86回アカデミー賞では監督賞は逃したものの、最も重要な作品賞を受賞・・・これは、黒人の映画監督の作品としては「初」のことだということ。「やっと、黒人の映画監督よって黒人の歴史が描かれる時代になり、アカデミー賞にも認められた!」とも言えるわけですが、この流れには不快感を感じている”白人層”というのは少なくはないようです。ニューヨーク批評家協会賞の授賞式では、監督賞を受賞してスピーチするスティーヴ・マックイーン監督に対して、人種別的な野次を浴びせたバカなジャーナリストがいたように、新たな人種の溝を深めていく可能性もあります。「拷問ポルノ」と罵る白人の映画批評家もいたという本作・・・現代アメリカ社会が、もみ消したい”負の歴史”の歴史認識を”被害者”側から検証するという方向になっていくのでしょうか?これは、中国や韓国から歴史認識や戦争責任を改めて追求される日本人が感じている不快感と、少し似ているのかもしれません。


「それでも夜が明ける」は、アメリカ北部で”自由黒人”として生活していた音楽家のソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)が拉致されて、12年間南部で奴隷として生きることを強いられたという自伝をもとにした作品で、解放されるまで家族の元に戻る希望を捨てない姿が感動的に描かれています。アメリカ奴隷の記録というのは、奴隷側が記録したものというのは、当然のことながら残っていません。何故なら、主人からの口頭による命令を理解する必要しかなかったので、文字の読み書きができることは稀なことだったからです。奴隷をすでに解放していた北部で生まれ教育を受けたソロモン・ノーサップだからこそ記録することができた”奇跡”と言えるでしょう。

本作で描かれるソロモン・ノーサップの元の生活というのは、経済的に比較的裕福(一軒家に住んでいる)で、白人社会の中で平等に扱われている(お店の亭主の態度など)なのですが・・・いくら奴隷解放している北部と言えども、当時としては非常に恵まれていた存在だったのだろうと推測します。彼の音楽家としての才能が、それだけ高く評価されていたということでしょう。ただ、白人社会で受け入れらて生活することは、黒人社会からは浮いた存在であったのかもしれないという疑念も感じさせます。外見は黒人だけど内面は白人みたいというのは、現在の黒人社会では疎まれる存在・・・本作の舞台である19世紀半ばに、ソロモン・ノーサップのような存在が、どのようなものであったのかは想像するしかありません。

ソロモン・ノーサップが拉致された後、奴隷として売られていく過程で受ける虐待には目を覆うしかありません。容赦ない鞭打ち、白人に歯向かった罰としての首吊り・・・彼が生死の境目を彷徨っている時にも、まるで彼自身の存在が”無”のように、普通に遊びはしゃいでいる子供の姿を同じフレームで捉えるカメラは、あまりにも残酷・・・正視できません。リアリティを追求した暴力描写の一方・・・本作では奴隷同士の会話が、まるでシャークスピア劇のような台詞回しというところには、正直、違和感を感じずにはいられませんでした。崇高な精神を表現しているのだとは思いますが・・・あの時代にありえなかった黒人奴隷の姿という映画的な妄想と、迫害の歴史をリアルに描こうとする意図が混在しているところはトリッキーに感じられました。

加害者であった白人側を単なる”悪者”として描かないのは巧みでした。奴隷オーナーであったウィリアム・フォード(ベネディクト・カンバーパッチ)にしても、奴隷を虐待する農園支配人のエドウィン・エップス(マイケル・ファスベンダー)にしても、奴隷制度というのは、それを利用していた白人側の精神も破壊していたということが描かれるのです。特に、密かに黒人奴隷のパッツィー(ルピタ・ニョンゴ)を愛するエドウィン・エップスと、そんな二人に嫉妬するエドウィン・エップスの妻メアリー(サラ・ポールソン)の屈折した残忍性は「善と悪」「被害者と加害者」というだけでは言い切れない人間性を表しています。そして、被害者であった黒人奴隷が当時逆らうことが難しかったように、加害者であった白人にとっても、その時の社会の仕組みに逆らうことは難しかったのかもしれません。

奴隷にさせられてしまったソロモン・ノーサップが自主的にできることは、殆どなく・・・カナダ人のサミュエル・バス(ブラッド・ピット)の助けによって救われるまでの過酷な日々に耐えることだけだったのは”リアル”で、まさに運命に翻弄されたとしか言えません。12年間の奴隷生活から解放されて、北部に暮らす家族の元に戻れたという奇跡的な事実は感動的でありますが、それは涙の再会以上の驚きはありません。自由黒人としては北部に戻った彼が、その後、どのように再び社会に順応していったのかは想像するしかありませんが・・・冷静に奴隷生活の記録を残したということは、彼を迫害した同じ人種の白人を憎んだのではなく、自分の経験した不幸を超越した視点を持っていたと思えるのです。加害者が被害者に対して謝罪することは当然のことですが・・・被害者が加害者を「許す」なしには未来はありません。過去の事実を見つめ直すことが、加害者(白人社会)への罪の追求だけでなく・・・本当の意味で「許す」過程の一歩となることを祈るばかりであります。

韓国のパク・クネ大統領が「1000年経っても日本への”恨み”は忘れない」と訴えたように・・・自らを歴史的に迫害の”被害者”と感じる民族/人種にとって、年月によって”加害者”への”恨み”が消えるわけではないようです。逆に、時が経って国際的、経済的な立場が高くなるほど、過去を振り返って”恨み”が強くなっていくこともあるのかもしれません。そもそも、過去の出来事を今現在の”倫理観”で検証し直したら、許されるべきことではないことは当然です。また、「本当に何が起こったのか?」という歴史認識というのは、それぞれの立場によって違ってしまうのは仕方のないこと・・・”被害者”側の認識を押し付けるというのは、過去の”恨み”を生々しく再生させるだけで、双方に”落としどころ”のない不毛な要求のように思えます。

「それでも夜は明ける」の制作者のひとりであるブラッド・ピットのパートナーのアンジェリーナ・ジョリーの監督第二作目となる「Unbroken(原題)」は、日本軍の捕虜収容所に収容されて、日本兵から数々の虐待を受けたという実在のアメリカ兵の生涯を描いた作品・・・日本をバッシングをしたいわけではなく、戦争の愚かさを描くために選んだテーマなのだとは思いたいですが、空襲や原爆投下で焼け野原になったアメリカの敗戦国の日本が、第二次世界大戦の”加害者”として、改めて罪を問われる立場になってしまうことは避けれそうにもありません。

迫害を受けた”被害者”というのは過去に於いて”弱者”であったことは確かです。しかし、その”弱者”が”加害者”への罪を問い続けることが、過去の問題の解決なのでしょうか?”被害者”側から発信された歴史認識を100%受け入れることが「政治的に正しい」という今の世界的な流れが、ボクは少々怖く感じられることがあるのです。


「ハンガー」
原題/Hunger
2008年/イギリス
監督 : スティーヴ・マックイーン
脚本 : スティーヴ・マックイーン、エンダ・ウォルシュ
出演 : マイケル・ファスベンダー、スチュアート・グラハム、リアム・カニングハム
2008年10月21日第21回東京国際映画祭にて上映
劇場未公開


「それでも夜は明ける」
原題/12 Years a Slave
2013年/アメリカ、イギリス
監督 : スティーヴ・マックイーン
脚本 : ジョン・リドリー
出演 : キウェテル・イジョフォー、マイケル・ファスベンダー、ベネディクト・カンバーパッチ、ルピタ・ニョンゴ、サラ・ポールソン、ブラッド・ピット、ポール・ダノ、ポール・ジアマッティ、アルフレ・ウッダード
2014年3月7日より日本劇場公開


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アメリカ超低俗番組「ジャッカス」からの最新スピンオフ・・・一般人を巻き込む”どっきりカメラ”のサイテー映画と思いきや?~「ジャッカス/クソジジイのアメリカ横断チン道中/Jackass Presents Bad Grandpa」~

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今年のアカデミー賞ノミネートのサプライズは「ジャッカス/クソジジイのアメリカ横断チン道中/Jackass Presents Bad Grandpa」のノミネートかもしれません。とは言っても、作品賞や演技賞などのメインではなく”ベストメイク賞”ではあり、当然、受賞は逃したわけでが。ただ、投票権をもつアカデミーの会員も、この映画もしっかり観賞するかと思うと、ある意味”快挙”と言えるかもしれません。

アメリカのケーブルテレビ「MTV」制作の番組のなかでも悪名高き「ジャッカス/Jackass 」・・・ジョニー・ノックスヴィルを中心にしたメンバーが体を張った過激なイタズラをする内容で「どっきりカメラ」の要素もあるという典型的な「おバカ番組」であります。番組内の行為を真似して死者が出るなど社会問題になりながらも、3シーズン終了後にはスパイク.ジョーンズ監督(マルコビッチの穴、her/世界でひとつの彼女)が製作総指揮を勤める映画3作が作られるほどでしたが・・・「YOU TUBE」の台頭によってJackass風の映像のインパクトが薄れていったところは拭えません。そこで、サシャ・バレン・コーエン(ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習、ブルーノ)の一般人のリアクションを楽しむ”どっきりカメラ”と、フィクションのコメディを融合したスタイルをパクった(オマージュ?)のが、本作「ジャッカス/クソジジイのアメリカ横断チン道中」であります。

46年連れ添った妻エリーを亡くしたアーヴィング(ジョニー・ノックスヴィル)は、刑務所に戻らなければならなくなった娘キミーの8歳の息子ビリー(ジャクソン・ニコル)を、ノースカロライナのビリーの父親チャック(グレッグ・ハリス)に送り届けることになります。エロじじいのアーヴィングを演じるのは、”86歳の”に変身したジョニー・ノックスヴィル(現43歳)・・・さすが、映像だけでなく、実際に会った一般人を騙せただけの見事な特殊メイクであります。本作の内容はともかく、メイクではアカデミー賞ノミネートというのも納得です。8歳の孫を演じるジャクソン・ニコルは、こまっしゃくれた肥満気味の男の子で、ジャッカス的な下品な悪のりも”お手ものというなかなか芸達者・・・この子なしでは、本作は成り立たなかったでしょう。


どっきりの対象は彼らが道中で出会う”一般人”で、仕掛けるイタズラは悪ふざけなものばか。生々しいリアクションからは、アメリカ人の”頭の悪さ”や”人の良さ”が垣間みれますが、サシャ・バレン・コーエンのような政治的な毒はありません。”チンコ””ウンコ”に笑いが止まらない小学生レベルのイタズラなのです。ただ、その”頭の悪さ”に苦笑してしまうという愛すべき面白さに溢れています。特に、ボクのお気に入りの酷いシークエンスは、ダイナーでアーヴィングとビリーが”おならごっこ”をしているうちに、エスカレートしてアーヴィングが壁に”ウンチ”をぶっぱなしてしまうところ・・・知能指数が急降下してしまうほど、頭を抱えて笑ってしまいました。

どっきりを仕掛けるだけで終わっていたら「ジャッカス」の延長でしかなかったのですが、本作はアーヴィングとビリーというキャラクターの”フィクションの物語”を追いながら、一般人への”どっきりカメラ”という嘘と現実が入り交じっている奇妙な映画・・・一度はビリーを父親のチャックに送り届けた後、アーヴィングがビリーを取り戻しにいくシーンでは、一般人のリアルな真実のリアクションが、虚構の物語に妙な感動を生んでしまっているのです。何故か、ビリーの引き渡し場所に指定されているのが、ガーディアン・オブ・チルドレンという虐待された子供たちを助けることを使命としている「バイク野郎」の集団のたまり場。子供の養育のために受け取る月600ドルだけが目的としている父親のチャックは、彼らが最も憎むべき相手・・・ビリーをアーヴィングに渡さないように暴れ始めるチャックの腕を、イカツイ男たちはマジで締め上げ始めるのです!チャックを演じるグレッグ・ハリスは「腕の骨が折られると本当に思った」というほど怯えてしまったそうで・・・こうなると、どっきりを仕掛けられているのが一般人なのか、虚構のキャラクターを演じている出演者なのか分かりません。

そして、この「マジでやばい!」感じこそが「ジャッカス」の真骨頂でもあるわけで、「ジャッカス/クソジジイのアメリカ横断チン道中」は、まぎれもない「ジャッカス」映画であるのです。


