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”テクニカラーの女王”と呼ばれたドミニカ生まれのハリウッド女優・・・第二次世界大戦下のエキゾチックな娯楽映画のお姫さま役といえば、マリア・モンテス(Maria Montez)なの!~「コブラ・ウーマン(原題)/Cobra Woman」~

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映画の都である”ハリウッド”は、創成期から多くの移民たちが裏方を支え、スクリーンでは”エキゾチック”を売りにしたスターたちが活躍していました。ハリウッド初のヴァンプ(セクシー)女優と言われるセダ・バラは、アメリカ生まれのユダヤ系アメリカ人であったにも関わらず、ピラミッドの麓で生まれたフランス人とエジプト人の間に生まれたというプロフィールが捏造されたそうで・・・セクシー女優にとっては、特に”エキゾチック”は大きな武器だったのです。サイレント映画時代には、続々と世界中から(主にヨーロッパ各国から)女優が輸入(?)されましたが・・・グレタ・ガルボ(スウェーデン)、マレーネ・デートリッヒ(ドイツ)などは、トーキー映画の時代になっても独特のアクセントで観客を魅了して活躍し続けました。

1940年代に活躍したマリア・モンテスは、中米のドミニカ生まれのラテン系セクシー女優・・・1996年にオープンしたドミニカ共和国パラオナのマリア・モンテス国際空港は、彼女の名前から名付けられるほど、ドミニカという国の誇りのような存在です。ラテン系に留まらず、アラブやエジプトのお姫さままで、”エキゾチック”役柄なら何でも”おまかせ”だったのです。一般庶民が世界を旅することはなかった時代ですから、美術セットや衣装デザインは今見ると結構、大雑把・・・国籍不明の”エキゾチック”ではあります。ただ、ハリウッドが制作し続けていたこれらの娯楽作品は、第二次世界大戦で物資が不足していた日本には到底作ることはできなかったほど”豪華絢爛”だったのです。

彼女は「アラビアン・ナイト」(1942年)で人気を博し、その後「ホワイト・サベージ」(1943年)、「アリババと40人の盗賊」(1944年)、「コブラ・ウーマン(原題)」(1944年)、「ジプシー・ワイルドキャット(原題)(1944年)、「スーダンの砦」(1945年)と・・・テクニカラーの娯楽作品に続けて主演しました。当時は殆どの映画が”白黒”だった時代・・・”テクニカラー”は「超大作」の証であり、マリア・モンテスは「テクニカラーの女王」と呼ばれたほどのスター女優だったです。しかし、敵国であった日本で彼女の主演映画が劇場公開されたのは、戦後の1950年代になってから・・・残念なことに、マリア・モンテスは1951年9月7日に39歳という若さで亡くなってしまったので、彼女の主演した終戦前の作品のいくつかは、日本で公開される機会を失ってしまったのでした。


ジョン・ホールは相手役として、テクニカラーの娯楽作品の全6作でマリア・モンテスと共演しています。物語の主人公は”アメリカ男性”の典型的なジョン・ホールのような男優でありながら・・・主人公が魅了される女性は”エキゾチック”さを売りにしていたマリア・モンテスというのは、戦時下の観客を現実逃避させるための巧妙な戦略のひとつだったのかもしれません。また、インド生まれのサブーが演じる忠誠心のある現地人役というのは、白人(侵略者)にとっての好都合なステレオタイプ・・・今の感覚では考えられない差別的な描かれ方です。そして怪しい現地人役には、サイレント映画時代に「千の顔を持つ男」呼ばれた”性格俳優”のロン・チェイニーの息子ロン・チェイニー・ジュニア・・・・台詞を話さない役柄に徹しています。


「コブラ・ウーマン(原題)/Cobra Woman」は日本劇場未公開ですが・・・1942年から1945年に製作されたマリア・モンテスとジョン・ホールのテクニカラー娯楽映画全6作品の中でも、マリア・モンテスの魅力が最もつまった作品であります。エキゾチックな土地を舞台にすることにより、露出多めの大胆な衣装の”いいわけ”は、常にありましたが・・・特に本作では、架空の島を舞台にしているので、アラビア風でもあり、島のリゾート風でもあるという国籍不明な世界観が発揮されています。また、マリア・モンテスが、双子の姉妹(ひとりは悪人、ひとりは善人)を演じるというのも、ファンにとっては「二度美味しい」お楽しみなのです。

ある南の島・・・ラムー(ジョン・ホール)は、島の美しい娘トレア(マリア・モンテス)との結婚式を控えています。ラムーの使用人ケイドー(サブー)が、めくらで唖の怪しい男ヘイバ(ロン・チェイニー・ジュニア)の姿を見かけた後・・・トレアの両親は殺されて、トレアの姿は島から消えてしまうのです。トレアは近くにある「コブラ島」へ連れ去られたらしく、ラムーはひとり危険な島へ向かうことになるのですが、ケイドーとチンパンジーのココがこっそりと彼の後を追っています。「コブラ島」は、活火山が住民たちの脅威なのですが・・・キングコブラのパワーによって火山をコントロールしていると思わせているナジャという独裁者(マリア・モンテスの二役)が、女王を差し置いて支配しているのです。その上「コブラ島」に侵入した者は死刑にされるとされて、誰も近づけない”謎の島”なのであります。


ラムーが島に上陸してみると、召使いの女たちを従えたトレア(実はナジャ)の姿を目撃します。トレアだと思い込んでいるラムーは、池で泳ぐナジャを追って、熱い抱擁をするのです。ナジャはラムーの男性的な魅力にすぐさま惹かれて、その夜の逢引を約束するのですが、ラムーは兵士たちに”侵入者”として捕らえられてしまいます。ラムーとはぐれてしまったケイドーは、ヴィーダ(ロイス・コリアー)という女王の側近よりトレアと再会することができるのですが・・・そこで、トレアはナジャの双子の姉(本来ならトレアが跡継ぎ)で、女王(メリー・ナッシュ)の命令により、非道な妹ナジャの独裁を阻むために、ヘイバが「コブラ島」へ連れ戻したことが分かるのです。(それにしても・・・トレアの育ての両親を殺すというのは残忍すぎ~)

ケイドーは「コブラ島」の秘密を知るために、ヘイバとトレアと共に城へと侵入します。そこでは、住民たちが貢ぎ物を持って集まっています。キングコブラへの信仰による恐怖支配の儀式が行なわれ、住民の中からナジャは”生け贄”を指名しているのです。金銀の貢ぎ物を捧げなければならない上に、生け贄にされるという、住民にとって割の合わない”信仰”であります。マリア・モンテスのヘンテコリンな”コブラ踊り”は、本作のカルト的なシーンのひとつでしょう。まるでコントのような踊りっぷりに、思わず笑みがこぼれてしまいます。


牢獄に入れられたラムーは、ナジャの側近であり婚約者であるマートック(エドガー・バリアー)を、あっさりと気絶させて脱獄・・・ナジャの部屋に侵入します。ラムーを引き止めたいナジャは、トレアを見つけ出して島から追放することを命令するのです。ラムーはヘイバの導きにより女王と会うことができて、ナジャがトレアの双子の妹であること、トレアこそが正統な女王の跡継ぎであることを知らされます。一方、ラムーが脱獄したことをしらないケイドーは、牢獄に侵入して逆に捕らえられてしまいます。そして、ラムーやトレアの居場所を吐かせるために、木から吊るされて拷問を受ける羽目になるのです。

チンンパンジーのココの芸(針に糸を通す)で監視兵の隙をつくって救い出されたケイドーはラムーと再会・・・島の女王となるべきトレアを残して、ラムーとケイドーはコブラ島を脱出しようするのです。女王はトレアを跡継ぎとして指名して、ナジャとマートックに島から出て行くように諭すのですすが・・・その夜、女王はマートックにより暗殺されてしまいます。また、ラムーとケイドーも逃げ切れずに、兵士たちに捕らえられてしまうのです。


女王が亡くなり、仲間も捕らえられてしまったトレアの最後の手段は、ナジャの部屋に侵入して双子の姉妹対決するしかありません。ほとんど”棒読み”の台詞回しとスペイン語訛りでの「ギミー・ザ・コブラ・ジュール!(コブラの宝石を渡しなさい!)」は、本作がカルト的な支持を集めるシーンです。この決まり文句のあと、大きな槍でトレアを殺そうとしたナジャは誤ってベランダから落下・・・あっさりと死んでしまいます。

マートックにより、ラムーとケイドーの公開処刑が住民たちの目の前で行なわれようとする直前、ナジャになりすましたトレアが登場して、処刑を中断させます。しかし、マートックはトレアのなりすましを見抜き、キングコブラをトレアの前に登場させるのです。怯えることなく”コブラ踊り”をすることができなければ、住民たちからの信仰を失ってしまう・・・トレアが気絶してしまう瞬間に、ケイドーの吹き矢がキングコブラの頭を貫きます。しかし、守り神であったキングコブラが死んだ途端、なんと火山は大爆発を起こしてしまうのです!


パニックの中、ラムー、ケイドー、チンパンジーのココ、ヘイバは一致団結して兵士たちと戦い、最後にはヘイバがマートックを投げ飛ばして、槍の串刺しにして殺してしまいます。すると、不思議なことに火山は急に活動はピタリと止むのです。活火山の怒りの元凶は、すべて悪者のマートックだったのであります!ヴィーダが、貢ぎ物や生け贄はもうないと宣言して、住民たちは新しい女王となったトレアに祈りを捧げるのです。平穏な島になったコブラ島を小舟で後にするラムー、ケイドー、チンパンジーのココ・・・すると突然、舟底からトレアが現れます。コブラ島のことは、ヘイバとヴィーダに任せておけば大丈夫だと、トレアはラムーと元いた島に帰るところで「めでたし、めでたし」となるのです。

正直、今の感覚では”ご都合主義”で幼稚な展開ではあるのですが・・・「エキゾチックな南の島」「謎めいた孤島」「善と悪の双子姉妹」「勘違いとなりすまし」「権力と恋愛」「跡継ぎ争い」「火山爆発のスペクタクル」「激しいアクションシーン」「悪人の残酷な最期」など、当時の娯楽作品としての要素を「これでもか」と詰め込んでいながら、上映時間71分と非常にテンポが良いのです。そして何よりも・・・棒読みでスペイン語訛りのマリア・モンテスの(良い意味での!)大根っぷり炸裂の演技と、それをまったく気にしている様子もない堂々とした明るい美貌が、愛すべき作品として語り継がれる理由だと思うのであります。


「コブラ・ウーマン(原題)」
原題/Cobra Woman
1944年/アメリカ
監督 : ロバート・シオドマク
出演 : マリア・モンテス、ジョン・ホール、サブー、ロン・チェイニー・ジュニア、エドガー・バリアー、メリー・ナッシュ、ロイス・コリアー
日本劇場未公開



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「めのおかしブログ」が6年目となりました・・・「めのおかし」のグーグル第2検索ワードが「ムカデ人間」なのは”名誉”なことでありますっ!

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「めのおかしブログ」が6年目に突入しました!TwiterFacebookなどへ移行する人が多いなか・・・ボクがブログを始めるきっかけを作ってくれた友人Tも、サイトや形式を変えながらもブログ(糸の王冠/blog)を継続しているのは嬉しいことです。始めた当初は深く考えていませんでしたが・・・ソーシャルな繋がりを強制されることなく、不特定多数の人にオープンな「ブログ」というフォーマットが、ボクには一番心地よかったのだと思います。

ブログを訪問してくださる方の9割以上はネットの検索サイトからで、グーグルだけで6割ほどを占めています。先日「グーグル第2検索ワード」が話題になっていたので、試しに「めのおかし」とグーグルの検索欄に入力してみました。すると・・・そこには「ムカデ人間」が第2検索ワードとして現れたのです!

確かに、映画「ムカデ人間」について、二度ほど記事の書いたことがあるし、現在閲覧数で歴代2位の記事は「ムカデ人間2」なので、不思議なlことではないのですが、よりにもよって「ムカデ人間」とは!そもそも「めのおかし」というワードで検索してくれる人がいるということが驚きなのですが・・・「めのおかし」「ムカデ人間」というワードを合わせて検索した人が存在したということに、さらにビックリです。グーグルの場合、どのようにして第2検索ワードとして確定するのか知りませんが、・・・「ムカデ人間」シリーズを愛する者としては名誉なこととして受け止めています。

エゴサーチをして自分に対する「悪口」や「批判」を見つけるのは、ボクの密かな楽しみであることは「昨年のブログ」に書きました。とは言っても・・・「ネガティブ」な書き込み、コメント、つぶやきをする人というのは「ポジティブ」なものより、ずっと少ないのです。ただ「めいろま」とこ谷本真由美氏が炎上騒動を起こすと、ボクが以前に書いた彼女に関するブログ記事へのアクセスが激増して「ネガティブ」なコメント(彼女の記事だけでなく!)が、何故か増えます・・・偶然かもしれませんが。

ボク自身は「めいろま」や彼女の信者たちとは、あまり関わり持ちたくないと感じ始めています。最近、彼女の民族的な背景を指摘する書き込みを見かけることが多くなってきたような気がするのです。審議のほどは分かりませんが、もしも彼女が日本叩きをする根源が民族的なことだとしたら・・・彼女の発言にいちいち反応することが馬鹿げているように思えてきます。何故なら、それは仮面をかぶった屈折した「反日ヘイトスピーチ」のようなものだから・・・。

さて・・・今回は、見ず知らずのおじさんのブログ記事を読んでくれただけでなく「ポジティブ」な意見や感想をネット上で発信してくれた方々の一部をご紹介したいと思います。

2010年5月12日
まわりにマツコデラックスって何者?何でテレビ出られるの?とか聞いても明快な答えを得られなかったが、このブログで結構すっきりした 
Junya Aoki様)


2013年10月13日
映画「しあわせのパン」うまく言葉にできなかったことが書いてあるある
(ウラノノリコ様)


2013年10月25日
ビルカニンガム&ニューヨークのブログ。ネタバレあり。NY20年暮らし、ビルを街角で何度か見かけたファッション関係者がたぶん字幕なしで見たレビュー。特にインタビューシーンの興味深い読み解き 
ART LABO OVA様)


2013年11月16日
うむ。本当に良い言葉なのでもう一回。

本当の意味での 
グローバルな視野を持つ人ほど 
謙虚だし、他者を批判しない。 
多様性を理解することは 
実は自分自身と向き合うこと。
byおかしライター(様)

うん。これを座右の銘にしようっと。
Damier様)


2014年2月23日
「パラダイス三部作・愛」のレビュー。欧州中年女性の、買春経験を通したケニアでの出来事。欲望の心理分析が細かく追求されていて素晴らしい。映画ってこういう風にみるものでもあります。
Chocolatcorne様)


2014年6月11日
しっかりした感想を読みたい方は、こちらのブログに行った方が間違いなくタメになります。ナイス感想!
(カミヤマ様、ブログ「三角締めでつかまえて」より)


以前より、ブログ記事の更新頻度は少なくなりましたが、今後も書きたい時に書きたいことを書くというマイペースやっていきます。特に意識をしていくというわけでもないのですが・・・「めのおかしブログ」では、主に映画について書くことが多くなりそうです。映画批評をしているわけでもないし、映画情報を伝えているわけでもなく、ただただ独断と偏見に満ちた個人的な感想を綴っているだけの内容なので、誰のためにもなっていないような気がしてしまうのですが・・・書き記したいと思うことがある限り、細々でも続けていくので、今後もよろしくお願いします。

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沢尻エリカ、8年ぶりの主演連続ドラマが終了・・・すべては”ファッション・エディター編”最終回の伏線!本当のマウンティング地獄はシーズン2の”ファッション・デザイナー編”で?!~フジテレビ土ドラ「ファースト・クラス」~

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沢尻エリカの8年ぶりとなる主演連続ドラマ「ファースト・クラス」が終了しました。

開始直後は、視聴率はそれほど高くなかったようですが、女同士のマウンティング=格付けが注目されて、徐々に視聴率が上がり・・・フジテレビ土ドラ枠としては最高視聴率の記録(最終回では関東地区10.3%!)を更新したそうです。ターゲットとしている女性層は勿論、女同士のケンカが大好物の「ゲイ」だって、結構ハマりまくっていたに違いありません!

あの「別に」騒動から7年(!)・・・映画「へルタースケルター」ドラマ「悪女について」で演じた”わがままキャラ”(世間のイメージまんまの!)はイマイチ。高城剛との離婚発表(2013年末)前からは、騒動以前の「素朴キャラ」での再生を目指しているようです。撮影合間の「四葉のクローバー探してたの」発言など、薬物使用疑惑を払拭するためかのようなエピソードを番宣(ドラマ「時計屋の娘」のため)で披露したりしていました。

「ファースト・クラス」では「私以外、全員悪女」と謳っているように、沢尻エリカ演じる”吉成ちなみ”はドロドロのマウンティング地獄の中で唯一の”素朴ないい人”キャラ「虐げられたシンデレラ」・・・ただ、物語が進むにつれ、次第に”したたかな策略家”キャラへ変貌していくという「エリカ様」らしい展開をみせたのです!

視聴者の「アコガレ」と「あるある」を程よく兼ね備えている職場として、ファッション雑誌の編集部(あれほど女性ばかりの”女の園”ではないかもしれませんが)は、女性同士のマウンティング地獄の舞台として適しているのかもしれません。ただ、ひとつの職場内”だけ”の話なので、人間関係の広がりも仕事のスケール感が乏しくなってしまったのは、少々残念・・・また「ファースト・クラス」という雑誌は、業界第4位の女性ファッション誌で「大人ガーリー」がコンセプトらしいのですが、読者層がイマイチ不明なので、編集者という仕事の面白さや魅力を伝えきれていない気がします。女同士が足を引っ張り合っている職場という”イメージ”だけが、世の中に浸透してしまいそうです。

しかし、仕事現場のリアリティを描くことが目的のドラマではないので、実際の編集部は「どうの、こうの」とツッコムのは”野暮”・・・ただ、沢尻エリカの衣装のセンスは最後までダサすぎて、彼女だけ見ているとファッション業界を舞台にしているドラマということを忘れてしまいそうになります。そもそも・・・沢尻エリカにファッションセンスが良いというイメージはないし、美人だから洋服を着こなせるというわけでもありません。カジュアルな服は若作りの安物にしか見えないし、高い服はホステスさんのオフっぽく見えてしまうのです。このドラマで、唯一ファション業界らしいスタイルを見せているのは編集長・・・ただ、これほど毎日のように取っ替え引っ替えということは、あまりいないかもしれませんが。


ちなみ(沢尻エリカ)は、復職の学校を卒業後、衣料材料店「Tokai」の販売員として働きながら(何故か「Tokai」だけは実名で具体的)ファッション業界の仕事に憧れる26歳の女性・・・6畳一間のアパートで暮らす「底辺」の生活で、夢の追いかけるには「崖っぷち」な年齢です。「Tokai」で同僚のおばさん(リリィ)が「ファースト・クラス」誌の編集長の留美(板谷由夏)の母親だった縁で、なつみは見習い(インターン)として編集部に入り、契約社員、副編集長、編集長へと出世していくという物語・・・編集部の女性、雑誌のモデル、カメラマンの8人の登場人物たちと、各エピソードごとに「マウンティング・クラス/格付け順位」を競い合うのです。

第1話「女の格付け地獄開幕 虐げられるシンデレラ 沢尻以外、全員悪女」
第2話「沢尻VS泥棒猫悪女 盗まれた企画書! もう許さない”反撃開始」
第3話「毒入りサンドの罠!殺す気・・・?沢尻もはや終了?いや大逆襲か」
第4話「今夜も悪魔の声炸裂 盗撮攻撃で性悪女逆襲 最狂の地獄絵図来た」
第5話「地獄の底辺泥沼決戦 セレブVS最下位女!最狂蛇女、牙を剥く」
第6話「ドロドロ第一章今夜衝撃決着!恋X友情=地獄!蛇女は見た!」
第7話「お待たせしました!第二章開幕で黒い沢尻解禁!蛇女愛欲の罠」
第8話「地獄の使者乱入で悪女肉弾戦!死ぬのは誰?」
第9話「最終章は悪女W杯開幕!頂点も結局地獄」
最終回「歓喜のち地獄のち奇跡のち地獄のち感動のちやっぱり地獄の最悪最終回!」

各エピソードにつけられた「サブタイトル」が、思いっきり”ドロドロ感”を煽っているのは素晴らしいのですが・・・実際のドラマの内容は「サブタイトル」のエグさには負けています。

”あの”沢尻エリカの連ドラ復帰なのだから、登場人物の誰よりも「腹黒さ」を期待したのは、ボクだけではないはず・・・「いつ、本性を出すのか?」を楽しみにしてしたのです。”素朴ないい人”キャラを上っ面では演じながら、実は裏でさまざまな手管を使って、先輩編集部員たちを落とし込んでいくのかと思っていたら・・・「虐げられるシンデレラ」が、「努力」「根性」「正論」で頑張っていく姿に、少々肩すかしをくらった気がします。ただ、健気さを演技させたら沢尻エリカは「上手い!」・・・本人の人間性を微塵も感じさせない演技力は、まさに「女優」です。


登場人物たちが心の中での”つぶやき”が、このドラマの”売り”のひとつ・・・心の中のはずなのに会話っぽくなるのはご愛嬌として、表面上で交わされる会話や態度の裏にあるブラックな本音が、マウンティングのバトルフィールドなのです。

ただ、ドラマ内で”つぶやき”をするのは・・・意地悪な先輩白雪(田畑智子)、虎視眈々と編集長の椅子を狙う副編集長の小夏(三浦理恵子)、策略家のレミ絵(菜々緒)、トップモデルのMIINA(佐々木希)、ナンバー2モデルのERENA(石田ニコル)という”悪女キャラ”のみ”に与えられているところが「ミソ」であります。ドSの編集長の留美、レズビアンのカメラマン静香(遊井亮子)は”つぶやき”ませんし・・・”要”なのは、主人公のちなみも”つぶやかない”とういうこと。心の中でしか「本音」をつぶやけない女、言葉にして「本音」を言える女・・・それは、すなわち「自立している女」「群れている女」という対比なのかもしれません。


個人的に一番共感できたのは、編集長の留美・・・仏頂面で抑揚のない話し方には愛嬌のカケラもなく、一般的な男性が一番苦手っぽいタイプでしょう。キレイごとの”正論”をぶつけるちなみに、留美の放つ冷たい言葉は、ボク自身がニューヨーク時代に学んだ教訓と重なります。厳しい留美ですが、勝ち抜くための強さを教えようとしていたのも留美だけ。「企画を盗む」とか「情報を渡さない」とか、その程度の「嫌がらせ」「イジメ」なんて、競争のある職場だったら当たり前のこと・・・それを「壮絶な試練!」と受け止めるのは、プロとしては「甘え」でしかないのです。

「育ててもらおうと思ったら大間違い。自分で勝手に育つ人間しか生き残れない。勝った人間だけが夢をもつ権利を得られる。」

急遽、海外から招いたモデルが撮影できなくなった時・・・「私の強みは読者に一番近いことです!」と言い出して、ちなみがモデルとして撮影されるエピソードには、ぶったまげてしまいます。確かに顔はキレイだけど・・・モデル体型でもなく、編集部に入ったばかりの見習いが、ファッション誌のモデルとして誌面を飾り、ネットニュースにまでなって、読者投票で3位というのは、とてつもなく”大きな事件”です。しかし・・・ちなみがモデルをするのは、結局一度っきり(連載の企画になる話はうやむや)。考えてみると・・・相当、自分のルックスに自信があって、図々しくないと「私をモデルにして」なんて言い出せない!ちなみの”したたかな策略家”キャラは、すでに暗示されていたのかもしれません。


このドラマの中の登場人物のなかでも、一番性格が悪そうなのは、なんといっても”レミ絵”(ゲイバーの源氏名みたい)でしょう。

罠を仕掛けたり、誘導したり、密告したりと・・・狙った相手を陥れるためなら手段を選びません。心の中の”つぶやき”の毒気もピカイチ・・・しかし、ネタは昭和っぽかったりオタクっぽかったりして、50代のボクでさえ「古臭っ!」と思うほど。脚本家の渡辺千穂(41歳)は、企業でOL経験もあり女性の”リアル”を描けると業界的には思われているらしいけど・・・シニカルな感性には疑問を感じます。中盤以降、レミ絵に対しては、ちなみも牙を剥き、レミ絵のタカビーさも際立っていくのですが・・・BSフジ・CSフジテレビTWOや、ホームページで公開されているパラレルショートドラマ(パラドラ)では、その他大勢の編集部員たちからは嫌われていて、実はかなり”痛いキャラ”であることが分かります。最終回では、タカビーっぷりが内輪ウケ狙いの「道化」になってしまうのだから・・・「貧乏くじ」のような役です。


ちなみの「夢を一生懸命に追う姿」や「誠実な人柄」に接していくうちに、白雪もMIINAも”改心”していき、実は”いい人”だったというのは・・・少々生温い気もしないわけではありません。

しかし、彼女たちがマウンティング地獄から離脱してランク外の「JOKER」となっていくことは、ある意味、象徴的なことです。このドラマは、女同士のマウンティング地獄を煽るように描きながらも・・・実は、マウンティングを否定しているようなところもあります。「JOKER」となった白雪とMIINAは、格付け順位の呪縛から解放されたことで・・・自分と向き合い、本当の夢を目指していくことができるようになるですから。

ちなみが、どれくらいの期間、編集部で働いている設定なのかは、よく分からないのですが(全10話で月刊誌が発売されるのは5冊/5ヶ月ぐらい?)・・・契約社員になるや否や、新雑誌の副編集長に抜擢され、すぐさま「ファースト・クラス」の後任編集長というのは、かなりスピーディーな展開であります。編集の仕事というのは感性や才能というより、ある程度の知識や経験が大事な仕事・・・センスが優れているとか感覚的なことだけで、仕事ができるわけではありません。編集のことをは何も知らなかった素人が、堂々と編集長の座にいられるというのは・・・かなり面の皮が厚くないとできないことです。

見習い→契約社員→副編集長→編集長となっていくという「シンデレラ・ストーリー」であるはずの本作は、その”要”であるはずの”プロセス”を省き過ぎてしまっている印象は否めません。編集者としての成長過程よりも、夢を一生懸命追っかける「いつまでも変わらない」なつみが「あれよ、あれよ」と出世(下克上)していくという物語にすり替えられていて・・・「必ず努力は報われる」「いつか夢は叶えられる」というポジティブ志向を持つ世代にとっては、共感できる「シンデレラストーリー」なのかもしれません。

ちなみが成功の階段を上がっていくにつれ・・・気の強い本性を出し始めると、沢尻エリカの真価を発揮されて、俄然、ドラマは面白くなってきます。

「ファースト・クラス」の新編集長となったちなみは、ライバル誌「プエルト」を潰すために、レミ絵から仕入れた横領の証拠を使って、社長を脅して小夏を潰します。さらに、外資系出版社の買収後・・・ERENAの不正により廃刊させられそうになった時も、ERENAの父親を利用して「最終号」を出せるように、アメリカ本社へ裏工作させるというのですから、なかなかのやり手です。そもそも、これほどの策略家であるなつみが「Tokai」の販売員だったことが不自然に思えてきます。「素朴さ」と「したたかさ」の二面性を、これほど説得力をもって演じきれる沢尻エリカは、やはり「魔性」の権化・・・彼女に「普通の感覚」を求めたり、私生活を「一般人の基準」で計ることは無意味のような気にさえなってしまうのです。


男ばかりのドラマがゲイの視聴者を惹きつけるように・・・女ばかりのドラマはレズビアンの視聴者を惹きつけるのでしょうか?

沢尻エリカに、レズビアンのファンが多いのかどうかは分かりませんが・・・お人形さんのような容姿は「タチ」には堪らないのかもしれません。また、脇を固める編集長役の板谷由夏もレズビアン心をソソリそうです。レズビアンのカメラマン静香は、ピンチに陥ったちなみを助けることを条件に、ちなみに「ひと晩付き合う」ことを強要するのですが、「ここから濡れ場」という場面で邪魔者が入ってくるという・・・レズビアン視聴者には残念な展開となっています。ちなみだって部屋に行くということは、静香に何を求められているか分かっているはず・・・さらに、この時はすでにライバル誌は握りつぶしているのだから、静香を利用するために寝る必然性はないのです。その後、静香もちなみの味方の”いい人”になるので、結局、ちなみに上手く取り込まれたってことなのかもしれません。


「ファースト・クラス」に於ける男性キャラの存在意味のなさっぷりは”斬新”と言えるのではないでしょうか?

まず、スタイリスト兼ファッションディレクター磯貝役の平山浩行は、そこに「いるだけ」の”プリティーフェイス”・・・業界一のモテ男という設定にも関わらず、誰とも色恋沙汰はありません。

静香のアシスタントの西原(実は御曹司!)役の中丸雄一は”王子様”役でありながら、ちなみと恋愛関係は中途半端・・・とにかく、沢尻エリカと中丸雄一の画面での相性の悪さは致命的で、二人が付き合っている男女とは到底思えないのです。ちなみがピンチになると必ず助けるし、励まし続ける力強い”味方”という役回りはあるものの・・・物語の中枢に、大きく関わってくるわけではありません。また、静香の命令で、クライアントの接待のために「首輪を付けて奴隷」という伏線は、まったくもって意味不明。大企業の御曹司という設定も、殆ど生かされることなく・・・報道カメラマンとしてウクライナにいるという結末は「ふ~ん」でしかありません。オープニング主題歌を「KAT -TUN」が担当しているから、ジャニーズ事務所に押しつけられたキャスティングなんだろうけど・・・「なんで、よりによって中丸なの?」って感じです。

また、高知東生演じる出版社社長は、小夏との不倫関係を匂わせるものの、具体的に下衆いシーンもなく、本領は発揮できず仕舞い。現場を分からずに混乱させるだけの、どこかの会社にもいそうなおじさんって感じで・・・最後には惨めな姿で社長の座を追われて「いい気味〜」というだけのことです。

最終回で「ファースト・クラス」は廃刊となり・・・編集部は閉鎖されます。しかし、収益があるなら発行継続ということになり「ファースト・クラス」は、あっさり復活。編集長に留美、副編集長に小夏、レミ絵、白雪らなど、ちなみが働き始める以前の編集部の姿に戻るのです。

ちなみはというと・・・半年後、新しい夢を追いかけています。ファッション雑誌の編集部よりも、さらに激しい女同士のマウンティング地獄が繰り広げられているであろうファッションデザイン業界へ飛び込み・・・デザインアシスタントとして働き始めるのです!初日に浴びせられる、心の中で”つぶやく”ブラックな本音は「ファースト・クラス」の編集部以上に容赦ない厳しい言葉ばかり。勿論、ちなみのマウンティングランクは再び、最下位にからのスタート・・・さらにドロドロな続編「ファッション・デザイナー編」を予感させるエンディングに、大きな期待は膨らみます!


「ファースト・クラス」
フジテレビ系列「土ドラ」シリーズ
脚本 : 渡辺千穂
出演 : 沢尻エリカ、佐々木希、菜々緒、板谷由夏、田畑智子、三浦理恵子、遊井亮子、石田ニコル、中丸雄二、平山浩行、高知東生、りりィ(ゲスト)、岩佐真悠子(ゲスト)、モト冬樹(ゲスト)、hitomi(ゲスト)、高岡早紀(ゲスト)、LiLiCo(ゲスト)
2014年4月18日~2014年6月21日放映


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”リアルワールド=現実”の歳月は残酷なもの・・・二匹目のドジョウ狙いの残念な続編!?~「キック・アス ジャスティス・フォーエバー」~

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ある映画がヒットすると続編が製作されることはよくあること・・・ただ、多くの続編は第1作目を超えることなく、二匹目のドジョウ狙いの残念な続編ということになってしまうこともあります。3年前に公開された「キック・アス」は、スーパーヒーローに憧れるオタク少年が、試練を乗り越えて成長するという”王道”のストーリー展開でありながら、パートナーとして一緒に戦う11歳の少女”ヒットガール”がメチャクチャ強くて、悪者をバタバタぶっ倒すという斬新な一作でありました。ヒットガールを演じたクロエ・グレース・モレッツは、この作品で大ブレイクし、子役からティーン女優へと成長しました。

ここからネタバレを含みます。


「キック・アス」の続編となる「キック・アスジャスティス・フォーエバー/Kick-Ass 2」は、原作コミック(ボクは未読ですが)では、第1作の直後の物語として描かれているらしいのですが、映画では、撮影期間のギャップと同じ4年後の物語となっています。クロエ・グレース・モレッツを始め、キックアス役のアーロン・テイラー=ジョンソンや、敵役を演じたクリストファー・ミンツ=ブラッセらの若い出演者たちにとって、この4年という歳月はある意味、残酷な時の流れでありまして・・・第1作目の大きな魅力であった”お子様”感を完全に失わせてしまうものだったのです。また、前作では過剰なまでのスプラッター描写が見物でしたが、アメリカでは非難も多かったようで、続編である本作では、かなり控え気味・・・そのため、単にキャラクター設定をなぞっただけの、凡庸なコミックヒーローものになってしまったように感じます。

デイヴ=キックアスは、前作で出会った恋人と同棲していたり、鍛えてマッチョになっていて、童貞のオタクキャラを脱皮して、確実に”オトナ”になっています。再びキックアスとなってコスプレのヒーロー集団に参加することなるのです。この「ジャスティス・フォーエヴァー」という集団でリーダー的な存在が、ジム・キャリー演じるカーネルというキャラクターで、明らかに前作のビッグダディの立ち位置を引き継いでいる役柄・・・そして、前作のビッグダディ同様に彼は惨殺されます。特殊メイクでを変形させている上に、マスクをしっぱなしなので、ジム・キャリーとはすぐに気付かないほどの怪演・・・ただ、この手の役柄を演じるには、ジム・キャリーが少々年取ったと思ってしまったのはボクだけでしょうか?さらに本作ではキックアス君の父親も殺されてしまうのですが、戦わなければならないモチベーションを上げるために、そこまで悲惨に追い込む必要ってあったのかは疑問に感じたところです。

本作では、前作の悪者のマフィアのボスの息子クリス=レッド・ミストが、ザ・マザーファッカー(悪そうなネーミングとしては小学生レベルな気がします)となり”悪者集団”を作って対抗してくるのですが、ヒーロー集団VS.悪者集団の戦いという”設定”ありきな展開・・・とは言っても、ザ・マザーファッカーというキャラの悪役としてのカリスマがなさ過ぎということもあるのでしょう。本作では髭面になって”ヒール役”っぷりをアピールしてみても、単に小汚くしか見えません。

ミンディ=ヒットガールは15歳になり、普通の高校生として女子らしい悩みも抱えるお年頃・・・派手でセクシーなイケイケの女の子グループにイジメられて、リベンジで大人っぽく大変身してみたりします。このあたりのエピソードは、アメリカのティーン向けのテレビドラマや映画で腐るほど描かれている展開・・・幼いときから人間兵器として訓練されてきたヒットガールも随分と俗っぽくなったもんです。勿論、かつてのパートナーであったキックアス君と再び組んで、ザ・マザーファッカー率いる悪の集団と戦ったり、マザーロシアという巨大な怪力ロシア女というライバルが登場するとかは、お約束の展開であります。


ヒットガールの魅力は11歳の子供(ガキ)が、大人たちをバタバタと倒していったこと・・・クロエ・グレース・モレッツが”子役”から成長するのは当然のことなのですが、ヒットガールというキャラクターの根本的な要素を、演じる役者の年齢に一致しなければいけなかったことは、続編として失敗作(?)となることを運命づけられていたのかもしれません。ただ、続編を製作するために、現在の映画製作のシステムでは数年経ってしまうのは当たり前・・・仕方ないことといってしまえば、そうなのですが。

前作では”マフィア”という”リアルワールド=現実”の悪者の存在が、ある意味、悪ふざけのようなコスプレヒーローという存在を際立たせていました。ヒットガールのコスプレにしても、カツラの安っぽかったり、マスクが大き過ぎて微妙にズレていたり・・・コスプレの完成度の低さの”お子様”感が、ボクにとってはまさに”ツボ”だったのでした。誰も彼もがコスプレであることが前提になってしまった本作では、コスプレのコミックヒーローものに対する皮肉も薄らいでしまったのです。

キックアスシリーズは、3部作で完結と原作者のマーク・ミラーが明言していて、すでに「キックアス3」となる映画の続々編の企画もあるらしいのですが・・・原作者がわざわざ「完結」と言い切るのには、どうやら登場人物がみんな死ぬという衝撃的なもの。コスプレのヒーローごっこの結末は必ずしもハッピーエンドではないということを表現しようということです。ただ、出演する役者たちは年々年を取ってしまうわけで・・・キックアスシリーズそのものが、まさに”リアルワールド=現実”の厳しい年月の流れに晒されていることは、確かなのかもしれません。


「キック・アスジャスティス・フォーエバー」
原題/Kick-Ass 2
2013年/アメリカ、イギリス
監督&脚本: ジェフ・ワドロウ
出演   : クロエ・グレース・モレッツ、アーロン・テイラー=ジョンソン、クリストファー・ミンツ=ブラッセ、ジム・キャリー
2014年2月22日日本劇場公開
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もう二度とオーストラリアに行きたくなくなるトラウマ映画8年ぶりの続編・・・メチャクチャ強い田舎親父の殺人鬼”ミック・テイラー”再降臨!~「ウルフ・クリーク2(原題)/Wolf Creek 2」~

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ホラー映画というのは、比較的続編、もしくはシリーズ化されやすいジャンルです。前作「ウルフ・クリーク/猟奇殺人谷」は日本では製作から4年経って(2009年)DVDスルーという扱いをされていた作品で、続編となる「ウルフ・クリーク2/Wolf Creek 2」は、前作から実に8年ぶりになります。ボクは前作をアメリカ版DVD発売直後(2006年ぐらい?)に購入して、何も情報を知らないまま観て・・・『オーストラリア版「悪魔のいけにえ」だ~!』と、かなりツボにハマったのですが、その後、日本で劇場公開されるという話を耳にすることもなく、すっかり忘れかけていたのです。