「ジャッカス/クソジジイのアメリカ横断チン道中」
原題/Jackass Presents Bad Grandpa
2013年/アメリカ
監督 : ジェフ・トレメイン
脚本 : ジョニー・ノックスヴィル、スパイク・ジョーンズ、ジェフ・トレメイン
出演 : ジョニー・ノックスヴィル、ジャクソン・ニコル、グレッグ・ハリス、ジョージナ・ケイツ、スパイク・ジョーンズ
2014年3月29日より日本劇場公開

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濃厚なレズビアンセックスシーンにドン引き?・・・シンプルなガール・ミーツ・ガールの”アデルの恋の物語”が、これほど切ないとは!~「アデル、ブルーは熱い色/La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2」~

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カンヌ映画祭では、毎年、違う映画関係者(監督、俳優など)が審査委員長を努めるということもあり、パルムドール賞(グランプリ)に選ばれる作風も審査委員によって左右されているといわれます。例えば・・・リュック・ベッソン監督が審査委員長だった時のグランプリが「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、クエンティン.タランティーノ監督の時は「華氏911」、イザベル・ユペールは「白いリボン」、ロバート・デ.ニーロは「ツリー・オブ・ライフ」という具合です。第66回カンヌ映画祭(2013年度)の審査委員長が、父と子をテーマとした作品が多いスティーヴン・スピルバーグ監督ということもあって、是枝裕和監督の「そして父になる」が受賞するのではと期待されましたが・・・フタを開けてみたら、濃厚なレズビアンセックスシーンが話題となったアブデラティフ・ケンシュ監督の「アデル、ブルーは熱い色/La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2が、パルムドール賞を受賞しました。それも監督だけでなく、主演のアデル・エグザルホプロスとレア・セドゥも受賞という異例の扱いだったのです。

ゲイのボクにとって、濃厚なレズビアンセックスシーンがある映画というのは、同性愛を扱っているからといっても、正直、それほど積極的に観たい作品ではありません。それも、性器の模型(?)まで作成して、写実的なセックスシーンの再現にこだわったというのだから「勘弁してよ~」です。ある意味・・・恐いもの見たさ(?)の気持ちで、ボクは「アデル、ブルーは熱い色」を観たのでした。

本作は、恋愛映画としては異様に長い3時間という上映時間なのですが、物語自体はガール・ミーツ・ガールのシンプルなラブストリーであります。ただ、多くのカメラワークは顔のクローズアップという独特のスタイル・・・圧迫感さえ感じるほどの近距離で、登場人物たちの細かな表情を追うことで、赤裸裸に心の内を浮き彫りにしているのです。その場にカメラがあることを意識しないようなフットワークの軽いカメラアングルでありながら、本作のテーマカラーである”ブルー”の色がフレームのどこかに入り込むという・・・完璧に計算し尽くされた画面になっているのも特徴と言えるでしょう。

アデル(アデル・エグザルホプロス)は、文学好きの女子高校生・・・イケメンのボーイフレンドにカラダを許してしまうものの、何かが違うと感じています。オナニーの時、街で見かけたブルーの髪をした女性を妄想したりしてしまうアデル・・・結局、ボーイフレンドとは煮え切らないまま別れてしまうのです。ある日、ゲイのクラスメイトに連れられて入ったゲイバーで、アデルはブルーの髪をした美術大学生のエマ(レア・セドゥ)と遂に会話を交わすことになります。

翌日、アデルの通う高校前に現れたエマ・・・見た目からして明らかにレズビアンのエマと連れ添って帰るアデルは、クラスメイトの女子からレズビアンの疑いをかけられてしまうのです。レズビアンであることを必死に否定して、摑み合いの喧嘩になってしまうアデル・・・同性愛に寛容というイメージのあるフランスですが、高校生にとってカミングアウトすることは、まだまだ勇気のいることなのかもしれません。

エマに一目惚れしてしまった”レズビアン初体験”のアデルの思いは、一度弾けたら歯止めが利かず、二人は肉体的に結ばれることとなります。ここでのセックスシーンは、これでもかというほど長くて濃厚・・・知らなくてもいいレズビアンセックスの四十八手(?)を見せられたような気がします。ハーココアポルノのような性器のドアップというのは、さすがにありませんでしたが・・・性行為に没頭する二人の息づかいが妙に生々しくて、観ている方が恥ずかしくなるぐらいです。

レズビアンのセックスシーンにありがちの”甘美さ”の表現というのは、部外者(レズビアン以外)のために映像的に”美化”されていていたのだと思えてしまうほど・・・本作のような描写こそが、多くのレズビアンにとっての「ふつうのセックス」なのかもしれません。「恋愛」は心と心の結びつきである「恋」であると同時に、肉体的な結びつきの「性」でもあるわけで、異性愛、同性愛関係なく「好き」という感情の先には、動物的な肉体の求め合いなのです。そして「愛」は肉体の結びつきでしか確かめられないこともある・・・ということを描くためにも、本作の濃厚なレズビアンセックスシーンというのは、絶対に必要なのであります!

毎晩ミートソーススパゲティを食べるような家庭に育ったアデルと、殻付きの生ガキを自宅で食べるような家庭で育ったエマ・・・数年後(映画ではワンカットで切り替わる)同棲を始めるのですが、二人の生きる世界の違いが徐々に明らかとなっていきます。いかにも美大生っぽいブルーの髪からナチュラルカラーになっていますが、エマは新進気鋭の画家として野心的です。ホームパーティーも、力のある画廊のオーナーと親しくなるためでした。

一方、子供好きなアデルは、エマから文才を生かして小説を書くように奨められていながらも、普通の小学校の先生として職を得て満足しています。エマの開催するホームパーティーでは、アデルはもっぱら食事の給仕役・・・エマの友人らの交わすアート関係の文化的な会話にはついていけません。恋人の友人のサークルに入っていけないのは、どことなく淋しいもの・・・エマと親しげにしている女性のことを、アデルはエマの元彼女ではないかと勘ぐって嫉妬してしまいます。

行動や表情の一挙一動を追ってしまうことで、ますます不安と疑いが生まれてしまう・・・そんなアデルの「恋愛弱者」としての悪循環は、誰もが一度は経験したことのある”苦い恋”を思い起こさせます。自分の芸術表現と画廊とのビジネスの狭間で葛藤するエマに対して、アデルは何ひとつ気の利いた言葉をかけることはできません。生きてきた世界が違う二人に埋められない溝は、アデルに”淋しさ”を感じさせ・・・その”淋しさ”から逃れるために、アデルは絶対してはいけない”過ち”を犯してしまうのです。

こっっからネタバレを含みます。


同僚に誘われて出向いたナイトクラブで、アデルは同僚の男性と踊ったり飲んだりしているうちに、その男性と抱き合ってキスしてしまいます。そして、アデルは数回、その男性とエッチしてしまったようなのです。(映画ではハッキリとは描かれていませんが・・・)レズビアンの女性には、男性ともエッチできる”バイセクシュアル”なタイプと、男性は生理的に無理という生粋(?)のタイプがいるように思います。アデルは、女性との性的関係はエマとしかありません。エマとの関係に行き詰まった時、揺れ動く気持ちが男性に向かってしまうのも頷けるところがあります。しかし、エマにとって男性と性的な関係を持つことは、売女的な行為のなにものでもなく、絶対的なタブーなのです。

ある夜、男性の車で送られて帰宅したアデルに、エマはアデルが男性と浮気していることを確信します。涙ながらに弁解を試みるアデルの言葉に耳を傾けることなしに、アデルを家から追い出してしまうのです。目の前の世界のすべてが崩れていくような絶望的な失恋の気持ちを・・・自分を傷つけない手段”だけ”は覚えてしまったボクは、すっかり忘れてしまっていたような気がします。

それから日々が経ち、カフェで再会するアデルとエマ。肉体的な結びつきを呼び起こそうとするアデルの痛々しさは、濃厚なレズビアンセックスシーンがあったからこそ。しかし、すでに新しい恋人がいるエマは、二人の関係が、もう元には戻らないことを改めて伝えるのです。別れを告げられた(振られた)側は、もしかすると復縁できるかもしれない・・・と、希望を持ってしまいがちですが、別れを決めた(振った)側にとっては、すでに終わった過去。もう二度と同じ関係に戻ることはできないのです。

さらに数年後(?)エマは念願の画廊で展覧会のオープニングパーティーで、アデルとエマは再会します。元彼女としての立場は、アデルにとって決して心地よいものではありません。今度こそ、過去を吹っ切るようにアデルはひとり画廊を後にします。その足取りは淋しげではあるけど、ボクも含めて、恋を失ったことのある誰もが通過してきた道。シンプルなガール・ミーツ・ガールの「アデルの恋の物語」だからこそ・・・切なく胸を締めつけるのです。


「アデル、ブルーは熱い色」
原題/La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2
2013年/フランス
監督 : アブデラティフ・ケンシュ
脚本 : アブデラティフ・ケンシュ、ガリア・ラクロワ
出演 : アデル・エグザルホプロス、レア・セドゥ
2013年10月15日東京国際映画祭にて上映
2014年4月5日より日本劇場公開


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加害者が大虐殺を演じてみせるドキュメンタリー映画・・・たとえ作為的であっても人間としての”良心”を引き出すのだ!~「アクト・オブ・キリング/The Act of Killing」~

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世界的に殆ど知られていなかった1965年から数年間に行なわれた100万人とも200万人ともいわれるインドネシアの大虐殺の真実に迫った「アクト・オブ・キリング/The Act of Killing」は、被害者からの証言ではなく、加害者が大虐殺の様子をカメラの前で演じてみせるという前代未聞の手法のドキュメンタリー映画であります。

当時、インドネシア共産党を支持基盤の一部として容認していたスカルノ大統領(デヴィ夫人は第三夫人)は軍事クーテダーで失脚してしまうのですが、アメリカや日本は共産党員へ行なわれたと言われていた大虐殺を黙認・・・意図的に証拠を残さないように民間人によって実行させた大虐殺の実体を、世界が知ることはなかったのです。現在でも大虐殺を行なった側が政権を握っているので、加害者は”英雄”扱いされています。ジョシュア・オッペンハイマー監督は、もともとは被害者を取材しようと試みたそうなのですが、当局から禁止されて断念・・・そこで発想を転換して、加害者を取材したのです。


本作が追うのは、当時、映画のダフ屋をしていた”チンピラ”だったアルワル・コンゴという人物・・・大虐殺の実行部隊のリーダーで「パンチェシラ青年団」(現政権の政治団体)の”英雄”として、二人の孫のいる”おじいさん”であります。殺害した当時の様子を、鼻歌まじりに踊りながら意気揚々と語る姿は、言葉にならない違和感を感じさせます。人間って、自らが行なった殺人行為に罪悪感を感じることなしにいられるものなのでしょうか?殴り殺すよりも、針金で首を絞めて殺す方法の方が効率的だった・・・と自慢げに演じてみせる様子は、気持ち悪さを超えて”滑稽”にさえに見えてくるのです。


ジョシュア・オッペンハイマー監督は、アルワル・コンゴと彼の仲間たちにカメラの前で、大虐殺を演じてみないかと持ちかけます。アメリカ映画が好きなアルワル・コンゴは、これは自分たちの行なった英雄的な行為を、世界の人々に見せる良い機会になると、喜んでオファーを受け入れるのです。そこで「パンチェシラ青年団」の劇団で演劇経験もあるヘルマン・コトを中心に、加害者と被害者のどちらも再現することになります。このヘルマン・コトという人物のキャラクターが、とても強烈・・・暴力的で倫理観に欠けていながら、女装好きのデブで醜男という支離滅裂さなのです。彼にとっては、必死に命乞いをする母親の姿さえも笑い話・・・無秩序の中で殺されていった被害者の心を全く理解できていません。ただ、政府の中枢となっていった加害者の一部の人々(アディ・ズルカドリ、イブラヒム・シニク)は、どこかで罪の意識を分かっているようでもあり・・・その発言も保身的というところが、実は恐ろしいことなのです。

ここからネタバレを含みます。


インドネシアの大虐殺の事実は、どのように解釈しても”正義”として正当化されるべきことではなく・・・また、おもしろおかしく冗談として笑うようなことでもありません。しかし、本作で演じられる稚拙な再現は、その最悪さとは反比例して、滑稽でしかないのです。滝を前にして歌い踊るミュージカルシーンで、殺された人たちが「私たちを殺して頂きありがとうございました」と、手を合わせて虐殺者へ感謝をするという発想は、常人の倫理を超えたジョークにしか見えません。それでも、再現しているうちにアルワル・コンゴの心境にも、少しづつ変化が見え始めます。被害者を演じている時、自分が殺した人々の恐怖を感じられたと、アルワル・コンゴは言い始めるのです。すかさず、ジョシュア・オッペンハイマー監督は「本当に殺された人は、もっと恐怖を感じていたはず」と、彼を諭します。ただ、孫たちに自分の怯えるシーンを見せたりして、彼がどこまで罪悪感を意識的に認識しているかはハッキリとはしないのです。