ウルフ・クリークは、オーストラリア大陸の北西部に実在する巨大なクレーターで、国立公園にもなっています。映画の元になった事件のひとつ・・・イギリス人旅行者ピーター・ファルコニオ氏の失踪殺人事件は、2000キロメートルも離れたエリアで2001年に起こった事件です。2005年犯人の有罪判決後、ジョアンヌ・リーズという生き残った女性によって手記が出版されています。もうひとつ、映画の元になったのは、1990年代にヒッチハイカーを次々と殺害したイヴァン・ミラットの事件で・・・シドニーのあるニューサウスウェールズ州で起こったのです。ということで・・・オーストラリアで3万人が失踪し、そのうち9割ほどが見つからないというデータから、本作の”ミック・テイラー”という架空の殺人鬼を、監督のグレッグ・マクリーンが創作したのであります。

「ウルフ・クリーク/猟奇殺人谷」は、グレッグ・マクリーン監督の長編デビュー作で、その後2007年には「マンイーター」という巨大アリゲーターが観光客を襲う動物パニック映画をつくっています。監督第3作目が、本作「ウルフ・クリーク2」となるわけですが、観光客がオーストラリア旅行中に恐ろしい事件に遭遇する映画ばかりつくっているという・・・自虐っぷりです。どの作品もオーストラリアの雄大な大自然を満喫できるナショナル・ジオグラフィックっぽい映像が導入部分ではたっぷりと織り込んでいるのですが、その後の、展開が”地獄”(笑)・・・その広大さが恐ろしくもある”トラウマ”を植えつけるのです。

ウルフクリークあたりで車が故障してしまったバックパッカーの3人(ベン、リズ、クリスティ)は、”偶然”通りかかった親切そうな地元のおじさんの救われるのですが、実は、そのおじさんは旅行者を拉致して、殺害を繰り返していた殺人鬼というのが、前作「ウルフ・クリーク/猟奇殺人谷」・・・数多くある「悪魔のいけにえ」の焼き直しであります。しかし、複数の視点を時間軸で並行に描いていくのではなく、ひとりの視点によって継続的に描くことによって、緊張感が途切れない恐怖を感じさせたのです。

本作は続編として8年ぶりとなるわけですが、第1作目と監督が同じというだけでなく、殺人鬼”ミック・テイラー”を演じた俳優も同じジョン・ジャラットであり・・・物語としての展開も基本的に前作と大きく変わりない、堂々たる正統な続編であります。前作では冒頭約40分ほど、バックパッカー3人の男女がオーストラリアの雄大な大自然を背景に旅をするという青春ロードムービーのような映像が続くのですが・・・続編となる本作ではテンポも残酷描写もパワーアップ!冒頭から、ミックのとんでもない凄腕のスナイパーっぷりを披露します。スピード違反を捏造してミックを検挙した悪徳警察官二人組・・・猛スピードで走るパトカーの運転手の警察官の頭を、たった一発のライフルで打ち抜いて、頭部破壊という大サービス(?)です。

ここからネタバレを含みます。


ドイツ人カップルのカテリーナ(シャノン・アシュリン)とルトガー(ピリッペ・クラウス)はオーストラリア大陸横断をしているヒッチハイカー・・・彼らもウルフクリークを訪れます。夜、キャンプ場でないエリアでテント張っていると保安官に捕まって罰金になると、わざわざ車を止めて忠告してきたのは、勿論ミック・・・実は昼間から周辺でヒッチハイクしている彼らのことに目をつけていたのです。キャンップ場まで車で送ってあげるというミックの誘いに、何かしら危険を察知したルトガーは、ミックの申し出を断ります。すると態度を急変させたミックは、ルトガーの脊髄を切断して”木偶の人形”にしてしまうのです。一部始終を目撃していたカテリーナを演じる女優さんの怖がりっぷりが臨場感があって、不快な残酷感を盛り上げてくれます。

しかし、それだけでミックの暴力は終わりません。カテリーナに馬乗りになり、下着を剥がしていくのです。ミックに最後の力で逆襲を試みるルトガーですが、怪力親父のミックに敵うわけはありません。あっさりうつ伏せに倒されてしまい、首をナイフで切られて絶命・・・さらに、そのナイフで、ゴリゴリと頭を切り取られてしまうのです!そして、まるで家畜をバラすかのように、ボルトガーの身体はチェンソーやナイフで、手足をバラバラにされて、肺や心臓などの内蔵までをえぐり出されて、男性器までチョキンと切り取られてしまいます。ミックの目を盗んで、カテリーナは命がけで逃亡・・・偶然、車で通りかかったイギリス人旅行者のポール(ライアン・コー)によって、とりあえず助けられます。ここで、視点はカテリーナからポールへと移るのです。


状況を飲み込めないながらも、必死の形相で恐怖を訴えるカテリーナの尋常でない様子に、ポールはミックの暴走トラックから何とかして逃げようと、激しいカーチェイスを繰り返します。ここで判明するのが、ミックのとんでもない運転技術と追跡能力・・・遂には、ポールの車を追い詰めて、ライフルでカテリーナを一発で仕留めてしまうのですから。ポールだけは何とか車を再スタートさせて、その場から離れることには成功するのですが・・・土地勘のないポールは、翌朝ヒッチハイクをしようとするのです。そんなことしないで、さっさと自分の車で逃げれば良いのに・・・という気もするのですが、案の定、ヒッチハイクをしていると、今度は大型トラックに乗ったミックに見つかってしまいます。

ここで、ミックは大型トラックのアクロバティックな運転能力を発揮します。CGではありますが・・・カンガルーを大型トラックで次々と轢き殺していくシーンは、さすがにドン引き・・・動物愛護で知られるオーストラリアの顔に泥を塗るような「悪趣味」です。崖から転落しながらも、なんとか逃げ切ったかのように思えた時、ポールの車に大型トラックが坂道を暴走して激突して大爆発!ここでも、再びポールは何とかミックから逃げることに成功します。飲み水も尽きて朦朧としたポールの目の前に現れたのが、荒野の一軒家・・・ポールは思わず入り口のドアに倒れこみます。もしかして・・・ミックの家?と思わせぶりな演出でありますが、実は温厚な夫婦の家で、服を洗濯してくれたり、温かいスープの食事を用意してくれたりしています。

しかし・・・ポールが逃げ切れるわけはありません。ミックは、ポールが匿われていることを察知して、夫婦をライフルで殺害。家から必死で逃げるポールを追いかけるミックは、夫婦の家で飼っていた馬を上手に乗りこなして、しつこく追いかけます。結局、ポールはミックに捕まって拉致されてしまうのです。クイズに答えられなければ、小型の電動ノコギリで指切断(!)というゲームをミックに強要されるポール・・・勿論、ルールなんてあってないようなもの。どう答えたって、ポールは万力で腕を押さえつけられて、指切断をされるのです。しかし、ポールもチャンスを見計らって、かなづちでミックの顔を陥没するほど殴りつけて反撃・・・しかし、ここでトドメを刺さないのが「お約束」。ミックはムクッと起き上がるのですから!


前作ではハッキリと見れなかったミックの地下室や地下道が明らかになります。拉致した旅行者たちをじっくりと時間をかけて拷問して殺害していた現場というのは、まさに「悪魔のいけにえ」を彷彿させる地獄絵図であります。今まで何十人(何百人?)が閉じ込められて、逃げることができなかたミックの地下室から、そう簡単に脱出できるわけはありません。しかし、ポールを追ってきた番犬たちもミックが仕掛けていた竹柵で撃退・・・地下道の床に仕込まれた落とし穴も見破ったにも関わらず、最後は怪力ミックによって、首根っこを掴まれて・・・「もう、ここまで」本作では生き残る被害者はいないのかと思った途端、いきなり全身傷だらかになったポールが横たわる姿が写されます。それも、街中にあるガソリンスタンドの前で。そして、ポールは駆けつけてきた警察官によって捉えられてしまうのです。

ミックが旅行者、それも海外からの旅行者ばかりを狙って、拉致、虐待、殺害してくたのは、オーストラリアを美しく保つためという歪んだ愛国心のようなものからだったようなのですが・・・ミックは「勝者」であり、ミックによって殺害された者たちは「敗者」であるかと言うように、発見されたポールの手には「敗者/LOSER」という紙切れ一枚が握られているのです。一体、これって、どういう意味なんでしょうか?何故、ミックがポールを痛めつけながらも、街中に放置して逃がしてくれた理由はハッキリしないまま・・・そして、エンディングのキャプションで、ポールがウルフクリーク周辺で怒った旅行者連続殺人の犯人として捜査を受けたものの、精神的に崩壊してイギリスへ強制送還されて、今でも精神病院で過ごしていると説明されるのです。

ここでふと思い出したのが、前作「ウルフ・クリーク/猟奇殺人谷」のエンディング・・・最後まで生き残ったベンは、警察に犯人として拘束されたところで終わっていたのです。そう考えてみると、本作は続編でありながら、前作のリメイクでもあるというホラー映画にありがちな第2作目のパターンの王道なのであります。「もう、オーストラリアなんかに行きたくない!」と思わせる自虐的なトラウマを追求して・・・第3作目では1作目と2作目を覆すよな”サプライズ”により、殺人鬼”ミック・テイラー”の「ウルフ・クリーク」のシリーズを化を、ぜひぜひ目指して欲しいものです。


「ウルフ・クリーク2(原題)」
原題/Wolf Creek 2
2013年/オーストラリア
監督 : グレッグ・マクリーン
出演 : ジョン・ジャラット、ライアン・コー、シャノン・アシュリン、ピリッペ・クラウス

日本劇場公開未定


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ドラァグクィーンがNext America's Drag Super Starを競うリアリティー番組・・・RuPaul(ル・ポール)の歴史とドラァグクィーンの楽しみ方~「ル・ポールのドラァグレース/RuPaul's Drag Race」~

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1:「ル・ポールのドラァグレース」の概要

2009年からアメリカのケーブルテレビチャンネル「LOGO TV」(LGBTの視聴者向けチャンネル)で放送されている「ル・ポールのドラァグレース/RuPaul's Drag Race」は、Next America's Drag Super Star(ネクスト・アメリカズ・ドラァグ・スーパースター)を発掘すバトル形式のリアリティー番組であります。

「ル・ポールのドラァグレース」オープニングタイトル

「ネクスト・アメリカズ・ドラァグ・スーパースター」と銘打っているところから、ファッションモデル発掘のリアリティー番組「アメリカン・ネクスト・トップモデル/America's Next Top Model」をパクったように思えるかもしれませんが・・・バトル部分のチャレンジはファッションデザイナー発掘のリアリティー番組「プロジェクト・ランウェイ/Project Runway」に近いかもしれません。直線コースを一気に走る「Drag Race/ドラッグレース」にかけていることから分かるように、番組内でもレーシング用語が決め文句として使われたり、アシスタントの男性モデルを「Pit Crew/ピットクリュー」(レース場の整備員)と呼んだりしています。

すでにシーズン7(2015年放映予定)の制作も発表されており、現在までに「オールスターズ」(シーズン1~4より選出)を含めて7つのシーズンが放映されています。(そのうちシーズン2~5までがアマゾンUSにてオンデマンドDVDを購入可能)さらにドラァグ・クィーンが女性をメイクオーバーしてバトルするスピンオフのリアリティー番組「RuPaul's Drag U」(シーズン3まで放映/2010~12年)も制作されました。また、イギリスBBCの人気司会者のJonathan Ross(ジョナサン・ロス)氏がイギリス版「ドラァグレース」の制作権利を獲得したということなので、イギリス版が放映されるのも遠い日ではないようです。ただ、イギリス版にRuPaul(ル・ポール)が出演するかは現時点では未定らしいです。

2:ドラァグクィーンとは?

「ドラァグクィーン/Drag Queen」とは、女性特有の「グラマーさ」や「セクシーさ」を強調したヘアスタイル、メイクアップ、ドレスを、見せるために着飾っている人のこと・・・性別(性同一障害、性転換も含む)や性的嗜好は無関係と言われています。ハッキリと区別する必要があるのは、女性として「パス」することを目的にして女装をする人たち・・・派手な衣装ではなく地味なワンピースやアンサンブルを好み、化粧も薄めで、完成度の個人差は大きいかったりするのです。性同一障害者(Transsexual)やフェチズムのクロスドレッサー(Cross Dresser)の中には「どう見ても男」だったりしてしまうのは、個人的な満足感を得るための「女装」だからかもしれません。

ビジネスで女装するパフォーマー(Female Inpersonater)は、モノマネやコメディアンとしての「女装」なので、実生活ではストレートの男性ということもあります。世界的に最も有名なのはオーストラリア出身のコメディアン・Barry Humphries(バリー・ハンフリーズ)が演じるDame Edna Evarage(デイム・エドナ・エヴァレイジ)でしょう。日本だったら・・・荒川ばってん?(古いけど)でしょうか。

自ら「ドラァグクィーン」を名乗るのは、殆どが「ゲイ男性」・・・ゲイ・カルチャーの中で成熟させてきた「ドラァグクィーンならではの化粧技術やファッションセンス」「ドラァグクィーン特有のスラングやフレーズ」「ドラァグクィーン好みのスター、映画、音楽」などを知ることで、より”ドラァグクィーン”の世界というのは楽しめるものなのです。

3:ル・ポールの歴史

「ル・ポールのドラァグレース」の司会、審査員長、アドバイザーの3役を務めるRuPaul(ル・ポール)は、1980年代初頭から活動を続けるアメリカのドラァグクィーン・・・御歳54歳でありながら圧倒的な美貌、エンターテイメント業界で30年以上生き抜いてきた経験値、敬虔なクリスチャンでバランス感覚の優れた人格者であります。

1960年11月17日にカリフォルニア州のサンディエゴで生まれたル・ポール・アンドレ・チャールズことRuPaul(ル・ポール)・・・両親の離婚後、母親とアトランタへ引っ越します。後に親友となるThe "Lady" Bunny(レディー・バニー)とは、1982年頃(ル・ポール21歳、レディー・バニー19歳)に出会い、アトランタとニューヨークでルームメイトだったこともあるほどの仲良し。1984年ニューヨークで開催された「第5回ニューミュージックセミナー/New Music Seminar」に参加した頃から、RuPaul(ル・ポール)何度もニューヨークとアトランタの間で引っ越しを繰り返して・・・1987年頃ニューヨークに落ち着いたようです。(ただ、その後はロサンジェルスとニューヨークを行き来するようになったらしい)

ボクが初めてRuPaul(ル・ポール)のパフォーマンスを見たのは、1987年に行なわれた第3回「Wigstock/ウィッグストック」・・・「Star Booty/スター・ブーティー」というモヒカンの女性スパイのキャラクターで、音楽活動や自主映画に出演していた頃のことです。2メートル以上(ハイヒールを含む)の長身で繰り広げられたパフォーマンスと愛に超ポジティブなメッセージは、キャンプ(Camp)テイストの強いイーストヴィレッジのクラブ/アート系ドラァグクィーンや、ハリウッド女優のモノマネをするビューティーコンテストタイプとは、別次元の「エンターテイナー」としての片鱗を見せつけたのです。

1986年/オリジナル版「スターブーティー」全編

当時、RuPaul(ル・ポール)友人だったNelson Sullivan(ネルソン・サリバン)氏によって撮影された動画は、ル・ポールの下積み時代というだけでなく・・・1980年代半ばのニューヨークのクラブシーンや、当時のドラァグクィーンの日常(?)の貴重な記録と言えるでしょう。

1984年/ダンステリアの楽屋にて

1985年/ピラミッドクラブにて

1986年/アトランタでのパフォーマンス

1987年/ピラミッドクラブにて

1988年/ゴーゴーダンスを語るル・ポール

1985年、The "Lady" Bunny(レディー・バニー)によってオーガナイズされた「ウィッグストック」は当初、イーストヴィレッジのピラミッドクラブなどで活動するパフォーマーたち・・・John Sex(ジョン・セックス)、Tabboo!(タブー!)、Hapi Phace(ハッピーフェース)、Wendy Wild(ウェンディ・ワイルド)Sister Dimention(シスター・ディメンション)、Ethel Eichelberger(エセル・エッチェルバーガー)、John Kelly(ジョン・ケリー)、Flloyd(フロイド) らによる”クラブシーン”色の濃い「ミュージックフェスティバル」でした。


その後・・・RuPaul(ル・ポール)、Lypsinka(リップシンカ)、Joey Arias(ジョージ・アイリス)、Candis Cayne(キャンディス・ケイン)、Perfidia(パフィディア)、Misstress Formika(ミストレス・フォーマイカ)、Lahoma Van Zandit(ラホマ・ヴァン=ザンディット)、Mona Foote(モナ・フット)、Linda Simpson(リンダ・シンプソン)らの参加により、ドラァグクィーンのフェスティバルとしての知名度を確立していったような気がします。1995年のドキュメンタリー映画「Wigstock The Movie/ウィッグストック・ザ・ムービー」で、1990年代前半の「ウィッグストック」の会場の雰囲気を感じることができるかもしれません。

現在でもニューヨークのドラァグクィーンの第一人者として人気を誇るThe "Lady" Bunny(レディー・バニー)は、ダスティ・スピリングフィールドのパロディのようなキャラ、派手なサイケデリックファッション、頭の数倍あるような巨大なウィッグ(かつら)で、ドラァグクィーンの”アイコン”となっています。自虐的、かつ、天然ボケと下ネタ満載の話術”は、毒舌/辛口を売りにしていたドラァグパフォーマンスとは違う「愛されキャラ」を確立しました。RuPaul(ル・ポール)は、The "Lady" Bunny(レディー・バニー)が開拓した路線を継承しながらも、歌って、踊れて、MCを努められる総合的なエンターテイナーとして、ゲイクラブシーンを飛び出していく次世代のドラァグクィーンとなっていくのです。

レディーバニーのトリビュートビデオ

当時(1980年代末期)はイーストヴィレッジのカルチャーがメジャー化していった時代・・・The B-52'sが大ブレークをしていました。(ル・ポールもプロモーションビデオに出演)同時期にイーストヴィレッジのクラブシーンで活動していた後輩「ディー・ライト/Deee-Lite」にメジャーデビューの先を越されたもの・・・1993年、RuPaul(ル・ポール)は「Supermodel (You Better Work/スーパーモデル(ユー・ベター・ワーク)」でメジャーデビューを果たして大ヒットさせます。「Back to My Roots/バック・トゥ・マイ・ルーツ」「A Shade Shady (Now Parance)/ア・シェイド・シェイディー(ナウ・プランス)」「House of Love/ハウス・オブ・ラブ」などもクラブダンスチャートでヒット・・・当時、人気スターがこぞって出演した深夜のトークショー番組「Arsenio Hall Show/アーセニオ・ホール・ショー」で、一躍全米の知名度を獲得したのです。

ル・ポール「スーパーモデル」

1996~98年には、VH1(音楽専門のケーブルテレビチャンネル)で「The RuPaul Show/ザ・ル・ポール・ショー」というトーク番組を持つまでになり、ダイアナ・ロス、シェール、デボラ・ハリー、パット・ベネター、オリビア.ニュートン=ジョン、タミー・フェイ、バーナデット・ピーターズ、ディオンヌ・ワーウィック、シンディー・ローパー、リンダ・ブレア、リンダ・カーターなど、蒼々たるゲストが出演しました。

しかし、その後、RuPaul(ル・ポール)のキャリアは若干、低迷気味・・・アトランタ時代に演じていたキャラクターをリメイクした2007年の低予算映画「Starrbooty/スターブーティー」(Mike Ruiz/マイク・ルイズ監督)は、いくつかのゲイ&レズビアン映画祭で上映されただけで、DVD発売もRuPaul(ル・ポール)の自主レーベルからだったため、今ではプレミア化しています。

2007年版「スターブーティー」映画予告編

4:「ル・ポールのドラァグレース」番組フォーマット

さて、長~い前置き(?)になってしまいましたが・・・ここから本筋です。

バトル形式のリアリティー番組としては、かなり後発となる「ル・ポールのドラァグレース」でありますが・・・後発だからこそ番組の「フォーマット」の完成度は高いと言えます。「アメリカン・ネクスト・トップモデル/America's Next Top Model」と「プロジェクト・ランウェイ/Project Runway」と同様に、さまざまな”チャレンジ”で競い合い、毎週ひとりの候補者が落選していき、最終的に優勝者を決定するというシステムなのですが・・・番組開始以降、基本的な番組の進行も大きな変わっていません。

まず番組は、男性の姿で出場者たちがワークルームに集合するところからスタートします。(最初のエピソードのみ、全出場者がドラァグクィーンの姿で登場)そこに司会のRuPaul(ル・ポール)から「SHE MAIL」(eメールにかけている)届いて、その回の「ミニ・チャレンジ」のヒントが伝えられます。そして、男性の姿のRuPaul(ル・ポール)がワークルームに登場して「ミニ・チャレンジ」が行なわれるという流れです。番組の冒頭、候補者もRuPaul(ル・ポール)も男性の姿というところが大切な「ミソ」でありまして・・・メイクアップ、かつら、コスチュームによって、各出場者がどれほど劇的に変貌するかを強調しているかのように思いのです。

20~30分程度の「ミニ・チャレンジ」は、工作をするようなチャレンジから、ダンス、モデル、クイズ、スポーツなどあるのですが・・・「ミニ・チャレンジ」で勝者となることで、メイン・チャレンジを有利に奨めることができる”特典”が与えられます。例えば、個々にテーマが与えられる「メイン・チャレンジ」の場合、どのテーマを各候補者に与えるかの決定権・・・グループに分かれて行なわれる「メイン・チャレンジ」の場合は、勝者二人がグループリーダーとなって自分のグループのメンバーを順番に選んでいける権利となるわけです。終盤になっていくと、家族(または友人や彼氏)に電話する権利ということもあります。いずれにしても「ミニ・チャレンジ」の勝者の判断次第で、各出場者にとって「メイン・チャレンジ」の難易度が大きく変わることもあるので、必然的に出場者たちの関係はギスギスとしていくのです!

「ミニ・チャレンジ」で”アシスタント”として登場するのが「Pit Crew/ピット・クリュー」の男性モデル・・・RuPaul(ル・ポール)が個人的(!)にオーディション(シーズン3)で選んだJason Carter(ジェイソン・カーター)と、バート・レイノルズを彷彿させるShawn Morales(ショーン・モラレス)二人がブリーフ姿で務めるというのが見所です。シーズン6からは、さらに二人を加えて計4人の「Pit Crew/ピット・クリュー」が、殺伐とした(?)ドラァグクィーン同士のバトルに花を添えています。「ミニ・チャレンジ」終了後「メイン・チャレンジ」の準備にかかる出場者たちへのRuPaul(ル・ポール)の決まり文句が・・・「Start your engine, and don't fuck it up!」(エンジンを踏み込んで・・・しくじるんじゃないわよ!)であります。


「メイン・チャレンジ」で求められることは、さらにレベルの高いタスクになっていきます。多くのチャレンジは二つのパートに分けれていて、最初の「チャレンジ・パート」は・・・ゴミ箱から拾った素材でクチュールっぽい衣装を作成するとか、シチュエーションコメディやコマーシャルで演技をするとか、モノマネをしてゲームショーの出演者を演じるとか、ドラァグクィーンの姿で路上の見知らぬ人に難題をお願いするとか、アスリートのノンケ男性をドラァグクィーンに仕立てるとか、女性政治家に扮して政治的なスピーチをするなど、単に「キレイに着飾ること」だけではありません。演技力、お笑いのセンス、ダンスの才能、裁縫などのドレス作成技術、モノマネの完成度、かつらをセットする技術、メイクのテクニックなど、審査される能力の範囲は、どのバトル形式のリアリティー番組よりも広い範囲になっていると言っていいでしょう。そして、もっとも重要なのは、各チャレンジの意図を理解して、自分の個性を表現することなのかもしれません。

「メイン・チャレンジ」に向けて出場者たちが作業中、RuPaul(ル・ポール)はワークルームを再び訪問してアドバイスをします。「プロジェクト・ランウェイ」でのティム・ガン氏の役割もRuPaul(ル・ポール)が担っているわけですが・・・出場者それぞれのパーソナリティーを考慮しながら、的確なアドバイスをしていく手腕は見事であります。また、ここの場面で見えてくるのが、ワークルーム内での出場者同士の確執・・・そして、徐々に化粧をして、男性の姿からドラァグクィーンに変貌していく過程です。

「メイン・チャレンジ」の次のパートは、RuPaul(ル・ポール)らの審査員たちの前で行なわれる「ランウェイ・パート」・・・まず、RuPaul(ル・ポール)が、ドラァグクィーンのドレス姿で登場します。ここでのRuPaul(ル・ポール)の美貌は圧倒的・・・すべての出場者を凌駕してしまうほど完璧です。審査員を紹介後、いよいよ「ランウェイ・パート」となるわけですが、ここでのRuPaul(ル・ポール)の決まり文句は・・・「Let the best woman wins!」(最高の女性に勝利を!)であります。

出場者たちは、与えられたテーマのスタイルで、ランウェイウォークを見せることになるのですが・・・ここで着用するコスチュームは持ち込みしている市販のドレスの時もあれば、テーマによっては与えられた生地やトリミングでデコレーションを施したり、時には生地からコスチューム全部を作成しなければならない時もあるのです。与えられている期日が1~2日程度ということを考慮すると、「プロジェクト・ランウェイ」以上に過酷なタスクと言えるでしょう。
12人~14人の出場者からスタートして、毎週ひとりずつ落選していくわけですが・・・「メイン・チャレンジ」の「ランウェイ・パート」の後、落選候補として「ふたり」が残されます。そして、その「ふたり」が「Lip Sync for your life/リップ・シンク・フォー・ユア・ライフ」で競い合い、審査員長のRuPaul(ル・ポール)の独断により、その回の落伍者が決定するのです。リップ・シンクとは、歌に合わせて口パクで踊るドラァグクィーンならではのパフォーマンス。”命がけ”という表現がピッタリの戦いとなるわけで・・・番組に生き残るために、必死にリップ・シンクをするというエキサイティング、かつ、時には感動的なドラマを生み出す番組の頂点であります。

リップシンク・フォー・ユア・ライフ

「リップ・シンク・フォー・ユア・ライフ」の後、RuPaul(ル・ポール)から落伍者と居残る者が伝えられるわけですが・・・ここでの決まり文句が「Sahay Away/サシェイ・アウェイ」「Shate, you stay/シャンテ・ユー・ステイ」であります。「Sashay, Shante」は、RuPaul(ル・ポール)が下積み時代から使ってきた造語のキャッチフレーズ・・・「Sashay,」はモデルがカッコつけて歩いているような雰囲気、「Shante」は美しくポーズを決めているよな雰囲気というイメージでしょうか?正確な意味というのはなく、音触りの良さがポイントなのです。

番組の最後は、生き残った出場者が一同に並んでエンディングとなるのですが、ここでのRuPaul(ル・ポール)の決まり文句は・・・「If you don't love yourself, how the hell you gonna love somebody else!」(自分を愛せないければ、誰も愛せやしないわよ!)と言った後、まるで伝道師のように「Can I get Amen!」(アーメンをちょうだい!)と唱えて”締める”のです。キリスト教を前提としない日本人からすると、ちょっと違和感さえ感じさせるところはありますが・・・「ル・ポールのドラァグレース」を”ファミリー番組”と冗談まじりに例えるRuPaul(ル・ポール)のパロディなのかもしれません。

最終的に3人まで(例外もあり?)絞り込み・・・その3人が「Next America's Drag Super Star/ネクスト・アメリカズ・ドラァグ・スーパースター」のクラウンを競うことになるのですが、最後の「メイン・チャレンジ」は、RuPaul(ル・ポール)の新曲プロモーションビデオへの出演・・・ここではダンスの才能、演技力が重要となります。そして「ランウェイ・パート」の後、最終選考をふたりに絞り(例外あり)最後の「Lip Sync for your life/リップ・シンク・フォー・ユア・ライフ」で競い合い・・・「Next America's Drag Super Star/ネクスト・アメリカズ・ドラァグ・スーパースター」が決定するのです。

番組開始当初、優勝賞金は2万5000ドルでしたが、今では10万ドルとなり、副賞には化粧品やクルーズ旅行と豪華になっています。さらに、優勝者だけでなく、番組の候補者たちは全米を「Battle of the season」と名付けられたドラァグクィーンのショーで営業するキャストになることができるのです。また、多くの出場者は、アーティストとしてデビューしたり、化粧品会社の契約モデルになるなど、飛躍的な活躍をしています。

シーズン4からは「Next America's Drag Super Star/ネクスト・アメリカズ・ドラァグ・スーパースター」の発表はシーズンエピソードの最終回ではなく・・・観客を入れた会場で行なわれる「Reunion/リユニオン」(番組放映後の同窓会)で、大々的に発表というスタイルになっています。この変更は理にかなっていて・・・最後の最後まで結果が分からないという”お楽しみ”を引っ張るだけでなく、インターネットを通じて視聴者からの意見も反映することができるわけです。

5:タイプ別のドラァグクィーン

バトル形式のリアリティー番組の面白さは、チャレンジの出来不出来”だけ”ではありません。他の番組と同様・・・居残れば居残るほど長期にわたる閉鎖された過酷な状況(家族や友人への連絡は禁じられている場合も多い)での、出場者同士の不仲、確執、嫉妬、妬み、喧嘩などが、視聴者の興味を惹きつけるのです。ドラァグクィーンは、男性的な要素(好戦的な態度)と女性的な要素(策士的な頭脳)を兼ね備えているところがあるので、数人が集まったら確執が生まれるのは火を見るより明かなこと・・・また、アメリカのドラァグクィーンにはいくつかのタイプがあり、それぞれがお互いのタイプを牽制して認め合わないので、トラブルが起こるのは必然と言えるでしょう。

ルックスの美貌とリアルネスを追求する「ビューティーコンテスト(ページェント)タイプ」は、フロリダ州やテキサス州などアメリカ南部に比較的多く、本物の女性以上に美しい(とは言っても体格はそれなりに男性的?)のが強みです。比較的、年齢的に若いドラァグクィーンであることが多く、若さと美貌を武器に普段チヤホヤされているせいか、性格的にわがまま放題、基本的に自己チューで、本番組ではトラブルメーカーになりがち・・・他の出場者から真っ先に嫌われることが多いタイプでもあります。


ドラァグクィーンのショーで舞台に立つ「プロフェッショナルタイプ」は、モノマネが得意だったり、歌が上手かったり、コメディアンとしてのセンスが優れていたり、パフォーマーとしての完成度が高いのが特徴です。「Old School/オールドスクール」と呼ばれるドラァグクィーンの伝統を継承し、キャリアも積んできているので、年齢的にも高めだったりします。ただ、ドラァグクィーンに必要な技術に長けているし、豊富な人生経験によって人望も厚く、本番組では出場者たちの精神的な支えとなっていく”キーパーソン”となることが多かったりします。


貧しい地区で育った「ゲトー(貧民街)タイプ」は、家出少年や親に捨てられた少年たちであることが殆どです。生きるためにドラァグクィーン(男娼として働くことも)になっている場合もあり、女性のフリをして男性客を欺くという・・ドラァグクィーンの悪いステレオタイプの原因になってきたことは否めません。年長者のドラァグ・クィーンを”ドラァグ・マザー”とするドラァグ・ファミリー=ハウスに所属していることが多く、同じハウスのメンバーは同じファミリーネームを名乗のることを週刊としていましたが、現在では、ハウスの存在意義もサバイバルのためというよりも、仲間意識の強化が目的となってきているかもしれません。


日本のオネエタレントの「ダイアナ・エクストラバガンザ」や「ナジャ・グランディーバ」は、ドラァグ・ファミリーを真似て命名した芸名でしょう。この「ゲトータイプ」の厳しい現実については「Vouguing/ヴォーギング」を競う「Ball/ボール」を描いたドキュメンタリー映画「Paris is Burnig/パリス・イズ・バーニング」で赤裸々に記録されています。

ステレオタイプのドラァグクィーンではなく・・・個性的であることを目指す「アートタイプ」は、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコなどゲイクラブが細分化している大都市に存在することが多いようです。いわゆるドラァグクィーン好みの”ゴージャス系”ではなく”アヴァンギャルド系”のファッションを嗜好して「メイン・チャレンジの「ランウェイ・パート」のコスチュームも、テーマの解釈が独特で、リスクを負うことを恐れない独自性を追求していきます。しかし、ある種、攻撃的(?)な外見に反して、化粧を落とした素顔は、ナイーブな青年で繊細であることが多いようです。イジメられっ子として悲惨な少年時代を送った場合も多く・・・ただ、他のタイプのドラァグクィーンからは「バケモノ」扱いされたり、「変人」「コミック(お笑い系)」とバカにされ、番組内でも”イジメられっ子”的なポジションに追い込まれることが多かったりします。


6:ドラァグクィーンの楽しみ方

ドラァグクィーンの名前も”お楽しみ”のひとつ・・・出場者たちは番組内では(男性の姿でいる時も)本名ではなく、ドラァグネームが使われます。典型的なドラァグネームのひとつは「名前だけ」のドラァグネームでありまして・・・多くの場合、音の響きによってつけられていています。「Raven/レイヴン」「Jujubee/ジュジュビー」「Raja/ラジャ」「Willam/ウィラム」、すでにある言葉をもじった「Detox/デトックス」、ブランド名のスペルを変えた「Shannel/シャーネル」、何故か地名を名前にしてしまった「Alaska/アラスカ」「Milan/ミラノ」などがあり・・・ファッションモデル的で、どこかしらエキゾチックな雰囲気を漂わせます。

ファーストネームとラストネームを組み合わせた「Carmen Carrera/カルメン・カレラ」「Jessica Wild/ジェシカ・ワイルド」「Tyra Sanchez/タイラ・サンチェス」「Ivy Winters/アイヴィー・ウィンターズ」などは、いかにもストリップダンサーにありそうな名前だったりします。「Pandora Boxx/パンドラ・ボックス」「Jinkx Monsoon/ジンクス・モンスーン」などは、二つの言葉の意味を掛け合わせるというのも、ドラァグクィーンらしい捻りの効いたセンスです。「Latrice Royale/ラトリース・ロイエール」のように、ゴージャスっぽいネーミングは、まさに伝統的なドラァグクィーンらしさを感じさせます。

「Sharon Needles/シャロン・ニードルズ」「Honey Mahogany/ハニー・マホガニー」「Nina Flowers/ニナ・フラワーズ」「Rebecca Glasscock/レベッカ・グラスコック」などは、女性のファーストネームにドラァグクィーンらしい嘘っぽいラストネームを加えることで、独自の世界観を表現しているかのようです。「Sahara Devenport/サハラ・デヴンポート」「Manila Luzon/マニラ・ルゾン」などは、イメージで言葉を並べています。「Phi Phi O'Hara/フィフィ・オハラ」「Coutoney Act/コトニー・アクト」「Delta Work/デルタ・ワーク」などは、有名人の名前を拝借して、イメージを掻き立てるのに役立っています。「Chad Michaels/チャッド・マイケルズ」のように、希に本名がドラァグクィーンっぽいこともあるようですが・・・一般的にドラァグネームは、ドラァグクィーンのアイデンティティーというだけでなく、如何にジョークにできるかというところも決め手となるので、なかなか奥深いものがあります。

舞台裏でのドラァグクィーン同士の戦いも見逃せません・・・ということで、第4シーズンからはスピンオフエピソード「Untcked/アンタックド」という番組も同時に制作されるようになっています。これは「メイン・チャレンジ」の「ランウェイ・パート」の後、出場者達が控え室(ゴールドルームとシルバールームがある)で審査を待っている間の様子を撮影したものなのですが・・・もうすぐ誰かが落選するという緊張感の中、必ずと言って良いほど喧嘩が始まるのです。さらに、RuPaul(ル・ポール)からのメッセージを託した「Pink Box/ピンクボックス」がプレゼントされて、時には意図的に喧嘩の種を提供したりするのですから・・・番組制作側も結構意地悪。時には、出場者の家族、恋人からのビデオレターなどを紹介する時もあり、お涙頂戴の演出となることもあります、なんだかんだで、”シスター”として出場者同士の絆を強めることにも、貢献しているようです。

ドラァグクィーン特有のスラングを理解することは「ル・ポールのドラァグレース」を楽しむためには必要なことかもsりえません。「Read/リード」=相手の弱点を指摘すること。明らかな欠点を指摘するのではなく、皮肉とユーモアでキツイひと言というのが、上手な「リード」です。このスラングから「Put your reading glasses. Liberaly is open」(リーディング眼鏡をかけて!図書館が開館しま〜す」というような言い方をすることもあります。「Shade/シェイド」=侮辱のひとつの形で、リードすることで「being shady」となるのです。「No Shade」は、侮辱し合うのではなく・・・「What's the tea/ワッツ・ザ・ティー」=「本音(真実)は何?」と腹を割って話し合う時によく使われます。

「Tuck/タック」「Untuck/アンタック」=男性器を股に押し込むことが「タック」で、それを元に戻すことが「アンタック」と言います。小さめの下着の着用やマスキングテープの使用によって、男性器の竿部分と玉部分の両方を股(下から後ろ?)に押し込んで、女性のような平坦な股間にするのです。アソコのサイズ次第では、それなりの苦痛を伴うようですが・・・レオタードやビキニのような股間がピッタリした衣装の時には「タック」することは絶対的に必要な作業であります。

何でも大袈裟に表現するのがドラァグクィーン・・・形容詞の最上級には事欠きません。「Eleganza Extravaganza/エレガンテ・エクストラバガンザ」=「エレガンス」の最上級。「fierce!/フィアス!」=「上出来」の最上級。「Sick"ning/シックニング」=「素晴らしい」の最上級。一昔前ならば・・・なんでもかんでも「Fabulous!/ファビュラス!」と表現されていましたが・・・現在では、ほぼ死語といっても良いかもしれません。

女性”らしさ”を表現している女装を「Realness/リアルネス」と言いますが・・・ドラァグクィーンの「リアルネス」は、本物の女性として「パス」することが目的ではありません。あくまでも、ドラァグクィーン的なステレオタイプの”女性像”を強調しているということ・・・「1950年代サントロペのリゾートスタイル」とか「パークアヴェニューのランチョンスタイル」とか、ほぼ「妄想」と「思い込み」に近い世界観だったりします。反対語として言われるのが「Fantasy/ファンタジー」・・・こちらは「パリコレモデルをするスーパーガール」とか「エジプトのミイラのグラマーに生き返った」とか、アリエナイ設定のスタイルのことです。

「Honey/ハニー」というのは一般的にパートナーなど(愛する人)を呼ぶ時に使われます。逆に、女性に対して侮辱的な罵倒する呼び名として使われるが「Cunt/カント」(女性器の意)・・・そこで、仲の良いドラァグクィーン同士は「ハニー」と「カント」を合成して「Hunty/ハンティー」と呼び合うのです。ドラァグクィーンの多くは「ゲイ男性」・・・化粧を落とした時、男性として魅力的なドラァグクィーンのことは「Trade/トレード」と呼びます。ハンサムな男性が必ず美しいドラァグクィーンになるわけではありませんが・・・多くのドラァグクィーンは日常生活は男性の姿で過ごしていることが多いので、男としても魅力的というのは、さまざまなケースでアドバンテージがあるのかもしれません。そして、ドラァグクィーン同士でセックスすることは「Kai Kai/カイカイ」と言って、ちょっとした秘事・・・一般的にドラァグクィーンは、より男性的な男性を求めることが多いので、ドラァグクィーンの間で肉体関係が発生することは、滅多にありません。ただ、希に”似た者同士”でくっついてしまうこともあり・・・このような場合、パートナー同士で化粧品、かつら、衣装、補正下着などを貸し借りできるという利点はあるとは言われています。

7:「ル・ポールのドラァグレース」の意義

「ル・ポールのドラァグレース」の出場者はドラァグクィーンの中でも、一筋縄ではいかない強者揃い・・・エピソード1で全出場者が揃った時点では、正直、誰にもシンパシーを感じられません。しかし、エピソードを重ねていくうちに・・・化粧、かつら、衣装の下に潜んでいる”素”の人間性が垣間見えてきて、ひとりひとりの出場者が愛しくなってきてしまうのです。まんまと演出にハマってしまっているということですが・・・リアリティー番組の神髄は、その演出が多少意図的であったとしても、出場者の人間らしい”素”の弱い部分に視聴者が共感してしまうところなわけで、「ル・ポールのドラァグレース」はバトル系リアリティー番組として、これ以上ないほど正統派であると言えるでしょう。

RuPaul(ル・ポール)は、出場者すべての「ドラァグ・マザー」的存在として、また、ドラァグクィーンの「ローモデル」として、「ル・ポールのドラァグレース」という番組を背負っています。番組内で繰り返し使われる音楽のすべてはRuPaul(ル・ポール)の曲の一部ですし、チャレンジで使用することのできるパンプスなどもRuPaul(ル・ポール)プロデュースによるものだし、番組内のルールもRuPaul(ル・ポール)の気持ちひとつで変更可能と、まさにRuPaul(ル・ポール)カラー一色なのです。

古い友人を大切にすることで知られているRuPaul(ル・ポール)は、本番組に多くの友人をスタッフやキャストに配しています。審査員のミッシェル・ヴィサージュとサンティノ・ライスとは、20年以上の付き合いらしいですし、RuPaul(ル・ポール)のヘア&メイクを担当するMathu(マヒュー)、コスチューム担当ののZaldy(ザルディー)らとも、メジャーデビュー以前からの付き合いだそうです。番組内で出演するカメラマンのMike Ruiz(マイク・ルイズ)にしても、ダンスの振り付け師のCandis Cayne(キャンディス・ケイン)にしても、古い友人・・・また、最近その存在を公言したオーストラリア人のボーイフレンド/パートナーのGeorge LeBer(ジョージ・レバー)とは20年来の仲であります。「ル・ポールのドラァグレース」という番組は、RuPaul(ル・ポール)に集められた長年の友人たちに支えられているのです。

RuPaul(ル・ポール)にとって、深夜のテレビトークショー番組「アセニオ・ホール・ショー」に出演することは、大きな節目となるようです。約20年前、ブレイクのきっかけになった出演時には、ド派手なドラァグクィーンの姿でしたが...今年の出演の際には、あえて男性の姿で登場しました。ドラァグクィーンのRuPaul(ル・ポール)と男性タレントとしてのRuPaul(ル・ポール)を使い分けるというのも、RuPaul(ル・ポール)らしい選択と言えるでしょう。

2014年/アセニオ・ホール・ショー

現在、世界中のドラァグクィーンの中でも、圧倒的な美貌を誇るRuPaul(ル・ポール)でありますが・・・ドラァグクィーンとしての自己表現というエゴや、ナルシシズムの自己満足というのは一切感じさない器の大きい人格者であります。「ギャラ貰わないとドラァグクィーンにはならない!」と冗談めいて公言していますが・・・これは、ドラァグクィーンを真面目にとらえ過ぎていないバランス感覚に富んだ発想を持っているからに他なりません。また、外見的な完璧さを求める努力とプロフェッショナリズムの照れ隠しかもしれません。ドラァグクィーンというのは、ゲイカルチャーが長年愛おしんできた文化を、モザイクのように集めた”パロディ”芸術であることを、誰よりも理解して体現しているのがRuPaul(ル・ポール)だと、ボクは思うのです。

RuPaul(ル・ポール)という”ひとりの人間”の人生の集大成と言える「ル・ポールのドラァグレース」でありますが、RuPaul(ル・ポール)自身の再ブレイクを果たしただけでなく・・・”ドラァグクィーン”という存在への理解と認知度を高めることに貢献し、ドラァグ・カルチャーを全米のメインストリームに浸透させ続けている画期的な番組といっても過言ではありません。

オネエタレントが当たり前のようにテレビで毎日のように観られる日本で、ぜひ「ル・ポールのドラァグレース」を放映して欲しいと思います。スラングの翻訳など敷居は決して低くはありませんが・・・英語が堪能らしいミッツ・マングローブが解説するというのは、どうでしょう?できれば・・・マイナーなケーブルチャンネルとかではなく(フジテレビの有料配信のNEXTチャンネルで、シーズン1が放映されていたことがあるらしい)地方局(テレビ東京とか、東京MXで?)のプライムタイムで、実現して欲しいものです!

「ル・ポールのドラァグレース」
原題/RuPaul's Drag Race
2009年よりLOGO TVにて放映
出演 : ル・ポール・チャールズ、ミッシェル・ヴィサージュ、サンティノ・ライス、ビリーB


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ピエール・ベルジェとサンローラン財団が全面協力した伝記映画・・・ちょっと下世話なゲイ描写と伝説的なファッションショーの再現~「イヴ・サンローラン/Yves Saint Lauren」~

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2002年にデザイナー引退を表明して以来、イヴ・サンローランに関する映画が続々と製作されています。20世紀のフランスファッションを代表するデザイナーというだけでなく、公私ともにパートナーであったピエール・ベルジェとの同性愛関係や、若者カルチャーが激変した1960年代から1970年代の生き証人として、語るべき物語には尽きないようです。

まず、2002年の引退時期に合わせたかのように発表されたデビット・テブール(David Teboul)監督による2本のドキュメンタリー映画があります。「Yves Saint Laurent: His Life and Times」は、インタビューと過去の映像を取り混ぜた・・・唯一のイブ・サンローラン生前に作られたドキュメンタリー映画です。サンローラン本人が自身のホモセクシャリティについて語るだけでなく、サンローランの母親に息子のホモセクシャリティに関して質問するという突っ込んだ内容でした。「Yves Saint Laurent: 5 Avenue Marceau 75116 Paris」は、最後のオートクチュールコレクションの製作過程に密着したドキュメンタリー・・・精気に欠けたイヴ・サンローランの姿には痛々しいところもあり、それを含めて貴重な映像と言えるかもしれません。

2008年、イヴ・サンローランが71歳で死去。その後、イヴ・サンローランとピエール・ベルジェによって収集された美術品のオークションの過程を追いながら、ピエール・ベルジェの回想インタビュー、サンローラン生前のフィルムやスチール写真などで構成された・・・2010年のピエール・トレトン(Pierre Thoretton)監督によるドキュメンタリー映画「イヴ・サンローラン/L'Amour Fou」(めのおかし参照)が制作されました。日本では「イヴ・サンローラン」というタイトルがつけられていましたが、フランスの原題「狂おしい愛」が示していたとおり・・・ピエール・ベルジェというイヴ・サンローランを愛した男の人生を浮き彫りにしたものでした。

そして、ドキュメンタリー映画「イヴ・サンローラン/L'Amour Fou」から数年・・・去年、今年と続けてイヴ・サンローランを描いた”劇映画”が2本「イヴ・サンローラン/Yves Saint Laurent」と「サンローラン/Saint Laurent」が製作されているのです。

先に公開されたジャリル・レスペール(Jalil Lespert)監督による「イヴ・サンローラン/Yves Saint Laurent」は、イヴ・サンローラン財団とピエール・ベルジェの全面的な協力を得て作られた・・・いわば「公式」な伝記映画であります。実際のイヴ・サンローランの仕事場やファッションショー会場で撮影を行い、ファッションショーで使用された衣装は特別に財団により保存されている”オリジナル”という「本物」にこだわる徹底ぶり・・・さらに、若き日のイヴ・サンローランに生き写しのピエール・ニネによる完璧なモノマネ演技より、伝記映画としては隙がありません。

本作「イヴ・サンローラン」では、1958年イヴ・サンローランがクリスチャン・ディオールのアシスタントとして働き始めるところから、デザイナーとして全盛期の頂点であった「ロシアンコレクション」までを、美術品のオークション出品準備をするピエール・ベルジェ(キョーム・ガリエンヌ)の視点で振り返っていくのですが・・・2010年のドキュメンタリー映画「イヴ・サンローラン/L'Amour Fou」と内容的にかぶっているところが多く、インタビューで語られていた部分が再現されているという感じです。映画ではハッキリとは描写されていませんが・・・1976年の二人の恋人関係が解消した時点で回想が終わるということで、本作も「イヴ・サンローラン/L'Amour Fou」と同様にピエール・ベルジェ版のイヴ・サンローランの伝記と言えるのかもしれません。

1時間45分ほどで、イヴ・サンローランの人生のうち最も波乱に満ちていた20年間ほどを振り返ろうというのですから、いろんな逸話をあれこれと詰め込んだという印象です。イヴ・サンローランの人生と彼の交友関係のあった人々を知らないと、登場人物が誰なのかが理解できないかもしれません。ネタバレは気にせずに、しっかりと前記のイヴ・サンローランのドキュメンタリー映画などを観たりして、しっかりと予習して観ることが必要だと思います。

ここからネタバレを含みます。


クリスチャン・ディオールの葬儀会場で初めて会ったと言われるイヴ・サンローランとピエール・ベルジェ・・・当時ピエール・ベルジェにはアートディラーのバーナード・ブフェット(ジャン=エドワルド・ボザック)という恋人がいたのです。その後、ピエール・ベルジェはハーパーズ・バザーの編集者のコネを使って(?)クリスチャン・ディオー亡き後のコレクションでデザイナーに就任したばかりのイヴ・サンローランを食事会で紹介してもらい・・・二人は見事に恋に落ちることになります。


これは”奇跡の出会い”と言えるかもしれませんが・・・ピエール・ベルジェの策略が上手くいったと邪推してしまうのは、少々意地悪でしょうか?当初はプライベートな関係だった二人でしたが、ピエール・ベルジェは徐々にディオールのデザインスタジオに入り込んでいき・・・そして、ピエール・ベルジェはバーナード・ブフェットと分かれて、イヴ・サンローランと同棲を始めるのですから。


しかし、ディオールから解任された後、イヴ・サンローラン自身のオートクチュールハウスを設立するために、金策を走り回ったのはピエール・ベルジェだったわけで・・・精神的に弱いイヴ・サンローランにとっては、ビジネス上でもピエール・ベルジェは欠かせない存在となっていくのは当然のこと。後にイヴ・サンローランの才能の寄生虫のように、煙たがられてしまう存在となってしまうピエール・ベルジェですが・・・イヴ・サンローランのキャリアにとって、必要不可欠な人物であったことは否定できないのかもしれません。

クリスチャン・ディオールのミューズであったヴィクトワール・ドゥトレリュー(シャルロット・ルボン)は、イヴ・サンローランの独立後もミューズであり、カール・ラガーフェルド(ニコライ・キンスキー)とのプラトニックな奇妙な三角関係もあったのですが・・・いきなり彼女は引退することになります。それは、ディオールに代表された”ライン”の時代から、”感性”のファションの時代へ移行したこともあったようなのですが、実はピエール・ベルジェとヴィクトワールの確執があったことが本作で描かれています。それも、ピエール・ベルジェがヴィクトワールと無理矢理肉体関係を持ったことを、あえてイヴ・サンローランの告げ口するという”小汚い”手口だったというのですから・・・なかなかエグいです。


その後、1965年「モンドリアンルック」の世界的な注目を集めたイヴ・サンローランは、オートクチュールのデザイナーとして初めてプレタ・ポルテ(高級既製服)の店舗をオープンさせたり、「サファリルック」「パンツスーツ」「アフリカンルック」など若々しい感性で、デザイナーとして第一線の活躍をしていくことになります。デザインに追われるパリから逃げ出し、プライベートな時間を過ごすため、イヴ・サンローランはモロッコに別荘を購入・・・新しいミューズとなったバティ・カトルー(マリー・ドビルパン)やルル・ド・ラ・ファレーズ(ローラ・スメット)らとつるむようになるのです。


時代の寵児となったイヴ・サンローランの元には、流行の先端をいく若者が集まってくるわけで・・・時代的な背景を考えれば、ドラッグ、アルコール、セックスに溺れていくことは、当然の流れだったのかもしれません。ただ、恋人としての愛情だけでなく、ビジネスのパートナーの責務として、ピエール・ベルジェは”お目付役”という嫌われ者をかって出て、イヴ・サンローランを守ろうとしていたというのは、ある意味真実なのかもしれません。

1970年代のパリ社交界とゲイのアンダーワールドのセレブであったジャック・デ・バシェー(ザビエ・ラ・フェット)は、カール・ラガーフェルドの恋人として知られていますが・・・実はイヴ・サンローランとも愛人関係にありました。パーティー会場の片隅でジャック・デ・バシェーがイヴ.サンローランを誘惑してオーラルセックスをしたり、怪しいゲイクラブでイヴ・サンローランが手を縛られて後ろから犯されているとか・・・ちょっと下世話なゲイ描写(映画では、ハッキリとは映像では見せていませんが)によって描かれています。

勿論、ピエール・ベルジェがイヴ・サンローランとジャック・デ・バシェーの関係を見逃すわけはなく・・・ピエール・ベルジェはジャック・デ・バシェーを脅迫して、無理矢理イヴ・サンローランから引き離すことになるのです。ジャック・デ・バシェーとの経緯があった後、ピエール・ベルジェとイヴ・サンローランは結果的に恋愛関係を解消することになり、純粋にビジネスパートナーとなってしまうのですから、ジャック・デ・バシェーの存在というのは非常に大きかったと言えるでしょう。


本作では、長年に渡るカール・ラガーフェルドとの(デザイナーとしてだけでなく)プライベートでの確執を描ききれていないのは残念・・・ピエール・ベルジェ公認ということもあるでしょうが、カール・ラガーフェルド側への配慮もあるのかもしれません。そのため・・・精神的に弱いイヴ・サンローランは第一線でデザイナーとして活躍し続けるプレッシャーによって、徐々にドラッグ、アルコール、セックスに溺れていったという「才能に溢れた成功者の転落」「輝かしい過去への郷愁」いうドキュメンタリー映画で何度も描かれた・・・お馴染みの「イヴ・サンローラン物語」となってしまったような気もします。


さて・・・もうひとつのイヴ・サンローランの伝記映画は、ピエール・ベルジェの協力も、財団のサポートも受けずに製作された”非公認”となるベルトラン・ポネロ(Bertrand Bonello)監督による「サンローラン/Saint Laurent」です。ジャリル・レスペール監督版と違い1967~76年の10年間という最もイヴ・サンローランの人生の中でも破天荒な時期を描いています。イヴ・サンローランとカール・ラガーフェルドを翻弄させたジャック・デ・バシェーの存在感を予感させる予告編・・・ピエール・ベルジェが封印したいスキャンダルなイヴ・サンローラン像が描かれるのでしょうか?


イヴ・サンローラン役にはギャスパー・ウリエル、ピエール・ベルジェ役にジェレミー・レニエ、ルル・ド・ラ・フランセーズ役にレア・セドゥ(アデル、ブルーは熱い色)・・・と、本人たちには似ているとは思えないキャスティングではあります。ただ、ギャスパー・ウリエルが卑屈に微笑むポスターから感じ取れるのは微かな”悪意”・・・非公認を逆手に取ったエグい描写に期待が膨らみます。また、1989年当時のイブ・サンローラン役を演じるのが”ヘルムート・バーガー”(!!!)というのも、非常に気になるところ・・・御歳70歳となる”元美青年”の恐ろしいまでの劣化が、老年期のイヴ・サンローランと重なります。


ファッションショーの再現には、財団の所持するオリジナルを使用することはできないので、おそらく全てを改めて制作したと推測しますが、スチール写真を見る限り、まったく本物と比べても引けを取っていない感じです。おそらく、タブロイド紙的な下世話な内容になりそうな「サンローラン/Saint Laurent」・・・イヴ・サンローラン亡き後、どうしてもピエール・ベルジェ視点でしか語られることのなかった物語が、どのようにフィクションを交えて描かれるのか楽しみであります!


「イヴ・サンローラン」
原題/Yves Saint Laurent
2013年/フランス
監督 : ジャリル・レスペール
脚本 : ジャリル・レスペール、マリー=ピエール・ユステ、ジャック・フィエスキ
出演 : ピエール・ニネ、キョーム・ガリエンヌ、シャルロット・ルポン、ローラ・スメット、マリー・ドビルパン、ニコライ・キンスキー、マリアンヌ・バスラー
2014年6月28日「フランス映画祭2014」にて上映
2014年9月6日より日本劇場公開


「サンローラン」
原題/Saint Lauren
2014年/フランス
監督 : ベルトラン・ポネロ
脚本 : ベルトラン・ポネロ、トーマス・ブリッジゲイン
出演 : ギャスパー・ウリエル、ジェレミー・レニエ、レア・セドゥ、ルイス・ガレル、アミラ・シーザー、ヘルムート・バーガー
2014年9月24日よりフランス劇場公開


 

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ジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブル・・・1930年代ハリウッド黄金期のゴールデンコンビ~「暗黒街に踊る/Dance, Fools, Dance」「笑ふ罪人/Laughing Sinners」「蜃気楼の女/Possessed」「ダンシング・レディ/Dancing Lady」「私のダイナ/Chained」「結婚十分前/Forsaking All Others」「空駆ける恋/Love on the Run」「ストレンジ・カーゴ/Strange Cargo」「ゼイ・オール・キス・ザ・ブライド/They All Kissed the Bride」~

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クラーク・ゲーブルが共演した女優たち

「風と共に去りぬ」のレッド・バトラー役で映画史に永遠に名を残すクラーク・ゲーブルは、亡くなる年まで「キング」と呼ばれてハリウッドのスターでありました。男性観客向けの映画出演も多いのですが・・・スター女優との共演作も数知れません。 その中でも最も多い8度の共演をしているのが、1930年代MGMのスター女優であったジョーン・クロフォード(マイヤ・ロイ7作品、ジーン.ハロウ6作品)・・・ジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルは1930年代ハリウッド黄金期の「ゴールデンコンビ」だったのです。


にも関わらず、ジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルの共演作品が語られることは、日本ではそれほど多くはありません。それは、これらの作品が大衆向けのスター映画として当時は興行成績は良かったものの・・・その後映画作家と呼ばれるような映画監督による作品でもなく、映画評論家から高く評価されるような作品でもなく、誰もが知っている原作からの文芸作品でもなく、また映画論に記述されるような際立ったスタイルで撮影された作品でもなかったので、映画史を振り返る時、繰り返し語り継がれることがなかったからなのかもしれません。

確かに、どの作品も”洋画の名作”と言われているわけでもなく、職人監督によって”ソツ”なく作られた1930年代に量産された平均的な作品ばかり・・・ただ、ヘイズコード以前の倫理観や、当時の風俗や流行を知る上で、貴重な作品ではあります。また、ジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルのスクリーン上での抜群の相性の良さは、制作されてから80年(!)経った今でも、色褪せることはないのです。

「暗黒街に踊る/Dance, Fools, Dance」


二人が初めての共演をした1931年当時・・・ジョーン・クロフォードはすでにMGMの「スター女優」で、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア(父親はサイレント映画時代にキング・オブ・ハリウッドと呼ばれていた)の妻。一方、すでに30歳となっていたクラーク・ゲーブルは、MGMと契約したばかりの遅咲きの「新人男優」・・・共演1作目となる「暗黒街に踊る/Dance, Fools, Dance」は、ジョーン・クロフォード主演のスター映画で、クラーク・ゲーブルはジョーン・クロフォード直々の指名により、脇役のひとりとして出演することになったと言われています。

金持ちのわがまま娘のボニー(ジョーン・クロフォード)と気の弱い弟のロドニー(ウィリアム・ベイクウェル)は、社交界の友人たちや男友達のボブ(レスター・ヴェイル)と遊びほうける生活をしていましたが、恐慌のショックで父親が急死、その上”一文無し”になっていまいます。ボブのプロポーズを断り、自立して働くことを決心して新聞社で働き始めるボニー・・・同僚の記者スクラントン(クリフ・エドワーズ)が、暗黒街のボス・ジェイクの調査中に殺され、ボニーはジェイクの経営するナイトクラブにダンサーとして調査することになるのです。

サイレント映画時代”フラッパー女優”が代名詞だったジョーン・クロフォードですから・・・ダンサーのフリをして潜入調査するという役柄は”十八番”と言えるのかもしれません。ただ、当時のフラッパーダンスというのは手足をバタバタさせるだけ・・・ダンサーとしてのジョーン・クロフォードは、正直微妙です。

本格的な映画出演として、ほぼ第1作目(撮影時期は分かりませんが、公開されたのは最初)となる本作で、クラーク・ゲーブルは悪役の暗黒街のボスを演じているのですが・・・その後の渋いプレイボーイっぷりを予感させる”いかにもゲーブルらしい”役柄であります。スター女優であるジョーン・クロフォードと共にスクリーンに収まっても、存在感に引けを取らないどころか、スクリーンでの二人の相性は抜群・・・その後、共演作品が毎年のように作られたのは、当然のことのように思えるのです。


実は・・・弟のロドニーは暗黒街のボス・ジェイク(クラーク・ゲーブル)の手下となっていて、ナイトクラブに取材にきたスクラントンに、ロドニーはうっかりと口を滑らしてしまうのです。そして、その失態の責任を取るために、ロドニーはスクラントンを拳銃で撃たなければならなかったのでした。

一方、潜入調査中のボニーは、ナイトクラブに遊びに来ていたボブに、見つかってしまいます。しかし、調査を続けるためにも、ボニーはボブを冷たくあしらってしまうのです。思惑どおり、ボニーはジェイクを誘惑することに成功し、ガールフレンドとなってジェイクの部屋に潜入するのですが、そこでロドニーがスクラントンの殺人犯であることや、その経緯を知ることになってしまいます。

しかし、その時すでに、ジェイクはボニーの正体を見破っていて、ボニーを問い詰めるのです。そこにロドニーが突如現れて、激しい銃撃戦となり、ジェイクとロドニーは相撃ちして亡くなってしまいます。弟を救うことはできませんでしたが、事件現場から涙ながらに新聞社へ事件の経緯を報告したボニーの記事は、大スクープとなるのです。記者として認められたボニーですが、事件のショックから新聞社の仕事は辞めることになります。そんなボニーの目の前に現れたのは、誰あろうボブ・・・すべての経緯を知った彼は、再びボニーにプロポーズして「めでたしめでたし」となるのです。

「暗黒街に踊る/Dance, Fools, Dance」を男友達のボブの視点で観てみると・・・惚れていた社交界のわがまま娘が一文無しになったのでプロポーズしたところ断られ、その後未練タラタラで彼女が潜入調査をしている現場に行ってみたら思いの外冷たくあしらわれ、弟を亡くして傷心状態の彼女に再びプロポーズしたら受け入れてもらえたという物語なのであります。

「笑ふ罪人/Laughing Sinners」


クラーク・ゲーブルとジョーン・クロフォードの共演2作目は、同年(1931年)に公開された「笑ふ罪人/Laughing Sinners」・・・この作品ではクラーク・ゲーブルは、前作よりは大きな役で、二人いるヒロインの相手役のうちの”ひとり”を演じています。本作のような心の優しい男性像は、レット・バトラーにも通じるtころもあり・・・クラーク・ケーブルの”男臭さ”だけではなく、優しく包み込むような器が大きいイメージも生んでいるのです。

キャバレーの踊り子のアイビー(ジョーン・クロフォード)は、恋仲でもあるプロモーターのハワード(ニール・ハミルトン)と、贅沢で自由な生活を送っています。本作の冒頭では、ダンスホールで踊り、歌まで披露するジョーン・クロフォード・・・贔屓目にみてもミュージカルスターではないことを証明してしまっているような”出来”ですが・・・謳って踊って演じるというのが、当時のジョーン・クロフォードの”売り”ではあったことは確かなようです。

ある晩、ハワードは突然アイビーの前から姿を消してしまい・・・彼が金持ちの娘と結婚することを知ったアイビーは、橋の上から飛び降りて自殺しようとします。そんなアイビーを救ったのは、救世軍のカール(クラーク・ゲーブル)だったのです。救世軍(サーベンション・アーミー)は、楽器を演奏して歌いながら、鍋の中に寄付を募っている支援団体・・・踊り子などナイトクラブに関わる人々が”ふしだら”と世間に思われるのと対照的に、救世軍というのは善良な市民の典型として描かれているところがあります。


献身的に救世軍として活動するカールに心動かされて、その後、アイビーは救世軍に加入します。そして1年後・・・カールと救世軍の同志として共に各地を転々としながら活動を続けるアイビーの前に、ハワードが再び現れます。地味な服装で質素な生活をする救世軍の暮らしはアイビーには似合わない・・・以前のような贅沢な生活をさせてやると誘惑するハワードに、再び踊り子として復帰したいとアイビーは思ってしまうのです。しかし、そんなアイビーの揺らぐ心をを受け止めて、優しく説得するカールに、アイビーは再び目が覚めて・・・ハワードの誘惑を断固として断わります。そして、再び救世軍の一員として、カールと共に過ごしていくことを決心するのです。

笑ふ罪人/Laughing Sinners」は、ジョーン・クロフォード映画の典型的なパターンのひとつである「男ふたり女ひとりの三角関係」を描いていて・・・ハワードは「踊り子としての堕落した姿」、カールは「救世軍の一員として献身的に活動する正しい姿」という両極端な対比となっていて、最終的には「正しい」方を選択するという”オチ”により、少々説教臭い物語なのであります。

「蜃気楼の女/Possessed」


前2作と同じ1931年に公開された共演3作目の「蜃気楼の女/Possessed」となると、クラーク・ゲーブルの名前は、主役であるジョーン・クロフォードの次に大きく表記されるようになります。この作品の撮影中、ジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルは肉体関係を持ったという噂があるのですが・・・当時、ジョーン・クロフォードはダグラス・フェアバンクス・ジュニアと結婚中、クラーク・ゲーブルはハリウッドデビューを手助けしたと言われる14歳年上の最初の奥さんと別れて二番目の奥さんと結婚したばかり・・・スキャンダルを恐れたMGM創始者ルイス・B・メイヤーの勧告により、二人は関係を解消させられたそうです。

都会に憧れるマリアン(ジョーン・クロフォード)は、田舎の箱工場の同僚のアル(ウォーレス・フォード)とは恋仲・・・ある晩、ニューヨーク行きの豪華列車の乗客ウォーリー(スキーツ・ギャラガー)に知り合い、ニューヨークに来ることがあったら訪ねておいでと言われるのです。ゆっくりと動く列車の車窓の中が、まるで絵画のように、マリアンの夢見る都会の生活を表しているようで、とても映画的な表現がされています。ウォーリーの冗談半分の言葉を鵜呑みにしたマリアンは、アリと喧嘩になってしまい・・・ひとりニューヨークへ旅立ちます。

ニューヨークのパークアベニューにあるウォーリーを訪ねると・・・「若い娘が都会で欲しいものを手に入れには、金持ちの男を見つけること。ただ、自分の知り合いなんかは紹介はしないけどね」と冷たい態度で、マリアンは追い出されてしまいます。しかし、ウォーリーを訪ねてきた弁護士のマーク(クラーク・ゲーブル)と強引に知り合いになったマリアンは、すっかりマークに気に入られるのです。

当初は田舎娘だったマリアンでしたが・・・マークと恋人関係になって、さまざまな教養を身につけて、3年後には社交界の花形となって、マークの友人たちには公認の仲となっていきます。ただ、独身主義者のマークはマリアンとの結婚などは全く考えていないようで・・・便宜上で、マリアンをモアランド夫人と名乗らせたりしていたのです。


ある日、実業家となったアルが、ニューヨークにマリアンを訪ねてきます。マークとマリアンが知り合いだと知ると、仕事の仲介を求めてくるアル・・・ビジネスで成功して、マリアンと結婚したいと思っているのです。一方、マリアンはマークとの結婚を望んでいるのですが、相変わらずマークには結婚の意志は無し・・・州知事として立候補することになったマークの”足手まとい”になるという気持ちから、マークにはアルと結婚するつもりだと告げてしまいます。

党大会で候補者のマークが演説中、反対派が「モアランド夫人とは何者だ?」という中傷ビラを巻いて、場内を混乱させようとします。会場にいたマリアンは、自らがモアランド夫人であることを名乗り、マークを弁護するのです。涙ながらに会場を後にするマリアンを追ってきたマークは、選挙の結果などは関係ない・・・と、マリアンを抱きしめます。その後、二人が結婚するのかは分かりませんが・・・とりあえずハッピーエンドと言えるでしょう。

「蜃気楼の女/Possessed」は、ジョーン・クロフォード映画の、もうひとつの典型的なパターンである「Rags to Riches」=「貧乏から金持ちになる」の”成り上がり”の物語で、当時の女性は自らの力で成功するのではなく、金持ちの男性と結ばれることが成功への近道であるかのようです。実際、ジョーン・クロフォード自身、貧しい家庭の出身でドサ回りの踊り子から、ハリウッドのスター女優にまでになったのですから・・・その”成り上がり”っぷりこそが、大衆からの人気を集めたのかもしれません。

「ダンシング・レディ/Dancing Lady」


前3作の公開後、ジョーン・クロフォードはオールスターキャストの1人として「グランド・ホテル」に出演・・・主演映画の興行成績も制作費も上昇して、名実共に「看板スター」となります。クラーク・ゲーブルもスター男優としての地位を着実に確立していて、共演4作目の「ダンシング・レディ/Dancing Lady」では、ジョーン・クロフォードと共にスターとしてクレジットされるまでになりったのです。ただし、トップに表記されているのは、ジョーン・クロフォードではありますが。

バーレスクでストリッパーまがいの踊り子(またかよ!)のジェニー(ジョーン・クロフォード)は、警察の検挙で逮捕されるものの、彼女を見初めた青年大富豪トッド(フランチョット・トーン)に保釈金を支払ってもらった上に、生活のサポートも申し出されますが・・・自分は商売女ではなく純粋なダンサーだと断ります。ジャニーはブロドウェイの舞台に立ちたいと、舞台監督のギャラガー(クラーク・ゲーブル)を追い回しますが、一切相手にしてもらえません。そこで、ギャラガーの上司と知り合いであるトッドのコネを使って、ジャニーはギャラガーにオーディションまで漕ぎ着けるのです。稀にみるダンスの才能があるということで、ジョニーは即採用となるわけですが・・・そもそもジョーン・クロフォードのダンス自体がソコソコのレベルなので、説得力もへったくれもありません。


さて・・・本作もお馴染みのジョーン・クロフォード映画のパターンである「Rags to Riches」=「貧乏から金持ちになる」の物語であると同時に「男ふたり女ひとりの三角関係」のお話でもあります。その条件が、もしもジェニーがダンサーとして大成しなければトッドと結婚しなければならないというものだったのです。一方、ギャラガーとジェニーは喧嘩しながらも、お互いに惹かれていきます。あある日、突然、ジェニーは新作レビュー「ダンシング・レディ」の主役の座を射止めることになるのですが・・・ジェニーがダンサーとしての成功が約束されたことを悟ったトッドは、興行主を買収して公演を中止させてしまうのです。約束通りトッドとの結婚を決意したジェニーでしたが・・・トッドの策略を知ったジェニーはトッドに別れを告げ、自主公演をすることになったギャラガーの元へ戻り、再び「ダンシング・レディ」の主役の座をあっさり取り戻します。

本作は、ジョーン・クロフォードとクラーク・ケーブルの共演作品では、唯一日本でDVD化されているのですが・・・その理由は、本作がフレッド・アステアが初めてスクリーンデビュー(ダンスシーンのジョーン・クロフォードの相手役としてゲスト出演)した映画だからでしょう。本作のクライマックスとなるレビューシーンでは、フレッド・アステアが華麗なステップを披露します。また「42番街」などで知られるバスビー・バークレー風の幾何学的なダンスの演出は「本家」に迫る迫力です。ただ、ブロドウェイの裏舞台モノというよりは、あくまでもジョーン・クロフォードがスターが前提の映画・・・当然、レビューは大成功。トッドも成功を喜んで、何故かとんちんかんなプロポーズをして、再びジェニーに振られるという始末。結局、ジェニーはダンサーとしての成功するだけでなく、ギャラガーの愛を得るというご都合主義なエンディングとなっています。

「ダンシング・レディ/Dancing Lady」は、当時流行していたレビュー映画という形式を取り入れながらも、その後のジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルのゴールデンコンビを決定づけた共演作品と言えるかもしれません。なお、本作で共演したフランチョット・トーンとジョーン・クロフォードは、その後(1935年)結婚することになるのですから、人生は分からないものです。

「私のダイナ/Chained」


ジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルの共演作品で、ボクが一番好きなのが、共演5作目の「私のダイナ」であります。本作は「男ふたり女ひとりの三角関係」というジョーン・クロフォード映画では、何度も何度も繰り返し描かれるお馴染みの設定であるだけでなく、コメディ女優としては評価の低いジョーン・クロフォードには珍しく、コミカルな演技に冴えをみている稀な作品でもあるのです。

汽船会社の社長リチャード(オットー・クルーガー)の秘書であり、愛人でもあるダイナ(ジョーン・クロフォード)・・・リチャードは妻と別れて、仕事と私生活を支え続けてくれるダイナとの再婚することを約束します。しかし、リチャードの妻(マージョリー・ゲイキソン)は、離婚をあっさり拒否・・・妻の気持ちが変わるまで、ダイナを自分の会社の汽船での南米への旅行を奨めるのです。妻と愛人を鉢合わせさせて、離婚話を持ち出すというのは、なかなかエグいシチュエーションではあります。

その船内で、アルゼンチンで農場を経営する青年実業家マイク(クラーク・ゲーブル)マイクは、男友達のジョニー(スチュアート・アーウィン)をダシにして、ダイナと知り合うことには成功します。当初は、まったくマイクに気のないそぶりのダイナですが、ことあるごとにダイナにちょっかいをだしてくるマイクに、やがてダイナも心を許していくのです。客船内のプールや船のデッキで繰り広げられる恋の駆け引きは、相性のいいクラーク.ゲーブルならではこそです。


ブエノスアイレスに到着後も、マイクから通愛を受け続けて、牧場生活を経験したダイナは、マイクの気持ちを受け入れる決心をするのです。リチャードとの関係を清算するために、一旦ニューヨークに戻ったダイナを待ち構えていたのは、家族、子供を犠牲にしてまで妻と離婚をして結婚指輪を用意していたリチャード・・・マイクとの関係を打ち明けるチャンスを失い、ダイナはリチャードと結婚することになります。一方、ダイナを受け入れる準備をしているマイクの元には、ダイナからは船上での恋だったと別れの手紙が届くのです。

リチャードとの結婚生活も1年経ち、上流階級の夫人として多忙な生活を送るダイナですが、常に心は満たされていない様子・・・そんな時、銃ショップで偶然マイクと再会します。抑えきれない感情が燃え上がるダイナですが、自分のためにすべてを捨てたリチャードを裏切れないと、マイクには二度と会わないと伝えるのです。それにも関わらず、休暇中のリチャードとダイナの元を訪ねてきます。しかし、ダイナの友人だからと易しく対応するリチャード・・・その愛情の目の当たりにしてマイクは潔く身を引くことにするのです。ここで終われば、ダイナとマイクの悲恋物語となるのですが・・・マイクが立ち去った後、ダイナのマイクに対する思いに気付いたリチャードはあっさりと身を引いてしまいます。ダイナは、アルゼンチンのマイクの元へ嫁いでいってしまうのですから・・・なんとも無理矢理なハッピーエンドであります。

「私のダイナ/Chained」は、ご都合主義に貫かれたジョーン・クロドード/クラーク・ゲーブル映画の典型的なパターンの作品・・・それ故に、会社社長のおじさまと青年実業家のあいだで揺れ動くという、当時、未曾有の経済不況の庶民にとっては無縁のハッピーエンドの物語、コミカルで洒落た恋の駆け引き、そして、ジョーン・クロフォードがとっかえひっかえする流行(?)のモードを、浮世離れしたお伽話のように純粋に楽しめのです。

「結婚十分前/Forsaking All Others」


共演6作目となる「結婚十分前」は、ジョーン・クロフォード、クラーク・ゲーブルに加えて、ロバート・モントゴメリーという三大スター主演というだけでなく、チャールズ・バターワース、ビリー・パーク、ロザリンド・ラッセルなどの芸達者な役者が脇を固めた作品・・・ジョセフ・L・マンキーウィッツによる脚本は、伏線とシチュエーションが絡み合い、コミカルな長台詞で畳み掛けるノンストップのスラップスティック・ロマンチックコメディとなっています。