映画の終盤、針金で首を絞めて殺害していた現場に再び戻ってきたアルワル・コンゴ・・・以前は、鼻歌まじりで殺人方法を語っていましたが、再現で被害者を演じて何かを気付き始めた彼は、平常ではいられません。まるでカラダの中から何かを押し出すように嘔吐し始めるのです。しかし嘔吐物などはなく、ただこの世のモノとは思えない「オエェ~」と繰り返す嘔吐の音だけ・・・人間の肉体が、行なった罪の深さに耐えきれずに、何かを吐き出そうとしているようです。その嘔吐の音は、トラウマとしてボクの耳に残っています。


本作は最後の最後で、人間としての”良心”を取り戻したアルワル・コンゴに救われるようなところはあります。このような告発映画の出演後、英雄から殺人者へとなってしまった彼が、どのように暮らしているのかは想像するしかありません。彼にとって過去の行為に罪悪感を感じるということは、大虐殺を肯定している現政府の根本を揺るがすということなのですから・・・。殺人者としての罪を彼に問うということは、それを実行させたインドネシア政府だけでなく、国際的に黙認したアメリカや日本などの責任を追求していくことに他なりません。

本作は、インドネシアの闇歴史の「パンドラの箱」を開けたというだけでなく、ドキュメンタリー映画の手法そのものにも問題を投げかけます。加害者に事件を再現させることにより、意図的に加害者の罪悪感を導いたのではないかという演出を否定することができません。編集により、加害者の感情を演出しているような箇所もいくつかあります。ドキュメンタリー映画というのは、制作者の意向に添って事実が再構築されていることは避けられないことですが、本作は何としてでもアルワル・コンゴという人間から”良心”を引き出そうとして、ドキュメンタリーという枠を超えて作為的になってしまっていることも、正気否めないのです。

本作とは全く関係ない話ですが、ジョシュア・オッペンハイマー監督は、日本人のボーイフレンドがいる「ゲイ」・・・だからといって”同性愛”にこだわらず人権問題に取り組む姿勢は、性的な嗜好によって作家性というのは制限されないことを、証明しています。


「アクト・オブ・キリング」
原題/The Act of Killing
2012年/デンマーク、ノルウェー、イギリス
監督 : ジョシュア・オッペンハイマー
出演 : アルワル・コンゴ、ヘルマン・コト、アディ・ズルカドリ、イブラヒム・シニク
2013年10月12日、13日山形国際ドキュメンタリー映画祭にて上映
2014年4月12日より日本劇場公開


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「CR Fashion Book」創刊までのカリーヌ・ロワトフェルドを追ったドキュメンタリー映画・・・独創的な”カリスマ性”ではなく等身大の”アコガレ”がファッションエディターに求められる時代なのね~「マドモアゼルC ファッションに愛されたミューズ/Mademoiselle C」~

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ドキュメンタリー映画とファッション業界というのは、よっぽど相性が良いようで、近年次々とファッション界を舞台にしたドキュメンタリーが制作されています。パリのデザイナーがトレンドを作っていたのは昔の話・・・今は消費者(ユーザー)が市場を牽引していますし、一部のファッション業界人だけがサキドリ独占していた”情報”もインターネットの普及により無意味になりつつあります。「ブランド」や「カリスマ」の神話を市場にアピールする手段として、ドキュメンタリーで舞台裏を見せることは、セレブの私生活をゴシップ誌やエンタメ番組で公開するのと同じこと・・・なんだかんだで”宣伝”なのです。

18歳でモデルとしてデビュー、20代で「ELLE」の編集者・スタイリストに転身、「グッチ」や「イヴ・サンローラン」などのブランドでスタイリストを務め、47歳から10年間フランス版「VOGUE/ヴォーグ」誌の編集長に就任。現在は「VOGUE/ヴォーグ」誌を去り、「ハーパーズ・バザー/Harper'S BAZAAR」誌のグローバル・ファッション・ディレクター(彼女のために作られた役職)を務めるカリーヌ・ロワトフェルド。彼女を知っているのは、ファッション好き(または業界人)に限られるのではないかと思います。業界的にはとてつもない権力を持っていることには違いありませんが、アメリカ版「VOGUE」誌の編集長=アナ・ウィンターのような”カリスマ”編集長として広く認知されているわけではありません。

カリーヌ・ロワトフェルドが業界内で有名になったのは、1990年代にトム・フォードがディレクターを務めていたブランドで展開された「ポルノ・チック」と呼ばれた広告のスタイリストとしてであります。ファッション広告に於いて「セックス」そのものをアピールしたということで、当時、物議となりました。「ポルノ・チック」というコンセプトは、1970年代にヘルムート・ニュートン(写真家)へのオマージュ(パクリ)であることは明白で、革新的なビジョンというよりは、広告戦略的にリメイクされた編集者的なセンスでしかありません。ただ、同じ頃ヨーロッパでは映画監督ラース・フォン・トリアーが女性向けポルノ映画の制作を始めて興行的にも成功していたこともあり、ポルノ表現が”おしゃれ”というムードは存在していました。ファッション広告に時代の空気を大胆に取り入れた・・・とも解釈しても良いのかもしれません。
本作「マドモアゼルC~ファッションに愛されたミューズ~」は、カリーヌ・ロワトフェルドの過去の経歴を振り返るということはなく、彼女自身の名前のイニシャルを掲げた「CR Fashion Book」創刊していく彼女を追うだけです。それ故に、結果的に本編は彼女の新雑誌のプロモーションにしか思えない内容となってしまいました。元雇い主(VOGUE/ヴォーグ誌)が、ファッション関係者に彼女の新雑誌創刊に協力しないしようにプレッシャーを与えたという憶測もあるらしいので、過去の映像は使用出来なかったという経緯もあるのかもしれません。「CR Fashion Book」自体は、普通の商業誌では不可能な贅沢なスタッフを揃えた夢のような雑誌であることは間違いありません。ただ、それ故に時代を反映しているというよりは、意地悪な見方をすれば・・・業界人の”内輪ウケ狙い”の自己満足とも言えるキレイな”だけ”な写真をまとめた雑誌でもあるのです。

本作は、ファッションエディターとしての”カリスマ性”を際立たせるよりは・・・娘や孫に囲まれる安定した家庭生活(勿論、理解のあるパートナー!)を持ちながら、世界を駆け巡る華麗なキャリアウーマンの頂点を極めた女性として”アコガレ”の存在として描くのは、時代を反映しているのかもしれません。ダイアナ・ヴリーランドのような個性的な”カリスマ”や、アナ・ウィンターのような独裁者のような”カリスマ”は求められていないのです。本編から垣間みれるのは、さまざまなクリエーターを上手に取り込み、彼らの手腕を生かすカリーヌ・ロワトフェルドの「いいひと」っぷりだったり、59歳になってもピンヒールを履き続けるという美魔女まがいの「若さ」アピール・・・背伸びしたら夢見れるぐらいの等身大の”アコガレ”感が、今やファッションエディターにも求められている”資質”かもしれないと、ボクは再認識した次第です。

そう言えば、先日スタートした沢尻エリカ主演の深夜ドラマは「ファースト・クラス」という架空の女性ファッション誌の編集部を舞台にした女同士のマウンティング地獄(!)を描いているのですが・・・ドラマで描かれるであろう個々の事例が、実際の編集室で行なわれているかは別として、確かにファッション業界というのは(日本に限らず)マウンティング活動は盛んな世界です。ボク自身もデザイナーのアシスタントをしていた時には、同僚から裏で意地悪されたり、何気ない日常会話で厭味を言われたり、マウンティング行為をたびたび経験しました。多かれ少なかれ、ファッション業界(デザイナー、プレス、セールス、エディターなどファッションに関わる全てを含めて)というのは、個人的な好き嫌いで天国か地獄か決まったり、ひとつの言動でセンスなしと判断されたり、見た目の”美醜”によって優遇されたり冷遇されたりすることが「当たり前」という、一般的な常識を逸した理不尽な世界なのであります。そういう業界の頂点まで上り詰めたカリーヌ・ロワトフェルドという女性の本質は、プロモーションのようなドキュメンタリー映画で明らかにされるなんてことは絶対にないのです。


「マドモアゼルCファッションに愛されたミューズ」
原題/Mademoiselle C
2013年/フランス
監督 : ファビアン・コンスタン
出演 : カリーヌ・ロワトフェルド、ステファン・ガン、カール・ラガーフェルド、トム・フォード、ドナテラ・ベルサーチ、ダイアン・フォン・ファステンバーグ、アレクサンダー・ワン、ジャン=ポール・ゴルティエ、ジョルジオ・アルマーニ、アルベール・エルバス、ブルース・ウェーバー、リンダ・エバンンジェリスタ
2014年5月9日より日本劇場公開



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「キム・ギヨン DVD BOX 」韓国映像資料院から発売された日本語字幕付きを遂に入手!・・・”因縁””怨恨”に満ちた復讐劇のキム・ギヨン監督版「楢山節考」~「高麗葬/고려장」~

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以前「めのおかしブログ」で取り上げたことのある韓国映画界の鬼才、キム・ギヨン監督・・・代表作である「下女」のリメイク版「ハウスメイド」を観た際(2011年)に、オリジナル版にも興味が湧いて、DVDで「下女」を観たボクは、すっかりこの監督の虜になってしまいました。しかし、キム・ギヨン監督の他の作品の殆どはDVD化されておらず、2008年7月に韓国映像資料院から発売されたDVDボックスは、すでに入手困難・・・オークションで中古品が出品されることも殆どなく、販売元の韓国映像資料院のサイトからも商品自体が削除されていて再版される可能性もないようだったのです。

再評価が高まっている(?)にも関わらず、日本ではDVDの発売されている作品はひとつもなく、たま~にどこかで開催されている上映会ぐらいでしかキム・ギヨン監督作品を観る機会がありません。おばさん向けのドラマだけでなく、韓流ブーム以前の韓国映画もDVD化しろよって気がします。韓国映像資料院から発売されていた日本語字幕付きの「下女」のDVDも最近は入手が難しくなっていますし、元々の販売数も少ないと思われるDVDボックスを手に入れることは到底無理・・・と諦めていました。ところが一ヶ月ほど前、韓国の韓流DVD通販サイトで「在庫あり」の表示を発見・・・お値段は定価の倍以上、届いてみたら中古品というボッタクリではありましたが、遂に「キム・ギヨンDVD BOX 」を入手することができたのであります。

「キム・ギヨンDVD BOX 」に収録されているのは「高麗葬」「蟲女」「肉体の約束」「異魚島」の4作品ですが、フィルムの傷が目立っていたり、映像が紛失していて音声のみという箇所があったり、カラーの変色が酷かったり、フランス語字幕が入っていたりと”質”は決して良くありません。おそらく現存するベストのコンディションのフィルムから、可能な限りのリストアされているのだとは思われますが・・・。映画本編以外に、各作品に韓国の映画人や評論家の音声コメンタリーや、特典映像として、2007年の東京国際映画祭で上映されたドキュメンタリー「キム・ギヨンについて知っている二、三の事柄」(日本語字幕つき)、1997年制作の「キム・ギヨン、キム・ギヨンを語る」(英語字幕つき)、1997年の第2回釜山国際映画祭に参加したキム・ギヨン監督を追ったドキュメンタリー(英語字幕つき)を収録しており、さらに付録のブックレットには、作品の解説、フィルモグラフィー、紛失部分のシナリオが掲載しているという、資料的には大変充実した内容にはなってるのです。
「高麗葬」は、1963年制作の白黒映画で、日本の東北地方にも存在した「姨捨て」をモチーフにした作品・・・ただ近年、韓国では”高麗葬”は日本人の捏造で、韓国には「姥捨」のような非人道的な風習があったことは否定されているそうです。しかし、この作品が制作された1963年頃には、儒教が広がる以前の高麗時代まで”高麗葬”があったと考えられていたことには間違いないようであります。歴史的事実を書き換えようとする”歴史認識”は、ある意味、韓国らしいとも言えるのかもしれません。