メリー(ジョーン・クロフォード)、ディル(ロバート・モントゴメリー)、ジェフ(クラーク・ゲーブル)の3人は幼馴染み・・・しばらくスペインで生活していたジェフは、メリーにプロポーズの決心をして、ニューヨークに戻ってきます。しかし、その翌日メリーとディルは結婚式を控えていることを知り、ジェフは、自分の気持ちは伝えずに、幼馴染み二人の結婚を祝福するのです。

ところが・・・結婚式前夜にも関わらず、ディルは元彼女のコニー(フランシス.ドレイク)からの求愛に、あっさりと応えて、ディルとコニーは姿をくらましてしまうのです。翌日、ウエディングドレスを着て教会での結婚式を待つメリーに届けられた知らせは、昨晩ディルがコニーと急に結婚してしまったということ・・・こんなアリエナイ状況で「男ふたり女ふたりの三角関係」が成立して、ロマンチック・コメディになりえるのかと思ってしまいます。

傷心でメリーは田舎に引きこもるのですが・・・斧で薪割りしてストレス発散という場面が、本作で登場しているのが笑えます。まるで「血だらけの惨劇」や「愛と憎しみの伝説」の斧を振り上げているシーンを予見しているかのようです。


嫉妬深くて意地の悪いコニーは、メリーを自宅でのパーティーに招待するのですが、メリーはディルとの関係を断ち切れたことを証明するかのように、ジェフを連れ立ってパーティーに参加します。メリーとの再会に驚きながらも、すでに新妻コニーに心が冷めてしまったディルは、メリーとヨリを戻そうとするのです。ディルをまだ愛していることを自覚したメリーは、ジェフの助言も聞かず、ディルと再び付き合い始めます。

ディルとメリーが二人で田舎へドライブに行って、ディルの別荘に泊まることになるのですが・・・、車がポンコツで事故を起こすとか、着替えのないディルが女性モノのガウンを着るとか、火の不始末で火事が起こるとか、スラップスティックなコメディが展開されます。とは言っても、本作は”ヘイズコード”に従った作品・・・不倫の描写は御法度です。ただ・・・結婚式の前日にドタキャンした男と楽しくデートするというのは、倫理的にどうであるかよりも、感情的に理解に苦しみます。

ジェフのサポートのよりディルとコニーは離婚・・・メリーとディルが再び結婚することになるのです。不倫は倫理的に問題だけど、離婚することは問題なしということのようです。ディルとメリーの二回目の結婚式前日・・・メリーと二度と会わないことを決意してスペインに戻ることにしたジェフは、今まで語ることのなかった思いをメリーに伝えます。唐突に心を揺らぐメリー・・・今度はメリーがディルとの結婚式を翌日に控えて、ジェフの後を追ってスペイン行きの船に乗るのです。船を見送るしかないディルは、埠頭に置いてきぼりになって、ハッピーエンドとなります。

「結婚十分前/Forsaking All Others」は、ジョーン・クロフォードだけがスターという作品ではなく、クラーク・ゲーブルやロバート・モントゴメリーが同格で主演の作品です。また、当時始まったばかりの”ヘイズコード”の倫理観が物語を湾曲させていて、ある意味、この時代の映画作品ならではの”味”を醸し出していると言えるのかもしれません。

「空駆ける恋/Love on the Run」


「空駆ける恋」は、ジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルの共演作7作目・・・前年(1935年)にジョーン・クロフォードと結婚したフランチョット・トーンも出演しており「ダンシング・レディ」のトリオの復活といったところです。ただし、本作の主役はジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルの二人・・・フランチョット・トーンはジョーン・クロフォードの相手役ではなく、クラーク・ゲーブルのライバルの新聞記者という少々損な役回りを演じています。

アメリカの富豪の娘・サリー(ジョーン・クロフォード)は、ロンドンで貴族の男性との結婚式を控えていたのですが・・・彼女の結納金目当てだと知り、結婚式直前になってウエディングドレス姿で教会から逃げ出します。サリーの結婚式を取材するために派遣されていた新聞記者のマイケル(クラーク・ゲーブル)は、自分の素性を隠して、サリーの逃避行を手伝わされる羽目なるのです。また、男爵夫妻の取材でロンドンに居合わせたマイケルのライバル新聞記者のバーニー(フランチョット・トーン)も加わり、ロンドンからフランスに舞台を移して、実はスパイだった男爵夫妻(レジナルド・オーウェン、モナ・バリー)のトラブルにも巻き込まれていきます。


その後、サリーとマイケルが男爵夫妻の小型飛行機を盗み出したり、フランスの農場に不時着したり、スパイに間違われたり、お屋敷に変装して忍び込んだりと、ドタバタの展開をしていく本作・・・バーニーは、部屋や車に閉じ込められたり、マイケルの身代わりになったりと散々な扱いを受けるという役回りです。スクリューボール・コメディらしく、早い展開と複雑に絡む伏線で、ずっとドタバタが続くのですが・・・最後はサリーとマイケルの恋が実り「めでたし、めでたし」なるわけです。

クラーク・ゲーブルは、得意のコミカルな演技を披露して、女性ファンを虜にする魅力を発揮しています。しかし、お金持ちのお嬢さま役としはて年齢的に厳しくなってきた上に、コメディとの相性が決して良いないジョーン・クロフォードにとって、本作は適した作品ではなかったようです。それでも、本作は当時大ヒットしたそうなので・・・如何にクラーク・ゲーブルの人気が絶大であったということかもしれません。

「空駆ける恋/Love on the Run」は、当時の流行りだったスクリューボール・コメディとして、典型的な作品です。ただ、ジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルの共演作品としては、分岐点なのかもしれません。これまでは、ジョーン・クロフォードが主役スターであり、その魅力を発揮するための共演だったのですが・・・本作では、クラーク・ゲーブルの魅力を引き出すことに、制作側の意図が変わってきたような気がするのです。

「ストレンジ・カーゴ/Strange Cargo」


1939年12月の真珠湾襲撃後、日本とアメリカの間で開戦となり、ハリウッド映画が日本では一切公開されなくなります。1940年に公開されたジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルの最後の共演作であり8作目となる「ストレンジ・カーゴ(原題)」は、日本で劇場公開されることもなく、その後ビデオ化もされることもないまま(テレビ放映は不明)・・・日本で視聴することの難しい作品になってしまったのです。

本作は、これまでの共演作品のようなジョーン・クロフォード主演を主人公とした女性映画ではなく、クラーク・ゲーブル主演に相応しい”男臭い”作品となっています。前年(1939年)にアメリカで公開された「風と共に去りぬ」のレット・バトラー役で、ハリウッドの「キング」と呼ばれるようになったクラーク・ゲーブル・・・一方、1938年には「ボックス・オフィス・ポイズン」(出演料のわりに興行成績に貢献しないスター)のひとりとして名前を挙げられるなど、人気に陰りが見え始めていたジョーン・クロフォード。しかし、前年の「ザ・ウーメン(原題)/The Women」(日本未公開)で実力派女優として歩み始めたジョーン・クロフォードは、本作のような”汚れ役”を求めていたのかもしれません。

ジャングルに囲まれたフランスの流刑地ギアナに収監されている囚人のヴァーン(クラーク・ゲーブル)は、ある日、埠頭の労働中にナイトクラブの歌手ジュリー(ジョーン・クロフォード)と知り合います。脱走を試みたヴァーニーは、ジューリーの部屋に隠れるのですが・・・ジュリーに心を寄せるピッグ(ピーター・ローレ)に通報されて、ヴァーニーは刑務所に戻されて、ジュリーはナイトクラブを解雇されてしまいます。

刑務所ではモール(アルバート・デッカー)、キャンブルー(イアン・ハンター)、テレズ(エドワルド・チャンネッリ)、へシアー(ポール・ルーカス)、フロウバート(J・エドワード・ブルムバーグ)、デュファンド(ジョン・アリージ)らが脱獄を計画・・・ヴァーンはジュリーを連れて一緒に逃げるのです。ジャングルを抜けて、海岸から帆掛け船で大陸を目指して出航します。


ジャングルでのサバイバル、帆掛け船の密室劇という極限状態の中で、キリストのようなキャラクターであるキャンブルーが、聖書からの言葉が繰り返し引用されるなどクリスチャン的な思想が色濃く、囚人の脱走劇というよりも宗教観を問うようなディスカッションドラマとなっていくのです。

ヴァーン、ジュリー、キャンブルー、へシアーだけが生き残るのですが・・・ジュリーはヴァーンを逃がすために、ピッグと一緒について行くという取引をします。へシアーは裏切って姿をくらまし、キューバに逃げようとしていたヴァーンは、キャンブルーによって心を入れ替え、流刑地へ戻ることを決意します。コロニーにピッグと戻ったジュリーでしたが・・・ヴァーンが刑期を終えて出所するまで待っていることを誓うのです。

「ストレンジ・カーゴ/Strange Cargo」は、ジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルの最後の共演作品・・・宣伝や映画館のビルボードで、クラーク・ゲーブルの名前がジョーン・クロフォードよりも上に表記された唯一の共演作品でもあります。本作のジュリー役というのは、世慣れしていて気の強い自立した女性像という1940年代以降のジョーン・クロフォードの代名詞となるようなキャラクター・・・そんな女性像を受け止める相手役としても、クラーク・ゲーブルとの相性は抜群だったので、本作以降共演作品が作られなかったのは、残念でなりません。

「ゼイ・オール・キス・ザ・ブライド/They All Kissed the Bride」


クラーク・ゲーブルが最も愛した女性と言われるのがキャロル・ロンバート・・・ふたりは1939年に結婚しました。1942年にキャロル・ランバートが不慮の飛行機事故で亡くなるまで、クラーク・ゲーブルの最も幸せな時期であったと言われています。事故後、クラーク・ゲーブルを真っ先に支えたのは、誰あろうジョーン・クロフォードでありました。

「ゼイ・オール・キス・ザ・ブライド/They All Kissed the Bride」はキャロル・ランバートが得意とした洒落たスクリューボール・コメディ映画・・・しかし、キャロル・ランバードの急死によって、制作中止に追い込まれそうになってしまったのです。そこで、映画会社の壁を乗り越えて主役を引き受けたのが、ジョーン・クロフォード・・・本作の出演料全額をキャロル・ランバートの名前で、アメリカの赤十字社に寄付もしています。

マーガレット(ジョーン・クロフォード)は父親からトラック会社を譲り受けて経営するバリバリのビジネスウーマン・・・妹のヴィヴィアン(ヘレン・パリッシュ)が行われている中、記者のマイク(メルヴィン・ダグラス)は屋敷に忍び込み、マーガレットに近づきます。男性と知り合う機会の少なかったマーガレットは、あっさりとマイクに惹かれてしまうのですが・・・恋すること自体が初めての彼女は、ときめくとぼーっとしてフラフラしちゃうという設定なのですから、なんとも滑稽だったりするのです。


しっかり者のようで実は天然なマーガレットと、チャーミングで洗練されたマイクの掛け合いは、キャロル・ランバートが演じていたら・・・と、想像せずにいられませんが、コメディと相性が悪いと言われるジョーン・クロフォードにしては、共演者(特にメルヴィン・ダグラス)の好演に助けられて、好演しています。ダンスコンテストでアクロバティックに踊ったり、酔っぱらってラブシーンを演じたりと、ジョーン・クロフォードにしては珍しく(?)軽快に弾けまくっているのです。

バリバリのビジネスウーマンでも恋をしてしまえば、普通の弱い女になってしまう・・・という展開が、まったくジョーン・クロフォードらしくありませんが、ジョーン・クロフォードのドレードマークとなるようなスタイルを確立し始めているような作品のような気がします。1940年代第二次世界大戦中の流行でもあったんぼですが・・・前髪にボリューウを持たせて後頭部にパーマをあてるというヘアスタイル(ちょっとサザエさんっぽい)と、首から肩がほぼ直線になるほどのカッチリしたショルダーパッドのドレスやジャケットは、その後のジョーン・クロフォードの典型的なルックスです。

「ゼイ・オール・キス・ザ・ブライド/They All Kissed the Bride」は、キャロル・ランバートの不幸によって、ジョーン・クロフォードが代役を務めることにりましたが・・・そもそも、クラーク・ゲーブルとの親しい関係があったからこそ実現したこと。当時、キャリア的に迷走していたジョーン・クロフォードにとっては、女優としての新たな可能性を見せる絶好の機会でもあったわけで・・・単なる”おひとよし”の人助けではない”したたかさ”を窺わせるのです。ただ、本作以降、ジョーン・クロフォードはコメディ映画の出演はありません。

その後のジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブル


1940年の「ストレンジ・カーゴ/Strange Cargo」以降、ジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルが共演することはありませんでしたが、二人の関係はハリウッドの関係者が推測していたよりも長く・・・クラーク・ゲーブルが亡くなる1960年まで続いていたとジョーン・クロフォードは告白しています。

ハリウッドのスターになるためには枕営業なんてへっちゃら・・・共演者、監督は勿論、カメラマンや脚本家とも肉体関係を持ったと言われるジョーン・クロフォードは、男社会の中で「女」の武器を120%利用したと良いでしょう。クラーク・ゲーブルもまた、俳優としてブレイクするまでは財力や権力のある年上女性と結婚していました。

ジョーン・クロフォードとクラーク・ゲーブルは、結婚することはありませんでしたが(ジョーン・クロフォードは生涯4回、クラーク・ゲーブルは5回結婚)・・・ジョーン・クロフォードは、後にクラーク・ゲーブルについて「私の出会った男性の中で、最も男性的な人だった」と語っています。ジョーン・クロフォードにとって、最も愛した男性はクラーク・ゲーブルでであったような気がしてならないのです。


「暗黒街に踊る」
原題/Dance, Fools, Dance
1931年/アメリカ
監督 : ハリー・ボーモント
出演 : ジョーン・クロフォード、クリフ・エドワーズ、レスター・ヴェイル、ウィリアム・ベイクウェル、クラーク・ゲーブル、アール・フォックス
1932年3月日本劇場公開

「笑ふ罪人」
原題/Laughing Sinners
1931年/アメリカ
監督 : ハリー・ボーモント
出演 : ジョーン・クロフォード、ニール・ハミルトン、クラーク・ゲーブル、マジョリー・ランボー、ガイ・キッピー、クリフ・エドワーズ
1933年10月日本劇場公開

「蜃気楼の女」
原題/Possessed
1931年/アメリカ
監督 : クラレンス・ブラウン
出演 : ジョーン・クロフォード、クラーク・ゲーブル、ウォーレス・フォード、スキーツ・ギャラガー、フランク・コンロイ、マージョリー・ホワイト
1933年1月日本劇場公開

「ダンシング・レディ」
原題/Dancing Lady
 1933年/アメリカ
監督 : ロバート・Z・レオナード
出演 : ジョーン・クロフォード、クラーク・ゲーブル、フランチョット・トーン、フレッド・アステア、メイ・ロブソン、イヴ・アーデン、ゴードン・エリオット
1934年11月日本劇場公開

「私のダイナ」
原題/Chained
1934年/アメリカ
監督 : クラレンス・ブラウン
出演 : ジョーン・クロフォード、クラーク・ゲーブル、オットー・クルーガー、スチュアート・アーウィン、ウナ・オコナー、エイキム・タミロフ、ウォード・ボンド、マージョリー・ゲイキソン
1935年6月日本劇場公開

「結婚十分前」
原題/Forsaking All Others
1934年/アメリカ
監督 : W・S・ヴァン・ダイク
出演 : ジョーン・クロフォード、クラーク・ゲーブル、ロバート・モントゴメリー、チャールズ・バターワース、フランシス.ドレイク、ビリー・パーク、ロザリンド・ラッセル
1935年10月日本劇場公開

「空駆ける恋」
原題/Love on the Run
1936年/アメリカ
監督 : W・S・ヴァン・ダイク
出演 : ジョーン・クロフォード、クラーク・ゲーブル、フランチョット・トーン、レジナルド・オーウェン、モナ・バリー、イヴァン・レベデフ
1937年5月日本劇場公開

「ストレンジ・カーゴ(原題)」
原題/Strange Cargo
1940年/アメリカ
監督 : フランク・ボザージェ
出演 : ジョーン・クロフォード、クラーク・ゲーブル、ピーター・ローレ、イアン・ハンター、ポール・ルーカス、アルバート・デッカー、エドワルド・チャンネッリ、J・エドワード・ブルムバーグ、ジョン・アリージ
日本劇場未公開

「ゼイ・オール・キス・ザ・ブライド(原題)」
They All Kissed the Bride
1942年/アメリカ
監督 : アレキサンダー・ホール
出演 : ジョーン・クロフォード、メルヴィン・ダグラス、ローランド・ヤング、ビリー・バーク、アレン・ジェンキンズ、ヘレン・パリッシュ
日本劇場未公開


 


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「キム・ギヨン DVD BOX 」韓国映像資料院から発売された日本語字幕付きを遂に入手!・・・”因縁””怨恨”に満ちた復讐劇のキム・ギヨン監督版「楢山節考」~「高麗葬/고려장」~

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以前「めのおかしブログ」で取り上げたことのある韓国映画界の鬼才、キム・ギヨン監督・・・代表作である「下女」のリメイク版「ハウスメイド」を観た際(2011年)に、オリジナル版にも興味が湧いて、DVDで「下女」を観たボクは、すっかりこの監督の虜になってしまいました。しかし、キム・ギヨン監督の他の作品の殆どはDVD化されておらず、2008年7月に韓国映像資料院から発売されたDVDボックスは、すでに入手困難・・・オークションで中古品が出品されることも殆どなく、販売元の韓国映像資料院のサイトからも購入出来ず、再版される可能性もないようだったのです。

再評価が高まっている(?)にも関わらず、日本ではDVDの発売されている作品はひとつもなく、たま~にどこかで開催されている上映会ぐらいでしかキム・ギヨン監督作品を観る機会がありません。テレビドラマだけでなく、韓流ブーム以前の韓国映画もDVD化して欲しいものです。韓国映像資料院から発売されていた日本語字幕付きの「下女」のDVDも最近は入手が難しくなっていますし、元々の販売数も少ないと思われるDVDボックスを手に入れることは到底無理・・・と諦めていました。ところが一ヶ月ほど前、韓国のDVD通販サイトで「在庫あり」の表示を発見・・・お値段は定価の倍以上、届いてみたら中古品というボッタクリではありましたが、遂に「キム・ギヨンDVD BOX 」を入手することができたのであります!

「キム・ギヨンDVD BOX 」に収録されているのは「高麗葬」「蟲女」「肉体の約束」「異魚島」の4作品ですが、フィルムの傷が目立っていたり、映像が紛失していて音声のみという箇所があったり、カラーの変色が酷かったり、フランス語字幕が入っていたりと「商品としての質」は決して良くありません。おそらく現存するベストのコンディションのフィルムから、可能な限りのリストアされているのだとは思われますが・・・。映画本編以外に、各作品に韓国の映画人や評論家の音声コメンタリーや、特典映像として、2007年の東京国際映画祭で上映されたドキュメンタリー「キム・ギヨンについて知っている二、三の事柄」(日本語字幕つき)、1997年制作の「キム・ギヨン、キム・ギヨンを語る」(英語字幕つき)、1997年の第2回釜山国際映画祭に参加したキム・ギヨン監督を追ったドキュメンタリー(英語字幕つき)を収録しており、さらに付録のブックレットには、作品の解説、フィルモグラフィー、紛失部分のシナリオが掲載しているという、資料的には大変充実した内容にはなってるのです。


「高麗葬」は、1963年制作の白黒映画で、日本の東北地方にも存在した「姨捨て」をモチーフにした作品・・・ただ近年、韓国では”高麗葬”は日本人の捏造で、韓国には「姥捨」のような非人道的な風習があったことは否定されているそうです。しかし、この作品が制作された1963年頃には、儒教が広がる以前の高麗時代まで”高麗葬”があったと考えられていたことには間違いないようであります。歴史的事実を書き換えようとする”歴史認識”は、ある意味、韓国らしいとも言えるのかもしれません。

本編は、高麗時代(10世紀~14世紀)には70歳の老人を姥捨山に捨てて人口調整をしていた・・・と語る公開討論会の場面から始まります。観客と本編の内容をつなぐための”前説”のようなもので、キム・ギヨン監督作品には時々使われる手法。討論会の場面が終わりタイトルになるのですが・・・画面いっぱいに表示された漢字が消えていくとクレジットになるという「サイコ」などのタイトルデザインを担当した”ソウル・バス”を思い起こさせるモダンなセンスで、ドロドロな内容との”ちぐはぐ”です。


「姨捨て」という同じモチーフにした「楢山節考」と「高麗葬」は、後妻と向かい入れるという導入部や、母親を山に捨てにいくクライマックスなど、似たような物語です。「高麗葬」が制作される5年前の1958年に、木下恵介監督、田中絹代主演で映画化されているのですが・・・「楢山節考」は、母を山に捨てなければならない息子の葛藤と、新しい命のために潔く死を受け入れる母の姿を、少ない台詞で情感たっぷりに瑠璃や長唄にのせて物語を語るという・・・芸術性が高い”上品”な作りとなっています。「耐える」という日本人好みの崇高な精神性が、舞台劇のような映像空間で寓話的な普遍性を生み出している傑作です。キム・ギヨン監督が、木下惠介監督の「楢山節考」を観たのかは分かりませんが・・・韓国版「楢山節考」ともいえる「高麗葬」は、ボク好みのキム・ギヨン監督らしい作品となっています。

ここからネタバレを含みます。


高麗時代の人里離れた山奥の村の、ジンソクという10人の息子(ギャグ漫画みたい?!)をもつ男の家に、飢えで夫と息子のグリョン以外の5人の子供を失ったクムが嫁いできます。70歳になると食いぶちを減らすために山に捨てられるという習慣がある村は、雨が降らないとすぐに凶作になってしまうほど砂地の畑しかありません。村の占い師ムーダンは10人の兄弟全員は、いつか連れ子のグリョンに殺されると不吉な予言するのですが・・・クムが嫁入りしたことで安心したシンソクの母は、山に捨てられることを決意するのです。

クリョンにだけは”ひもじい”思いをさせないという条件で嫁いできたクムは、こっそり芋を分け与えたりするもだから、兄弟たちはますますグリョンを憎悪するようになっていきます。食いものの恨みほど恐ろしいもんはありません。兄弟たちの仕掛けた蛇に足を噛まれて、グリョンは”びっこ”になってしまうのですから。兄弟たちからのグリョンへのイジメに耐えきれず、クムはジンソクに離婚を申し出て畑を手にすることになります。高麗時代というのは、女性の社会的地位が比較的高く、恋愛も盛んで自由に結婚離婚していたというのですから、再婚離婚を繰り返すこと珍しいことではなかったらしいです。


それから20年・・・グリョンと母親クムは、離婚で手に入れた畑を耕して細々と暮らしています。カンナニという美しい娘にグリョンは恋しているのですが・・・”びっこ”とは結婚できないと言って、別の男性の元に嫁いでしまいます。グリョンは健常者との結婚を諦め、聾唖の娘を娶ることになるのですが・・・(この辺りからしばらく映像が紛失していて音声のみ)嫁はグリョン暮らすことを拒否してハンガーストライキまでするのです。”聾唖”と虐げられる嫁が、グリョンを”びっこ”と虐げる・・・差別されている者だからこそ他者をより差別するという差別意識の本質を鋭く表現しています。


グリョン親子に畑を取られたことを、ずっと恨みに思っている10兄弟たちは、グリョンの嫁を強姦してしまいます。兄弟たちは拉致した嫁の身柄と引き換えに、土地の証書を取り戻そうと企んでいるのです。嫁は必死に身振り手振りで、兄弟たちに犯されたことをグリョンに伝えます。本来なら実家に戻されても当然の妻を、あえて手元に引き止めておくことをグリョンは選ぶのです。”聾唖”の女が”びっこ”の男に離婚されたら人生の終わりだという”配慮”であると同時に・・・”びっこ”と自分のことを嫁が虐げさせないためでもあるところが、グリョンの”計算”なのかもしれません。

兄弟たちへの報復もしない夫・・・行き場所のない”恨み”を兄弟たちへ募らせた嫁は、兄弟のひとりを人目のない場所に誘い出し、刺し殺してしまうのです。怒り狂った兄弟たちは嫁を引き渡さなければ、グリョンの家に火をつけると脅します。ここで嫁をかばうかと思ったら・・・グリョンは嫁に小刀を手渡して自害するするように迫るのです。どうしても自分を刺せない嫁に、グリョンは嫁を刺し殺す羽目になってしまいます。”聾唖”に生まれたことが不運だったんだと嫁を哀れむグリョンは、兄弟たちに死体を差し出して問題を収めるのです。男たちによって運命を翻弄され、最後には夫によって殺されてしまう嫁に同情できるかというと・・・決して、そういうわけではありません。こんな結末を招いたのは、彼女の自業自得でもあるところが、なんとも冷酷です。


それから、さらに15年・・・グリョンは相変わらず母と二人暮らしをしているのですが、この村周辺は3年間も雨が降らず大飢饉という悲惨な状況になっています。水の湧き出る井戸を独占している兄弟たちは、村の住民から芋と引き換えに、水を分け与えるという”非情”なことをしています。村の住民の中には芋の貯蔵が底がつき、水の飲めずに死んでいく者も出てきているのです。グリョンの井戸から僅かでも水が湧き出るようになると、村の水源を独占したい兄弟たちは、死体を井戸に落として水を腐らせてしまいます。しかし、グリョンは兄弟たちにイジメられているばかりの”弱者”ではありません。他の者よりも芋の蓄えがあることをいいことに、食べるものが尽きた村人の弱みににつけ込み、僅かな芋と引き換えに土地を手に入れようとしているのですから・・・グリョンもなかなか”アクドイ”奴なのです。

そんなグリョンのところに、カンナニが病気の夫、姑と姑、子供9人を連れて、芋を分けてくれと懇願しにやって来ます。過去に惚れていたとは言っても、自分のことを”びっこ”だからと振った女・・・いまさら助けてくれとは”ゲンキン”な話です。グリョンが「図々しい」と断ると「びっこが普通の女に手を出すのは図々しくないのか?」と言い返すのだから、どれほど堕ちても差別意識は変わらないということでしょうか・・・。カンナニの子供たちはグリョンの家に忍び込んで種芋まで盗もうとしたり、祖母や祖父の分の芋まで奪い取ろとするのですから、ひもじいとは言え”あさましさ”にもほどがあります。カンナニの夫は、自分の命は長くはなさそうと悟っているようで、子供たちを食わせてくれることと引き換えに、グリョンと再婚するようにカンナニには奨めているのです。


ひもじい思いをしている子供をもつ母としてカンナニに同情的なクムは、娘の1人を養女に欲しいと頼み、兄弟姉妹の中で”アバタ顔”とイジメられているヨニがやってきます。しかし、ヨニはグリョンの家から芋を盗んで、家族に運んでいたことがバレて、すぐにカンナニの元に返されてしまうのです。クムはグリョンが家庭を持ち子供さえができれば、自分は山に行こうと考えています。そこで、クムはカンナニに、ヨリを戻すように奨めるのです。カンナニに誘惑されたグリョンは、母親のクムを姨捨山に捨てさせようとしている策略だと悟り激怒します。母思いのグリョンは、母親を山へ捨てには行きたくないのです。

村の占い師ムーダンは、子供を生け贄にして”セテ様”を呼んでお願いしない限り、この、村には雨は降らないと言い始めます。そこで、グリョンの家から追い出されたヨニが、芋1袋と引き換えに自ら生け贄になると名乗りをあげます。芋がなくなったら家族は自分のこと忘れてしまうのではないか・・・と心配しながら。出戻りのヨナは、これ以上ひもじい思いをして、アバタ顔だと兄弟姉妹にイジメられるより、セテ様の生け贄として”死”を選ぶのです。


ヨニは生け贄となりセテ様が占い師ムーダンに乗り移って・・・孝行息子のグリョンが母親クムを背負って山に捨てに行けば、雨が降るだろうと告げるのです。しかし、それでも母を山に捨てることに躊躇しているグリョン・・・その夜、カンナニの誘惑に負けてグリョンは関係を結んでしまいます。翌朝、カンナニの子供たちに芋を食わせているグリョン・・・その影で、カンナニの夫は村を密かにひとり去っていくのです。昨晩のカンナ二の捨て身の誘惑は、夫の指示だったのかもしれません。村はずれの岩場までカンナニの夫がやって来たとき・・・兄弟たちが突然現れ、あっさり夫を殺してしまいます。

兄弟たちは「他人の妻との姦通罪」と「夫殺しの殺人罪」をグリョンになすりつけようという魂胆なのです。占い師ムーダン、グリョンとカンナニの二人を、首吊りの刑に処すべきだとに訴えます。そして、クムが離婚の時に手に入れた父親の土地を取り戻し、グリョンが溜め込んでいる芋を全部奪おうというのです。そこで、母親のクムが、自分が山に行って雨が降るように祈るので、グリョンを助けて欲しいと懇願します。ムーダンは息子の命がかかっているならば、母親のクムは命がけで山神様に祈るはずだと考え・・・雨が降ったならば、グリョンの罪は許されると告げるのです。


カンナニの息子ゴナが同伴し、母親を背負って山を登るグリョン・・・白骨死体に埋め尽くされた山頂では、母親クムと息子グリョンの”お涙頂戴”の別れのシーンです。人間の憎悪が渦巻く本作の中でも、母親は子供のためにひもじい思いをして、子供が成長して孫が出来れば口減らしのために姨捨山へ自ら進んで行こうとするのですから、母親が子供を思う気持ちだけが純粋な愛情なのかもしれません。ただ、グリョンが山頂を立ち去った後、クムが大鷲に襲われ、内蔵を引きちぎられ、白骨化するところまで見せるのだから・・・”お涙頂戴”の余韻さえも、掻き消されてしまいます。


クムの命がけの祈りのおかげで、村は豪雨になります。そしてグリョンは、ムーダンの予言どおり雷雨の中で兄弟たちを皆殺しにしていくのです。一度は家族の一員であったと命乞いする兄弟たちを、慈悲なくオノで惨殺していく・・・長年の”恨み”を晴らしていくカオス炸裂の壮絶スプラッターシーンであります。ただ、兄弟たちを全員殺した後、広場に戻ってみると、カンナニはすでに首吊りに処されていたのです。すべては占い師ムーダンに信じ込まされてきた迷信が、”恨み”の根源だと悟ったグリョンは、村のシンボルである神木を切り倒し、占い師ムーダンも殺してしまいます。そして、残されたカンナンの子供たちと共に畑を耕して生きていく・・・とグリョンが決意するところで本作は終わるのです。


「高麗葬」は「楢山節考」と似た物語ながら、メロドラチックに”母子愛”を描くのではなく・・・”因縁”や”怨恨”に満ちたシェークスピアの”復讐劇”のようです。ただ、どこかの王国の貴族たちが繰り広げる”悲劇”ではなく、最底辺の人間の醜い部分をえぐり出すエピソードや台詞を濃厚に積み重ねていくという、さすが”キム・ギヨン監督”らしい・・・なんとも”下衆い”一作となっているのであります。

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キム・ギヨン監督(金綺泳/Kim Ki-young/김기영)のフィルモグラフィー


1955「屍の箱」(주검의상자)
1955「陽山道」(양산도)
1956「鳳仙花」(봉선화)
1957「女性前線」(여성전선)
1957「黄昏列車」(황혼열차)
1958「初雪」(초설)
1959「十代の抵抗」(10대의반항)
1960「悲しき牧歌」(슬픈목가)
1960「下女」(하녀)
1961「玄界灘は知っている」(현해탄은알고있다)
1963「高麗葬」(고려장)
1964「アスファルト」(아스팔트)
1966「兵士は死後も語る」(병사는죽어서말한다)
1968「女(オムニバスの一篇)」(여)
1969「美女、ミス洪」(미녀홍낭자)
1969「レンの哀歌」(렌의애가)
1971「火女」(화녀)
1972「蟲女」(충녀)
1974「破戒」(파계)
1975「肉体の約束」(육체의약속)
1976「血肉愛」(혈육애)
1977「異魚島」(이어도)
1978「土」(흙)
1978「殺人蝶を追う女」(살인나비를쫓는여자)
1979「水女」(수녀)
1979「ヌミ」(느미)
1981「潘金蓮」(반금련)
1982「火女 82」(화녀'82
1982「自由の乙女」(자유처녀)
1984「馬鹿狩り」(바보사냥)
1984「肉体動物」(육식동물)
1995「死んでもいい経験」(죽어도좋은경험)

「高麗葬」
原題/고려장
1963年/韓国
監督&脚本:キム・ギヨン
出演   :キム・ジンギュ、チュ・ジュンニョ、キム・ポエ、ジョン・オク
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過激なゲイ活動家ラリー・クレイマーの自伝的戯曲をマーク・ラファロ、ジュリ ア・ロバーツ、マット・ボーナー出演で映像化!・・・30年を隔て「 AIDSクライシス」と「エイズ抗議活動」の検証〜「ザ・ノーマル・ハー ト/The Normal Heart」〜

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1981年7月3日のニューヨークタイムス紙で「AIDS/後天性免疫不全症候群」は、初めて報道されました。その年の9月15日、18歳の時にボクはニューヨークへ移住したのですが・・・”AIDSクライシス”の中心へ飛び込んだことは、当時は知る由もなかったのです。

ゲイ活動家ラリー・クレイマー氏は、ケン・ラッセル監督の「恋する女たち」の脚本家ですが・・・後に「AIDS」と呼ばれることになる「Gay Cance/同性愛者の癌」には、かなり早い時期から警鐘を鳴らしていたバリバリのゲイ/エイズ活動家であります。創立者のひとりであったGMHC(Gay Men's Health Crisis/ゲイ・メンズ・ヘルス・クライシス)から追放された後、1985年に発表したのが「ザ・ノーマル・ハート」という戯曲・・・オフ・ブロードウェイの初公演で主役を演じていたのは、あのブラッド・デイヴィス(「ミッドナイト・エキスプレス」などで知られる俳優で41歳のときAIDSで亡くなる)で、当時まだまだ進行中の”AIDSクライシス”の中で、作品は賛否両論だったという記憶があります。


ニューヨークタイムス紙の報道から約30年となる2011年・・・「ザ・ノーマル・ハート」は、再びオフ・ブロードウェイで公演され、2014年「グリー」で知られるライアン・マーフィー監督によって、HBO(ケーブルチャンネル)のテレビ映画として遂に映像化・・・そして、先日(2014年8月25日)発表された第66回エミー賞で「TV映画作品賞」を受賞したのです!(ちなみに身にシリーズ/TV映画助演男優賞には「ザ・ノーマル・ハート」から4名もノミネートされていた!)