本編は、高麗時代(10世紀~14世紀)には70歳の老人を姥捨山に捨てて人口調整をしていた・・・と語る公開討論会の場面から始まります。観客と本編の内容をつなぐための”前説”のようなもので、キム・ギヨン監督作品には時々使われる手法です。討論会の場面が終わりタイトルになるのですが・・・画面いっぱいに表示された漢字が消えていくとクレジットになるという「サイコ」などのタイトルデザインを担当した”ソウル・バス”を思い起こさせるモダンなセンスで、ドロドロな内容との”ちぐはぐさ”もキム・ギヨンらしい気がしました。
「姨捨て」という同じモチーフにした「楢山節考」と「高麗葬」は、後妻と向かい入れるという導入部や、母親を山に捨てにいくクライマックスなど、似たような物語です。「高麗葬」が制作される5年前の1958年に、木下恵介監督、田中絹代主演で映画化されているのですが・・・「楢山節考」は、母を山に捨てなければならない息子の葛藤と、新しい命のために潔く死を受け入れる母の姿を、少ない台詞で情感たっぷりに瑠璃や長唄にのせて物語を語るという・・・芸術性が高い”上品”な作りとなっています。「耐える」という日本人好みの崇高な精神性が、舞台劇のような映像空間で寓話的な普遍性を生み出している傑作です。キム・ギヨン監督が、木下惠介監督の「楢山節考」を観たのかは分かりませんが・・・韓国版「楢山節考」ともいえる「高麗葬」は、ボク好みのキム・ギヨン監督らしい作品となっています。

ここからネタバレを含みます。

高麗時代の人里離れた山奥の村の、ジンソクという10人の息子(ギャグ漫画かよ!)をもつ男の家に、飢えで夫と息子のグリョン以外の5人の子供を失ったクムが嫁いできます。70歳になると食いぶちを減らすために山に捨てられるという習慣がある村は、雨が降らないとすぐに凶作になってしまうほど砂地の畑しかありません。村の占い師ムーダンは10人の兄弟全員は、いつか連れ子のグリョンに殺されると不吉な予言するのですが・・・クムが嫁入りしたことで安心したシンソクの母は、山に捨てられることを決意するのです。

クリョンにだけは”ひもじい”思いをさせないという条件で嫁いできたクムは、こっそり芋を分け与えたりするもだから、兄弟たちはますますグリョンを憎悪するようになっていきます。食いものの恨みほど恐ろしいもんはありません。兄弟たちの仕掛けた蛇に足を噛まれて、グリョンは”びっこ”になってしまうのですから。兄弟たちからのグリョンへのイジメに耐えきれず、クムはジンソクに離婚を申し出て畑を手にすることになります。高麗時代というのは、女性の社会的地位が比較的高く、恋愛も盛んで自由に結婚離婚していたというのですから、再婚離婚を繰り返すこと珍しいことではなかったようです。
それから20年・・・グリョンと母親クムは、離婚で手に入れた畑を耕して細々と暮らしています。カンナニという美しい娘にグリョンは恋しているのですが・・・”びっこ”とは結婚できないと言って、別の男性の元に嫁いでしまいます。グリョンは健常者との結婚を諦め、聾唖の娘を娶ることになるのですが・・・(この辺りからしばらく映像が紛失していて音声のみ)嫁はグリョン暮らすことを拒否してハンガーストライキまでするのです。”聾唖”と虐げられる嫁が、グリョンを”びっこ”と虐げる・・・差別されている者だからこそ他者をより差別するという差別意識の本質を鋭く表現しています。
グリョン親子に畑を取られたことを、ずっと恨みに思っている10兄弟たちは、グリョンの嫁を強姦してしまいます。兄弟たちは拉致した嫁の身柄と引き換えに、土地の証書を取り戻そうと企んでいるのです。嫁は必死に身振り手振りで、実際は兄弟たちに犯されたことをグリョンに伝えます。本来なら実家に戻されても当然の妻を手元に引き止めておくことをグリョンは選ぶのです。”聾唖”の女が”びっこ”の男に離婚されたら人生の終わりで哀れだという優しさであると同時に・・・”びっこ”と自分のことを嫁が虐げさせないためでもあるところが、グリョンの卑しい計算かもしれません。

兄弟たちへの報復もしない夫・・・行き場所のない”恨み”を兄弟たちへ感じている嫁は、兄弟のひとりを人目のない場所に誘い出し、刺し殺してしまうのです。怒り狂った兄弟たちは嫁を引き渡さなければ、グリョンの家に火をつけると脅します。ここで嫁をかばうかと思ったら・・・グリョンは嫁に小刀を手渡して自害するするように迫るのです。どうしても自分を刺せない嫁に、グリョンは嫁を刺し殺す羽目になってしまいます。”聾唖”に生まれたことが不運だったんだと嫁を哀れむグリョンは、兄弟たちに死体を差し出して問題を収めるのです。男たちによって運命を翻弄され、最後には夫によって殺されてしまう嫁に同情できるかというと・・・決して、そういうわけではありません。こんな結末を招いたのは、彼女の自業自得でもあるところが、なんとも冷酷です。
それから、さらに15年・・・グリョンは相変わらず母と二人暮らしをしているのですが、この村周辺は3年間も雨が降らず大飢饉という悲惨な状況になっています。水の湧き出る井戸を独占している兄弟たちは、村の住民から芋と引き換えに、水を分け与えるという”非情”なことをしています。村の住民の中には芋の貯蔵が底がつき、水の飲めずに死んでいく者も出てきているのです。グリョンの井戸から僅かでも水が湧き出るようになると、村の水源を独占したい兄弟たちは、死体を井戸に落として水を腐らせてしまいます。しかし、グリョンは兄弟たちにイジメられているばかりの”弱者”ではありません。他の者よりも芋の蓄えがあることをいいことに、食べるものが尽きた村人の弱みににつけ込んで、僅かな芋と引き換えに土地を手に入れようとしているのですから・・・グリョンもなかなか”アクドイ”奴なのです。

そんなグリョンのところに、カンナニが病気の夫、姑と姑、子供9人を連れて、芋を分けてくれと懇願しにやって来ます。過去に惚れていたとは言っても、自分のことを”びっこ”だからと振った女・・・いまさら助けてくれとは”ゲンキン”な話です。グリョンが「図々しい」と断ると「びっこが普通の女に手を出すのは図々しくないのか?」と言い返すのです。カンナニの子供たちは、グリョンの家に忍び込んで種芋まで盗もうとしたり、祖母や祖父の分の芋まで奪い取ろとするのですから、ひもじいとは言え”あさましさ”にもほどがあります。カンナニの夫は、自分の命は長くはなさそうと悟っているようで、子供たちを食わせてくれることと引き換えに、グリョンと再婚するようにカンナニには奨めているのです。
同じひもじい思いをしている子供をもつ母としてカンナニに同情的なクムは、娘の1人を養女に欲しいと頼むのですが、兄弟姉妹の中で”アバタ顔”とイジメられているヨニがやってきます。しかし、ヨニはグリョンの家から芋を盗んで、家族に運んでいたことがバレて、早々にカンナニの元に返されてしまうのです。クムはグリョンが家庭を持ち、子供さえができれば、自分は山に行こうと考えています。そこで、クムはカンナニに、ヨリを戻すように奨めるのです。カンナニに誘惑されたグリョンは、母親のクムを姨捨山に捨てさせようとしている策略だと怒ってしまいます。母思いのグリョンは、母親を山へ捨てには行きたくないのです。

村の占い師ムーダンは、子供を生け贄にして”セテ様”を呼んでお願いしない限り、この、村には雨は降らないと語り始めます。そこで、グリョンの家から追い出されたヨニが、芋1袋と引き換えに自ら生け贄になると名乗りをあげます。芋がなくなったら家族は自分のこと忘れてしまうのではないか・・・と心配しながら。出戻りのヨナは、これ以上ひもじい思いをして、アバタ顔だと兄弟姉妹にイジメられるより、セテ様の生け贄として”死”を選ぶのです。
ヨニは生け贄となりセテ様が占い師ムーダンに乗り移って・・・孝行息子のグリョンが母親クムを背負って山に捨てに行けば、雨が降るだろうと告げます。しかし、それでも母を山に捨てることに躊躇しているグリョン・・・その夜、カンナニの誘惑に負けてグリョンは関係を結んでしまうのです。翌朝、カンナニの子供たちに芋を食わせているグリョン・・・その影で、カンナニの夫は村を密かにひとり去ろうとしています。昨晩のカンナ二の捨て身の誘惑は、夫の指示だったのかもしれません。村はずれの岩場までカンナニの夫がやって来たとき・・・兄弟たちが突然現れ、あっさり夫を殺してしまいます。

兄弟たちは「他人の妻との姦通罪」と「夫殺しの殺人罪」をグリョンになすりつけようという魂胆だったのです。占い師ムーダン、グリョンとカンナニの二人を、首吊りの刑に処すべきだとに訴えます。そして、かつてクムが離婚の時に手に入れた父親の土地を取り戻し、グリョンが溜め込んでいる芋を全部奪おうというのです。そこで、母親のクムが、自分が山に行って雨が降るように祈るので、グリョンを助けて欲しいと懇願します。ムーダンは息子の命がかかっているならば、母親のクムは命がけで山神様に祈るはずだと考え・・・雨が降ったならば、グリョンの罪は許されると告げるのです。
カンナニの息子ゴナが同伴し、母親を背負って山を登るグリョン・・・白骨死体に埋め尽くされた山頂では、母親クムと息子グリョンの”お涙頂戴”の別れのシーンです。人間の憎悪が渦巻く本作の中でも、母親は子供のためにひもじい思いをして、子供が成長して孫が出来れば口減らしのために姨捨山へ自ら進んで行こうとするのですから、母親が子供を思う気持ちだけが純粋な愛情なのかもしれません。ただ、グリョンが山頂を立ち去った後、クムが大鷲に襲われ、内蔵を引きちぎられ、白骨化するところまで見せるのだから・・・”お涙頂戴”の余韻さえも、掻き消されてしまいます。
クムの命がけの祈りのおかげなのか、村は豪雨になります。そしてグリョンは、ムーダンの予言どおり雷雨の中で兄弟たちを皆殺しにしていくのです。一度は家族の一員であったと命乞いする兄弟たちを、慈悲なくオノで惨殺していく・・・長年の”恨み”を晴らしていくカオス炸裂の壮絶スプラッターシーンであります。カンナニは首吊りに処されていて、すべては占い師ムーダンに信じ込まされてきた迷信が、”恨み”の根源だと悟ったグリョンは、村のシンボルである神木を切り倒し、占い師ムーダンも殺してしまいます。そして、残されたカンナンの子供たちと共に畑を耕して生きていく・・・とグリョンが決意するところで本作は終わります。
「高麗葬」は「楢山節考」と似た物語ながら、メロドラチックに”母子愛”を描くのではなく・・・”因縁”や”怨恨”に満ちたシェークスピアの”復讐劇”のようです。ただ、どこかの王国の貴族たちが繰り広げる”悲劇”ではなく、最底辺の人間の醜い部分をえぐり出すエピソードや台詞を濃厚に積み重ねていくという、さすが”キム・ギヨン監督”らしい・・・なんとも”下衆い”一作なのであります。

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キム・ギヨン監督(金綺泳/김기영)のフィルモグラフィー
1955「屍の箱」(주검의상자)
1955「陽山道」(양산도)
1956「鳳仙花」(봉선화)
1957「女性前線」(여성전선)
1957「黄昏列車」(황혼열차)
1958「初雪」(초설)
1959「十代の抵抗」(10대의반항)
1960「悲しき牧歌」(슬픈목가)
1960「下女」(하녀)
1961「玄界灘は知っている」(현해탄은알고있다)
1963「高麗葬」(고려장)
1964「アスファルト」(아스팔트)
1966「兵士は死後も語る」(병사는죽어서말한다)
1968「女(オムニバスの一篇)」(여)
1969「美女、ミス洪」(미녀홍낭자)
1969「レンの哀歌」(렌의애가)
1971「火女」(화녀)
1972「蟲女」(충녀)
1974「破戒」(파계)
1975「肉体の約束」(육체의약속)
1976「血肉愛」(혈육애)
1977「異魚島」(이어도)
1978「土」(흙)
1978「殺人蝶を追う女」(살인나비를쫓는여자)
1979「修女」(수녀)
1979「ヌミ」(느미)
1981「潘金蓮」(반금련)
1982「火女 82」(화녀'82
1982「自由の乙女」(자유처녀)
1984「馬鹿狩り」(바보사냥)
1984「肉体動物」(육식동물)
1995「死んでもいい経験」(죽어도좋은경험)

「高麗葬」
原題/고려장
1963年/韓国
監督&脚本:キム・ギヨン
出演   :キム・ジンギュ、チュ・ジュンニョ、キム・ポエ、ジョン・オク
2007年第20回東京国際映画祭、2008年第21回東京国際映画祭にて上映

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ラース・フォン・トリアー監督の”鬱三部作”最終作は支離滅裂で下ネタ満載の”コメディ”なの!・・・最後のどんでん返しに思わず「この4時間って何だったの?」と頭を抱えてしまう~「ニンフォマニアック(原題)/Nymphomaniac Vol. 1 & 2」~

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ラース・フォン・トリアー監督は「三部作」というのが”お好き”なようで・・・劇場用としてつくられた作品の殆どは”三部作”となっています。

デビュー作「エレメント・オブ.クライム」「エピデミック」「ヨーロッパ」は”ヨーロッパ三部作”だし、テレビシリーズの「キングダム」も元々は”三部作”の予定(主要キャストのエルンスト・フーゴ・イエアゴーが亡くなったために”ニ部”で未完成)だったし、「奇跡の海」「イディオッツ」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は、厳しい状況下で純粋な心を保ち続ける女性を主人公にした”黄金の心三部作”で、「ドッグヴィル」「マンダレイ」は”機会の土地アメリカ三部作”の二作で三作目の「ワシントン」は無期限で保留になっています。

鬱病治療の休業(2007~9年)後、「アンチクライスト」から始まった”鬱三部作”・・・「メランコリア」に続き、三作目として完成したのが「二ンフォマニアック/Nymphomaniac Vol. 1&2」です。1990年代後半から自身の会社”ツェントローバ”で、女性向けのハードコアポルノ映画の制作していたぐらいですから、ラース・フォン・トリアー監督にとって過激な性表現(演技でない性行為)は”お手もの”・・・本作は”ハードコアポルノ”として制作されました。ただ、本番シーンの下半身はボディダブルで、俳優の上半身とCGで合成されているとのこと。

ソフトコア版、ハードコア版、5時間半の上映時間など、いくつかのバージョンの存在が噂されていますが、ボクが観たのは約4時間の公開版(ソフトコア版?)・・・結合部分のアップはありませんが、性器のアップが含まれているので、日本で公開される時にはモザイクが入りそうです。

「二ンフォマニアック/Nymphomaniac Vol. 1&2」は、路地に倒れていた自称ニンンフォマニア(色情狂)のジョー(シャルロット・ガンズブール)が、偶然通りかかって彼女を助けたセリグマン(ステラン・スカルスガルド)に性遍歴を語るという作品・・・「ジョーとセリグマンのディスカッション」と「ジョーの回想シーン」によって構成されています。セリグマンは読書好きの孤独な初老男性・・・自己満足のために”セクシャリティー”を利用してきた「悪い人間」であると、自己嫌悪をしているジョーの話を、音楽や数学の定理、芸術作品の引用、キリスト教宗派の歴史、釣りや山登りの例えなどを交えて、分析をしながら彼女を肯定的に受け止めていくのです。


2歳で自分の性器を意識したというジョー・・・幼い時には”カエルごっこ”と称して腰を濡れたバスルームの床に押し付ける遊びをしたり、学校の体育では昇りロープ(昇り棒のような)で股間を刺激していました。自分の魂を象徴するような木を見つけることを教えてくれた父親(クリスチャン・スレーター)、冷たくしか接してくれない母親(コニー・ニールセン)・・・子供時代の親子関係や、無意識の性的体験を過剰に意識してしまうことは、その後の人生の性的嗜好や性癖に影響を与えていくのかもしれません。


ティーンエイジャーになったジョー(ステイシー・マーティン)は、憧れのジェローム(シャイア・ラブーフ)に、処女を奪って(3回ヴァギナに挿入され5回アナルに入れられて)もらいます。親友”B”(ソフィア・ケネディ・クラーク)とはチョコレート1袋を賭けて、長距離列車の中で「どちらが多くの男とエッチをするか」を競争したりします。そんな男狩りの様子を、セリグマンは河釣りに例えるのですが・・・奥さんと子作りに励もうとしている男性と強引にオーラルセックスをしたジョーに対しては「精子は体内で古くなるので子作り前に出したのは良かったのだ」と解釈するのですから、セリグマンは、ちょっと変わっているのです。


その後、若いジョーはニンンフォマニアっぷりを発揮し始めます。情欲と嫉妬でしかない”愛”に反撃するヤリマン女のグループを作って、数々の男性とやりまくるようになるのですが・・・彼女の決まり文句というのが「オーガズム感じたの初めて!」というのだから、喜んでいる男って「バカね~」って話です。「愛情はセックスの最高のスパイス」と言いだして、ひとりの男と関係を持ち始める仲間を見下して、人間的な関係を結ばずにセックス”だけ”したいジョー・・・実は、こういう女って男にとっては”都合のいい女”でしかありません。それが分かってないいないジョーは”痛い女”です。

初恋の相手ジュロームに仕事場で再会すると、最初は気のないそぶりをしてしまうのですが・・・次第にジュロームを愛していることにジョーは気付きます。女性にとって、初体験の相手は特別な存在ということなのでしょうか?やがて、ジュロームをストーカーのように追いかけてしまうジョーは、さらに”痛い女”になっていきます。しかし、ジョーが自分の気持ちを告白しようとした時・・・ジュロームは職場の秘書の女性と結婚して、ジョーの前から姿を消してしまうのです。”ヤリマン”なのに恋してしまうと意外に純粋(?)いうのは、一番傷つくパターンかもしれません。


ジュロームを失ったことで、ますます肉体関係”だけ”を持つ男の数が増えて、スケジュールの収拾がとれなくなってきます。サイコロを振って「会う男」と「切り捨てる男」を決めたりして、心を持った人間として男を見ていないから、愛に裏切られることもありません。

愛を確かめる行為がウザったくて仕方ないような女だから・・・既婚者の”H”(ヒューゴ・スピアー)に「ボクのこと愛してる?」と訊ねられた時「家族を捨てないあなたとは、もう会わない」という常套句であっさりと別れらたりするのです。ところが”H”は、荷物を持ってジョーの元に戻って来てしまいます。それも”ミセスH”(ユマ・サーマン)と彼らの息子3人が同伴で!愛してもない男の妻に乗り込まれてもジョーには面倒なだけですが、家庭崩壊させられた妻にとっては絶好の”修羅場”。ジョーを厭味で追い詰め、ヒステリックに叫ぶ”ミセスH”の痛々しさは、滑稽でしかなく・・・夫婦愛の不信に満ちた象徴的なシーンです。


病気で入院中、精神的にも不安定な父親に付き添っていたジョーは、院内のスタッフの男性を手当り次第に誘って、やりまくります。極度のストレスを超える感情はオーガズムでしかないのかもしれません。父の死体を前に、何故か股間が濡れてしまった自分を恥じり、ますます自己嫌悪に陥っていったジョーは・・・さらに多くの男性とやりまくるようになるのです。

ひと晩に7~8人というのだから、尋常ではありません。ただ、主要な3人の男性によって、ジョーは音楽がハーモニーを奏でるように、精神のバランスを取っていくことになるのです。デブの”F”(ニコラス・ブロ)はジョーを快楽を与えることだけに興味のある男、ワイルドな”G”(ククリスチャン・ゲイド・ベジェラム)は動物的なセックスをする男、そして偶然(!)三度目の再会をするジュロームは愛する男・・・「愛情はセックスの最高のスパイス」とばかりに、ジョーはまたまたジュロームにのめり込んでいきます。

ここからネタバレを含みます。


ここで、ジョーに衝撃的なことが起こります。突然”不感症”になってしまうのです。ここまでが「Vol.1」で「Vol.2」は、いきなり不感症に苦しむジョー(ステイシー・マーティン)の姿からスタートします。思い起こせば、学校の遠足にでかけた丘に1人で寝そべっていた12歳の時、浮遊感を感じてオーガズムを初めて体験したジョー・・・その時、傍に佇んでいたのは神々しい姿をした二人の女性でした。1人はローマ皇帝クラウディウスの妻メッサリナ、もう1人は黙示録にでてくる大淫婦バビロンで、歴史上最も有名な”二ンフォマニア”だと、セリグマンは指摘します。


ここでジョーはあることに気付きます。性遍歴の話に興奮することもなく、本から得たアカデミックな知識で分析をするセリグマンは性体験がないということに・・・セリグマン曰く、自分は”アセクシャル”(無性愛者)であり、色情狂(淫乱)を偏見なく分析/判断できるのは、自分のような純潔(童貞/処女)でイノセントな(キリスト教的に無実)人間だと言うのです。本来、自らが経験しなければ、他人の痛みを理解することもできない・・・と、ボクは思ってしまうのですが、罪深い者が裁きを行うことはできないという倫理観が理解できないわけではありません。

今までオーガズムによって「生きている」感覚を感じてきたジョーにとって、”不感症”というのは非常にストレスでしかありません。しかし奇しくも・・・この時に、ジョーはジュロームの子を妊娠するのです。性的な快楽を失ったかわりに子を授かるとは・・・なんとも皮肉であります。ただ、出産により不感症が治るのではないかというジョーの期待どおり、息子を出産後ジョーは再び性的に感じるようになるのです。それは、ニンンフォマニア本来の貪欲な性欲も戻ってくるということであり・・・ジョーの強い性欲についていけなくなったジュロームは嫉妬心を持ちつつも、ジョーに他の男性ともセックスをするように奨めるのです。

ここまでの回想シーンでは、ステイシー・マーティンがジョーを演じているのですが・・・この後から、シャルロット・ガンズブールがジョーを演じるようになります。映画の中でも時間的には、それほど経っていないのに、いきなり年取るので(!)面食らってしまいました。

ジュロームと息子を育てる日常を送りながら、数人の男性と肉体関係をもつ生活をしているジョー(シャルロット・ガンズブール)でしたが・・・性的な満足感を得られない日々を過ごすようになっています。ある日、ジョーは言葉が通じない男性とセックスすると興奮するのではないか・・・と思い立ち、通訳を雇い(!)自宅前にたむろするアフリカ系の男性を誘うのです。指定された安ホテルに現れたのは、誘った黒人男性と彼の弟・・・裸のジョーを前にして、彼らは言い争いを始めるのですが、どうやら、どっちが前に挿入して、どちらが後ろに挿入するかで喧嘩をしているようなのです・・・それも勃起したまま!そそり立っているふたつのペニスの間で、なすすべのなく佇むジョーの姿は、なんとも”おバカ”としか言いようがありません。


黒人男性との経験から、まだ自分が経験していない世界があると悟ったジョーは、さらなるセクシャリティーの可能性追求のため、暴力的な”サド”男性マスター”K”(ジェイミー・ベル)の”調教を受けるたけに「SMサロン」を訪れます。そのサロンには、マダムと呼ばれるような上品な女性たちが予約制で顧客として訪れているようなのです。

最初は”K”に断られるジョーですが、それも、ある意味プレイの一環・・・ジョーは「ファイド」という名前を与えられて、”K”の調教を受ける女性のひとりとなります。”K”のルールは「呼ばれるまで待合室にいる」「命令どおりにして何も要求しない」「挿入はしない」ということ・・・平手打ちや鞭打ちなど暴力的な調教の前には、非常に優しく接し、今から何をするかを丁寧に説明するところが、なんとも不気味です。

西洋のSMは、恥ずかしいとかの精神的な屈辱のプレイよりも、主従関係と肉体的な苦痛のプレイが主流だったりするのは・・・やはりキリスト教的な「罪」「裁き」「罰」という概念が、SMに欠かせないということなのでしょうか?