”AIDSクライシス”についての映像作品はいくつもありますが・・・真っ正面から”AIDS”と”ゲイ・コミュニティー”を描いた一番最初の映画は1990年に製作された「ロングタイム・コンパニオン」だったと思います。劇場公開時にボクも観に行ったのですが・・・当時としては赤裸々な内容という印象で、ストレートの俳優たちがゲイ男性役を演じることさえも勇気のある行動だと称されてしまう時代でした。ただ、今の感覚では微妙に差別的な描写もあり、妙にセンチメンタルでドラマティックに演出された作品としてゲイ・コミュニティーの評価はイマイチ・・・アメリカではDVD廃盤で観ることの難しくなっている作品でもあります。


1993年にHBOのテレビ映画として製作された「And the Band Played On/アンド・ザ・バンド・プレイド・オン」は、”AIDS”の発端や感染ルートを検証した意欲的な作品・・・現在では、事実とされていることと食い違っている部分はあるものの、当時のアメリカ政府の対応責任を追及した初めての映画かもしれません。マシュー・モディーン、リチャード・ギア、スティーヴ・マーティン、マンジェリカ・ヒューストン、リリー・トムリン、アラン・アルダ、フィル・コリンズなど、多くのスターが出演していましたが、日本では何故か劇場公開はされず(多くのテレビ映画は日本などの海外では劇場公開されたりする)、VHSビデオ販売とレンタルのみ・・・日本語版のDVD発売もされていません。また、日本語タイトルが「運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した」という酷さ(1991年に発刊された原作の翻訳タイトルに準じているようだが)・・・当時の日本でのエイズの捉え方というのが、分かるような気がします。

トム・ハンクスがアカデミー主演男優賞を獲得したジョナサン・デミ監督による1993年の「フィラデルフィア」、アル・パチーノ、メリル・ストリープ、エマ・トンプソンなどがスター俳優が多数出演した1980年代、エイズ、ユダヤ系、同性愛というテーマを紡いだ壮大なテレビ映画2003年の「エンジェルズ・イン・アメリカ」と・・・普遍的な観点で”AIDS”を描いた優秀な作品もあります。去年、マシュー・マコノヒーがアカデミー主演男優賞に輝いた「ダラス・バイヤーズ・クラブ」は、アメリカ政府のエイズの治療薬の臨床試験の遅さを痛烈に指摘した作品で・・・約30年前となる”AIDSクライシス”の時代的な検証されるようになってきたという思いがします。

本編のネタバレありです。


「ザ・ノーマル・ハート/THe Normal Heart」は、ラリー・クレイマー氏の1981年から1984年の体験を元にした自伝的な内容・・・ただ、主人公を始め登場人物の名前は実名ではありません。ネッド・ウィークス(マーク・ラファロ)は、ニューヨークに住むオープンリー・ゲイのライター・・・1981年の夏、ゲイの集まる避暑地のファイアーアイランドのバインで、友人らと過ごしているのですが、友人の一人が急にビーチで倒れ込みます。これが後にエイズと呼ばれることになる感染症なのですが・・・当時は、ニューヨークタイムス紙で「謎の同性愛者の癌」と報道されていたぐらいで、まだ誰もウィルスの存在さえも分かっていなかったのです。ニューヨーク市内の病院で数々のゲイ男性の患者を診察していたエマ・ブレークナー医師(ジュリア・ロバーツ)は、GRID(ゲイ・リレーテッド・アミューン・ディジーズ/同性愛男性関連の免疫疾患)であると認識をして、ネッドと共にゲイ・コミュニティーの集まりで”性感染症”であると警告をします。

1980年代初期のニューヨークのゲイ・コミュニティーの雰囲気というのは、1969年に起こったストンウォール事件を発端として広がりをみせたゲイ人権活動が実を結んだ時代・・・1970年代のフリーセックスの空気も相まって、ある種”ゲイ理想郷”(セックスやりまくり!)となっていたのです。「AIDS」は、長年の戦いの末に勝ち取ったゲイ・コミュニティーの自由、誇り、権利を脅かすものでしかなく・・・性感染症である警告をいち早く、ゲイ・コミュニティーへ訴えたラリー・クレイマー氏は、当初はゲイ・コミュニティー存続の根底を揺るがす者として”厄介者”扱いを受けていたのです。それでもネッドは屈することなく、出来るだけ大きなメディアに扱ってもらおうと、ニューヨークタイムズ紙の記者であったフィリックス・ターナー(マット・ボーナー)とコンタクト取ります。その後、ネッドとフィリックスは恋に落ちるのです。


ネッドは、他のゲイ活動家たちブルース・ナイルス(テイラー・キッシュ)、ミッキー・マーカス(ジョー・マンテロ)、トミー・ボートライト(ジム・パーソンズ)らとGMHC(Gay Men's Health Crisis/ゲイ・メンズ・ヘルス・クライシス)を設立・・・患者の生活サポートから政治的な活動まで、幅広い運動を行なっていくことなります。確かに「住んでいるアパートを追い出された」「家族に見捨てられた」「死体を埋葬できない」など、当時のエイズに対する差別は、感染方法も治療方法も分からなかったために酷いものだったことを、ボクも記憶しています。エイズ患者に居場所を与えたり、食事を用意してくれたり、治療を受けられる病院を教えてくれたり・・・エイズに感染したら「まずGMHCに行け!」という感じだったのです。というか・・・GMHCぐらいしか、エイズ患者を助けてくれる組織はなかったのかもしれません。その後、感染が麻薬使用者や女性にも広がって行く中、GMHCはゲイ男性患者に限らず、エイズ患者ならばどんな人でも救っていく組織になっていったのです。

ネッドとフィリックスは幸せな同棲生活を過ごしていたのですが、フィリックスがエイズ発症・・・政府や行政の対応の悪さと戦いながら、ネッドは恋人フィリックスがエイズによって徐々に衰えていく姿を目のあたりにしなければなりません。また、ホモフォビアで弁護士として成功しているネッドの兄(アルフレッド・モリーナ)との確執もあります。ニューヨーク市行政の対応の悪さを訴えるために、当時の市長であったエド・コーチ氏を名指しで告発・・・結婚経歴がなかったコーチ市長を同性愛者であると暴露する(後にコーチ市長は同性愛者であることをカミングアウト)など、ネッドの政治活動は人権的な問題もあり、徐々に組織内で孤立をしていきます。


また、ネッドのフリーセックスを否定するような性感染症であるという警告は、自由なゲイのライフスタイルを獲得するために命をかけてきたミッキーのようなゲイ活動家にとっては、今まで戦ってきたことを否定されるようなもので、強い拒否感を持たれていたこともあったのです。2011年のオフ・ブロードウェイでのリバイバル公演では、ネッド役を演じていたジョー・マンテロが、ミッキー役なのですが・・・彼の訴える当時のゲイ活動家としてのジレンマは(結果的にはネッド正しかったのですが)、理解できないわけではありません。最終的にはネッドは、自らが創立に関わったGMHCから追い出されていまうのです。


主人公であるネッド・ウィークスが、ラリー・クレイマー氏をモデルとしていることは明らかではありますが・・・1980年代に各メディアに露出していたラリー・クレイマー氏は、本作で描かれている以上に強烈に攻撃的な印象でした。エマ・ブレークナー医師は、実際に車椅子利用者であったリンダ・ルーベンステイン(Linda Laubenstein)氏、また(ラリー・クレイマー氏は公には認めていませんが)フィリックスのモデルとなっているのは、当時ニューヨークタイムズ紙のファッション部門の記者であったジョン・ドューカ(John Duka)氏であるというのが定説となっています。このように、実物の人物がモデルとなっている作品なので・・・30年という年月が隔たったことで、オブジェクティブに表現できるというのはあるのかもしれません。

ネッドを演じるマーク・ラファロは、良い感じに年齢を重ねている男優(46歳)で・・・本作でも”いい味”を出しています。徐々に熱くなる熱演には、心が震えさせられました。テレビシーズ「ホワイトカラー」で知られるマット・ボーナーは、同性婚をカミングアウトしているオープンリーゲイの男優・・・あまりにも二枚目過ぎるのでラリー・クレイマー氏からフィリックス役には適さないといわれたものの、役への熱意を訴えてフィリックス役を得たそうです。30ポンド(約18キロ)の減量していて・・・「ダラス・バイヤーズ・クラブ」のマシュー・マコノヒー(40ポンド減量!)にも負けず劣らずの”凄まじさ”であります!輝くようなハンサムっぷりから衰弱しきった姿に、ボクはエイズで亡くなっていったゲイの友人達の最後の姿と重なって正視できないほどでした。本作に於いて、僕にとっての一番のサプライズ(?)は、ジュリア・ロバーツの存在感・・・出演シーンは決して多くないのですが入魂の演技に大変感動しました。


死の淵のベットで、ネッドとフィリックスはエマ・ブレークナー医師により”夫婦の誓い”をします。今では同性婚が認められているニューヨーク州ですが、当時(1984年)誰も想像し得なかったことかもしれません。まぁ、ホモフォビアの人は、そもそも本作は観ないとは思いますが・・・このシーン(YouTube動画)で「男同士でキスなんてキモい!」なんて感じるなんて人として”アリエナイ”と思えるほどです!ネッドのような経験をしたら、亡くなった恋人のために「どんなことをしてでもエイズと戦わなければならない!」という執念が生まれたのも、多少理解できたような気がします。ラリー・クレイマー氏は、HIVに感染しながらも治療を続けていて、現在、御年72歳でご健在・・・まさに激動のゲイ運動の歴史の生き証人というような方なのです。

ひとつだけ、本作品に注文をつけるとしたら・・・時代の風俗的な詰めの甘さでしょうか?冒頭のファイヤーアイランドのパーティーシーンでは、当時のディスコミュージックを流して雰囲気を出そうとしているのですが・・・登場人物たちの服装、髪型など風俗的な時代考証がしっかりしておらず、1970年代後半から現在までが”まぜこぜ”のスタイルなのです。ある特定の”時代”を描きながらも、普遍的な物語として語るために時代的な風俗に縛られたくないという制作者側の意図があるのかもしれませんが(かなり好意的に解釈)・・・いつの時代の話なのか、よく分からなくなったところもあるような気がします。

ラリー・クレイマー氏は「ザ・ノーマル・ハート」の主人公ネッドがエイズの実験的な治療を受けながら、ユダヤ系の家庭に育った少年期から青年期を振り返る「ザ・デスティニー・オブ・ミー/The Destiny of Me」という戯曲を1992年に発表していますが・・・本業の作家としてよりも、ゲイ活動家としての存在感が際立っています。1987年「沈黙=死」をスローガンにした、攻撃的で過激な抗議活動を行う「ACT UP」(AIDS Coalition to Unleash Power/力を解放するエイズ連合)を設立・・・当時の「ACT UP」の怒りの抗議を身近で目撃して”恐怖”さえ感じることもあるボクは、自分のセクシャリティと政治に一定の距離をもつ生き方を選んだところはあります。ただ、30年が隔ててみると・・・目前で起こっていた”あの時代”を、自分自身の中でも検証したい気持ちになってくるのです。


「ザ・ノーマル・ハート(原題)」
原題/The Normal Heart
2014年/アメリカ(HBO)
監督 : ライアン・マーフィー
脚本 : ラリー・クライマー
出演 : マーク・ラファロ、ジュリア・ロバーツ、マット・ボーナー、テイラー・キッシュ、ジョー・マンテロ、ジム・パターソン、アルフレッド・モリーナ、B・D・ウォン、ジョナサン・グロフ、ステファン・スピネーラ
2014年11月24日「スターチャンネル」にて午後21時より放映

「ロングタイム・コンパニオン」
原題/Longtime Companion
1990年/アメリカ
監督 : ノーマン・レネ
脚本 : クレイグ・ルーカス
出演 : キャンベル・スコット、ブルース・デビットソン、ダーモット・マローニー、メアリー=ルイーズ・パーカー、パトリック・キャシディ、マーク・ラモス、スティーヴン・キャフリー
1992年6月13日より日本劇場公開

「運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した」
原題/And the Band Played On
1993年/アメリカ(HBO)
監督 : ロジャー・スポティスウッド、
脚本 :アーノルド・シュルマン
出演 : マシュー・モディーン、リチャード・ギア、スティーヴ・マーティン、マンジェリカ・ヒューストン、リリー・トムリン、アラン・アルダ、フィル・コリンズ、イアン・マッケラン、ナタリー・ベイ、B・D・ウォン
日本劇場未公開(VHS&レザーディスク販売/VHSレンタルあり)




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ずっとリー・カンション(李康生)”だけ”を見つめ続けたいツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督・・・”心”や”身体”は支配できないから一途な思いが募るばかりなの!~「青春神話 」から「郊遊 ピクニック」& 来日イベント@渋谷イメージフォーラム ~

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ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督が長編10作目となる「効遊ピクニック」を最後に。監督引退を表明しました。とは言っても、映像制作の現場を退くわけではなく・・・ハリウッド映画のような興業を目的とした”商業”映画から退くということで、今後も美術館での上映を前提にした”芸術”映画の製作を続けるそうではありますが。

主演のリー・カンション(李康生)は、1992年のツァイ・ミンリャン監督の1作目「青春神話」以来”すべての作品”に主演・・・世界的にみても映画史上かつてない映画監督と主演男優の”パートナーシップ”といえるでしょう。ツァイ・ミンリャンとリー・カンションを、アントワーヌ・ドワネルの冒険シリーズ(大人は判ってくれない、アントワーヌとコレット/二十歳の恋、夜霧の恋人たち、家庭、逃げ去る恋)でのフランソワ・トリュフォー監督とジャン=ピエール・レオの関係との類似もありますが(ツァイ・ミンリャン監督自身も意識している?)・・・どちらかというと、ルキノ・ヴィスコンティとヘルムート・バーガー(華やかな魔女たち、地獄に堕ちた勇者ども、ルートヴィヒ、家族の肖像)または、ジャン・コクトーとジャン・マレー(美女と野獣、双頭の鷹、ルイ・ブラス、恐るべき親達、オルフェ)のような「寵愛関係」のような印象があります。

二人の出会いは、ツァイ・ミンリャン監督の映画デビュー前に監督したテレビドラマ「小孩」(1991年)で、主人公の小学生を脅す不良になりきれない孤独な少年役に、当時予備校生だったリー・カンションを台北の西門町界隈で見かけて抜擢したこと・・・俳優を目指してオーディションを受けたわけでもなく、ツァイ・ミンリャン監督がリー・カンションに一方的に”一目惚れ”したと言っても過言でない”きっかけ”だったのです。「小孩」というドラマでの役名は分かりませんが・・・その後、すべてのツァイ・ミンリャン監督の映画作品に「シャオカン」という役名で主演することんなるのですが、シャオカン=小康とはリー・カンション本名の李康生のニックネーム「カンちゃん」ということ。ツァイ・ミンリャン監督の映画は、そもそも”リー・カンション”なしでは成り立たない・・・”リー・カンション”という存在あって”こそ”映画をつくっているような気もしてしまうほどです。

各作品のネタバレを含むことあります。


二人の映画デビュー作「青春神話」は、台北で暮らす若者数人の物語・・・少ない台詞、音楽なし、長回しなど、ツァイ・ミンリャン監督のシグニチャーといえるスタイルが垣間みれます。リー・カンション演じる”シャオカン”は、「小孩」と同じように、どこかしら孤独感と不満を抱えて、行き先の分からない若者・・・どこにでもいそうな普通の風貌、ゆっくりな動きと台詞回しから、映画のために見つけてきた”素人”みたい。ただ、この”素人”っぽさこそが、リー・カンションの特別な持ち味であり、”シャオカン”というキャラクターの存在を生々しく感じさせるのかもしれません。

第2作「愛情萬歳」は、無関係な3人の男女が空き家の部屋に出入りすることで関わりを持っていく物語が並行的に描かれるのですが・・・リー・カンション演じる”シャオカン”は、もうひとりの男性キャラクターに惹かれているというホモ・エロティックな欲望を抑圧しています。リー・カンション(実生活ではストレート)へのツァイ・ミンリャン監督自身の”思い”を代弁しているかのようで・・・痛々しさを感じてしまうのです。

第3作「河」では、リー・カンション演じる”シャオカン”が明らかな主人公となり、映画そのものを支えていきます。エキストラのアルバイトで汚染された川で死体役をやったことで首が曲がらない奇病にかかってしまうという、不気味で寓話的なストーリーなのですが・・・ゲイサウナで父親と息子が遭遇して、お互いと分からずにエッチをしてしまうという衝撃的な展開です。


第4作、1998年の「Hole-洞」は、ラース・フォン・トリアー監督の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(妄想シーンがミュージカル)を先取りしたようなスタイル・・・1950~60年代の歌手グレース・チャンの曲を使用するなど、ゲイっぽいテイストを炸裂(?)させています。ウィルスが蔓延している近未来(2000年)を舞台に、雨漏りで開けられた穴がアパートの上下階の男女を結ぶというツァイ・ミンリャン監督好み(?)の設定で、台詞はますます省かれており、時々挿入されるミュージカルシーンが暗い物語に、色を加えている感じです。

フランスで高い評価を受けてきたツァイ・ミンリャン監督の、第5作「ふたつの時、ふたりの時間」はフランス合作・・・ジャン=ピエール・レオがカメオ出演という豪華さ。リー・カンション演じる”シャオカン”は、腕時計を販売する露天商・・・父親が亡くなって以来、母親は喪失感で精神のバランスを崩して、実家はまるで使者を向かいいれるための空間と化しています。シャオカンから腕時計を飼った女性はパリに行き、そこで言葉や文化の違いから孤独となっていき、親切にしてもらった香港女性とレズ的関係を結びます。台詞はさらに少なくなり、サウンドトラック音楽は皆無・・・さらにツァイ・ミンリャン監督のスタイルを追求した印象です。

第6作の「楽日」になると、台詞が少ないというレベルの話じゃなく、殆どなし・・・・というのも、閉館直前の映画館(キン・フー監督の「」を上映)を舞台に、観客たちや従業員を淡々と描くのですから。この作品を映画館で観る観客は、映画の中でひとりでスクリーンを観る人々を観るということになるわけです。勿論、映画を上映しているわけですから、観客同士の会話があるわけでもありません。ゲイのツァイ・ミンリャン監督らしく、ゲイのハッテン場であることも描いているのですが・・・断られる日本人男性客のリアクションは、日本人からすると謎ではあります。台詞を排除というスタイルに於いて、行き着く所まで言った作品だと思うのです。


第7作の「西瓜」は「ふたつの時、ふたりの時間」の続編ではあるのですが・・・そもそも、ツァイ・ミンリャン監督の作品でリー・カンション演じる登場人物は常に”シャオカン”という名前で、多少の設定の違いはあるものの、ある意味、同一人物のようなところあったりします。「ふたつの時、ふたりの時間」では、台北とパリに離れていた二人が、何年後かに台北の古びたアパートビルの中で再会し、惹かれ合うことになるのです。露天商だった”シャオカン”はAV男優となっており、同じビルの中でビデオ撮影に励んでいる様子が、非常にエロチックでありながら滑稽に描かれているのですが、毎度のことながら台詞は殆どなし。ただ「Hole-洞」のようにミュージカルシーンが挿入されていて、単調な流れのアクセントになっています。まさに(!)”シャオカン”の思いを受け止めるかのような口内射精のドアップ長回しのエンディングに呆然。この作品は、公開された年には台湾映画して台湾では興行成績1番だったということで・・・「ツァイ・ミンリャン監督の作品は商業的ではない」という汚名返上となったのかもしれません。

台湾で映画製作を続けてきたツァイ・ミンリャン監督ですが、初めて故郷のマレーシアを舞台したのが第8作の「黒い瞳のオペラ」でし。リー・カンションは、チンピラに殴られて怪我をした”シャオカン”と寝たきりの青年の二役を演じています。”シャオカン”にホモエロテックな感情を抱きながら介抱する労働者、”シャオカン”に惹かれる寝たきりの息子を介護している母親・・・何も話さないストレートの「男」と外国から来た「ゲイ」と「女」の三角関係が、台詞なしで淡々と描かれていくのです。「女」と”シャオカン”の関係に嫉妬する「ゲイ」の切ない思い・・・最後は廃墟の水たまりに浮かぶマットレスの上で”シャオカン”を真ん中にして両側に横たわる「女」と「ゲイ」。”シャオカン”は二人”とも”受け入れたようです。まるでツァイ・ミンリャン監督自身のリー・カンションへの一途な思いを訴えているかのようなエンンディングに涙してしまいます。

第9作となる「ヴィザージュ」は、ジャン=ピエール・レオ、ジャンヌ.モロー、ファニー・アルダンらが出演のヌーベルヴァーグ50周年を記念してルーブル美術館から依頼されて製作した一作です。「サロメ」をモチーフにした映画の製作にパリを訪れている台湾の映画監督をリー・カンション演じているわけですが、ストーリーを語るというよりも、幻想的ミュージカルシーンを交えながら、オマージュのようなイメージを積み重ねていくのですが・・・ツァイ・ミンリャン監督の映画スタイルとリー・カンションの存在感は、フランス映画俳優たちのオーソドックスな演技との違和感を感じさせます。「ヴィザージュ」は、フランスでは一般公開されたものの、ルーブル美術館でループ上映されたアートフィルム・・・もはや、一般的な映画という視点では語れない作品なのかもしれません。


ツァイ・ミンリャン監督は、く第10作「郊遊 ピクニック」を最後に商業映画からの引退を宣言・・・今後は美術館などで上映されることを前提とした「映像作品」を製作していくそうです。ある意味、「英断」とも言えるのかもしれませんが、商業主義を否定することで自己満足にも落ち入りがち・・・アート映像作品に於いて「固定カメラの長回し」というのは、数多くの作家がやり尽くした方法で、決して珍しい手法ではありません。ここ数年、ツァイ・ミンリャン監督が熱心に製作しているのは、リー・カンションがゆっくりと歩く姿を撮影した「行者/Walker」シリーズです。パフォーマー(?)としてのリー・カンションを記録した映像作品というような印象・・・リー・カンションをカメラで収めたいというツァイ・ミンリャン監督の一途な思いをヒシヒシと感じさせるのです。

「郊遊 ピクニック」の前半は、初期からのツァイ・ミンリャン監督作品にみられた「台詞なし」「音楽なし」のミニマルなスタイルで、リー・カンション演じる父親”シャオカン”と二人の子供たち(ツァイ・ミンリャン監督の甥っ子と姪っ子だそうだ)の貧しい生活を淡々と撮影するというもの・・・しかし、後半は近年みられるアブストラクトな表現となり、物語として語るのは難しくなっていきます。特にエンディングの15分にもおよぶ長回しは、観客の生理的限界を超えるほど・・・ここまでとなると、ツァイ・ミンリャン監督からの挑戦状というか、監督自身が自らのスタイルに縛られて、行き着く所まで行ってしまった(?)感さえ感じさせます。

スクリーン上で流れている時間と実際に撮影された時間が同じとなる「長回し」・・・この時間の扱いに於いて、ツァイ・ミンリャン監督はシャンタル・アケルマン監督との類似点があるように思うのです。以前、このブログで書いたことがあるのですが(めのおかしブログ参照)・・・シャンタル・アケルマン監督の代表作である「ジャンヌ・デュエルマン」では、じゃがいもの皮を剥く作業を始めから終わりまでを固定カメラで延々と捉えています。映画的な編集によって省略されている時間の流れではなく、スクリーン上で同じ長さの時間が流れることで観客も実感するのです。ただ、ツァイ・ミンリャン監督の長回しは、まるで時間が止まっているかのようで・・・観客は虚無感だけを感じるしかありません。


日本での「郊遊 ピクニック」公開を記念して、2014年6月17日にツァイ・ミンリャン監督とリー・カンション来日イベントが、渋谷シアター・イメージフォーラムにて行われました。新作が公開するたびに来日して、意欲的に宣伝活動をされてきた二人ですので、来日は珍しくはありません。ボクは言葉が理解できないので理解できないところがあるのですが・・・「郊遊 ピクニック」での金馬奨最優秀主演男優賞の受賞を報道する台湾メディアで、ツァイ・ミンリャン監督のリー・カンションへの寵愛っぷりを茶化しているような印象があります。今まで、いろいろと噂されてきた二人を、ボクは自分の目で確かめたかったのです。

まず、トークイベントの冒頭で語られたのが・・・「郊遊 ピクニック」が引退作品となるかは、まだ分からないということ。ツァイ・ミンリャン監督とリー・カンション共に、健康的な問題(リー・カンションはイベントの一ヶ月半ほど前に軽い脳梗塞を患っている)もあってのことらしいのです。しかし、ファンからの強い要望と興行的に可能であれば、再び商業的な映画を製作するかもしれません。まぁ、なんだかんだで・・・興行成績に縛られる映画製作に疲れてしまったようなのです。台湾では「50回限定」で上映して、8000席があっという間に売り切れたそうで、明らかにツァイ・ミンリャン監督の熱狂的なファンは存在するのですから、ぜひ商業映画を制作し続けて欲しいと思います。

台詞が殆どないスタイルを一貫して追求してきたツァイ・ミンリャン監督ですが、トークイベントでは非常に饒舌・・・ソフトな”おねえ口調”で延々とひとり話し続けます。リー・カンションは、映画の中で演じている”シャオカン”と同様に非常に寡黙・・・当日は体調があまり良くないということもあったようですが、それを考慮しても無愛想で話をするのも億劫そうで、身体に無理をしてイベントに出席してもらったことに、観客として申し訳なく感じてしまうほどです。脳梗塞の後遺症で、まだ半身が不自由なのでイベント後のサイン会には参加できないと主催者側から伝えられたものの「わざわざ来てくれたお客さまだから」と、「郊遊 ピクニック」の前売り券を購入した方に限り、肉体的に無理がない程度はサインしますと宣言・・・非常に有り難いことではあるのですが、そこまでやると言われて前売り券を買わないなんて、さらに申し訳ない気持ちになってしまいます。純粋に誠意ある行動だったとは思うのですが、周りの人間はリー・カンションのためにできることをしたくなってきてしまう・・・リー・カンションという人がナチュラルに持っている「魔性」っぽさが垣間みれた気がしたのです。

トークイベントでは「シャオカン、シャオカン、シャオカン」と、とにかく「シャオカン」を讃えるツァイ・ミンリャン監督・・・二人の温度差があり過ぎて、その場にいるボクの方が恥ずかしくなるぐらい。この二人に「肉体関係があるの?」という下世話な真偽は、本人たちのみ知ることではありますが・・・リー・カンションに対するツァイ・ミンリャン監督の一方的な思いは、ボクが想像していたよりも、ずっとずっと強いと感じさせられました。


もしも(勝手なボクの邪推と妄想です)・・・リー・カンション「も」ゲイで、ツァイ・ミンリャン監督の愛を受け止めていたとしたら、二人のコラボレーションがこれほど長く続いたかは疑問ではないでしょうか?リー・カンションは他の映画監督の作品の出演や、彼自身が映画監督をつとめた作品(「迷子」「ヘルプ・ミー・エロス/Help Me Eros」もあるのですが・・・どの作品も、ツァイ・ミンリャン監督の影響下から脱しているとは言えないのです。

リー・カンションの人生(俳優としてのキャリア)は、ツァイ・ミンリャン監督がによって輝きを放つと言っても過言ではありません。例え、ツァイ・ミンリャン監督がリー・カンションの人生の根幹である俳優生命を支配(?)しているとしても・・・男性としての”心”や”身体”までは征服することはできません。ゲイの男性がストレートの男性を追い続けるかぎり、貢ぎモノは受け取ったとしても、肉体や心までは手に入れることはできないのです。だからこそ・・・ツァイ・ミンリャン監督の思いは永久的であり、一途であり、投資した年月とともに強くなるばかりなのかもしれません。

以前、リー・カンションが婚約したというニュースをインターネットで読んだ覚えがあるのですが・・・その後、結婚報道された記憶がないのです。(ボクが知らないだけ?)伴侶として”女性”を選ぶのは、ストレートのリー・カンションにすれば当然のこと・・・いつかは子供のいる家庭を築きたいと思っていても不思議ではありません。ただ、リー・カンションの人生からツァイ・ミンリャン監督の存在を排除することは絶対不可能・・・それを理解する女性でなければ、リー・カンションの妻にはなれないということなのです。

自分の才能のすべてを捧げるほどの相手に出会うことは、幸運なことなのかもしれません。映画から映像作品になってもツァイ・ミンリャン監督は、ずっとリー・カンション”だけ”を見つめ続ける・・・とうとう「二人だけの世界」に入り込んでしまうようにも思えてしまうのです。

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ツァイ・ミンリャン(蔡明亮/Ming-Liang Tsai)監督の主なフィルモグラフィー


1992 青春神話青少年哪吒
1994 愛情萬歳愛情萬歳
1997 河河流
1998 Hole-洞(
2001 ふたつの時、ふたりの時間你那邊幾點
2003 楽日不散
2005 西瓜天邊一朶雲
2006 黒い瞳のオペラ黒眼圏
2009 ヴィザージュ(
2013 効遊ピクニック(郊遊

「郊遊 ピクニック 」
原題/郊遊 
2013年/台湾、フランス
監督 : ツァイ・ミンリャン
出演 : リー・カンション、ヤン・クイメイ、ルー・イーチン、チャン・シャンチー、
2013年12月1日第14回東京フィルメックスにて上映
2014年8月29日より渋谷シアター・イメージフォーラムにて劇場公開

ツァイ・ミンリャン監督引退作「効遊 」公開記念「河」特別上映
蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)&李康生(リー・カンション)来日イベント
2014年6月17日@渋谷シアター・イメージフォーラム



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二匹目のドジョウならぬ三匹目のドジョウを目指す!?・・・日本市場では成功しているとはいえないフィギュア”課金ゲーム”「ディズニー・インフィニティ」「スカイランダーズ」を任天堂「amiibo/アミーボ」は超えられるか?

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2014年12月6日・・・任天堂から近距離無線通信(NFC)を使用してゲームと連動させるフィギュア「アミーボ/amiibo」が発売されます。(このブログを書いている時点では未発売)「アミーボ」は、WiiUのゲームパッドや新型の3DSにかざすと、キャラクターがゲーム内に出現するというユーザーにとっては「夢」のような仕組みであり、メーカー側にすれば巨大なドル箱市場を構築できる可能性を秘めた「課金ゲーム」の仕組みのひとつです。

追加要素を別に販売する「課金ゲーム」というのは、ゲーム創成期からいろいろとありますが・・・最近流行っているのは「妖怪メダル」でしょうか?妖怪ウォッチに装着したり、妖怪メダルランドのサイトで使ったり、妖怪おみくじ神社でバトルしたりと、さまざまな遊び方はあるようですが・・・3DS版「妖怪ウォッチ」にQRコードを読み込ませることでゲー内のガチャを回せたりもします。ただ「妖怪メダル」はプラスチック製のメダルにシールを貼付けた”だけ”もの・・・”モノ”としての価値はないに等しい代物と言っても良いかもしれません。カプコンの3DS版「ガイストクラッシャー」も、属性のあるギア、ミッション、経験値などが追加できる「QRコード」が別売りという「課金ゲーム」・・・ただし、こちらは爆死レベルの売り上げ。ゲーム自体の評価は高いものの、まったく売れていないようです。

フィギュアという付加価値もつけた「課金ゲーム」の先駆者としては・・・読み取り機器を付属させてクロスプラットフォーム(海外ではWii, Wii U, 3DS, PS3, PS4, Xbox360, Xbox One,、日本ではWii, Wii U, 3DS, PS3)で展開しているアクティビジョンの「スカイランダーズ」シリーズ、バンダイの「ディズニー・インフィニティ」(海外ではWii, WiiU, 3DS, PS3, PS4, Xbox360、日本ではWiiU, 3DS)が、既にあります。


アクティビジョンの「スカイランダーズ/Skylanders」シリーズは、第1作の「スパイロの大冒険/Spyro's Adventure」(アメリカでは2011年に発売)が、スクエアエニックスがローカライズ、トイザらスの専売という形で、昨年(2013年)7月に日本でもWii版、Wii U版、3DS版が発売されましたが・・・日本市場で人気があるとは言い難いようです。

「スカイランダーズ」のキャラクターは「スパイロ・ザ・ドラゴン」というプレイステーション用ゲームから派生したオリジナル・・アメリカのアニメっぽいキャラクターデザインは、好き嫌いが分かれそうな気がします。子供向けということもあってかゲームの難易度は低めなのですが・・・カワイイだけでない、ちょっとクレイジーなキャラクターはマニア受けももしそうです。


「スカイランダーズ」を遊ぶために、そこその金額を投資しなければならない要因のひとつは、フィギュアに属性があるという仕様かもしれません。ゲームを進行するためには8種類の属性(火、水、風、土、まほう、ライフ、マシン、アンデッド)を持つフィギュア(ノーマル版で全32種類)が、最低でも1体づつは必要(スターターパックに含まれない属性のフィギュア5種類ある)・・・スターターパックだけでは、ゲームの一部しか遊べません。別売りのアドベンチャーパックを購入しないと行けないエリアやフィギュア(バラ売りなし)があるのです。

しかし、日本ではアドベンチャーパックやフィギュアトリプルパックの出荷がそもそも少なく、販売もほぼ終了・・・「本気で売る気あったの?」であります。日本では「アミーボ」発売を控えて、トイザらスの店頭やネットストアでは、スターターパック、シングルフィギュア、トリプルパック3種、アドベンチャーパック1種の在庫を半額セール中(2014年11月現在)・・・今後、スカイランダーズシリーズの日本向けのローカライズ開発は”しない”ということなので、購入を考えているなら「今でしょ!」です。

「スカイランダーズ」は、アメリカやヨーロッパでは大変人気(主に小学生の男の子に?)らしく・・・2012年には「ジャイアンツ/Giants」(大きくなって戦う)、2013年「スワップ・フォース/SWAP Force」(上半身と下半身を組み合わせる)、2014年「トラップ・チーム/Trap Team」(敵モンスターをキャプチャーして戦わせる)と、毎年新しいシステムをもった新作が発売されています。そのたびに新しい仕様のフィギュアが加わっていくという・・・なんとも”親泣かせ”なシステムなのです。

ゲームの追加や記録機能は、ネットゲームならばデータのアップロード/ダウンロードで済むことなので、今どきフィギュアというアナログな装置である必然性はないのですが、物理的に存在するフィギュアであるからこそ、”コレクター魂”を揺さぶるのでしょうか?特に「スカイランダーズ」シリーズは「レア・フィギュア」の数があまりにも多く・・・コンプリートするのは非常に困難です。


トイザらス専売、ゲーム機本体にのみ同梱、トイフェアにて配布、懸賞でプレゼントなど、希少価値を高める要因はあるのですが、同じキャラクターのフィギュアでも世代があったり、シルバー、ゴールド、グロー・イン・ザ・ダーク、クリスタル、メタリック、レジェンダリー、ダークなど、さまざまな仕様の「レア・フィギュア」が存在し・・・「ebay」で、トンデモナイ価格(1体数万円とか)で取引されているモノもあります。シリーズの下位互換性はあるので、手持ちのフィギュアは無駄にはならないようですが・・・全4シリーズの(レアを含めた)コンプリートを目指そうものならば、軽〜く100万円以上の投資がかかりそうです。

「スカイランダーズ」シリーズが欧米で売れたのには、フィギュアを介してリアルな生活圏をネットワーク化させたというがあるかもしれません。「スカイランダーズ」を持っている友人と、自分が育てたキャラクターで”協力プレイ”を可能にするというのは、インターネット上の見知らぬ誰かと繋がるよりも(特に対象としている小学生には)安全とは言えるのですから・・・。また近年、子供に大金を投じることが親のステイタスのようになってきているアメリカでは、多額の投資を必要とするフィギュアの「課金ゲーム」は、親の豊かな財力の”証”になっているのかもしれません。


「スカイランダース」によって本格的に開拓されたフィギュアによる「課金ゲーム」市場に、二匹目のドジョウを狙って参入したのが、2013年7月アメリカで発売された「ディズニー・インフィニティ/Disney Infinity」であります。なんたって・・・豊富なキャラクターの宝庫であるディズニーなのですから、爆発的に売れて当然です。(と日本でも思われていた?)