”K”から調教を受けることを何よりも優先するようになってしまったジョーは、雪の降るクリスマスの夜、ベビーシッター不在のまま、息子をひとり家に残してサロンにやってきてしまいます。まるで「アンチクライスト」の冒頭シーン(セックスに没頭している間に息子が窓から落下する)と同じで、バックグラウンドに流れる音楽も同じ・・・ただ、本作ではジューロームが帰宅し、息子は無事ではあるののですが。

一度は自宅に戻るのですが・・・ジュロームに母親失格の烙印を押されて自暴自棄となったジョーは「もし今夜家を出たら、二度と自分にも息子にも会えない」と言われたにも関わらず、再び”K”のサロンへ向かいます。ルールを破り挿入を迫るジョーに対して”K”は、クリスマスプレゼントの鞭(ロープに結び目をいくつも作ったもの)で、肌が裂けるほどの”ローマ風の40回の鞭打ち調教”を受けるハメになります。しかし、その苦痛の中でジョーは、初めてのオーガズム(浮遊感を感じた少女の時のように)に匹敵するほどの快感を感じるのです。

セックスやオナニーのやり過ぎで陰部から出血したりして、仕事にも影響が出るようになってきたため、ジョーはセックス中毒患者のグループセラピーに参加することになります。まずは日常生活から性的なものを全て排除するように指導され、ジョーは殆ど日用雑貨を捨て、尖ったもの(家具の角とかまで)を覆い、鏡や窓を白く塗りつぶし、ベットに横たわって、性欲を我慢する・・・ということを始めます。

何か別なことに集中した方が気が紛れると思うのですが・・・ジョーは”ド真面目”に3週間と5日間、こんな禁欲生活をするのです。いきなり中毒しているモノを断つという極端な処方が続くわけはありません。セッション中に、ジョーは唐突にセラピー仲間の女性たちを侮辱する暴言を吐き始め・・・「ニンフォマニアである自分を愛している!」と堂々と宣言して、セラピーを辞めてします。セックス中毒患者は、何かの変わりをセックスで埋めているのだけれど、自分は自己愛の延長上にオーガズムを求めているのだと、自分を肯定的に捉えようとした・・・ということなのです。ただ、その後、ジョーはさらに深い自己嫌悪に陥っていくわけですから・・・この自己肯定は、まったく役立たずということになるのかもしれません。


ニンフォマニアとして生きることを受け入れ(?)、社会的に居場所をなくしたジョーは、裏社会に通じた”L”(ウィリアム・デフォー)の手伝いとして、性的な個人情報を入手する自営業をスタートさせるのです。「借金の回収業」と”L”が呼ぶビジネスは、ハッキリ言えば「ゆすり」・・・ジョーのニンフォマニアとしての豊富な経験を生かして、男性たちの性的嗜好(極度のマゾとか、同性愛とか、様々なフェティッシュとか、少年愛好者とか)という”弱み”(時には本人さえ気付いていない禁じられた性癖さえ)を見つけ出していきます。それは金銭的な恐喝というだけでなく、自分の性癖と直面させられるという精神的にも社会的にも自分を失うという・・・他人の人生を崩壊することでもあったのです。


ジョーの犯罪的なビジネスは大成功・・・しかし、年齢的には今後厳しくなっていくと考える”L”は、ジョーに後継者を見つけて、育て射るように奨めます。父親は刑務所、母親は麻薬中毒で死んでしまった”P”(ミア・ゴース)という少女に近づき・・・彼女の心の支えとなり、犯罪行為さえ躊躇しない忠誠心を育み、後継者にするべきだというのです。

作戦どおりジョーは”P”と親しくなり、後見人として一緒に暮らすようになります。しかし、二人は母と娘のような関係というわけではありません。長年のセックスのやり過ぎで精神的にも肉体的にも体調を崩し始めたジョーに、”P”はレズビアン的な行為で癒そうとしたりするのですから。ジョーは自分のビジネスの後継者にするために、”P”に意図的に近づいたことを告白します。そもそも親の愛情に恵まれていない”P”は、ジョーの作戦を悪意を感じるどころか、逆にジョーのビジネスに積極的に関わっていくようになるのです。

ある時、ジョーが訪れたのは、あのジュローム(マイケル・パス)の家でした。この回想シーンから、ジュロームを演じるのは、シャイア・ラブーフからマイケル・パスに変わります。またまた偶然に遭遇するジョーとジュローム・・・さすがに、自分がジュロームを相手にはできないと”P”をジュロームの屋敷に送り込み、見事に仕事をやり遂げます。

恐喝した金額は、6回の分割払いとなり、そのたびに”P”が金を受け取りにジュロームの家を訪ねるのですが・・・それを待つ間、ジョーはやきもきして仕方ありません。初恋、初体験、息子の父親・・・ジョーが唯一愛情を感じた男性であるジュロームと、初めて信頼関係を築いていたレズビアンの恋人でもある”P”に対して、どちらかを失うのではないかという”不安”と嫉妬”に苛まれ始めるのです。最後の支払いの夜、”P”は夜中過ぎても帰宅しません。ジュロームの家に行ってみると、恋人のようにいちゃついているジュロームと”P”・・・ジョーの不安は的中していました。

別な土地に引っ越して、二人の前から姿を消すつもりだったジョーですが、それでは、やはり納得はできない・・・ジョーは二人を殺そうと、銃を手に路地で待ち伏せするのです。しかし、いざジュロームに引き金を引いても、銃弾は出ません。自分の殺そうとしたジョーを、ジュロームは何度も何度も殴り倒します。そしてジョーの目の前で、ジョーの処女を奪ったときと同じように、3回ヴァギナに挿入して、5回アナルに入れて”P”を犯すのです。そして”P”は、ジョーの顔の上に跨がって放尿します・・・最上級の侮辱行為として!

数多くの男性とセックスをしてきたジョーですが、結局のところ、ジュロームが彼女にとって唯一の男性であったということなのかもしれません。交わった男性の数が極端に多い”ニンフォマニア”ではあることには間違いありませんが・・・ジョーとジュロームの「出会い」と「すれ違い」”だけ”を取り出せば「ジョーの純愛物語」なのです。

ジョーの性遍歴の話を聞き終わったセリグマンは、もしも男性がジョーと同じような生き方をしていたら、それほどの罪悪感に苛まれることもなかっただろうと指摘します。ナンパの競争をしたり、多くの女性と関係を持つということは、男性だったら自慢にもなる・・・子供の面倒を見なくても社会的には責められることもない・・・女性という立場の偏見に、ジョーは男性的に立ち向かっただけなのではないか・・・そして、ジュロームに殺意を抱いたとしても、偶然ではなく必然として殺人者になることを選ばなかったのだと、ジョーを諭すのです。セックスとは無縁の”友人”としてのセリグマンにより、罪深さから救われたジョーは安らかな気持ちで眠りにつきます。

これまで怒濤の展開を繰り返したきたわりには、意外なほどシンプルにフェミニストが納得しそうな”オチ”で終わるのか・・・と思った矢先、トンデモナイ結末が待っていました。

ここから結末のネタバレを含みます。


ジョーの寝ている部屋に忍び込むセリグマン・・・彼はジョーを強姦しようとするのです。(と言っても、挿入出来るほど勃起していないのが悲しいのですが)真の”友人”としてジョーが初めて心を開いた相手だったはずなのに・・・セリグマンが”アセクシャル”というのは嘘だったのでしょうか?断固としてセックスを拒否するジョーに、セリグマンは「でも、何千人の男とやったのに・・・」とひとこと。「ヤリマンは男を拒否しない」というのは、よくある男の勘違い・・・セリグマンというキャラクターは、あっさりと裏切られてしまったのです。4時間をかけた”ちゃぶ台返し”のような結末に、ボクは思わず頭を抱えてしまいました。画面は真っ暗になり、銃声が響きます・・・セリグマンの倒れる音の後、ジョーが部屋から出て行く音で、本作は終わります。

「二ンフォマニアック(原題)」は、ひとりの女性の性遍歴を描くという意欲的な一作です。しかし、女性でも楽しめるヨーロピアンエロスを期待すると、面食らうかもしれません。セックスシーンが即物的で情緒に欠けていることは言うまでもないと思いますが、行動の理屈や心の動きが支離滅裂・・・ひとりの女性の性遍歴の積み重ねというよりも、翻弄な性行為のさまざまなエピソードをつなげ合わせた感じです。あまりにも”ド真面目”に、セクシャリティーと向き合うジョーの執着に、正直、疲労感さえ覚えてしまいます。また、セリグマンとジョーのディスカッションが、独特な知的解釈だったりして、”インテリ”ならではなの心の葛藤を見せられているようです。ある意味、ジョーも、セリグマンも、そして登場人物全員が、自己嫌悪や罪悪感の断片をキャラクターとして張り合わせたような、鬱状態のラース・フォン・トリアー監督自身の分裂した人格なのではないか・・・とも思えるのです。

”鬱三部作”は、精神の闇の検証を見せつけられる”自己セラピー”のようでもあります。ある意味”三部作”で終わって良かったと思うのと同時に、この後ラース・フォン・トリアー監督が、どういう方向へ向かうのか・・・恐ろしくもあるのです。


「二ンフォマニアック(原題)」
原題/Nymphomaniac Vol. 1 & 2
2013年/デンマーク、ベルギー、フランス、ドイツ
監督&脚本 : ラース・フォン・トリアー
出演    : シャルロット・ガンズブール、ステラン・スカルスガルド、ステイシー・マーティン、シャイア・ラブーフ、ユマ・サーマン、クリスチャン・スレーター、ウィリアム・デフォー、ウド・キア、ジェイミー・ベル、コニー・ニールセン、ソフィア・ケネディ・クラーク、ヒューゴ・スピアー、ニコラス・ブロ、クリスチャン・ゲイド・ベジェラム、ミア・ゴース、マイケル・パス
日本公開未定

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ゲイ映画監督だから描けた”愛”と”死”が紙一重の危険な心理・・・アラン・ギロディー(Alain Guiraudie)監督のハッテン場”あるある”のサスペンスミステリー~「湖の見知らぬ男/ストレンジャー・バイ・ザ・レイク(英題)/Stranger by the Lake/L'Inconnu du lac」~

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ゲイであることを公表している映画監督というのは大勢います。しかし、ゲイ監督といっても、必ずしも「同性愛」をテーマとした作品ばかりを作っているわけではありません。ゲイっぽいキッチュな作風に特徴があったり、自作自演で伝記的な作品ということもありますが・・・職業監督に徹していることもあります。ストレートの映画監督がゲイ映画を作ることもあるように、ゲイの映画監督の作品もジャンルを超えて多種多様なのです。

ペドロ・アルモドバル(神経衰弱ぎりぎりの女たち、オール・アバウト・マザー,私が生きる肌)、ガス・ヴァン・サント(マイ・プライベート・アイダホ、グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち、エレファント)、ジョン・キャメロン・ミッチェル(ヘドウィック・アンド・アグリーインチ、ショートバス、ラビットホール)、フランソワ・オゾン(クリミナル・ラヴァース、8人の女たち、スイミング・プール)、グザヴィエ・ドラン(マイ・マザー、胸騒ぎの恋人、わたしはロランス)、グレッグ・アラキ(リビング・エンド、ドゥーム・ジェネレーション、ミステリアス・スキン)、橋口亮輔(渚のシンドバット、ハッシュ!、ぐるりのこと)、ツァイ・ミンリャン(愛情萬歳、河、西瓜)、スタンリー・クワン(ルージュ、異邦人たち、藍宇~情熱の嵐~)、アピチャッポン・ウィーラセータクン(ブリスフリー・ユアーズ、世紀の光、ブンミおじさんの森)、ジョアン・ペトロ・ロドリゲス(ファンタズマ、オデット、男として死ぬ)、ローランド・エメリッヒ(インデペンデンス・デイ、デイ・アフター・トゥモロー、2012)、ブライアン・シンガー(Xメン、X-MEN2、X-MEN:フューチャー&パスト)、ビル・コンドン(ゴッド・アンド・モンスター、シカゴ、ドリームガールズ)、ジョエル・シュマッカー(セント・エルモス・ファイアー、今ひとたび、オペラ座の怪人)


アラン・ギロディー監督は、1990年代から活動しているフランスのゲイ映画監督・・・各国映画祭の常連ではありますが、作品が世界的に公開されることは殆どありませんでした。それは、彼の作品に”ホモ・エロティック”な要素が織り込まれているからではなく・・・どのジャンルにも属さない世界観というのがあるかもしれません。また、彼の作品でゲイ役として出てくるのが、所謂、ゲイ好みの若い”マッチョ系”や髭の”クマ系”とかだったり、一般人のゲイのステレオタイプである”オネェ系”ではなく、パッとしない普通の”おじさん”(おじいさん?)ばかりという独特のキャスティングというのもあります。

長編第1作の「ノー・レスト・フォー・ザ・ブレイヴ(英題)/No Rest for the Brave/as de repos pour les braves」は、眠ると死んでしまうと思い込んでいる少年が、二つの村(現実と夢)を行き来するというシュールな話で、夢の中では60歳ぐらいのおじいさんと恋愛関係というのが、なかなかヤバい設定。長編2作目の「タイム・ハズ・カム(英題)/Time Has Come/Voici venu le temps」は、架空の世界(西部劇のような雰囲気)を舞台にしたSF(?)で、支配層のロマンスグレーの男性と田舎の村で妻と暮らす初老の男性との間で葛藤する”ゲイ”の傭兵の物語。2009年に東京国際映画祭で上映された長編3作目「キング・オブ・エスケープ/The King of Escape/Le roi de l'evasion 」は、16歳の少女と恋に落ちて逃避行するデブの中年ゲイのお話で、ゲイ仲間(ヤリ友?)が普通におじさん(おじさん)ばかりという作品。長編4作目となる「湖の見知らぬ男」は、湖畔の”ハッテン場”を舞台にした殺人ミステリ-で、この作品にもデブのおじさん(今回はノンケ?役)が登場しています。


「湖の見知らぬ男/ストレンジャー・バイ・ザ・レイク(英題)/Stranger by the Lake/L'Inconnu du lac」は、第66回(2013年)カンヌ映画祭の「ある視点」部門で最優秀監督賞(演出賞)を受賞した作品ということもあり、世界各国で公開され、過去の作品も盛んに上映会が行なわれているようです。「湖の見知らぬ男」は、日本国内でも英語字幕での上映会が行われているし、邦題(湖の見知らぬ男)もつけられてはいるようなので、もしかすると(限定的かもしれませんが)劇場公開もあるかもしれません。本作の登場人物はアラン・ギロディー監督作品には珍しく、若いイケメン(?)・・・企画段階では登場人物たちの年齢設定はもっと上だったらしいので、このキャスティングが結果的に幅広い観客に受け入れられる要因になったのかもしれません。

南フランスの湖畔にあるゲイの”ハッテン場”での10日間の出来事を描く「湖の見知らぬ男」・・・自然光のみでの撮影、「湖のさざなみ」「風で揺れる木々の音」「息づかい」だけのサウンドトラックでありながら、緊張感の途切れないエンターテイメント性に満ちたミステリーです。ただ、性描写は(近年ヨーロッパ映画界のトレンド?)ハードコアポルノ並みにオーラルセックスから射精シーンまで・・・ホモフォビアの観客にはハードルの高い作品ではあります。


(1日目)ゲイの青年(30歳前後?)のフランク(ピエール・ドィラドンシャン)は、シーズン初めて湖畔にある”ハッテン場”に通い始めます。こういう野外の”ハッテン場”というのは、到達するのに不便な場所にありがち・・・ここも、対岸には家族連れなどが行く一般人エリアもあるようなのですが、”ハッテン場”のビーチエリアには雑木林を抜けないと辿り着けません。ヌーディストビーチとして許可されてないようですが、殆どの男性は素っ裸・・・ただ、歩き回る時にはスニーカー”だけ”を履くという”まぬけ”な恰好ではありますが、野外の”ハッテン場”「あるある」です。ビーチではタオルを敷いて日焼けをして、雑木林でクルージングして、草かげに隠れてセックスというのが、この”ハッテン場”の暗黙の了解というところでしょうか・・・。

毎シーズン常連のフランクは顔なじみも多い様子・・・初めて見かけたデブのおじさん(50代?)のヘンリ(パトリック・ダスマサオ)にも、クルージング目的ではなくフレンドリーに声をかけます。ヘンリは離婚したばかりという”自称ストレート”・・・一般のエリアでは誰かと話をしよとすると奇妙に見られてしまうが、”ハッテン場”だったら見知らぬ人とも会話もできると、あえて”ハッテン場”に来ていることを説明するのですが、これはちょっと”いいわけ”っぽく思えてしまいます。ただ、ヘンリから誰かを誘うことはありません。フランクとの会話は楽しんでいるようで・・・”ハッテン場”にいるゲイとは違う視点をもつ”部外者”として、その後、重要な役割を担うことになるのです。


フランクは、自分が好きなタイプの髭の男(30代半ば?)ミッシェル(クリストフ・パウ)を見つけて、彼の後を追って雑木林に入ります。雑木林の中で不自然に歩き回る男たち・・・”ハッテン場”では、よくある光景です。半ズボンを膝まで下げて、一人でシコシコしているエリック(マチュー・ヴェルヴィッシュ)のように、他人の行為を覗いて楽しむ輩というのもいます。フランクがミッシェルの姿を見つけた時には、すでに彼は草かげで誰かとヤッている最中・・・フランクは諦めて、その場を去るのです。


(2日目)翌日、フランクはミッシェルと再会・・・積極的に声をかけて隣に座ります。フランクが自分に気があることには気付いているミッシャル・・・しかし、そこに若い男(20代半ば?)が現れて一緒に雑木林に消えて行ってしまうのです。おそらく、この若い男は、この”ハッテン場”で出会った”ひと夏”のボーイフレンド?・・・自分が気に入った相手に、すでに誰かの”ツバ”が付いていることは”ハッテン場”ではよくあることではあります。ただ、奪い合うなんてことは野暮なことはしません。お互いに気がある者同士なら、隙をみて”ヤル”機会はあるものです。フランクはミッシェルを深い追いせず・・・雑木林で別な髭の男(40代後半?)に誘われると、気軽に応じて草かげでセックスを始めます。


”ハッテン場”での出会いでは、エイズなど性行為で感染する病気にならないためにも「セーフセックス」であることが、絶対的な基本・・・しかし、全員がそう考えているわけではありません。この髭の男は、コンドームなしでオーラクセックスはしないという”慎重派”ですが、フランクは「信用してるから大丈夫」というゲイ特有の根拠のない楽観的発想の持ち主・・・結局、オナニーで妥協。フランクのような考え方が珍しいかと言えば、そんなことは全然なく・・・フランスに限らず日本の”ハッテン場”でも、好きなタイプだったら「大丈夫」と、セーフセックスをしないゲイというのは結構いたりします。ただ、ゲイ特有の危険な心理が、後にフランクを窮地に追い込むことになる伏線になっているのです。

髭の男との行為の後、暗くなった雑木林をひとり歩くまわるフランク・・・もしかすると、ミッシェルと会えることを期待していたのかもしれません。しかし、フランクが目にしたのは、殺人現場。湖の中で男二人がもみ合っているうちに、一人の男が水の中に消え・・・湖からは、ミッシャエル一人だけが出てきます。殺されたのはミッシャエルと一緒に雑木林に入って行った若い男だったのでしょうか?しかし、フランクは目撃したことを誰にも告げることもせず、帰宅するのです。


(3日目)次の日、フランクは”ハッテン場”に行ってみると、ミッシェルの姿はありません。昨晩、殺されたであろう若い男の私物は、そのまま湖畔に置きっぱなしにされているのですが・・・誰も異変に気付いていない様子。考えてみると・・・ミッシェルの殺人は、かなり稚拙です。雑木林の中は人目につきにくいですが、逆に湖というのは周辺から丸見えで、犯行を目撃されやすい状況ではあります。また、車を動かすこともできないので、殺された若い男の車はずっと駐車場に置きっぱなし・・・明らかに不自然な状態です。ただ、”ハッテン場”というのは奇妙な場所で、セックスした相手でも本名や素性を知らないこともありがち・・・顔なじみ同士でも深く干渉し合うこともありません。急に誰かの姿を見なくなったとしても、共通の知り合いがいなければ、詮索する”すべ”もないのです。

(4日目)さらに次の日・・・またもミッシェルは”ハッテン場”には姿を現しません。しかし、常連たちが帰宅した後・・・ミッシャルが湖から突然現れるのです。フランクはミッシェルの危険な香りに、あっという間に惹かれてしまいます。相手を信じればセーフセックスしなくても大丈夫という・・・自分の性欲を満足させるためには不都合なことにも目を背けてしまう心理は、フランクに殺人さえ見逃させてしまうのです。帰り際、駐車場でフランクの車種を知ったミッシェルは、殺人の夜に自分と殺された若い男以外に湖畔にいたのは、フランクだと確信をもってしまいます。

(5日目)その翌日から、”ハッテン場”で会うと、約束をしていたかのように雑木林に入ってセックスをするフランクとミッシェル・・・コンドームなしで何でもありです。フランクはすっかりミッシェルにメロメロになってしまうのですが、”ハッテン場”以外で一緒に過ごそうとはしない態度に、フランクは不満を感じ始めます。


(6日目)次の日、フランクが”ハッテン場”に到着してみると、ヘンリ以外誰の姿がありません。湖から男の死体が見つかったとのことで、そのことをニュースで知った常連たちは”ハッテン場”には来なかったようなのです。しかし「事件が起こったら、今シーズンは終わりだ」というヘンリの予想に反して、その翌日(7日目)には、再び何ごともなかったかのように、常連たちは”ハッテン場”に戻って、以前と変わらずビーチで寝そべり、雑木林でクルージングに励んでいます。”ハッテン場”という存在自体、非合法で反社会的なところがあるせいか・・・警察と関わることを嫌がります。それは、事故や犯罪に対して、鈍感にさせてしまうのかもしれません。


”ハッテン場”には、初老のダマドール捜査官(ジェローム・シャパット)がやってきて、事件の捜査を始めます。やはり、見つかった死体は「あの若い男」でした。しかし、フランクは目撃した殺人のことは勿論、殺された若い男のことも知らないと、シラを切るのです。二人だけの秘密をもつことで、特別な絆を感じたかったのかもしれません。

(8日目)次の日、ダマドール捜査官はミッシェルとフランクが何か知っているのではないかと、別々に尋問をしてきますが、まだ殺人なのか、溺死事故だったのは分かっていないようです。フランクは、ミッシェルにカマをかけた質問を投げかけてみますが、あっさりかわされてしまいます。陽が暮れかかってきたころ、湖で一緒に泳ごうと誘うミッシェル・・・初めは恐怖を感じて躊躇していたフランクでしたが、恐る恐るミッシェルに向かって泳ぎ出します。殺された若い男の二の前になってしまうのではないかという恐怖感は、高揚感も高めるようで・・・フランクはますますミッシェルとのセックスに溺れてしまうのです。一緒に夜を過ごしたいと自分の思いを伝えるフランク・・・しかし、ミッシェルが相手に求めるのはセックスのみで、人間的な関係には興味はありません。


(9日目)翌日、ヘンリはフランクにミッシェルは怪しい男だと忠告をします。魅力的なルックスや情熱的なセックスに惑わされて、自分が求めているものを見失っているのではないか?一時的なセックスをする関係ではなく、人生をシェアするパートナーが欲しいならば、セックスは重要ではないのでは?・・・と。多くのゲイにとって少々耳の痛い話です。ただ、一過性のセックスだけの相手だと悟ってしまうと、何故かセックスにも色褪せてしまうように感じることってあります。そこに本当の愛情があるか、ないかに関わらず・・・愛の”まやかし”は、セックスの最高の刺激与えてくれる”スパイス”でもあるのも事実だったりするのです。

その”スパイス”を失いかけてしまったフランクは、ミッシェルとのセックスにも没頭できません。逆に、殺された若い男の話を持ち出して、ミッシェルを怒らせてしまいます。一人取り残されたフランクのに近づいてきたのが、フランクのことが好きで常に追い回していたエリックです。この隙が絶好のチャンスとフランクにオーラスセックスをするエリックですが、彼がフランクに求めているのもセックスのみ・・・フランクが射精したら、あっさりと立ち去っていきます。愛の”まやかし”さえないセックスは、生理的な排出でしかないのです。


その夜、駐車場には捜査官がフランクを待ち構えています。殺された若い男がミッシェルの元ボーイフレンドであったことまで、すでに警察は突き止めているようで・・・改めて事件の夜のことを尋問するのですが、フランクは何も語りません。捜査官が去った後、暗闇からミッシェルが突如現れます。口を割らなかったフランクに愛情を感じたミッシェルは、今までになく優しくフランクを抱き寄せるのです。

(10日目)翌日・・・フランクとミッシェルは”ハッテン場”のビーチで手をつないで日焼けをするほどラブラブなカップルになっています。ミッシェルに取り込まれてしまったようなフランクを心配しているヘンリ・・・フランクが一人で湖で泳いでる隙にミッシェルに近づき、殺人の疑惑を投げかけます。そして、何故か・・・ヘンリはミッシェルを誘うように、雑木林へと消えるのです。

ここからネタバレを含みます。


ミッシェルとヘンリの姿を見失ったフランクは、慌ててビーチに戻ってきます。不吉な予感がして雑木林を探し回ると・・・草かげから出てくるミッシェルの姿が!そして、草かげには首をザックリと切り裂かれたヘンリの姿が残されているのです!息絶え絶えになりながら・・・「これは自分が求めていたこと」と言うヘンリの真意は不可解ですが、彼は自らを犠牲にして、ミッシェルが殺人鬼であることを証明しようとしたのでしょうか?