ボクのような”おじさん世代”に馴染みのあるクラシックのディズニーキャラクターよりも、比較的、最近制作されたピクサー作品からのキャラクターが多く・・・「MR.インクレラブル」「モンスターズインク」「パイレーツ・オブ・カリビアン」「トイストーリー」「ローン・レンジャー」「カーズ」「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」「シュガーラッシュ」「塔の上のラプンツェル」「アナと雪の女王」「フィニアスとファーブ(ディズニーチャンネルのアニメ)」というラインナップ。唯一クラシックなキャッラクトートしては「ファンタジア」の魔法使いの弟子からミッキーマウスがあります。


すでに、アメリカでは今年(2014年)9月に「ディズニー・インフィニティ 2.0」が発売されていて、ディズニー社が買収したマーベルコミックスからのキャラクターが大量導入されています。ドナルドダックやティンカーベルの往年のディズニーキャラクターも登場するようですし・・・将来的には、制作権利を買収した「スター・ウォーズ」シリーズのキャラクターも登場するかもしれないので、これまでのどちらかというと”お子様向け”から脱却して、ますます裾野は広がりそうです。

ボクは”3DS版”「ディズニーインフィニティ」購入後、ひとつふたつとフィギュアを買い足していたのですが、しばらくして”WiiU版”も購入してからハマり・・・フィギュアとプレイセットを買い揃えました。しかし「ディズニー・インフィニティ」には、フィギュアだけでなく(!)キャラクターをパワーアップさせたり、ゲーム内でのアイテムを追加したりする”パワーディスク”というオプションが用意されており・・・さらなる課金への罠が待っています。

パワーディスクはランダムな”くじ”の2枚単位での販売(各500円くらい)という”姑息な”パッケージング・・・袋を開けてみるまでは何が入っているか分かりません。いくつか”レア”もあるのでコンプリートするためには、重複覚悟で購入することになります。シリーズ1に20種、シリーズ2に20種、シリーズ3に17種、”トイザらス”専売の10種の計67枚が存在しているようです。パワーディスクのコンプリートセットが、ebayなどではプレミア価格で取引されていることは言うまでもありません。


2000円以下で投げ売りされている”3DS版”は、すごろく形式のミニゲーム集という”ガッカリ”仕様なので、どちらかの「ディズニーインフィニティ」を購入するならば、アクションアドベンチャーゲームの「プレイセットモード」と箱庭的バーチャルワールドを作れる「トイ・ボックスモード」を備えた”WiiU版”の方がオススメです。

追加でフィギュア、プレイセット、パワーディスクを購入しなくても、スターターパック(WiiU版8000円くらい)だけも、そこそこ楽しめることはできますが・・・「MR.インクレラブル」「モンスターズインク」「パイレーツ・オブ・カリビアン」からのキャラクターのフィギュア”だけ”は全部持っていると(その作品に登場するキャラクターのみでプレイ可能)、スターターパックに含まれている「プレイセットモード」を、より楽しめると思います。

さらに、別売りのプレイセット(各3500円くらい)「トイストーイー」「カーズ」「ローン・レンジャー」を買うのであれば、それらのフィギュアも揃えて購入した方が良いでしょう。こうして・・・次々とフィギュアを買い足さなければなければならなっていくというのが、まさにマーケティングの罠であります。「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」「シュガーラッシュ」「塔の上のラプンツェル」「アナと雪の女王」「フィニアスとファーブ」からのキャラクターと「ファンタジア」のミッキーマウスは「トイ・ボックスモード」でのプレイを前提としているので、それらのキャラクターを操作したいのであれば購入すれば良いでしょう。

「ディズニーインフィニティ」は「スカイランダーズ」ほどの”惨敗”ではないようですが・・・日本市場で大ヒットしている様子はありません。そもそも店頭販売しているお店が少なく、日本国内での流通量が少ないのか、入荷時期によっては定価より高く取引されているフィギュアやパワーディスクがあったりします。

「ディズニー・インフィニティ」のレア・フィギュアは、トイザらス専売のクリスタル仕様ぐらい(全7種のうち日本では1種のみ販売)ですし、レア・パワーディスクが存在するものの種類は少なめです。トイザらス専売のゴールドシリーズは、中にどのレア・ディスクが入っているか分かるようになって販売するという優しい仕組みだし、ディズニーシリーズでもレア・ディスクは4種類ほどだけ(シリーズ1に3種類、シリーズ3に1種類)しかありません。それなりの投資は必要ですが・・・フィギュアやディスクのコンプリートも非現実的ではないです。


また、フィギュア、パワーディスク、プレイキットは、輸入版と日本版はまったく同じモノなので互換性があるので、輸入版を購入してもオッケー。ゲーム内の言語はスターターパックに依存しているらしく、輸入版のフィギュアをスキャンしても、キャラクターは日本語でしゃべります。ただ、これって考えてみると・・・ゲームのシステム内部にキャラクターのボイスが、すでに収録されているってことなのでしょうか?・・・だとするとフィギュアは新しい要素を追加するというよりも、ロックされているデータを解除する「鍵」なのかもしれません。

ゲームの進行や成績によって追加要素が増えてもいくのですが・・・フィギュア、パワーディスク、プレイセットなどを追加購入しないと、手に入れなられない要素が結構あるので、なんだかんだで親泣かせです。小出しに分けての切り売りや、運ませな”くじ”販売というのは、ちょっと前に社会問題になったネットゲームの”ガチャ”の課金地獄のビジネスモデルと、潜在的には似ているような気がしてきて・・・ゲームの奥深さより”あざとさ”を感じてしまいます。


「ディズニーインフィニティ」よりも前の去年4月(2013年)・・・実は、任天堂/株式会社ポケモンからも「フィギュア課金ゲーム」として「ポケモンスクランブル U」(ダウンロード専用)が発売されていました。ゲームを遊ぶのにフィギュアが絶対に必要というわけではなく・・・”お助けポケモン”がゲーム内に、フィギュアを読み取らせることで出現すると言う仕組みで、ゲーム進行を優位にできるという”おまけ”的な存在です。


ポケモンセンターのカプセル玩具販売機(くじガシャポン)で、200円で入手できた「ポケモンスクランブル U」専用のフィギュアの販売は、既に終了。カプセル玩具販売機にはお馴染みのレア・フィギュアも存在していましたが、転売屋の大人が商材にしていたという感じで・・・正直、「課金ゲーム」用のフィギュアビジネスとしては成功したとは言い難い結果です。「ポケモンスクランブル U」は、ある意味「アミーボ」の試験的な運用だったのかもしれません。


満を持して(?)任天堂から発売される「アミーボ」・・・フィギュア1体の販売価格が約1200円というのは「課金ゲーム」用のフィギュアとしては平均的。可動するアクションフィギュアなどと比較すると確かに安いのですが・・・ゲームとのデータ記録装置としての付加価値がなければ、サイズや質感からいうと半額ぐらいが妥当な気もします。・・・とは言っても(「ポケモンスクランブル U」用のフィギュアは論外として)現在1000円ほど(販売開始当初は1200円ほど)で販売されている「スカイランダーズ」シリーズのフィギュアよりは、しっかりとは作られているような印象です。

ピーチ、マルス、ゼルダなどの人物キャラクターは細かいディテールまで作り込んでいる一方・・・ピカチュウ、ヨッシー、カービィなどのマンガっぽいキャラクターは結構シンプルな作りになっています。販売価格は同じでも、キャラクターによって生産コストには大きな差がありそうです。ただ、コストがかかってるという理由でフィギュアを選んでも、思い入れがないのでは本末転倒。自分のお気に入りのキャラクターのフィギュアを育成/成長させて楽しむというのが「アミーボ」の王道の遊び方のような気がします。

しかし、製品版の「アミーボ」の品質は、紹介映像で使われているプロトタイプよりも落ちるという噂も、すでに囁かれています。プロトタイプでは透明のフィギュアを支える支柱が色付きになっていたり、色合いがくすんでいたり、ペイントのように見えた柄がシールになっていたり、顔つきが雑な仕上げになっていたり、細かなディテールが省かれているというのです。まぁ、こういうことは高価なフィギュアでもあることではありますが・・・同価格帯の「ディズニー・インフィニティ」用のフィギュア程度のクオリティでないと、子供騙しのギミック玩具としてユーザーに飽きられてしまうかもしれません。


「アミーボ」と先発の「スカイランダーズ」「ディズニー・インフィニティ」との違いのひとつは・・・複数のフィギュアと追加パックを購入しないと、満足にゲームを進められない「スカイランダーズ」「ディズニー・インフィニティ」に対して、「アミーボ」は自分のお気に入りのフィギュア(とりあえずはスマブラ用に3体くらい?)を成長させて遊ぶことを、推奨しているような仕組みなところではないでしょうか?キャラクターによって独自のアイテムがゲーム内で入手できるようではありますが・・・コンプリートを目指すコレクターだけでなく、「ちょっと遊んでみたい」「好きなキャラクターをゲームの中で操作したい」というライトユーザーでも楽しめる仕様は「任天堂らしい」気がします。

専用ゲームや読み取り機器を必要せずに(Wii UとNew Nintendo 3Dの場合)、今後さまざまな任天堂ゲームで「アミーボ」が使えるところも柔軟性を感じさせます。ただし・・・かきこみできるのはひとつのフィギュアにひとつのゲームだけ。ひとつのフィギュアをかきこみで複数のゲームで使い回しはできない仕様らしいのです。例えば、スマブラで育てたマリオを、他のデータのかきこみを必要とするゲームで使いたい場合、スマブラのゲームデータを消去するか、もうひとつマリオのフィギュアが必要となるということです。

発売時の「アミーボ」対応ゲームはWii U 版の「大乱闘スマッシュブラザーズ」(すべてのフィギュアがよみこみ/かきこみ対応)のみですが・・・Wii U版「マリオカート8」(マリオ、ピーチ、ヨッシー、ドンキーコング、リンク、フォックス、サムス、カービィ、ルイージ、キャプテン・ファルコン、トゥーンリンクが対応)「ゼルダ無双」(リンク、トゥーンチンク、ゼルダ、シークが対応)「進め!キノピオ隊長」「タッチ!カービィ スーパーレインボー」「マリオパーティ10」、3DS版「大乱闘スマッシュブラザーズ」「エースコンバット3D クロスランブル プラス」に対応する予定。よみこみ”のみ”対応の場合は、ゲーム内のアイテムやスキンを入手できるという、アンロックの鍵のような仕様ということのようです。ボク個人的には「どうぶつの森」に「アミーボ」が対応したら遊び方が広がるのではないかと、期待しています。

先月末(2014年10月30日)に行なわれた株主向けの質疑応答では、将来的に「アミーボ」はフィギュアだけでなく(!)さまざまな形(小さくて安いフィギュアなど)で展開する計画を発表・・・「どうぶつの森」には、購入しやすい”カードにアミーボ機能を移行させるという構想があるようです。単価が安い(2枚組で200円ぐらい?)のカードであれば、子供のお小遣いでも買うことができますので、ゲームボーイアドバンスのカードeリーダーのようなシステムが復活というところでしょうか?”カード”型「アミーボ」は、おそらくよみこみ専用・・・ゲーム内のアイテムを入手するために、あれやこれや「アミーボカード」を買わされる課金の底なし沼にもなりそうです。

余談ですが・・・任天堂から「アミーボ」が発売される2日前(2014年12月4日)に、バンダイナムコゲーム社から”フィギュア”や”チップ”を付属のリーダーで読み込ませて遊ぶ「仮面ライダー サモンライド」(Wii U版、PS3版)が発売されるようです。フィギュア(計16体?)の追加購入でゲームに平成仮面ライダーを登場(召還)させることができるというフィギュア「課金ゲーム」の典型的なシステム・・・属性があるようなので「スカイランダーズ」と似た仕組みを採用(パクリ?)しているようです。食玩(フィギュア付きのラムネ菓子全5種)や、ガシャポン(チップ全10種)との連動など、仮面ライダーブランドらしいドメスティックなマーケティング展開される模様・・・ただ、何故よりにもよって「アミーボ」発売直前のタイミングなのでしょうか?


「アミーボ」のフィギュアは、日本では発売開始時に18体、来年(2015年)1月22日に8体、2月に3体と・・・今のところ29体の発売が決まっています。スマブラで使えるキャラクター全てが発売されるのかは不明ですが・・・それほど需要があるとは思えないようなキャラクター(WII Fitトレーナーとか?)もあったり、対応するゲームがスマブラ以外考えられないキャラクターもあったりするので、売れるモノと売れないモノの格差がでてくることは明らかです。半年後にはバーゲンコーナーで投げ売りされているキャラクターもあるかもしれません。今現在のアマゾンでの売り上げランキングをみると、日本では「リンク」「マリオ」「カービィ」あたりが売れているようです。

商品の性質上、フィギュアのバリエーションは数多く必要・・・在庫が少なくて欲しいフィギュアが買えなければ売り時を逃すことになるし、逆に在庫があり過ぎて投げ売りされていたら購買意欲を失ってしまうものであります。前出の「ガイストクラッシャー」「スカイランダーズ」に於いては、ゲームソフト自体の販売数が伸びない→追加フィギュアが売れない→追加フィギュアが市場に出回らない→転売屋によって価格が高騰する→ますますソフトもフィギュアも売れなくなる→在庫整理で残ったスターターパックや追加フィギュアが投げ売りされる・・・という悪循環に落ち入ってしまったようです。一時的に在庫切れにして多少の飢餓状態を生む方が、任天堂にとってはプラスのように思えるので、販売してしばらくは過剰な在庫を抱えるリスクを回避するためにも、バリエーションは増やしても生産数は抑え気味という可能性があります。

そもそも、現世代の家庭用ゲーム機に於いて、後発の「PS4」と「Xbox One」に出荷台数ではとっくに抜かれてしまっている「Wii U」・・・「アミーボ」によるゲーム機本体の販売促進の方が、任天堂の本当の狙いなのかもしれません。実際、ボク自身も「ドラクエ10」を休んでからは、殆どWii Uを起動することもありませんでしたが、最近はちょっと前に購入していたゲームを改めて遊び始めていたりしていますから・・・。「アミーボ」がビジネス的に成功するか否かに関わらず、販売開始直後は手に入りにくくなるフィギュア(どのキャラクターの在庫がなくなるかは分かりませんが・・・)が、でてくることは予想されます。「このキャラクターのアミーボは絶対欲しい!」と思っているのであれば、予約できるうちに予約しておくのが無難なのかもしれません。


 

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エリザベス・テイラー最後の主演映画はミュリエル・スパークス原作のサイコミステリー・・・ヒステリー女優(?)としての集大成的作品なの!~「サイコティック/Driver's Seat (Identikit)」~

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エリザベス・テイラーの人気というのは、どうも日本ではイマイチ・・・「最後のハリウッドスター」「映画史上最高の美女」という”アイコン”として映画ファンには受け入れられても、おしゃれ感に乏しく女性が憧れる”往年のスター女優”というイメージはありません。

イギリス生まれのイギリス人であるエリザベス・テイラーは、10歳の時にアメリカで映画デビュー。「緑園の天使」(1944年)で12歳らしからぬ完璧な美貌で、一躍ハリウッドの少女スターとなります。その後「若草物語」(1949年)で若手スター女優の仲間入りをして、18歳で「花嫁の父」(1950年)、19歳で「陽のあたる場所」(1951年)に主演しているのですから、かなり早熟です。

20代半ばには「熱いトタン屋根の猫」(1958年)や「去年の夏、突然に」(1959年)で欲求不満の若妻(!)という”当り役”と出会い、28歳で売春婦を演じた「バターフィールド8」(1960年)で、最初のアカデミー主演女優賞に輝き、演技派女優としての地位も確立します。ハリウッド史上の制作費を投入して大コケした悪名高き(?)「クレオパトラ」(1963年)の主演だって、撮影は30歳の頃・・・「ヴァージニア・ウルフなんてこわくない」(1966年)では、役作りのために(?)34歳でブクブク中年太りして、2度目のアカデミー主演女優賞に輝いたのです。

ただ、その後はヒット作品に恵まれず、1970年代半ば以降は、オールスター作品に華を添えるような出演だったり、テレビシリーズのゲスト出演だったり、お飾り的な立ち位置での「カメオ」ばかりになっていきます。いつしかエリザベス・テイラーは”映画女優”としてよりも、私生活(離婚再婚の繰り返し)や日々の動向(エイズ基金やセレブ香水発売のパイオニア)で注目される”元ハリウッドスター”になっていったのです。

エリザベス・テイラーが”ヒロイン”=主演の最後の劇場用映画というのは、42歳の時に主演した「サイコティック/Driver's Seat (Identikit)」(1974年)という日本では殆ど知られていない作品です。劇場用映画の出演というのは・・・「青い鳥」や「リトル・ナイト・ミュージック/Little Night Music(日本未公開)」「クリスタル殺人事件」などがありますが、いずれも主役ではありません。(テレビ映画やテレビシリーズでは、いくつか主役を演じている作品はあります)

「サイコティック」は公開当時(そして、その後も)、エリザベス・テイラーの長い映画キャリアの中で、最も酷い作品と評されてしまいます。今の感覚だと”42歳”という年齢は、まだまだ女優として活躍できる年齢だと思うのですが・・・当時(1970年代)は、保守的なハリウッドシステムから生まれたエリザベス・テイラーという女優の存在自体が、どこか古臭く感じられてしまう時代でもあったのかもしれません。

本作は、日本では劇場公開されず、1980年代のビデオレンタル全盛期に、エリザベス・テイラーのセクシーなシーン(乳首が見えるブラジャー姿や着衣状態でのマスターベーションやセックスシーンなど)を売りにした”イロモノ的扱い”で、パワースポーツ企画販売という怪しい会社からレンタル用としてリリースされたのみではあります。


「熱いトタン屋根の猫」「去年の夏、突然に」「ヴァージニア・ウルフなんてこわくない」「禁じられた情事の森」「夕なぎ」などで、欲求不満な女性を演じさせたら右に出る者はいない(!)エリザベス・テイラーの独壇場・・・なんがなんだか分からないけど苛々しているエリザベス・テイラーの”ヒステリー演技”が大好物なボクのとって「サイコティック」は、好きな作品のひとつです。

原作はイギリスの作家ミュリエル・スパークスの「運転席/Driver's Seat」という1970年に発表された小説。30代でオールドミスという価値観は、随分と古いように思いますが・・・それも1970年という時代の感覚だったのかもしれません。日本語訳が映画化される前の1972年に、早川書房から出版されているのですが、その後ずっと絶版・・・ミュリエル・スパークスという作家は、評論/研究書って数多く出版されているわりに、肝心な小説は殆ど日本では絶版というありさまです。

しかし、最近(2013年11月)になって、日本独自編集の短編集「パン,パン!はい死んだ」が出版されているので、もしかすると日本でミュリエル・スパークスの人気が再熱しているのかもしれません。現実と幻想が入り交じった不条理なブラックユーモアで人間の愚かさを暴いていくところは、今流行の”イヤミス(後味の悪いミステリー)”の元祖のようでもあり「湊かなえ絶賛」という帯の宣伝文句も納得。そして何より・・・悪意に満ちているのは”登場人物”よりも”書き手”というところが”ミソ”なのです。

さて「運転席」の映画版となる「サイコティック/Driver's Seat (Identikit)」は、エロティック映画”もどき”(?)な作品で知られるジョゼッペ・パトローニ・グリッフィ監督(「さらば美しき人」「悦楽の闇」「スキャンダル・愛の罠」)によるイタリア映画・・・サイコミステリー仕立てのエロティックを期待すると裏切られるとは思いますが、エリザベス・テイラー主演映画としては、ストレートな性的表現や露骨な台詞があったりして、ある意味、意欲作であったことが伺えます。また、アンディ・ウォホールがちょい役で出演していることも、製作当時は話題を集めたようです。

キャリアウーマンのリズ(エリザベス・テイラー)が、自分を殺害してくれる男性を求めてバケーションにでかけて、望みどおりに殺されるというのが本作の物語(これはネタバレというよりも、あらすじとして書かれている)・・・どうして彼女が短気なのか?何故死のうとしているのか?働くことに疲れているのか?恋愛で悩んでいるのか?などの疑問に対して確定的な答えは一切出さずに、意地悪い視点で彼女の旅の様子と、彼女の死後に彼女との関わりを警察の捜査の様子を、時間軸を行き来しながら描いていきます。主人公のリズは勿論、彼女以外の登場人物たちの行動や言動も不可思議・・・観客は奇妙な世界観に身を委ねるしかありません。また、全編に流れる現代音楽のピアノの旋律が妙に不安を高めます。

何故か、冒頭からいきなり苛々しているリズはブティクの販売員に怒りをぶつけます。空港で荷物チェックで止められれば毒づくし、免税店では店員にイヤミで食って掛かるし、ホテルのメイド相手にかんしゃくを起こします。と思えば・・・飛行機の中でナンパされた変態オヤジをなんだかんだで相手にしてみたり、行動は支離滅裂。テロに巻き込まれて街中で爆弾が爆発したり、奇妙な災難にも遭遇しますが、彼女が求めていた男性をたらし込むことに成功します。そして、雑木林の中で男を誘惑して「殺害されること」を懇願して、望みどおりに彼女は死ぬのです。ハッキリとした理由もなく死ぬことだけを求める旅・・・その道中に起こることも、また不条理であります。そして、登場人物たちの台詞の数々は、滑稽であり、時には哲学的でもあり、やはり堂々巡りな不条理なのです。


試着中のドレスが新素材でシミが付かないことを販売員が伝えると、リズは急に怒りだし販売員に喰ってかかります。
「Stain resistant dress? Who asked for a stain resistant dares?/シミのつかないドレス?誰がシミのつかないドレスを頼んだのよ?」

空港の本屋さんで上品な婦人が、リズに突然尋ねてきます。
「Excuse me. Which do you think more exciting? Sadomasochist one?/ごめんなさい。どちらの方が面白いかしら?サドマゾヒストの方かしら?」

テロリスト警戒中の空港で荷物係に止められたリサは、苛立って毒づきます。
「This may look like a purse but it is actually a bomb./これはハンドバッグみたいだけど、本当は爆弾なのよ!」


飛行機の中で隣に座った脂ぎった中年男にリズは厭味たっぷりに対応します。
「You look like Red Riding Hood's grandmother. Do you want to eat me?/あなた赤ずきんちゃんのおばあさんみたいね。私を食べたいの?」

リサをナンパした中年男は意味の分からないアプローチでリズを誘います。
「I have to have an orgasm a day for my microbiotech diet./マイクロバイオテックの食事療法には、一日に一度のオーガズムが必要なんだ。」

そんな中年男に対してのリズの返答は、名台詞(?)です。
「When I diet, I diet and when I orgasm, I orgasm! I don't believe in mixing the two cultures!/ダイエットの時はダイエット、オーガズムの時はオーガズム。二つの文化を一緒にすることはしないのよ!」


リズは徐々に不条理な思考は堂々巡りです。
「I sense a lack of absence /不在しているものが欠乏しているの!」

リズの痛々しさは哲学的でもあるのです。
「I feel homesick for my own loneliness/自分の淋しさにホームシックになるわ」

遂にリズは理想の男性を誘惑することに成功し、彼女を殺害することを懇願します。
「Just Kill me! Then you love me!/ただ殺して!それから私を愛して!」

漠然とした虚無感や孤独感をヒシヒシと感じさせる作品であります。この映画が製作された1974年という時代には、不条理さこそ日常に潜む”恐怖”と考えられていたのかもしれません。公開当時は批評家から酷評され、日本でも劇場未公開の本作が、エリザベス・テイラーの最後の主演映画作品となったことは残念なことではあるのですが・・・年月が経って製作時とは違う価値観で本作を観ると、美人スター女優の顔でなく、ヒステリー女優(?)という”もうひとつの顔”もあるエリザベス・テイラーの「集大成」だと思えるのです。


「サイコティック」
1974年/イタリア
原題/Driver's Seat (Identikit)
監督 : ジョゼッペ・パトローニ・グリッフィ
原作 : ミュリエル・スパークス「運転席」
出演 : エリザベス・テイラー、イアン・バネン、グイド・マンナーリ、モナ・ウォッシュボーン、ルイジ・スカルツィーナ、アンディ・ウォーホル
日本劇場未公開、過去にレンタルビデオあり



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私小説を装った生臭~い自慢話は痛い・・・達観したかのような”自己肯定””と説明過多の”ウザさ”は相変わらずなの!~田中康夫著「33年後のなんとなく、クリスタル」~

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先日、近所の本屋の新刊コーナーで田中康夫著の「33年後のなんとなく、クリスタル」が平置きされていたのですが、積まれた高さは他の本よりもずっと低くなっていて結構売れている様子・・・店頭には3冊ほどしか残っていなくて、ボクは思わず購入してしまいました。しかし、お金を払って購入したことを後悔するだけでなく・・・読むことに費した時間、読後の本の置き場所まで後悔させるような(ボクにとっては)一冊でありました。

前作「なんとなく、クリスタル」が出版されたのは1981年のこと(発表されたのは1980年)・・・当時、18歳のボクは小説に書かれていたような”クリスタル”な生活をしていたわけではありませんでしたが、都内にある私立の付属高校に通っていたこともあり、小説にでてくるお店などの固有名詞には多少馴染みもあって、妙に身近に感じたものでした。


当時の若者文化というのは、すでに古き良き”昭和”という感じではなく、学生運動の反動からなのか”真面目”や”努力”が格好悪い「しらけ世代」の時代になっていたし、国内海外のブランドが浸透し始めて、バブル時代を先取りしたような”ブルジョワ”な若者も結構いたのです。

ベストセラーとなった「なんとなく、クリスタル」は、単行本の発売直後に読みましたが、物語が頭に入ってこないほど退屈な小説だと思ったし・・・文壇からは「今どきの若者はなんっとらん!」的な酷評されていたような記憶があります。しかし、おびただしい数の注釈が小説本文を凌駕するほどの分量という確信犯的なギミックは、まるで当時流行り始めたカタログ雑誌みたいで、小説として新鮮なアプローチというのが、当時の一般的な受け取られ方だったかもしれません。

それまで「しらけ世代」という”くすんだ”印象しかなかった世代を、「なんとなく、クリスタル」というキラキラ感と曖昧さの混在した言葉で表現したことで、バブル景気のムードを予見したと言われるでこともありますが・・・ブランド志向を冷ややかに批判しているようなシニカルさを、ボクは深読みしていました。

また、小説の最後に、物語との関連がないような出生率のデータをポツンと記載して、やがて訪れる日本社会に超高齢化社会の警告しているところは、物資的な上昇志向の無意味さを訴えているようにも読み取れました。社会的な問題提議するような統計データを持ち出してくる発想が、後に田中康夫氏が政治家に転向する布石であったとは、誰も想像だにしませんでしたし・・・今振り返ってみれば、田中康夫を(ボクを含めて)随分と好意的に解釈していたような気がします。


「なんとなく、クリスタル」発売の数ヶ月後に、ボクは留学のために渡米することになります。まだ、メディアでの扱いも新聞記事の”話題のひと”程度のことで、田中康夫氏の”ひととなり”が世間バレる前のことです。その後の1980年代の田中康夫氏のメディアでの活躍ぶりというのは、ボクは一切知らないまま20年近く過ごすことになるのです。

ボクが留学した1980年代にはインターネットはなかったし、日本のテレビ放送もNHKニュースぐらいだったので、若者文化の情報源は雑誌や書籍しかありませんでした。当時、ボクがよく読んでいたのは、雑誌の「宝島」「流行通信」と、橋本治、林真理子、田中康夫のエッセイ本・・・考えてみると、かなり偏っていた情報だばかり吸収していたような気がします。

田中康夫氏のエッセイは、流行っているお店やデートでのマナーを指南する内容が多かったので、今改めて読んでみると「おしゃれな文化人気取りが痛々しい」としか思えませんが・・・1980年代というのは、「ポパイ」「ホットドックプレス」など全盛の時代で、この手の記事が若者向け雑誌の主流でもあったのです。

その後、ボクの中で田中康夫氏は”過去のひと”になっていったのですが・・・長野県知事になったことには大変驚きました。2001年に日本に帰国して、メディアを通じて観たリアルの田中康夫氏の印象は、ボクが「なんとなく、クリスタル」やエッセイ本から感じていたイメージとはかけ離れていて・・・小太りの奇妙なオッサンという感じでした。


相手を見下して論破しようとする語り口は嫌いだし、妙に可愛いモノ好きをアピールするところも気持ち悪く、フェミニストな発言のわりにねちっこい執着を感じさせる・・・ウザいキャラクターにドン引きしてしまったのです。それ故、政治家として興味を持つ気にもなれず、田中康夫氏の政治的な主張は、ボクはよく知りません。ただ、県知事を2期務めて、その後衆議院議員を5年も務めたのだから、彼の支持者というのは当時は多かったのでしょう。ボク自身は、田中康夫氏をメディアで見かけるたびに、生理的に耐えきれなくなっていったのです。

それにも関わらず「33年後のなんとなく、クリスタル」を購入してしまったのは・・・「なんとなく。クリスタル」の続編って、どのように成り立つのだろうという興味があったからにすぎません。帯に書かれた著名人たち(浅田彰、菊池成孔、齋藤美奈子、壇蜜、なかにし礼、浜矩子、福岡伸一、山田詠美、ロバート・キャンベル)の絶賛の宣伝文句が妙に多いところが・・・なんとも胡散臭いのです。それも(例外はありますが)アカデミックな著名人たちを並べてしまったところが、純粋に小説としてよりも、文化的、経済的、社会的にエポックメイキングな作品だと、自負しているようでゲンナリします。

「33年後のなんとなく、クリスタル」の本文は、前作の倍以上の分量・・・肝である”注釈”も(前作ほどではないにしても)本文の半分ほどの分量あるのですが、本作はその内容が酷いのです。前作は、良くも悪くも独断による風俗的な注釈が、興味深いところもあったのですが・・・本作では、統計データを持ち出しての政治的な発言が、妙に目立ちます。また、分かる読者だけが分かるようなキーワードだけ投げかけている注釈は、上から目線の厭味しか感じさせません。読者をバカにしているのかと思ったのは、色の注釈がCMKYの数値”だけ”を記述しているところ・・・色を正確に伝えようという意図なのかもしれませんが、読者は印刷工場ではありません。言葉でとう色を伝えるのかが、小説家としての腕の見せどころではないでしょうか?

さて、本作がある意味、衝撃的(?)なのは・・・「なんとなく、クリスタル」には実在のモデルがいたということを前提としているところであります。本作の主人公ヤスオは、リアルに田中康夫本人ということもあって、生理的に田中康夫氏という個人を受け入れられないボクのような読者にとっては、心底気色悪いことになっているのです。ヤスオと「なんクリ」に登場した女性の33年ぶりの再会のドキドキ感(?)が、お得意のスノッブな世界観を背景に繰り広げられるわけですが・・・何度も何度も過去を振り返る会話やモノローグで語られるのが、達観したかのような自己肯定を貫いた田中康夫氏による”自分史”なのだから「どんだけ自分好きなんだよ!」とツッコミたくなってしまいます。

ボク自身を含め、年齢を重ねていくと過去を振り返ってしまうのはアリガチなことではありますが・・・懐かしい郷愁を覚えるというのではなく、現在のアイデンティティーが”過去”に依存しなければ成り立たないのは、どこかしら哀れに感じられてしまうもの。「こんな有名人を知っていた」「こんなスゴイ仕事した」「こんな通な音楽を聞いていた」「こんな伝説の場所に出入りして遊んでた」などという昔話は、おそらく(誇張はあったとしても)事実なのでしょうが・・・過去の自分の立ち立場に固執しているようで、なんとも痛々しく感じられます。

人生の経験を重ねていくと、こだわりも増えてくるのは当然のこと。人生を豊かにするために、自分自身に対して物質的にも、精神的も投資し続けることは素敵なことではあるのですが・・・いくつになっても強い「我」を主張し続けて、欲望や関心のベクトルが自分に”だけ”向いているのは、逆に何か欠落しているようにも感じさせるのです。どれほど、その人が輝かしい過去の経歴があろうとも、素晴らしい仕事を成し得た人であっても、まだ何かを埋め合わせなければならないことを垣間見せてしまって・・・過去の栄光の”ほころび”さえ露呈させてしまいます。

本作の会話部分は不自然なほど説明過多・・・統計的な数値や固有名詞を持ち出して、政治家田中康夫としての弁明(?)を主人公ヤスオに語らせているのですから、支援者ではない限り”ウザい”こと、この上ないのです。また、聞き手’(?)として登場する女性たちも、まるで「深夜のテレビ番組「有田のヤラシイハナシ」でインタビュー形式で自慢を披露するようなコーナーのみたいに田中康夫氏の主張したいことを引き出すためだけの台詞で、もやは滑稽としか思えません。読み終わることが困難なほどの面白みのない物語で・・・(ボクだけかもしれませんが)話の筋が全然頭に入ってこなさは、田中康夫小説”ならでは”と再確認してしまった次第です。

本作の最後には、前作「なんとなく、クリスタル」と同じように、日本の「出生率低下」と「高齢化」を危惧する統計が再び記述されているのですが・・・その深刻さに反して、本文の登場人物たちのライフスタイルは、まったくもって羨ましくもない薄っぺらい「なんとなく、クリスタル」からの成長のなさに、違和感を感じてしまいます。ある意味、本作は、読者それぞれの人生観を浮き彫りにするような”踏み絵”のような小説とも言えるわけで・・・本作を高く評価する人とボクは、きっと相容れないところがあると確信できてしまうのです。

私小説を装った政治活動(?)は”政治家”として発言する場ですべきことであるし、過去の女性関係やカルチャーの知識の自慢話は「ペログリ日記」のようなエッセイ(ブログ?)で書けば十分なこと・・・わざわざ「小説家」として復帰して出版するべきほどの内容だったのでしょうか?

「33年後のなんとなく、クリスタル」は、田中康夫氏の自己認識が、如何に世間とズレているかを明らかにしてしまっていて、政治家としての資質にさえ疑問を感じさせます。「墓穴を掘った」としか言いようのなさに・・・ただ、失笑するしかありません。


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映画史上最狂エログロ映画「ネクロマンティック/Nekromantik」のユルグ・ブットゲライト(Jörg Buttgereit)監督の新作ホラー映画!・・・初期短編から「ジャーマン・アングスト(原題)/German Angst」まで~

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「ネクロマンティック」がHDリマスターで再リリース!

新年早々「ネクロマンティック」の話題というのも、なんなんですが・・・2015年はユルグ・ブットゲライト監督の復活(?)を期待できる一年となりそうなのであります。

2012年は、映画史上最狂のエログロ映画として語り継がれている「ネクロマンティック/Nekromantik」はオリジナル公開から25周年という”節目”の年でした。昨年(2014年)10月には新たにリマスターされたアメリカ版(ブルーレイ版、DVD版、それぞれ限定10000セット)、12月にはイギリス版(ブルーレイ、DVD、サウンドトラックCDの3枚組で、限定3000セット)が発売されました。

「ネクロマンティック」は、元々はスーパー8ミリで撮影されている作品らしいので、ブルーレイにする意味があるのかと思っていたのですが・・・今回のリマスターでは、ユルグ・ブットゲライト監督監修のスーパー8ミリのネガティブからと、劇場公開の際に使用されていたグラインドハウス社の35ミリのプリントからの二つのバージョンを収録するという念の入れようで、オーディオコメンタリー、スチールギャラリー、メイキング映像などのおまけに加えて、2013年に行なわれた監督へのインタビュー映像や、日本以外ではメディア化されていなかった「ホットラブ」などの初期作品が特典となっています。実際にHDリマスターされた本編を観てみると、大型テレビでの鑑賞に堪えうる鮮明な映像になんっていました。

「ネクロマンティック」は、その内容の異常さから、多くの国で上映禁止処分されたこともあり、公開時からカルト的な伝説を生み出しました。当時ボクはニュヨークに住んでいたのですが・・・劇場上映をしていたカナダまで「ネクロマンティック」を観に行くバスツアーがあったほど。しかし数年後、ビデオレンタル全盛の1990年代になると、各国で「ネクロマンティック」はビデオ化されるようになります。ただ、どういうわけか日本では「ネオロマンティック」と続編の「ネオロマンティック2」を監督自身が再編集した「特別版」がリリースされた後に、それぞれの「完全版」がリリースされるという経緯があったようです。「特別編」の方が映画としては無駄のない編集で、ある意味、貴重なバージョンなのかもしれません・・・今となっては。

2000年代になると、各国で「ネクロマンティック」がDVD化されます。日本では「ネクロマンティック」「ネクロマンティック2」「死の王」3作品を収録したDVDボックス(初回限定3000セット)が発売。また、初期5作品を「ユルグ・ブットゲライト短編集」として発売したのも日本だけ・・・世界的にみても、日本はユルグ・ブットゲライト監督好きの国のようです。しかし近年は、日本国内のレンタル店から「ネクロマンティック」は姿を消し、廃盤となったDVDがプレミア化していったこともあり、最近は観ることが困難な作品となっていったのです。

アメリカ、イギリスのブルーレイ発売に遅れること数ヶ月・・・2015年1月27日には「未体験ゾーンの映画たち 2015」の上映作品のひとつとして「ネオロマンティック」が日本で初めての正式な劇場公開がされます。そして、4月2日には「ネクロマンティック」「ネクロマンティック2」「死の王」のブルーレイ版と日本未公開の「シュラム」のDVDを特典とした「ネクロマンティック ー死の三部作ー」が発売となったのです。これを機に、ユルグ・ブットゲライト監督を発見(再発見?)する人が増えるのかもしれません。

ユルグ・ブットゲライト監督の活動「ネオロマンティック」まで

奇しくも・・・ユルグ・ブットゲライト監督は、ボクと同じ1963年生まれ。生まれた国は違いますが、観ていた映画や影響を受けたことも遠からずということもあり、1980年頃から制作していた自主映画を観ると、当時のムードを思い出してしまいます。それまでの反骨精神に溢れた政治的な意図を含んだ表現よりも、個人的な趣味を追求したサブカル的な表現が主流となった時代・・・スプラッター映画や残酷ドキュメンタリーなどの禍々しいショッキングな映像が、テレビにまでも氾濫していた時代だったのです。パンクムーブメントが生まれた頃というのは、ボク自身を含めて一部の若者には、過激であることこそ新しい表現だとというアナーキーな発想もあったような気がします。

ユルグ・ブットゲライト監督は、いわゆる”オタク系”ではなく、金髪でスタイルの良い長身のハンサム・・・初期作品の多くには自ら出演もしています。「ネオロマンティック」から連想される「死」の暗いイメージの人ではなく、怪獣、モンスター、スーパーヒーローが好きな人・・・子供の頃、誰でもふざけて死ぬ真似とかしたものですが、血糊を塗りらくられて殺されたりするのが楽しくて仕方ないという、ホラー好き子供のような一面を覗かせているのです。また、撮影現場の様子のメイキングなどを観ると、映像ではこの上ないほど”エグい”ことをやっているわりに、意外なほど現場は和気あいあいとしていて・・・ちょっと安心したりします。

現在、視聴可能な一番古い作品は「オガー 醜男のメルヘン/Oger - der Häßliche」で、ナイフを手に入れて人々を襲う孤独な醜男の小人オガーが、領主の息子(!)のキスによって癒されるという寓話的な物語のパロディです。オガーのような異形の反社会的なキャラクターというのは、ユルグ・ブットゲライト監督の作品に欠かせない存在だと思うのですが、ユルグ・ブットゲライト監督が演じているのは、醜男ではなく、一歩引いたナレーター役なのであります。これは、ある意味、すべての作品に共通することで・・・ユルグ・ブットゲライト監督自身は、常に傍観者として「死」を見つめている立ち位置なことを感じるのです。

アメコミのスーパーヒーロをパロった「キャプテン・ベルリン/Captain Berlin - Retter der Welt」は「キック・アス」の元ネタのような”おバカアクション”・・・後に舞台版としてリメイクするほど、監督のお気に入りのキャラクターのようです。「ホラーヘヴン恐怖天国/Horror Heaven」は、世界のいろんなモンスターを紹介する番組という”体”をした映画・・・ミニチュアや特殊効果を駆使していて、後に日本の怪獣の研究書を出版するほどのマニアっぷりが垣間みれます。「血のエクセーズ」は、ヒトラーが蘇らせた死体たちによって、惨殺されてバラバラに切り刻まれるという悪趣味なコメディで、この頃から特殊効果による猟奇的な表現が際立ってくるのです。

いずれも超低予算のホームムービーの延長のような作品で、演出も特殊効果も稚拙そのものではありますが・・・監督本人の父親を10年以上隠し撮りした映像を編集した「マイ・ダディ~我が父/Main Papi」は、脳梗塞で倒れた父親の病状が悪化していく様子を淡々と記録して、心臓マヒで亡くなった死体までを映し出すところは、常人の感覚では理解しがたく・・・ユルグ・ブットゲライト監督の「死」に対する姿勢の神髄を見せつけられるようでもあります。


「ホットラブ」は商業的な映画としてのユルグ・ブットゲライト監督デビュー作なのですが・・・撮影機材は相変わらずスーパー8です。ストーカーのような元彼にレイプされた女性が妊娠して生んだ子供はモンスターになって、女性と、女性の新しいボーイフレンド(ユルグ・ブットゲライト監督が演じる)を惨殺するという物語で、「イレイザーヘッド」や「フライ」を思い起こさせるところもあったりします。ユルグ・ブットゲライト監督が、楽しそうに(?)モンスターに殺されていくところが妙に印象に残るところが、ニヤリとさせられるのです。「ホットラブ」の成功により、プロの映画作家としての道を歩むことになり、さまざまな映像の仕事をするようになるのですが・・・その仕事の間をぬって、約2年間(撮影自体は1年ほど?)をかけて「ネオロマンティック」を完成させるに至るのであります。

「ネオロマンティック」から「シュラム死の悦楽」

公開当時「ネオロマンティック」は16mmで撮影されたとされていましたが、実際はスーパー8で撮影された8mmフィルムを16mmにブローアップしたものだったそうです。ドイツ国内で上映禁止になったことは、センセーショナルな宣伝として利用されたのですが・・・当時の映写技術ではスクリーンが暗すぎて、上映できない場合もあったとのこと。また、ドイツ当局の捜査が、配給会社に手入れが入ったことは事実だったそうですが・・・実際にはフィルム没収はされなかったことを、後日ユルグ・ブットゲライト監督は告白しています。ネガを含むすべての素材の破棄を裁判所から申し付けられたとも言われていましたが、その後、ビデオ化されたりしていることから分かるように・・・多少、誇張された話ではあったようです。しかし宣伝文句を裏切らない映画本編の内容は、30年経った今でさえ多くの人が観賞に堪えられないほど衝撃的(病的?)であることには違いありません。

死体愛好家のカップルを描いた「ネオロマンティック」が、ボクにとってショッキングだったのは・・・性の対象となる死体が腐乱しているということでした。勝手な先入観で「屍姦趣味」の人というのは、一種の対人恐怖症のようなもので・・・意志を持って動くことも反応もしない”ラブドール=ダッチワイフ”を好むのに近い感覚だと思っていたところがあったのです。しかし「ネオロマンティック」のカップルは、「死」そのものや「死」にまつわる”痛み””苦しみ”に性的興奮をするところが理解を遥かに超えていました。最後に、主人公の男性は自ら腹を切り裂き内蔵を掻き出しながら、凛々と勃起して自慰行為に耽って、血みどろの射精をするのですから・・・頭を抱えたくなるほどのトラウマになったものです。

「ネオロマンティック」に続きユルグ・ブットゲライト監督は、自殺する人を月曜日から日曜日までの7つのエピソードで描いた「死の王/Der Todesking」を発表。しかし、この作品もドイツで上映禁止処分を受ける羽目になってしまいます。多くに国で劇場公開されることもなく、ビデオ化されるまで観ることが困難な映画となってしまうのです。各エピソードは10分ほどなのですが・・・エピソートの間には、ウジ虫が湧いて徐々に朽ちていく全裸死体の映像が挿入されます。生身の人間だって、死後は単なる腐乱していくだけな物質なのだということなのでしょうか?詩的な叙情感と冷酷な猟奇性が共存する不思議な作品で、ユルグ・ブットゲライト監督のファンには「死の王」がベストワンという人も少なくありません。


翌年「ネオロマンティック」で描かれたカップルの女性の後日談を描いた「ネオロマンティック2」が発表されます。亡くなった恋人の死体(勿論、すでに腐乱状態)を掘り返すところから映画は始まるのですから・・・前作のトラウマ再びであります。腐乱死体との性行為だけでなく、セックスの最中に首をナタで切り落とすというスプラッターも加わって、さらに狂気の沙汰になっていきます。勿論「ネオロマンティック2」も上映禁止処分・・・こうなるとユルグ・ブットゲライト監督は、確信犯的にヤバい方、ヤバい方に向かっているとしか思えません。


ユルグ・ブットゲライト監督の劇場映画(そして、またもや上映禁止処分!)として最後の作品となるのが「シュラム死の悦楽/Scheramm」であります。短小包茎の男が、はしごから足を踏み外して事故死する直前に、殺人行為を振り返るという物語で、彼はコンプレックスから女性とまともに接することさえできず、女性を殺害して屍姦していたのです。ただ、日常では隣に住んでいる売春婦に聞き耳を立てながら、ダッチワイフ相手に射精しているという惨めなことをしています。そんな鬱屈した日々の中、彼は足が切断されたり、目玉をえぐられるなどの幻覚に悩まされるようになってしまうのです。極めつけはヴァギナのような生物に股間が襲われてパニクって、自ら男性器に釘を打ち込むというシーン・・・孤独な男の悲壮感(?)に心締められるようであります。

ユルグ・ブットゲライト監督の活動「シュラム死の悦楽」以降

ナチスを生んでしまったドイツは、表現の規制には厳しい国のようで・・・「シュラム死の悦楽/Scheramm」以降、ユルグ・ブットゲライト監督はドイツ当局の監視下となり、新作が取れなくなってしまいます。ここ20年ほどは、映像業界で仕事を続けているものの”生殺し”状態で「ネクロマンティック」の監督という”利息”で語り継がれているところは否めません。


「キラー・コンドーム」は、日本でもミニシアターで公開されて、話題にもなった作品です。コンドームが人を襲うというコメディで、ニューヨークの警察を舞台にしながら、登場人物はドイツ語しか話さないドイツ人オンリーという確信犯の「おバカ映画」。ユルグ・ブットゲライト監督は特殊効果担当として名前を連ねていますが・・・血糊の調達でもしたのでしょうか?ユルグ・ブットゲライト監督がスタッフに加わるということが、十分宣伝になったということなのかもしれません。

「機甲戦虫紀LEXX」はカナダ、ドイツ、イギリス合作のSFドラマで、当初全4話のTVミニシリーズとして制作されたのですが、その後レギュラーTVシリーズになって、計4シーズン(ミニシリーズを含む)が作られました。昆虫っぽいメカのデザイン、グロテスクなスプラッター描写、エロティックな衣装、ゆるい笑いのセンス、期待を裏切るシュールな展開・・・いまだにカルト人気を誇る作品であります。

日本では最初のミニシリーズ(現在は第1シーズンという位置づけ)の4話のみ、レンタル/セルで販売/レンタルされたのですが、その後、日本国内の販売権をもつ会社が倒産してしまったために、シーズン2以降の日本語版は発売されず仕舞いになっています。ただ、海外版のDVDボックスは廉価版も販売されていますし、映像のクオリティは悪いですが動画サイトで全エピソードを観ることも可能(いずれも日本語字幕、日本語吹き替えなどはありません)なので、ユルグ・ブットゲライト監督ファンなら一見の価値はあるかもしれません。

ユルグ・ブットゲライト監督が関わったのは、シリーズ2の第9話「791」と「Nook」いうタイトルのエピソードだけなのですが・・・このシリーズのエログロな世界観は、いかにもユルグ・ブットゲライト監督「好み」といえます。ただ、ユルグ・ブットゲライト監督ならではという異常性はなく・・・演出として参加したのは「791」だけ(「Nook」はプロデューサーとして)に終わっています。また、この頃から映像活動として・・・ユルグ・ブットゲライト監督は、パンク系のミュージシャンのミュージックビデオをいくつも手掛けています。

ユルグ・ブットゲライト監督は、自主映画時代には自分の作品に自ら出演していましたが、純粋に俳優としても活動の場を広げます。ポルノ映画の現場を舞台としたウェブ配信されたコメディ「Making of Süsse Stuten 」に、撮りたい映画がつくれないゾンビ映画の監督役という本人を彷彿させる役でレギュラー出演・・・本国ドイツでは、「ネオロマンティック」のヘンタイ監督(?)として確固たるキャラを確立していたることも窺えます。

表現の場を求めた苦肉の策だったのでしょうか・・・2001年からは、実験的な朗読劇のシリーズを、次々と発表しています。ユルグ・ブットゲライト監督はモンスター研究者(特に日本の特撮怪獣モノが好き)としても知られていて、何冊も研究所を執筆しているのですが・・・多くの舞台作品は、モンスターをテーマにしたものです。オフビートな笑いのセンス、グロかわいい(?)モンスターは、ティム・バートンにも通じる世界観があるような印象があります。


「モンスターズ・オブ・アートハウス(原題)/Monsters of Arthouse」と銘打った代表3作はDVDと発売されています。「ビデオ・ナスティー(原題)/Video Nasty」は、1990年代にヨーロッパであったスプラッター映画やカニバリズム映画の規制について皮肉をこめた作品、「セックス・モンスター(原題)/Sex Monster」は、ドイツの性教育映画とブラックスプロイテーション映画のパロディ、「グリーン・フランケンシュタイン(原題)/Green Frankenstein」は日本の特撮怪獣映画をアフレコのような朗読劇という感じです。また、自主映画時代に創作した”おバカ”なアメコミヒーロー「キャプテン・ベルリン」を復活させてコミック化・・・舞台劇としても書き下ろしをして「キャプテン・ベルリン V.S. ドラキュラ(原題)/Captain Berlin vs. Dracula」と「キャプテン・ベルリン VS. ヒトラー(原題)/Captain Berlin vs. Hitler」を上演しています。

20数年ぶりの新作ホラー映画「ジャーマン・アグスト」


「シュラム死の悦楽」以来、ドイツ当局の監視下で映画を作れないといわれてきたユルグ・ブットゲライト監督ですが、新作ホラー映画を撮ったらしいのです。「ジャーマン・アングスト(原題)/German Angst=「ドイツの不安(苦悩)」というタイトルの2015年公開予定(?)のオムニバス映画で、1年ほど前からパイロットトレーラーがウェブで配信されています。

1920年代のサイレント映画の時代・・・F・W・ムルナウ監督の「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922年)、ポール・ワーグナー監督の「ゴーレム」、ロベルト.ウィーネ監督の「「カリガリ博士」(1920年)や「恐怖と手術」(1924年)などの表現主義によるドイツの恐怖映画は、世界に大きな影響を与えたものでした。しかし、第二次世界大戦中開始後、それらの才能はハリウッドへ流失してしまいました。もう一度、恐怖映画の栄光をドイツ映画へ取り戻すために「ジャーマン・アグスト」は企画されたそうです。

「LOVE SEX DEATH in Berlin」という副題にふさわしくハードなゴア表現がいっぱい・・・ユルグ・ブットゲライト監督へのドイツ当局の監視の目は緩和されたということでしょうか?ドキュメンタリー作家/ミハエル・コサコウスキーとイラストレーター/アンドレアス・マーシャルが、他のオムニバス監督として名を連ねているのですが・・・彼らも「殺人」「拷問」「死」が大好物という”心の闇”を感じさせて、ユルグ・ブットゲライト監督に負けず劣らずです。

ミハエル・コサコウスキー監督は、ドキュメンタリーの制作現場に関わってきた人のようですが、自分の映画作品というのは一作だけ・・・「ゼロ・キルド(原題)/Zero Killed」(2012年)は、1996年から10数年かけて撮影されたドキュメンタリー映画で、殺人願望をもつ人たちに妄想を本人に(加害者、または被害者として)演じてもらい、数年後に再び殺人願望についてインタビューするという作品です。俳優、弁護士、教師、学生、主婦など、取材対象は普通の人々で・・・このドキュメンタリー映画に協力したことが、犯罪の抑止力になったではないかと思えてしまいます。ヒトは頭の中で誰かを殺したいという殺意を抱くことはありますが、実際の殺人行為に及ぶことはありません。しかし、この作品の出演者達の多くが、憎悪からではなく純粋な行為としての”殺人願望”を抱いていて、何かのきっかけがあれば、殺人というハードルを軽々と飛び越えてしまいそうなところが、なんとも恐ろしいのです。じわじわと嫌な気持ちにさせられる・・・まさに”不快映画”であります。

オリジナルの「ネクロマンティック」のポスターを担当したアンドレアス・マーシャル監督は、メタルバンドのジャケットカバーのイラストレーターとして知られていて・・・「ティアーズ・オブ・カリ(原題)/Tears of Kali」(2004年)と「マスクス(原題)/Masks」(2012年)の2作のホラー映画も監督しています。ダリオ・アルジェント監督やルチオ・フルチ監督の作品に影響を受けているような作風で、精神的にゲンナリするテーマと痛々しい残酷描写は、アーテスティックでさえあります。

オムニバス映画「ジャーマン・アングスト」は、アンドレアス・マーシャル監督のセックスクラブでの幻想的な体験を描く「アラウネ(原題)/Alraune」、ミハエル・コサコウスキー監督の聾唖のカップルが遭遇する奇妙な体験を描く「メイク・ア・ウィッシュ(原題)/Make A Wish」、ユルグ・ブットゲライト監督の若い女性が中年男性への復讐を描く「ファイナル・ガール(原題)/Final Girl」の3つのエピソードからなっているようで・・・パイロットトレーラーを観る限り、撮影自体は終了してるようにも思えるのですが、公開予定などは一切明言されていません。ただ「ネクロマンティック」のHDマスター版が世界各国でブレーレイ版をリリースという動きは、「ジャーマン・アングスト」の大々的な世界的公開の布石とも思えて、期待が膨らむ一方なのです。


ユルグ・ブットゲライト(Jörg Buttgereit)監督のフィルモグラフィーと活動
(無記述は監督)


1980「Der explodierende Turnschuh」(短編)
1981「オガー 醜男のメルヘン/Oger - der Häßliche」(短編)
1981「Manne the Movie」(短編)
1981~1995「マイ・ダディ~我が父/Main Papi」(短編)
1982「Der Trend – Punkrocker erzählen aus ihrem Leben」(短編)
1982「キャプテン・ベルリン/Captain Berlin - Retter der Welt」(短編)
1982「血のエクセシーズ/Der Gollob」(短編)
1984「ホラーヘヴン恐怖天国/Horror Heaven」(短編)
1984「Blutige Exzesse im Führerbunker 」(短編)
1985「So war das S.O.36 」(ドキュメンタリー)共同監督
1985「ホット・ラブ/Hot Love」(短編)
1986「Monumental-film」(短編ドキュメンタリー)
1986「Jesus Der Film」(オムニバス35編)エピソード「Crucifixion
1987「ネクロマンティック/Nekromantik
1989「死の王/Der Todesking
1991「ネオロマンティック2/Nekromantik 2
1992「シュラム死の悦楽/Scheramm
1992「Corpse Fucking Art 」(ドキュメンタリー)
1993「The Making of Schramm」(ドキュメンタリー)
1995「I Can't Let Go」(ミュージックビデオ)
1996「キラーコンドーム/Kondom des Grauens」特殊効果
1997「Die gläsernen Sarkophage」(テレビ)
1997「Rise Up」(ミュージックビデオ)
1998「機甲戦虫紀LEXX/LEXX」(TVシリーズ)シーズン2/エピソード「791」
1998「機甲戦虫紀LEXX/LEXX」(TVシリーズ)シーズン2/エピソード「Nook」プロデューサー
1998「Teenagemekeup」(ミュージックビデオ)
2001「Sexy Sushi」(舞台)演出・脚本
2001「Missy Queen's Gonna Die」(ミュージックビデオ)
2002「JAPAN - Die Monsterinsel」(ドキュメンタリー)
2002「Frankenstein in Hiroshima」(舞台)演出・脚本
2002「Ed Gein Superstar」(舞台)演出・脚本
2003「Bruce Lee - Der Kline Drache」(舞台)演出・脚本
2004「Journey into Bliss」出演・特殊効果アドバイザー
2004「Horror Entertainment」(舞台)演出・脚本
2004「Interview Mit Einem Monster」(舞台)演出・脚本
2005「Video Nasty」(舞台)演出・脚本
2006「Captain Berlin vs. Dracula」(舞台)演出・脚本
2006「Durch die Nacht mit... / Bruce LaBruce und Jörg Buttgereit 」(ドキュメンタリー)
2006「Suche Kontakt」(ミュージックビデオ)
2007「Durch die Nacht mit... / Joe Coleman und Asia Argento」(ドキュメンタリー)
2007「Durch die Nacht mit... / Mark Benecke und Michaela Schaffrath」(ドキュメンタリー)
2007「Sexplosion in Shinjyuku」(舞台)演出・脚本
2007「Walk of Fame」(舞台)演出・脚本
2008「Monsterland」(ドキュメンタリー)
2008「Making of Süsse Stuten 7」(ウェブ)出演
2009「Captain Berlin vs. Hitler」(舞台)演出・脚本
2009「Sex Monster」(舞台)演出・脚本
2010「Video Nasty "LIVE"」(舞台)演出・脚本
2010「Durch die Nacht mit.../ Oda Juane und Lars Endogner」(ドキュメンタリー)
2011「Making of Süsse Stuten 8」(ウェブ)出演
2011「Green Frankenstein」(舞台)演出・脚本
2011「Shaolin Affen」(ミュージックビデオ)
2012「A Moment of Silence at the Grave of Ed Gein」(短編)
2012「Die Bestie Von Fukushima」(舞台)演出・脚本
2013「Lemmy I'm a Feminist」(ミュージックビデオ)
2014「Das Märchen vom unglaublichen Super-Kim aus Pjöngjang」(舞台)演出・脚本
2015(?)「ジャーマン・アングスト(原題)/German Angst」(オムニバス3編)


「ネクロマンティック」
原題/Nekromantik
1987年/ドイツ
監督 : ユルグ・ブットゲライト
出演 : ガクタリ・ロレンツ、ベアトリス・M、ハラルト・ランド、スーシャ・スコルテッド
2015年1月27日「未体験ゾーンの映画たち 2015」にて上映
2015年4月2日ブレーレイ/DVD発売


「ジャーマン・アングスト(原題)」
原題/German Angst
2015年(?)/ドイツ
監督 : ユルグ・ブットゲライト、アンドレアス・マーシャル、ミハエル・コサコウスキー
日本公開未定



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「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」放映から15年・・・「Weekend/ウィークエンド」のアンドリュー・ヘイ監督によるテレビシリーズは噛めば噛むほど味が出る(?)”退屈なゲイ群像劇”~「Looking/ルッキング」~

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去年、アメリカのケーブルテレビのHBOで制作された「Looking/ルッキング」は、サンフランシスコに暮らすアラサーとアラフォーのゲイ男性3人と彼らの恋人、友人を中心に「リアル」なゲイライフを描いたテレビシリーズであります。製作に関わっているのが、イギリスのゲイ映画「Weekend/ウィークエンド」(めのおかし参照)の監督として知られるアンドリュー・ヘイということも話題になっています。

ゲイ人権運動は日本より進んでると思われるアメリカですが・・・LGBTを主人公としたテレビドラマが制作されるようになったのは、わりと最近(1990年代末期)になってのことかもしれません。1993年製作の日本のテレビドラマ「同窓会」(めのおかし参照)がニューヨークの日本人向けチャンネルで放映された時・・・「テレビで男性同士のラブシーンが!」と日本人だけでなくゲイコミュニティーでも話題になったのも、当時のアメリカではケーブルテレビであっても、同性同士の”マジな”ラブシーンというのはタブー視されていたのです。ゲイの男性キャラクターが、テレビに登場しなかったわけではありませんが・・・あくまでもサイドキック(脇役)の道化役として笑いをとるための存在でしかなかったのですから。

全米ネットワークのひとつである”NBC”で1998年から放映された「Will & Grace/ふたりは友達?ウィル&グレイス」は、典型的なシチュエーション・コメディという枠(男2人、女2人がメインキャスト)ではあったものの、カミングアウトしているゲイ男性が主人公というのは、画期的だったと言えるでしょう。ただ、舞台となっていたニューヨークのゲイコミュニティーから強い支持を集めたとは言い難く・・・どちらかというとゲイに理解のあるストレートの視聴者にウケていた印象でしょうか。ストレートの女性とゲイの男性の友人関係に注目が集まり始めた頃でもあり、タイムリーなドラマではあったのです。


1999年にイギリスのチャンネル4で放映された「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」は、オブラートに包んでないゲイ男性を主人公にした本格的なドラマです。当時はまだ、アメリカでも、ゲイを主人公にしたテレビドラマシリーズはありませんでした。露骨なセックスシーンや、主人公のひとりが15歳という”未成年”ということも衝撃的!しかし残念ながら、当時ボクが在住していたアメリカではテレビで放映されることはなく(内容的にいうよりもイギリスのチャンネル4の番組のディストリビューターがいなかったことが理由らしい)・・・2年近く経ってからアメリカのケーブルチャンネル"SHOWTIME”でのリメイク版の放映後に、DVDで観ることになります。

ゲイタウンとして知られるマンチェスターを舞台にしたイギリス版「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」の主な登場人物は・・・広告代理店で務めるモテ男スチュアート(アメリカ版ではブライアン)、ストアマネージャーでスチュアートの幼馴染みヴァンス(アメリカ版ではマイケル)、そして15歳の高校生でスチュアートに恋するネーサン(アメリカ版ではジョナサン)の3人で、彼らを取り巻くゲイの友人フィルとアレクサンダー(アメリカ版ではテッドとエメット)など、アメリカ版とキャラクターの設定は、殆ど同じです。

スチュアートがレズビアンカップルに精子提供をして子供を授かるところから物語がスタートするところ、ヴァンスの母親がゲイの息子に対して理解をしていること、アレクサンダーが日本人ハスラーに騙されるエピソードなど、アメリカ版へ引き継がれたプロットは多くあります。ただ、イギリス版は30分ほどの8エピソードのファーストシーズンと、45分ほどのスペシャル版の2エピソードのセカンドシーズンという短いシリーズで終わっており、主人公3人の三角関係を描くだけに終わっています。

本作は、幼馴染みであるスチュアートとヴァンスの友情が愛情へと変わっていくという・・・アメリカ版とは全く違う結末となっているのです。彼らの友人のひとりであるフィルは、麻薬の過剰摂取でなくなってしまいますし・・・スチュアートに振られたネーサンはスチュアートの跡を継いで(?)モテ男に成長するという展開となります。

結末は・・・アメリカのテキサス州の田舎(ホモフォビアのある保守的な地域)を車で旅しているスチュアートとヴァンス。男同士でイチャつく二人に、ひとりの田舎者が罵声を浴びせると、スチュアートは隠し持っていた拳銃で脅して、男に謝罪させるのであります。「してやったり!」と大喜びの二人の後ろ姿で終わるのですが・・・なんとも陳腐な結末ではないでしょうか?イギリス版「Queer as Folks/クィア・アズ・フォークス」は、画期的なテレビシリーズではありましたが、制作者の意識の低さも感じさせるところもあります。


イギリス版「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」のイギリス国内での放映開始直後からリメイク権利を巡って、"HBO”と”SHOWTIME”のあいだで熾烈な戦いがあったそうです。1998年から”HBO”で放映されていた「Sex and the City/セックス・アンド・ザ・シティ」は社会現象になるほどの大ヒット・・・その”ゲイバージョン”としてピッタリのシリーズだったのでしょう。結果的に”SHOWTIME”がリメイク権利を獲得することになります。

当初、アメリカ版「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」の舞台は、ニューヨークのマンハッタン島をハドソン川対岸に望むジャージーシティーにする予定だったそうです。ゲイカルチャーだけでなく世界の文化が集まっている大都市と川ひとつで隔てられている小都市がふさわしいと考えたようですが・・・実際にロケーション撮影されたのが、カナダのトロントということもあり、街並の印象が似ているニューヨーク州ピッツバーグに変更となったとのこと。ピッツバーグは、別にゲイの街として知られているわけではないし・・・さびれた地方都市というイメージしかなかったので、舞台がピッツバーグというのには違和感を感じたものです。


配役については、ゲイ視聴者からは共感を得られなかった印象があります。まず、ピッツバーグ一番のモテ男で誰もがエッチしたいと思っているという(かなりハードルの高い役柄!)ブライアンを演じたゲイル・ハロルドは、ストレートの世界ではセクシーでハンサムな色男なのかもしれませんが・・・ゲイの世界では、それほど人気のあるタイプではありません。誰もがブライアンとエッチをしたがるという設定には、ゲイ視点では「ありえない」と思ったものです。ブライアン以外のゲイの登場人物も少々クリーンカット過ぎで、マッチョ、髭、クマ系、刺青・・・といった”ゲイ”が存在しなかったことも、ストレートの視聴者向けという印象は拭えません。さらに、登場人物の誰もが”セックス依存症”なのではないかと思うほど、やりまくりというのも、偏ったステレオタイプという感じでした。


マイケルを演じたハル・スパークスのキャスティングに関しては驚きではあったものの、ゲイの視聴者からはウェルカムだった気がします。VH-1というミュージックチャンネルで「TALK SOUP/トークスープ」(その日のトークショー番組の面白い部分を集めてつっこむというコメディ番組)のホストをしていて、結構売れ始めていたハル・スパークスは、まさに「アメリカン・ボーイ」のステレオタイプで、ゲイの一部には、すでに結構人気があったのです。また、ゲイの息子に理解のあるマイケルの母親デビーを演じたシャロン・グレスは、1980年代に放映された「女性刑事コンビの活躍を描いたキャグニー&レイシー」のキャグニー役で知られていて、レズビアンを中心にLGBTコミュニティーから絶大な人気を誇っていた”男前”な女優さん・・・ここはツボをおさえたキャスティングはあったわけです。


物語の発端や登場人物たちの設定は、イギリス版と同じですが・・・アメリカ版はシーズン1だけでも60分ほどのエピソードが22話(シーズン5で合計83話)もあり、シーズン1前半から脇役の伏線のエピソードを膨らましたアメリカ版のオリジナルのプロットがでてきます。ブライアンの精子提供で子供を授かったレズビアンカップルのリンジーとメラニーのゲイ両親としての生活、完全に脇役扱いだったテッドやエメットの恋愛と転落、ブライアンに恋してしまう17歳(イギリス版の15歳から変更)の少年ジャスティンの母親の葛藤など・・・イギリス版では十分に描かれることのなかった主人公たちを取り巻く人物を深く描いていくことになっていったのです。

2000年前後というのは、1980年半ばからゲイコミュニティーを苦しみ続けたエイズの治療方法が確立し始めた頃・・・過激なエイズ撲滅のための政治運動も一段落して、再びフリーセックス時代への憧れさえ芽生え始めてきた時代でした。1960年代後半から1970年代のスタイルが再流行していたこともあり、アメリカ版「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」は、ミュージックビデオ的なザッピングを多用した演出や、サイケデリックなクラブシーンは派手でイケイケな雰囲気に満ちています。イメージとしての1970年代から1990年代までのゲイカルチャーをミックスしたような世界観に、それらの時代を体験してきたボクの世代には懐かしささえ感じさせたものです。


ゲイ向けテレビチャンネルではなく・・・”SHOWTIME”という一般の視聴者向けチャンネルで唯一のゲイを主人公の連続ドラマという存在であった「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」には、LGBTコミュニティーが抱える社会的な問題を扱っていくことが使命のようなところがあったのかもしれません。徐々にアメリカ版はイギリス版よりも、政治的なメッセージも訴えかけていくことになっていきます。ゲイであることを理由のイジメや差別、ゲイ両親が向き合わなければいけない問題、麻薬やセックス依存、当時アメリカでは合法化されていなかった同性婚についても描かれており、その後アメリカのいくつかの州で同性婚を認める動きになっていったのには、このドラマの存在が無関係ではないかもしれません。

放映開始された頃には、ゲイ版「Sex and the City/セックス・アンド・ザ・シティ」と呼ばれていましたが、登場人物たちの年齢や世代的に直面する問題は「Thirtysomething/ワンダフルサーティーズ」に近いような気もします。LGBTコミュニティーだけでなく、愛情、友情、裏切り、和解など、物語を紡いでいくのは、まさにアメリカのテレビドラマシリーズの独壇場・・・ゲイの登場人物だけでなく、周囲の人々や家族をも巻き込んで、壮大なドラマとなっていくのです。シーズンを重ねていくにつれて、登場人物のキャラや物語の統合性を失ったりもすることはありますが、思いがけない展開により心を鷲掴みにされてしまうのも、アメリカのテレビドラマシリーズの得意とするところかもしれません。

アメリカ版は、元ネタのイギリス版とは、全く違うエンディングを迎えます。すでにブライアンとマイケルの友情以上恋人未満の関係を描く物語ではなくなっていますし、マイケルはベンとの同棲関係に落ち着いてからというものドラマの中での存在感は薄くなっていて、群像劇の中の登場人物のひとりでしかありません。結局、ブライアンとジャスティンの(当時はまだ非合法でしたが)同性婚で結ばれるという着地点に、落ち着くことになります。

アメリカ版「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」は、ゲイのライフスタイル(ステレオタイプの偏りがあるものの)をエンターテイメントとして描くこと、そして、LGBT視点で政治的に正しいことを訴えたエポックメイキングのドラマシリーズであったことには違いありません。


「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」の後、「Lの世界」というレズビアンドラマはありましたが、ゲイ(男性)を主人公とした連続ドラマは、2014年1月にスタートする”HBO”の「 Looking/ルッキング」が始まるまでなかったそうです。確かに、ゲイのキャラクターは多くのドラマでも見かけるようにはなったのもの(日本のドラマでも近年オネエキャラは増えた)・・・ゲイを主人公にした連続ドラマは、あくまでも「特殊なジャンルもの」であり、常にどこかでチャンネルで制作されているわけではなのかもしれません。

「 Looking/ルッキング」のクリエーターのひとりは、イギリスのゲイ映画「Weekend/ウィークエンド」のアンドリュー・ヘイ監督・・・狭い焦点によるボケ感と極端なクロースアップにより、登場人物の心情を伝えるパーソナルな演出が高く評価されました。本作でも、テレビっぽい照明を使わずに、映画っぽい画面作りをしています。また、イギリスのテレビドラマのフォーマットと同じく、ワンシーズンが30分ほどの8エピソードで構成され、イギリス版「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」と同じフォーマットで製作されています。

さらに、キャストの多くはイギリスで活動している俳優だったりと、アメリカのテレビドラマでありながら、イギリス映画界の遺伝子を強く引き継いでいるのです。「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」に続き「 Looking/ルッキング」も(基本的に)イギリス生まれというのは偶然ではなさそう・・・アメリカのエンターテイメント界で、ゼロからゲイドラマを製作するのは、いまだに壁があるということかもしれません。

アメリカの大都市名の中でもゲイの人口に比率が多い(ゲイの総人口数だとニューヨーク?)サンフランシスコを舞台にしている「 Looking/ルッキング」は、ロケーションもサンフランシスコの街中ということもあり「ゲイのリアルな日常」を描くのが”売り”であります。

主人公は、ゲームデザイナーとして働く29歳のパトリック(ジョナサン・グロフ)、アーティストのアシスタントとして働いていた31歳のオーガスティン(フランキー・J・アルヴァレズ)、自分のレストランを開店しようとしている39歳のドム(マウリー・バレット)の3人・・・リアルにゲイらしい配役は、好感が持てます。


パトリックは、アメリカのアラサーゲイの平均な”ボーイ・ネクスト・ドア”(隣に住んでそうな男の子)のキャラクター・・・恋愛相手がラテン系というところが、まさに「あるある」で、ここ近年はアメリカ白人とラテン系という組み合わせのカップルは東海岸でも西海岸でも多いようです。性格的に「コレ」といった特徴もなく、たいして興味深くない人物像のパトリックが、主人公3人の中でもメインキャラクターというところが、本作の”ミソ”のような気がします。


オーガスティンは無精髭を生やしたアート系のゲイ・・・近年、キレイに整えた髭よりも無精っぽい髭の方が若い世代のゲイにはポピュラーのようで、彼のようなむさ苦しいタイプのアラサーゲイは多かったりします。また、アート系のオーガスティンにはアフリカ系(黒人)の恋人がいるのですが・・・これもまた「あるある」です。クリエーターの白人ゲイは、ラテン系、アフリカ系、またはアジア系の男性とくっつくことが多かったりするのです。


一番年長のドムは、往年の”クローン”を彷彿させるようなスレンダーな筋肉質の体型に、整えられた口髭のダディータイプ・・・長年、洒落たレストランでウェイターとして働いているという設定も、まさに「あるある」です。ルームメイトとして一緒に暮らしているのが、高校時代の元彼女ドリス(ローレン・ウィードマン)というところも、結構ありがち・・・。ドリスは、今でも密かにドムのことを男性として意識していることは言うまでもないでしょう。(涙)

性格もライフスタイルも違う彼ら3人が親友という設定には、正直、頭をひねってしまうところはありますが・・・3人に共通しているのは、どこかしら”ウジウジ”しているところ。

パトリックは恋人のリッチー(ラウル・カスティロ)に上手く気持ちを伝えられなかったり、上司のケヴン(ラッセル・トヴェイ)から肉体関係を求められると断れなかったり・・・自分の気持ちに正直なのか、自分の意志をハッキリ持てないのかよく分かりません。ちなみにキャストの中で一番人気(?)なのは、ケヴンを演じるラッセル・トヴェイ・・・耳の大きな特徴的なルックスとイギリス訛りで、ゲイ視聴者を虜にしています。上司でありながら・・・パトリックを誘惑しちゃう場面に”胸キュン”です。


オーガスティンは、恋人のフランク(O・T・ファグベンル)とのセックスライフを豊かにするために、ハスラーを雇って3Pセックスをするのだけど・・・そうして彼がそんなことをするのかが、よく分かりません。ドムは、レストラン開店のビジネスパートナーでもある50代のリン(スコット・バクラ)に、次第に心惹かれていっているのだけど、それは父親に対する甘えのようなものなんのか、単なる肉体的な欲望なのか、よく分かりません。意志を持って行動したり発言するのは、主人公3人ではなく、彼らを取り巻く人たちことが多い気がするのですが・・・受け身なキャラクターの方が、視聴者の共感を得やすいってことなのでしょうか?

「 Looking/ルッキング」は「Weekend/ウィークエンド」のように、おしゃれ感が溢れる映像です。サウンドトラックの選曲や引用も心憎いほど!ただ、ワンシーズンが30分の8つのエピソードなので「尺」としては2時間スペシャルの2エピソードぐらい・・・シーズン2、シーズン3と重ねるごとに、それぞれのキャラクターが深く描かれていくのだとは思いますが、物語のテンポもゆっくりなので、ワンシーズンを見終わっても映画一本で描けるぐらいの内容ではあります。ただ、近年のアメリカの連続テレビドラマは、ドラマテックな展開で目を離せないというだけでなく・・・ドラマの”世界観”や”空気感”を楽しむという傾向もあるようです。


「リアル」の表現に於いて・・・テレビドラマというメディアは「YouTube」を超えることはできないことも、今の現実かもしれません。ウィル(Will)とアール・ジェイ(RJ)の20代のゲイカップルが「shep689」のアカウント名で、2012年1月1日から、ほぼ毎日アップしている動画ブログ「AGAYINTHELEFE」というのがあるのですが・・・これは、まぎれもなくゲイの「リアル」な日常を映し出しているのであります。

あまりに普通過ぎる彼らの日常に多くの人が親しみ覚えると同時に、ある意味、ちょっと退屈さを感じるかもしれません。典型的なアメリカ白人のメガネ君「ウィル」と、ちょっとワイルドなラテン系でひょうきんな「RJ」が、カメラとの相性の良いルックスというのも人気の要因のひとつではありますが・・・日常から垣間見れる真摯な人間性が、視聴者を虜にしているのだと思います。本物の人生の一瞬一瞬の積み重ねは、テレビドラマの「リアル」を、あっさりと超えてしまうのです。


今のゲイライフを「リアル」を描こうとしている「 Looking/ルッキング」が、少々退屈に感じられるのも、当然といえば当然ことなのかもしれません。「リアル」な日常なんて、テレビ用にドラマチックな演出がなされているわけではないのですから。振り返ってみた時に初めて何かに気付くことがあるように・・・「 Looking/ルッキング」は、繰り返し視聴して噛めば噛むほど味が出てくるような気がします。15年前に制作された「Queer as Folk/クィア・アズ・フォーク」のように、政治的メッセージを訴えたり、LGBTであることでドラマを生んだりする時代は、とっくに終わったということなのです。


「 ルッキング」
原題/Looking
2014年~/アメリカ
制作総指揮 :  アンドリュー・ヘイ、デビット・マーシャル・グラント、サラ・コンドン
原作 : マイケル・ランナン(HBO「Lorimer」)
出演 : ジョナサン・グロフ、フランキー・J・アルヴァレズ、マウリー・バレット、ローレン・ウィードマン、ラウル・カスティロ、ラッセル・トヴェイ、O・T・ファグベンル、スコット・バクラ
”HBO”にて放映

「クィア・アズ・フォーク」(アメリカ版)
原題/Queer as Folk
2000年~2005年/アメリカ、カナダ
制作総指揮 : トニー・ジョナス
制作 : ケヴィン・インチ、シーラ・ホッキン
出演 : ゲイル・ハロルド、ハル・スパークス、ピーター・ペイジ、スコット・ローウェル、ミシェル・クラニー、テア・ギル、
”SHOWTIME”にて放映

「クィア・アズ・フォーク」(イギリス版)
原題/Queer as Folk
1999年~2000年/イギリス
制作総指揮 : ニコラ・シンダー
原作/制作 : ラッセル・T・デイヴィス
出演 : エイダン・ギレン、クレッグ・ケリー、チャーリー・フーナン
”Chennnel 4”にて放映



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サイレント映画のジョーン・クロフォード・・・ナイトクラブのダンサーからハリウッド帝国のプリンス ダグラス・フェアバンクス・ジュニアの玉の輿にのるまで~「夜の女/Lady of the Night」「知られぬ人/The Unknown」「踊る娘達/Our Dancing Daughters」他~

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ボクが”ジョーン・クロフォード”の名前を知ったのは、高校生時代(1980年前後)に手にした往年のハリウッド映画についてのムック本だったと記憶しているのですが・・・女優として”ジョーン・クロフォード”をハッキリ認識したのは、1981年にアメリカで劇場公開された「愛と憎しみの伝説」でした。そんな経緯もあってか・・・長年「ジョーン・クロフォード」=「養女虐待女優」というキワモノ的なイメージを、ボクは持ってしまっていました。ケーブルテレビやレンタルビデオが一般的になる1980年代後半まで、アメリカ国内に在住していていても、ジョーン・クロフォードの映画を観る機会というのは、それほどなかったのです。

真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発してから、アメリカ映画は日本では一切公開されなれなくなったこともあり・・・1939年以降につくられたアメリカ映画は、戦後になってから公開されたのです。(あの「風と共に去りぬ」がでさえ、日本で劇場公開されたのは1952年になってから!)タイムラグが大きく開いたので、結局、日本では未公開のままという作品も結構多かったりします。1940年代~50年代ジョーン・クロフォードは数多くのフィルム・ノワール映画に出演しているのですが、フィルム・ノワール映画はアメリカの”闇の部分”を描いているという理由で、アメリカの国策として積極的に輸出されなかったこともあり・・・戦後、ジョーン・クロフォードの映画は、それほど日本では劇場公開されることもなかったようです。

ボクが映画に興味を持ち始めた1970年代後半頃、日本で観ることができたジョーン・クロフォードが出演している映画と言えば・・・テレビの洋画劇場、または名作座で上映されることがあった「何がジェーンに起こったか?」ぐらいでしょうか・・・?1990年代に入ってから、グレタ・ガルボなどが出演しているオールスターキャストという理由で「グランドホテル」、フレッド・アステアの映画デビュー作として「ダンシングレディ」、ニコラス・レイ監督ということで「大砂塵」、淀川長治氏監修のクラシック映画選集に含まれていた「雨」(興行的にも批評家的にも公開当時は失敗作という烙印を押されていた)などが、ビデオ/DVD化されたようです。そして、ここ数年、フィルム・ノワール映画やハリウッドのクラシック映画の再評価のムードにより「ミルドレッド・ピアーズ」「ユーモレスク」「失われた心」「再会のパリ」などの1940年代の出演作品がDVD化されています。ジョーン・クロフォードは1920年代から1970年代まで半世紀にも渡ってハリウッド映画のスター女優であったにも関わらず、出演作品の殆どは日本では未公開のままなのです。

ジョーン・クロフォードが生まれた年には諸説(1904年説、1905年説、1906年説)あるのですが、最も有力と思われる「1905年」だとすると・・・グレタ・ガルボと同い年で、ベティ・デイヴィスの3歳年上ということになります。スウェーデンで映画デビューしてすぐさまハリウッドに招かれてスター女優となったグレタ・ガルボや、アメリカ東海岸のインテリ家庭に生まれて舞台女優としてブロードウェイで活躍後にハリウッドに招かれたベティ・デイヴィスとは違い・・・ジョーン・クロフォードはナイトクラブのダンサーからハリウッドのスター女優へ成り上がりました。スター女優となったからも紆余曲折あり、幾度となく自己再生を繰り返すという人生を歩んだジョーン・クロフォードではあるのですが・・・最もドラマチックだったのは「スター女優になるまで」だったのかもしれません。