雑木林に来ていた捜査官も、あっさりフランクの目の前でミッシェルに刺されて殺されてしまいます。ミッシェルはフランクの名前を呼びながら探し始めるのですが、フランクは恐怖のあまり草かげに、息を殺して隠れているのです。しかし「今夜は一緒に過ごそう」などと、甘い言葉で誘うミッシェル・・・雑木林が闇に包まれてくるころ、フランクはミッシェルの呼びかけに答えてしまいます。いろんな警告に耳を傾けず、性欲の求めるままミッシェルに惹かれてしまったフランクの運命は、とっくに決まっていたのかもしれません・・・。徐々に雑木林に闇が迫ってくる画面は、やがて真っ黒にフェードアウトして・・・フランクの死を確信させて、映画は終わるのです。

「湖の見知らぬ男」は、アラン・ギロディー監督のよる王道の”ゲイ・フィルム”ですが・・・セーフセックスを啓蒙する映画でもないし、ゲイの政治的な問題を問う映画でもありません。ただ「愛」と「死」が紙一重のゲイ特有の危険な心理や、”ハッテン場”での些細な心の動きの的確な表現は、監督自身が”ゲイ”だからこそ描くことができたと思うのです。

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アラン・ギロディー(Alain Guiraudie)監督のフィルモグラフィー


1990 Heros Never Die/Les heros sont immortels(短編)
1994 Straight on Till Morning/Tout droit jusqu'au matin(短編)
1997 The Inevitable Strength of Things/La force des choses(短編)
2001 That Old Dream That Moves/Ce vieux reve qui boouge(中編)
2001 Sunshine for the Poor/Du soleil pour les gueux(中編)
2003 No Rest for the Brave/Pas de repos pour les braves
2005 Time Has Come/Voici venu le temps
2009 「キング・オブ・エスケープ」The King of Escape/Le roi de l'evasion 
2013 「湖の見知らぬ男」Stranger by the Lake/L'Inconnu du lac


「湖の見知らぬ男/Stranger by the Lake」
原題/L'Inconnu du lac
2013年/フランス
監督 : アラン・ギロディー
出演 : ピエール・ドィラドンシャン、クリストフ・パウ、パトリック・ダスマサオ、ジェローム・シャパット、マチュー・ヴェルヴィッシュ
2014年2月16日第17回カイエ・デュ・シネマ週間にて上映
日本劇場公開未定


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キム・ギドク監督の次なるテーマは”近親相姦”と”男性器切断”・・・台詞一切なしの実験的な意欲作品「なんだかんだで、全部○ンポが悪いのよっ!」~「メビウス/뫼비우스」〜

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キム・ギドク監督の作品は、一作ごとに観客のトラウマ許容範囲を広げてくるようなところがあります。本作「メビウス」は、韓国で三度の審議の末、監督が屈辱的な12カット(約50秒)を切った編集までして譲与したにも関わらず、制限上映可判定(韓国には制限上映可の映画館がないため事実上上映不可能)という判断を下されました。最終的に、上映賛否投票が行なわれて、公開された経緯があります。また、オリジナル版(カットなし)を上映した第70回ベルリン映画祭では、本作を見た観客に失神者が出たとの報道もあり、キム・ギドク監督作品の中でも、かなりの問題作と言えるかもしれません。

「メビウス」は、本編中台詞が一切なしという・・・かなり実験的な意欲作でもあります。とは言っても、物音や言葉にならない声はあるわけで、サイレント映画というわけではありません。人物が言葉を発しないことが不自然に感じられる場面も多々あり、台詞を発することを禁じられた状態で演技していると感じられる場面も正直あり・・・「純粋に映像で伝えたい」という監督の意向が成功しているかは疑問です。ただ、物語の展開や登場人物の心の動きが理解できないほど異常なので、台詞を加えてしまうと嘘っぽくなっってしまったかもしれません。映像的に起こっていることを受け入れるしかない・・・という立場に観客を追い込むことで、成立している物語のような気がします。

母(イ・ウヌ)と父(チョ・ジェヒュン)は、父の浮気が原因で、蹴飛ばし合うような喧嘩をするほど不仲です。しかし、父は母には”おかまいなし”に、近所で雑貨屋をする愛人(イ・ウヌ/一人二役)とデートして、路駐した車の中でセックスしています。その様子を目撃してしまう息子(ソ・ヨンジュ)は、家庭の崩壊を冷ややかに受け止めているようです。父親がセックスしている場面に出くわすことはないとしても、浮気相手と一緒にいるのも見てしまうのは”ありがち”・・・ただ、夫婦の喧嘩としては、あまりにも汚い(?)喧嘩っぷりは、明らかに普通の家庭ではありません。いきなり修羅場のような導入部・・・台詞なしのパントマイム演技には不自然さは感じるものの、会話も成立しないほど致命的な状況の家族であることを表しているようには、思えます。


ある夜、精神のバランスを完全に崩した母は刃物を取り出して、寝ている父の男性器を切り取ろうとしますが・・・直前に父は目が覚めてしまい失敗してしまいます。そこで母は息子の寝室に忍び込み、代わりに息子の男性器を切り取って、切り取ったモノをパクッと口に入れてしまうのです。女性が男性器を切り取り、さらに食べてしまう・・・というのは、その男性を独占しようとするメタファーのような気がするのですが、この母と息子の関係を考えると、そうではないような気がします。怒りの矛先であった父の分身でもある息子を代わりに傷つけるという代償行為なのでしょうか?気が狂った母は、家を飛び出して夜の街を彷徨います。そして、仏像に祈りを捧げる謎の男性を目撃した後、母は姿をくらましてしまうのです。


治療後、息子は普段の生活に戻りますが、男子小便トイレでは満足に用も足せない状態・・・その様子を見た同級生たちにイジメられて、下半身を見られてしまうのです。なんらかの事故で男性器を損傷することもあると思うので、整形外科的に小便ができるようにすることはできるはずだし・・・ちゃんと機能しないなら小便器じゃなくて個室便所で用を足せば良いのにとは思ってします。


父の愛人の雑貨屋の前で、再び同級生たちにズボンを脱がされそうになった時、年上の不良グループによって助けられるのですが・・・息子は、その不良グループと”グル”になって、父の愛人を強姦してしまうのです。不良たちに乱暴されて無抵抗になっている愛人を息子も犯そうとします。母が狂って自分の男性器を切り落とす原因となった愛人を「犯してやりたい!」という復讐心を息子がもつことは理解できないわけでありませんが・・・母と愛人を演じるのが同じ女優というところが、近親相姦的な気色悪さを感じさせます。男性器を失った息子は、愛人を強姦しようとしても挿入することはできません。息子と不良グループは、警察にあっさり逮捕されてしまいます。

家に残された父は、インターネットで男性器を失った人々の体験などを調べるようになります。そして、男性器の移植が可能ではないかという希望を託して、自分の男性器を息子に移植するために、病院で男性器切除の手術を受けるのです。元はと言えば、母が息子の男性器を切り取ってしまったのは、父の浮気が原因・・・自らの命と引き換えに息子が再び男性として生きていけるように、犠牲になろうということなのでしょう。親心として分からないわけでありませんが・・・この家族の”やることなすこと”すべて極端過ぎです。

また、父は自傷行為の苦痛から射精にも似た快感を得るという体験談をネットで発見します。そして、自分の足を石で傷つけることで、エクスタシーを得られることを確認するのです。少年院に収容された息子に面会に来た父は、その方法を教え・・・息子は自傷行為による自慰に耽るようになっていくのです。肉体的、精神的な苦痛を体験することで、さらなる苦痛によるマゾ的快楽に目覚めるってことはあるようで・・・「ボブ・フラナガンの生と死」というドキュメンタリー映画になった”究極マゾ”のボブ・フラナガンのように、難病で苦しむ中、さらなる苦痛で快楽を感じるようになることもあるのですから・・・。

少年院を出た後、息子は再び父の愛人を訪ねます。近づいてきた息子の背中に、愛人は刃物を突き刺すのですが・・・苦痛によって快感を得るカラダになっている息子にとって、それは挿入による性行為に等しい快楽であったのです。背中に刺した刃物を背中でグリグリして、苦痛が強くなるほど興奮するようで...やがて、愛人も息子との性行為に夢中になっていきます。


息子と愛人は強姦の主犯だった少年に復讐するため、彼を雑貨屋に誘い込み、彼の男性器を切断してしまうのです。本作では三本(?)の男性器が切断されるわけですが・・・さすがに三本目となると滑稽にさえ感じられてしまいます。必死に切り取られた男性器を取り戻そうとする不良少年・・・しかし、息子はそれを道路に投げ捨て、あっけなくトラックのタイヤで踏みつぶされてしまうのですから。さらに、その後、この少年も自傷行為によるエクスタシーを知ることになり、刃物を背中に突き刺しての性行為を愛人と行なうようになります。

父はインターネットで男性器の接合手術に成功した例を見つけ出し、遂に息子へ男性器の移植手術を実行してもらいます。手術は無事に済んだものの・・・性的興奮で勃起することはなく、移植手術は失敗かと思われた時、母がいきなり家に戻ってくるのです。

ここからネタバレを含みます。


母の家出から、どれほどの日数が経っているか分かりませんが、同じ服を着てボロボロ・・・ずっと彷徨っていたということなのでしょうか?母の再登場は、本作の決着つけようのない物語に、終着点を用意することに他なりません。父と一緒に寝ている息子の横に、父を突き落としてまで母が横たわるのですが・・・今まで反応することのなかった息子に移植された男性器が、母の誘惑により凛々と勃起してしまうのです。ここで”エディプス・コンプレックス”を連想させられてしまいますが・・・別に息子と父が対立しているわけではありません。切り取ってしまったはずの息子の男性器があることに驚く母ですが、すぐさま父の股間を確認して、息子についている男性器は父のものであったことを知ることになるのです。

その後、母は夜な夜な息子とセックスをしようと、寝室に忍び込むようになるのです。韓国では母と息子が性行為をするという近親相姦が倫理的に”ありえない”として削除対象となったそうなのですが・・・ボクの見た韓国版DVD(約88分)では、息子は母と性行為をしている夢を見て夢精しているというニュアンスになっていました。ただ、母は息子本人と性行為というよりも、父の男性器と結ばれようとしているようでもあり・・・それはそれで、別な意味で気色悪いことには違いありません。近親相姦という行為を、今までの心理学的な発想では分析するすべもないほど屈折させたのは、さすがキム・ギドク監督です。


母と息子の近親相姦に耐えきれなく父は、拳銃で母を銃殺し、自分も自殺してしまいます。まぁ、この物語は、こうとしか終わりようがなく・・・母が再び登場した時に、こうなることは分かりきっていることではありました。さらに、息子は拳銃を手に取り、自分の股間に向かって放つのです。結局、この家族は男性器の象徴される”男の悪行”により、崩壊してしまったのかもしれません。息子が男性器を持ち続けることは許されるはずもないのです。


夜の街には仏像に祈りを捧げる男性の姿・・・それは、再び男性器を失った息子の姿であります。まるで”デジャブ”のように、母が息子の男性器を切り取った夜に現れた男性は、未来の息子だったのです。本作のタイトル「メビウス」は”メビウスの輪”のこと・・・家族内の”業”が裏も表もなしに延々と繰り返されるということを表すかのかもしれません。「鰐~ワニ~」「ワイルドアニマル」「魚と寝る女」「受取人不明」「悪い男」などのキム・ギドク監督の初期作品に出演して、キム・ギドク監督の”ペルソナ”とも言われるチョ・ジェヒュンが父を演じているのですが・・・最後のシーンで仏門の悟りをする息子(衣装が普段のキム・ギドク監督にそっくり)ということは、息子が監督自身を投影しているのではないでしょうか?

「近親相姦」「男性器切断」という挑発的なテーマは、寓話的世界でのキム・ギドク監督の観念的な出来事で、現実にある犯罪や心理を描こうというわけでないような気がします。「なんだかんだで、全部○ンポが悪い」かのように、切ったり、付けたり、また切ったり・・・・それに倫理観を揺さぶられることこそ、想像力に欠けることのように思えてしまうのです。


「メビウス」
原題/뫼비우스(英題/Moebius)
2013年/韓国
監督/脚本 : キム・ギドク
出演    : チョ・ジェヒュン、ソ・ヨンジュ、イ・ウヌ
2014年6月13日カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2014にて上映
2014年冬より日本劇場公開



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