本名ルシール・ルスール(Lucille LeSueur)として生まれてまもなく、実の父親は家族の前から姿を消してしまうのです。母親が洗濯屋の住み込みとして働いていたことがあったので、ワイヤーハンガーを毛嫌いしていると言われています。また、9歳頃から学校で給仕の仕事をして学費を支払っていて、勉強だけすれば良いる同級生が羨ましかったそうです。母親からも新しい父親からも愛情を受けず育ち、10代後半には、シカゴ付近のナイトクラブのダンサーとして働きは始めます。”ダンサー”と言えば聞こえは良いですが・・・当時、若い娘の”ダンサー”というのは、感覚的には”ストリッバー”に近い仕事だったのかもしれません。

最初の転機が訪れるのは、ブロードウェイの劇場主に見出されてニューヨークに移住したこと・・・”コーラスガール”として雇われて舞台に立つようになるのですが、すぐさまサックス奏者の男性と結婚したという記録もあります。ジョーン・クロフォードは後日、この結婚について語ることが全くなかったので、法律に基づいた結婚だったのか、内縁関係だったのかは分かりません。ただ、この時期の生活は不安定で、家計のためにポルノまがいの映画やヌードモデルをしていたという噂があるほどです。この男性との関係が、どれほど続いたかは定かではありませんが・・・劇場関係者の男性に近づいて、別な舞台の仕事を得たり、ハリウッドの映画プロデューサーを紹介させたりしています。女の武器を最大限使ったことは、想像するまでもありません。

紹介されたハリウッドの映画プロデューサーを介してMGM映画と契約を結ぶことになるのですが・・・あくまでもダンサー/コーラスガール(エキストラ?)として10週間の契約したに過ぎず、映画女優への道がひらかれていたわけではなかったようです。ただ、すでに一大産業として女優育成も行なわれていたMGMでは、コーラスガールにも演技やダンスレッスンを受けさせて、新人女優に育てようというシステムはあったと言われています。


ジョーン・クロフォード(当時は、まだ本名のルシール・ルスールを名乗っていた)の映画自体の初出演は、名プロデューサーとして権力を持っていたアーヴィン・タルバーグと当時交際していた(後に結婚)MGM映画のスター女優ノーマ・シアラー主演の「夜の女/Lady of the Night」で、クレジットさえされない後ろ姿のボディダブル(替え玉)という屈辱的な待遇でした。ハリウッドで成りあがるためには、権力を持っている男性の力を利用することが必要不可欠であることを、ジョーン・クロフォードは確信したに違いありません。この作品から約15年後「The Women/ザ・ウーメン(原題)」で二人は共演することになるのですが・・・ジョーン・クロフォードはノーマ・シアラーの夫の浮気相手役を演じて高い評価を受けるのですから、因果なことです。


この頃に出演した作品の順番には諸説あるのですが・・・「美人帝国/Pretty Ladies」の端役で映画デビューということになっています。その他に「ザ・サークル(原題)/The Circle」では主人公の若き日を冒頭で演じ、「古着屋クーガン/Old Clothes」ではチャップリンの「キッド」で有名な子役ジャッキー・クーガン演じる主人公と絡む端役を演じるのですが、多くの出演作品はエキストラ程度の役だったようです。MGM映画の広報係は「ルスール」という発音が下水管(Sewer)の音に聞こえるからという理由で、映画雑誌で芸名を公募して”ルシール・ルスール”から”ジョーン・クロフォード”に改名させます。当初、彼女自身は「クロフォード」の発音がザリガニ(Crawfish)のようだと嫌っていたそうですが、結果的にはこの改名が功を奏したのです。”ジョーン・クロフォード”という新たなアイデンティティーが与えられたことで、不幸な生い立ちや過去から自分を分離することができたのかもしれません。


”スター女優”になるべくハリウッドに招かれたわけでもないジョーン・クロフォードが主役を得るためには、自己アピールするしかありませんでした。ダンサー出身ということもあったのでしょうか・・・当時流行していたチャールストンのダンス大会で優勝することで、注目を集めようとします。チャールストンダンスは手足をバタつかせている稚拙な踊りににしか見えないのですが・・・コルセットに縛られていた女性の”自由”そのものを表現したような流行最先端であり、ジョーン・クロフォードはフラッパーとして存在感をアピールすることに成功していくのです。


「三人の踊子/Sally, Irene and Mary」では主役の一人を演じるまでになります。その後「初陣ハリー/Tramp, Tramp, Tramp」「踊る英雄/The Boob」「巴里/Paris」「荒野の勝利者/Winners of the Wilderness」など、さまざまなテイストの作品で、主人公の相手役としてヒロインを務めます。「タクシーダンサー(原題)/Taxi Dancer」では主役に抜擢されるのですが、まだジョーン・クロフォードならではの個性が発揮するまでには至りませんでした。


サイレント映画時代の大スターだったロン・チェイニーと共演した「知られぬ人/The Unknown」での、ナイフ投げ芸人の”的”になるアシスタント役、ジョーン・クロフォードにとって最初の”当り役”かもしれません。サイレント映画時代の演技というのは台詞という音声なしで演技なければいけないので、大袈裟になりがちなのですが・・・特にホラーサスペンスっぽい作品に多く主演したロイ・チェイニーの演技は”パントマイム”としての完成度が高く、サイレント映画の演技としては極めていたのですが、ジョーン・クロフォードはロイ・チェイニーと、この作品で共演したことで役者として開眼したと後に語っています。


この頃、ジョン・ギルバート(「密入国者の恋」「四つの壁」)、ウィリアム・ヘインズ(「スプリング・フィーバー(原題)」「ウエスト・ポイント(原題)」「ザ・ドューク・ステップス・アウト(原題)」)、ティム・マッコイ(「荒野の勝利者」「ザ・ロウ・オブ・ザ・レンジ(原題)」)、ラモン・ノヴァロ(「シンガポール」)などのスター男優の相手役として、ジョーン・クロフォードは次第に新人女優として頭角を現していくことになるのです。


ジョーン・クロフォードが、この時代に共演したスター男優の中でも、親友として仲良かったのが「ウィリアム・ヘインズ」であります。共演した男優と肉体関係を持つことが多かったと噂されるジョーン・クロフォードですが、彼との関係はちょっと違っていたようです。当時”イケメン男優”として活躍していたウィリアム・ヘインズは実は”同性愛者”・・・ジョーン・クロフォードが、その事実を知らなかったとは思えません。肉体関係を超えた女友達同士のような絆で結ばれていた・・・と考えるのは、邪推でしょうか?ハリウッドの権力者に紹介して、業界内でのサバイバル術を教えたのはウィリアム・ヘインズだったという噂もあるほど・・・ジョーン・クロフォードのキャリアには貢献している人なのであります。1930年代半ばになって、ウィリアム・ヘインズは”同性愛者”であることを暴露されてしまうのですが・・・彼は「同性愛者であることを否定すること」を拒み続けて、映画会社から解雇されてしまうのです。おそらく(?)ゲイをカミングアウトした最初のハリウッドスターということになると思うのですが・・・俳優として引退後、パートナーの男性とインテリアデザインのビジネスを成功させて幸せに暮らしたということですから、彼の勇気ある選択は間違っていなかったと思えます。


19世紀末期に映画が発明されてから、たった20数年後にはハリウッドという”映画業界”が生まれていたわけですが・・・そのハリウッド帝国には”ダグラス・フェアバンクス”と”メリー・ピックフォード”というキングとクィーンの夫婦がいたのです。彼らは、D・W・グリフィスやチャップリンと”ユナイテッド・アーツ”という映画会社を設立するなど、ハリウッド帝国において絶大な権力と膨大な資産を持っていました。二人とも移民の子供で上流階級の出身というわけではなかったのですが、生まれたばかりの映画というメディアでイチ早く成功を収めた「新しい時代のセレブ」だったわけです。ダグラス・フェアバンクスには前妻との間にひとり息子がおり、このダグラス・フェアバンクス・ジュニアはいわばハリウッド帝国の”プリンス”のような存在でした。

ジョーン・クロフォードとダグラス・フェアバンクス・ジュニアが知り合ったのは1927年頃といわれています。ダグラス・フェアバンクス・ジュニアが出演していた舞台を観に行ったジョーン・クロフォードが楽屋に挨拶しに行ったらしいのですが、もしかするとウィリアム・ヘインズが二人を仲介したのかもしれません。ただ、この時はハリウッド帝国のプリンスと新人女優という立場の格差もあってか、付き合い始めたわけではなかったようです。


1928年、ジョーン・クロフォードは「踊る娘達/Our Dancing Daughters」で、ブレイクを果たしてスター女優のひとりとなります。”危険なダイアナ”(ジョーン・クロフォード)と呼ばれているフラッパーの娘が、女友達アン(アニタ・ペイジ)と、ベン(ジョン・マック・ブラウン)という男性を取り合うという三角関係の物語で、ヘイズ・コード以前に作られた映画ということもあってか、モラル的には少々おかしなことになっています。

ダイアナとアンの二人の女性から思いを寄せられているベンはダイアナが気になっているのですが・・・他の男性とも楽しげにしているダイアナの態度から自分には関心がないと思い込み、アンと結婚してしまいます。それから、しばらくしてダイアナが開催するパーティーに、アンは愛人の男性と出席して、喧嘩したばかりの夫のベンと鉢合わせしてしまいます。ベンはパーティーでダイアナへの思いを確認し、酒に酔ったアンは落下事故で急死・・・ダイアナとベンが結ばれるための障害もなくなり「めでたし、めでたし」となります。

チャールストンダンスを踊りまくるダンスホールが物語の重要な舞台となっているので、フラッパーとしてのジョーン・クロフォードの魅力が爆発というところでしょうか・・・?当時、これほどハチャメチャな生活をしていた若い女性が実際に存在したかは少々疑問ではあるのですが、誇張されたフラッパー的ば女性像は、当時「イッツ・ガール」として席巻していたクララ・ボウに続いて、フィッツジェラルドなどの著名人の共感や大衆の羨望を生んだようです。ジョーン・クロフォードは”時代の寵児”として、一躍”スター女優”となるのですから・・・。その後「ザ・ドューク・ステップス・アウト(原題)」などに出演し、「踊る娘達/Our Dancing Daughters」の続編的な「アワ・モダン・メイデンス(原題)/Our Modern Maidens」により、ジョーン・クロフォードは人気を不動にものにするのです。


ジョーン・クロフォードの最後のサイレント映画出演作となる「アワ・モダン・メイデンス(原題)/Our Modern Maidens」は、夫婦がそれぞれ真実の愛をみつけるという物語・・・本作もヘイズ・コード以前にありがちのモラルの欠如と唐突な展開が、少々おかしなことになっています。ビリー(ジョーン・クロフォード)は、夫であるギル(ダグラス・フェアバンクス・ジュニア)の仕事の根回しをしようと、上司のグレン(ロッド・ラ・ロック)に掛け合いに出掛けたところ、あっさり恋に落ちてしまうのです。片や夫のギルは、ハウスゲストとして滞在しているビリーの女友達のケンタッキー(アニタ・ペイジ)と惹かれ合ってデキてしまい、ケンタッキーは即妊娠・・・お互いに真実の愛の相手は別にいたことを知って、あっさり夫婦は別れてしまうのです。

登場人物たちの自由すぎる恋愛感は、近代化が進み始めた1920年代の女性が憧れた生き方なのかもしれません。サイレント映画からトークー映画へと変わっていく転換期・・・グレタ・ガルボのような「現実に存在しないような美女」から、ジョーン・クロフォードのような「隣に住んでいそうな娘」へと、女性像が変化していく「大衆の時代」と合っていたということなのです。多くの人々が親しみを感じる「A Girl Next Door」=「隣に住んでいそうな娘」として、ジョーン・クロフォードは受け入れられられたわけですが、実際にはジョーン・クロフォードのような娘が隣には住んでいるわけありません。後に、ジョーン・クロフォードは「隣に住んでいそうな娘が良いなら、隣に行けば良いのよ」と発言をしているのですが、スター女優になった自分は大衆とは違うというだけでなく、自分のような過酷な子供時代を過ごすことは普通ではないと考えていたのかも・・・とも、思えてしまうのです。


「アワ・モダン・メイデンス(原題)/Our Modern Maidensで共演したダグラス・フェアバンクス・ジュニアとジョーン・クロフォードは恋に堕ち、結婚することになります。MGM映画の看板女優となったジョーン・クロフォードにとって、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアとの結婚は、その地位を確実なモノとするための「玉の輿」であり、まさにハリウッド帝国の新しい”プリンセス”にでもなったというところでしょうか?

しかし、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアの義母で、姑となったメリー・ピックフォードは、どこの馬の骨だか分からないジョーン・クロフォードを毛嫌いしていたようで、当時ハリウッドスター達の最高の社交場であった自宅に、嫁を招待したのは結婚してしばらくしてからだったそうです。自宅に招くようになってからも、僅かに残っていた南部訛りを嘲笑したり、テーブルマナーを知らないことをバカにしたりと、トコトン冷たく扱ったと言われています。

メリー・ピックフォードはサイレント映画からトークー映画の女優として転向することはなく、1930年代には女優として第一線から退くことになります。(映画プロデューサーとしては1950年まで活動)それとは逆に、トーキー映画の女優へ見事に転向して、さらに”スター女優”として成功していったジョーン・クロフォードにとって、メリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスが築いたサイレント映画時代のハリウッド帝国の”プリンセス”になることよりも、新しいトーキー映画時代のハリウッド帝国の”クィーン”になることこそが、姑への一番キツ~い”あてつけ”であることを分かっていたのかもしれません。そして、そのハリウッド王国のクィーン(スター女優)で居続けることにジョーン・クロフォードが晩年まで執着したのは・・・”スター女優”になるために手段を選ばない努力を積み重ねたからに他ならないのです。

「夜の女」
原題/Lady of the Night
1925年/アメリカ
監督 : モンタ・ベル
出演 : ノーマ・シーラー、マルコム・マックグレゴー、ルシール・ルスール(クレジットなし)
1926年8月日本劇場公開

「美人帝国」
原題/Pretty Ladies
1925年/アメリカ
監督 : モンタ・ベル
出演 : ザスー・ピッツ、コンラッド・ネジェル、ルシール・ルスール
1927年9月日本劇場公開

「ザ・サークル(原題)」
原題/The Circle
1925年/アメリカ
監督 : フランク・ボガジェ
出演 : エレノア・ボードマン、マルコム・マックグレゴー、ジョーン・クロフォード
日本劇場未公開

「古着屋クーガン」
原題/Old Clothes
1925年/アメリカ
監督 : エドワード・C・クライン
出演 : ジャッキー・クーガン、ジョーン・クロフォード
1927年7月日本劇場公開

「三人の踊子」
原題/Sally, Irene and Mary
1925年/アメリカ
監督 : エドムンド・グールディング
出演 : コンスタンチン・ベネット、ジョーン・クロフォード、サリー・ニール
1929年6月日本劇場公開

「初陣ハリー」
原題/Tramp, Tramp, Tramp
1926年/アメリカ
監督 : ハリー・エドワード、フランク・キャプラ
出演 : ハリー・ロングドン、ジョーン・クロフォード
日本劇場公開年不明

「踊る英雄」
原題/The Boob
1926年/アメリカ
監督 : ウィリアム・A・ウェルマン
出演 : ガードルード・オムステッド、ジョージ・K・アーサー、ジョーン・クロフォード
1928年6月日本劇場公開

「巴里」
原題/Paris
1926年/アメリカ
監督 : エドムンド・グールディング
出演 : チャールス・レイ、ジョーン・クロフォード
日本劇場公開年不明

「荒野の勝利者」
原題/Winners of the Wilderness
1927年/アメリカ
監督 : W・S・ヴァンダイク
出演 : ティム・マッコイ、ジョーン・クロフォード
日本劇場公開年不明

「タクシーダンサー(原題)」
原題/Taxi Dancer
1927年/アメリカ
監督 : ハリー・F・ミラード
出演 : ジョーン・クロフォード、オーウェン・ムーア
日本劇場公開年不明

「知られぬ人」
原題/The Unknown
1927年/アメリカ
監督 : トッド・ブラウニング
出演 : ロン・チェイニー、ジョーン・クロフォード、ノーマン・ケリー
1929年3月日本劇場公開

「密入国者の恋」
原題/Twelve Miles Out
1927年/アメリカ
監督 : ジャック・コンウェイ
出演 : ジョン・ギルバート、ジョーン・クロフォード
1928年8月日本劇場公開

「スプリング・フィーバー(原題)」
原題/Spring Fever
1927年/アメリカ
監督 : エドワード・セドウィック
出演 : ウィリアム・ヘインズ、ジョーン・クロフォード
日本劇場未公開

「ウエスト・ポイント(原題)」
原題/West Point
1928年/アメリカ
監督 : エドワード・セドウィック
出演 : ウィリアム・ヘインズ、ジョーン・クロフォード
日本劇場未公開

「ザ・ロウ・オブ・ザ・レンジ(原題)」
原題/The Law of the Range
1928年/アメリカ
監督 : ウィリアム.ナイ
出演 : ティム・マッコイ、ジョーン・クロフォード
日本劇場公開年不明

「シンガポール」
原題/Across to Singapore
1928年/アメリカ
監督 : ウィリアム.ナイ
出演 : ラモン・ノヴァロ、ジョーン・クロフォード
日本劇場公開年不明

「四つの壁」
原題/Four Walls
1928年/アメリカ
監督 : ウィリアム.ナイ
出演 : ジョン・ギルバート、ジョーン・クロフォード
日本劇場公開年不明

「踊る娘達」
原題/Our Dancing Daughters
1928年/アメリカ
監督 : ハリー・ビューモント
出演 : ジョーン・クロフォード、アニタ・ペイジ、ジョン・マック・ブラウン
1930年4月日本劇場公開

「ザ・ドューク・ステップス・アウト(原題)」
原題/The Duke Steps Out
1929年/アメリカ
監督 : ジェームス・クルーズ
出演 : ウィリアム・ヘインズ、ジョーン・クロフォード
日本劇場公開年不明

「アワ・モダン・メイデンス(原題)」
原題/Our Modern Maidens
1929年/アメリカ
監督 : モンタ・ベル
出演 : ジョーン・クロフォード、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア、アニタ・ペイジ、ロッド・ラ・ロック
日本劇場公開年不明

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「反日映画」でも「宗教映画」でもなく・・・歴史の教訓は”語り継ぐ者”次第なの!~宗教抜きの”許しの精神論”を押しつけるアンジョリーナ・ジョリー監督の「アンブロークン(原題)/Unbroken」と、説明過多の台詞で”感動”を上塗りしまくる「永遠の0」~

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「歴史は勝者によって書かれる」とは陳舜臣の言葉ですが・・・書物しか残っていない数百年前の出来事だけでなく、どんな時代になっても歴史を振り返る時、それを語る者の思想や解釈によって、過去の歴史というのは意図的に書き換えられてしまうものなのかもしれません。

太平洋戦争の終戦から70年・・・リアルタイムで戦争を経験した人たちの証言を聞くことができる機会は、これからドンドン少なくなっていくことでしょう。ただ、語り継ごうとする世代の人たち次第で、歴史から学ぶ教訓は操作されることもあります。

女優アンジョリーナ・ジョリーの監督第2作目の「アンブロークン(原題)/Unbroken」は、今のところ(2015年4月末現在)日本での劇場公開は見送られたようです。スターが出演しているハリウッド映画ではないし、賞レースを狙った公開時期(アメリカでの劇場公開は12月24日)にも関わらず無冠となってしまった作品ですが・・・誰もが知っているスター女優が監督しているし、初日の興行成績は全米1位という話題性はあるので、興行的にコケそうだからというわけではありません。

第二次世界大戦時、日本軍の捕虜となったアメリカ兵の経験談が元になっている「アンブロークン/Unbroken」の内容が、日本人の国民感情を傷つける・・・という「反日映画」の烙印を押されているようなのです。映画で戦争を描くとき、どちらかの国の視点に偏ってしまうことはありがちなこと・・・他国を侮辱する意図がなくても、立場の違いから生まれる歴史認識や解釈の違いにより、他国の国民感情を傷つけてしまうことはあります。


2014年の邦画興行成績1位にもなった日本映画「永遠の0」は、多くの日本人にとっては涙なしでは観られない感動作だと思う人って多いかもしれませんが、世界的に共感を得られたかは疑問です。唯一海外での評価としては、イタリアのウディネ極東映画祭(アダルト映画なども出品される商業ベースの映画祭?)でのグランプリを受賞したことは伝えられましたが・・・。第38回日本アカデミー賞では「最優秀作品賞」「最優秀監督賞」「主演男優賞」他、全8冠受賞の圧勝・・・これは、日本映画界のパラゴラス化の深刻さを感じてしまいます。

広告代理店勤務や放送作家から転向した作家さんは、薄っぺらい感動いまさらの教訓”を謳ったエンタメ作品が多いような気がするのですが・・・市場マーケティングや広告の巧みさで、そこそこのベストセラーになったりするのだからビックリさせられることがあります。ボクは一般的に戦争ものは好きでもないので、百田尚樹著の原作本は手に取ったことがありませんが・・・「探偵ナイトスクープ」の放送作家でもある百田氏のパクり疑惑(「壬生義士伝」「大空のサムライ」)の問題もあったりして、原作本の方も賛否はあるようです。

映画「永遠の0」から、特攻隊の美化、戦意高揚などの軍国主義的なメッセージを感じたサヨク的な人もいたのかもしれません。それに加えて、感動を生む目的ため”だけ”の設定、登場人物たちの言動の違和感、人物設定をくつがえす展開の強引さ・・・そして、これでもかというほど感動を上塗りするために台詞で全部説明に、ボクはうんざりさせられたのです。


映画版「永遠の0」では、健太郎(三浦春馬)が、祖母の葬式の直後に、実は今の祖父(夏八木勲)とは血が繋がっていなかったことを母(風吹ジュン)から伝えられます。まず、この状況が不自然と思ったのはボクだけでしょうか?健太郎の姉・慶子(吹石一恵)は、この事実を知っていたようで・・・家族全員で健太郎”だけ”には明かさなかったということらしいのです。亡くなった祖母は、実の祖父である宮部久蔵(岡田准一)については、殆ど生前語ることはなかったということなのですが・・・「昔の人は口が固かった」という都合のいい昭和のステレオタイプにしか思えません。

ボクが子供の頃(1960年代~70年代)・・・法事で親戚が集まると、決まって戦争時代の昔話をしていたものです。2度も徴兵されたという親戚のおじさんは、南方の激戦地で死にかけた話を、会うたびにしてくれたのですが・・・何故か聞くたびに話が微妙に違っていたり、大袈裟になっていたことを幼心に覚えています。

ここから「永遠の0」のネタバレを含みます。


映画の最後になって分かるのですが・・・実の祖父である宮部久蔵は、義理の祖父にとっては命の恩人。特攻隊として出撃直前、お互いの戦闘機の交換をしたことで、義理の祖父は故障で不時着しなくてはならなくなり、一命を取りとめたのです。

確かに戦中戦後に辛い経験をした人の中には、当時の話をしたくないという人もいるとは思いますが・・・本作では”英雄”として描こうとしている宮部久蔵(実の祖父)のことを、義理の祖父が語ることがなかったというのは、かなり不自然なことです。そして、孫が真実を知った途端に「待ってました!」とばかり、すべてを話し始めるのですから、”感動”させようとする魂胆が白々過ぎます。

映画では、健太郎と姉が、当時の特攻隊の仲間たちに会って宮部久蔵について話を聞いていくことで、徐々に事実が明らかになっていくという展開になっているのですが・・・当初、優秀な操縦技術を持っていて特攻隊の教官だったにも関わらず「必ず生きて帰る」ことを優先していたため、臆病者というレッテルを貼られていたという宮部久蔵の人間性を非難する話ばかりを聞かされます。

しかし、真実が明らかになるに連れ・・・彼らも宮部久蔵によって、救われた命であったことが次第に判明していくのです。彼らは生きて帰ってきたことを恥じる気持ちがあって、宮部久蔵のことを悪く語ってしまったと、本作では暗に描いているのですが・・・戦後60年(映画の時代設定は2004年)経ち、亡くなった戦友(教官)のことを”臆病者”と罵るような人っているのでしょうか?

宮部久蔵訓練兵たちを守ろうとしていたことを問われると・・・今度は手のひらを返したように、健太郎に対して自分が秘めていた心の内面までを饒舌に語り始めるのですから、一体、彼らにとって60年間という時間は「なんだったのだろう?」思えてしまいます。表面的な台詞で感動を説明するのは、最近の日本の映画やテレビドラマだけでなく、歌詞でも、小説でもあり”がち”ですが・・・映像の描写や台詞の行間によって表現することを、最初から放棄しているかのような台詞での”説明”です。

戦時中の感覚では「生き残りたい」というのは臆病者というよりも、単に非国民と責められたでしょう。また「妻と幼い娘のため」と言葉で言うことも「今的」な感覚のように思えます。内面的な葛藤や本当の気持ちを主人公に「台詞」で全部言わせる必要はありません。最後の出兵の際に妻と娘と別れる姿や、義理の祖父が乗ることになった零戦の中に残されていた写真一枚で、十分に伝えることもできたはずです。


”感動の”押し売りのごとく饒舌だと思えば・・・生き残ることを優先し続けていた宮部久蔵が、どのような過程で特攻隊に志願して、健太郎の祖父の身代わりになってまで死を選んだかに至ったかに関しては「台詞」でさえ説明がないのですから、奇妙としかいいようがありません。そこが宮部久蔵といういう人物が英雄であったのかを問うドラマの神髄であるはずにも関わらず、本作はその点については「何故だか分からないが・・・」と濁しているのです。

自暴自棄になって自分自身の信念を見失ったのに、それが”さも”尊い「自己犠牲」という行為をしたかの如く”感動”をしてしまうことは、戦時下の日本人のマインドから、それほど変わっていないことに他なりません。意外なことに、日本人の若い世代が、本作に号泣レベルで感動しているらしいことに、ちょっと怖いと思ってしまいます。

戦争に勝っても負けても、戦死した自国の兵士を弔なったり、帰還兵を尊重するのは当然のこと・・・歴史的な認識の違いというのは、それぞれの立場の違いから生まれて当然かもしれません。ただ、現在の社会問題を、戦争を語り継ぐという建前で感動のオブラートに包んで、まるで「自己犠牲の美学」にすり替えたかのように、ボクは感じてしまったのです。


アンジョリーナ・ジョリー監督の「アンブロークン/Unbroken」は、1936年ベルリンオリンピックに出場したイタリア系アメリカ人ルイス・ザンペリーニの半生(少年時代からオリンピック選手になるまで、太平洋戦争中の空中戦、太平洋での漂流サバイバル、南島の収容施設、大森収容所での捕虜生活)を”あくまでも”彼の視点描いた作品・・・、元ネタのローラ・ヒレンブランド著の「Unbroken」には「日本兵に捕虜が生きたまま食べられた」という描写があるのですが、そのようなシーンは映画にはありません。ただ、ルイス・ザンペリーニという人物の話の信憑性は、ちょっと怪しいところもあるのです。

1930年代のアメリカでは、まだイタリア系移民が差別されていた時代・・・彼は貧しさの故、盗み常習の非行少年だったそうです。しかし、逃げ足の速さから兄からトラック競技の選手になることを奨められて、天性の運動能力から当時最年少でオリンピックのトラック選手となります。それだけで十分に”アメリカン・ヒーロー”の物語として成立するのですが・・・それに加えて、太平洋戦争の”奇跡の帰還兵”となるのです。しかし、戦後、彼が語った話は少々”まゆつば”の印象は拭えません。


例えば・・・太平洋戦争中、ルイスが乗っていた飛行機が南太平洋に不時着して、旧日本軍に捕らえられるまでの47日(!)も食糧や水もないゴムボートで漂流したというのです。映画でも漂流日数をカウントしていくのですが、飲み水さえない状況で、泳いでいる魚や鮫を手づかみで捕まえて生で噛み食ったりと、正直信じ難いサバイバル生活が描かれます。真珠湾奇襲をした”卑怯な敵国”という憎しみに満ちた”色眼鏡”でしか語れないのは、アメリカ兵であった立場であれば当然のことかもしれません。しかし、ルイスが語っている「生きた捕虜の人肉を日本兵が食べた」というエピソードは、明らかな作り話としか思えません。

”奇跡の帰還兵”としてアメリカに帰国後、元オリンピック選手ということもあり、ルイスは一躍有名人となり講演にひっぱりだこだったそうです。もしかすると、繰り返し繰り返し戦争中の体験談を講演しているうちに、ルイスは”奇跡の帰還兵”として漂流や捕虜の話を盛ってしまったのではないのでしょうか?それとも、人肉食いの風習があった南島の少数民族と日本人を混同しているのでしょうか?いずれにしても、日本に対して失礼な話ではあります。


実生活では”PTSD障害”から”アルコール中毒”や”DV”(ドメスティック・バイオレンス)の問題を抱えていたルイス・・・1949年、妻に強制的に参加させられたビリー・グラハムの伝道教会で”信仰”に目覚めます。ルイスは伝道教会の重要な説教者となるわけですが・・・何故か90歳を過ぎてから(2009年)回顧録「Devil at My Heels」を出版するのです。しかし、この本は伝道教会の思惑の裏切って、それほど部数が伸びなかったそうです。そこで、ローラ・ヒレンブランド氏に依頼して”伝記的小説”として書き直されたのが、本作の原作となる「アンブロークン」なのです。この時は、伝道教会の威信をかけての宣伝活動が功を博したおかげもあってベストセラーとなり、アンジョリーナ・ジョリーの目に留まったというわけです。


約2時間ほどの上映時間のうち前半の1時間で少年時代から漂流までを描き(特に漂流部分には結構時間を割います)、捕虜生活を描くのは後半の1時間・・・全編に渡って収容所での過酷な生活を描いている映画ではありません。

映画では、捕虜から”ザ・バード”と呼ばれていた陸軍軍曹”渡邊睦裕”が行なったとされる虐待行為が描かれます。問答無用に理不尽な暴力を捕虜たちに振ることから、大森収容所にいた日本兵たちからも嫌われていた人物だったようです。この”渡邊睦裕”を演じるのが、”雅-MIYAVI-”こと本名・石原貴雅というギタリスト/歌手・・・エレクトリックギターをピックなしで指で弾くという独自の奏法で注目されていて、去年(2013年)の紅白歌合戦ではSMAPの伴奏もしています。全身刺青だらけというワイルドなスタイルでありながら、楽曲の歌詞は「みんなひとつ」とか「白も黒も関係ない」とか、世界の人々の調和を求める”優等生的”(?)なメッセージ・・・ロックだけど反社会性は全然ないイマドキのアーティストという印象です。


妖艶さを漂わせるヴィジュアル系な風貌は、本作と同じく太平洋戦争時の捕虜収容所を舞台とした大島渚監督「戦場のメリークリスマス」での坂本龍一の起用を思い出させます。残念ながら坂本龍一は役者としての演技はイマイチだったし、当時は発音が酷くて英語の台詞が通じなくて、話題性重視のキャスティングという印象でした。しかし、”雅”MIYAVIは、ハリウッドでは完全に無名なのにも関わらず、異例の大抜擢・・・アクセントはあるものの英語の台詞も流暢だったし、演技も悪くはなかったので、アジア系の俳優として今後は注目されるかもしれません。

ここから「アンブロークン」のネタバレを含みます。


ただ・・・本作を「反日映画」と決めつける”ウヨク”の人たちにとって、”雅-MIYAVI-”のキャストティングは恰好のネタを与えてしまっています。というのも・・・”雅-MIYAVI-”は、日本人の母親と「帰化」した元在日韓国人の間に生まれたハーフだということ。

日本生まれで日本国籍なのだから”ハーフの日本人”でいいと思うのですが・・・最近の嫌韓ムードでは、片方の親が「元」在日韓国人となると「在日」というレッテルを貼られてしまいがちです。そして、”反日感情”を持っているから”悪役としての日本人役”を演じたに違いないと推測されてしまうのです。まぁ、確かに、そのようなハーフの日本人(ハーフ韓国人に限らず)はいるのかもしれませんが・・・。”雅-MIYAVI-”のキャスティングについては、彼のパフォーマンスを見て即決したと言われているアンジョリーナ・ジョリー・・・最近の日本の傾向や”雅-MIYAVI-”の出自の詳細は知らなかったのだとは思います。ただ、題材が題材だけに(日本市場に対しての)ツメが甘かった印象は拭いきれません。

本作で描写される”渡邊睦裕”のルイスに対する虐待は、酷いとしか言いようがないのですが・・・あくまでも、ルイス側の証言”だけ”に基づいていることを考慮しなくてはいけないでしょう。元オリンピック選手というある種目立った存在だったルイスをターゲットにして、理不尽な暴力を振るっていたことは事実に近いようですが・・・。映画では”渡邊睦裕”が何故、暴力的になっているかは描こうとはしていません。また、他の日本人兵たちの心境も描かれることもありません。”渡邊睦裕”が虐待をするに至った原因として、軍人であった父親と一緒に写っている写真が、映画の最後に暗示的にクローズアップされるのですが・・・軍人の子として厳しく育てられていたからということで残虐性の説明がつくとは思えません。


”渡邊睦裕”のことを”サイコパス”とか”精神異常者”と決めつけるのは、(特にアメリカの)メディアの定説となっているようですが・・・捕虜への虐待によって性的快感を得ていた「サディスト」だったとも思われるのです。戦争という環境下では、普通の人間でも精神的に異常な状態になって、普段ではアリエナイ残虐性を発揮してしまうこともあります。元々サド的な傾向を持った人物が、戦時下で捕虜を管理する立場になってしまったことで、自分の欲望を満足させるために、捕虜への虐待がエスカレートしてしまったというこもは、あり得るのではないでしょうか?平和な世の中であれば”渡邊睦裕”の性的欲求は”妄想”だけで終わっていたのかもしれません。

多くの日本兵が戦犯として巣鴨プリズンに捕らえられていったにも関わらず・・・終戦後”渡邊睦裕”は逃亡し続けて、アメリカ軍による処罰を受けずに生き延びます。1952年にアメリカ軍が日本から引き上げた後、保険のセールスマンとして大成功して、裕福な生活(オーストラリアに高級別荘まで所有していたらしい)をしていたと言われています。

1998年、ルイスが長野オリンピックの聖火ランナーのために来日した際、”渡邊睦裕”との再会を求めたそうですが・・・”渡邊睦裕”は面会に応じなかったそうです。当時、CBSテレビのインタビューには応じてはいるのですが、捕虜への虐待に関しては軍からの指示ではなく敵国兵士に対する個人的な感情であったことは認めながらも、捕虜たちへの謝罪は一切なし!?高圧的な風貌と、良くも(?)悪くもブレない姿勢は、”渡邊睦裕”の特異性を覗かせています。


”渡邊睦裕”という人物を、一般的な日本人/日本兵と考える元アメリカ兵は多くはないと思いますが・・・映画では、”渡邊睦裕”以外の日本人にキャラクターらしいキャラクターを与えていないため、”渡邊睦裕”が日本人を代表するかのような印象を与えているところはあるのです。”渡邊睦裕”のサディストっぷりを彼特異の性癖として描けば、”雅-MIYAVI-”の妖艶な雰囲気と相まって、ちょっとハードなボーイズラブ的な”萌え”要素(?)にもなったかもしれない・・・と思ってしまうのですが。

映画ではルイスが帰還してからのことは、映像的には描かれていません。ビリー・グラハム伝道教会への信仰についてはエンディングで、神の導きにより日本兵を許すことができたルイスが、戦後来日して捕虜収容所にいた元日本兵たちとも再会をしたことが、実際の写真とともに字幕で表されるだけであります。そして、長野オリンピックの聖火ランナーとして、再び日本を訪れて、オリンピックで走った実際の映像を流して”感動的”に映画を結ぶのです。ルイスの人生に於いて、最も重要な信仰については、駆け足で説明しているという印象はあります。

戦後、ルイスが来日した理由は、ビリー・グラハム伝道教会の布教のためだと推測できます。信仰によって”許し”の境地に達したというのは、キリスト教伝道には、効果的な宣伝文句であったに違いありません。日本での布教活動が、どれほど成果を残したのかは分かりませんが・・・アメリカのキリスト教コミュニティー内での説教者としての知名度は、高めることには成功したでしょう。その後、少年向けのサマーキャンプを主宰したり、戦後ルイスはビリー・グラハム伝道教会の広告塔として第一線で活躍します。

本来・・・”奇跡の帰還兵”ルイス・ザンペリーニの物語は「宗教映画」にしかならないような題材ではあったのですが、アンジョリーナ・ジョリー監督は、普遍的なヒューマ二ズムのメッセージを伝えるために、あえてキリスト教色を薄いものにしたらしいのです。しかし、先日アメリカで発売されたブルーレイ版には、ルイスの信仰について語っている家族の証言の特典映像が含まれていますし、信仰に焦点をあてたドキュメンタリー映画を含んだキリスト教徒向けの特別版も発売されています。これは、映画本編が信仰について触れていないというビリー・グラハム伝道教会からの批判に応えてのことのようで、商業的にはクリスチャン購買部の売り上げ頼りなのかもしれません。

信仰による”許し”の過程を描かずに”許した”という着地点が映画のエンディングとなっているために、どこかしら”許しの精神論”を押しつけられた感があります。「自分を虐待した人たちを許す」というのは、ヒトとして尊いことなのかもしれません。ただ、許すことは過去のトラウマから自分を解放することでもあるわけで・・・許すことで救われるのは”許す者”だったりするのです。また、誤解を恐れずに言ってしまうならば・・・許すという行為は「私はあなたの罪を許す」という上から目線になってしまうことだってあります。

太平洋戦争では日本は敗戦国です。「歴史は勝者によって書かれる」わけですから、罪を問われるのは”日本”だけなのは仕方ないことなのかもしれません。空襲とか、原爆投下とか、戦犯裁判とかあっても、日本は敗戦国らしく(?)アメリカに許されることを選んだおかげで、今ではアメリカの一番の親交国となれたのです。ただ本作は、アメリカ人にとっても古傷を再び開くようなところあったのか、結果的には映画としての「アンブロークン」の高い評価には繋がらなかったようです。

これほど日本兵に虐待されたにも関わらず日本兵を許したアメリカ兵の存在をこれでもかと描くことは、いまだに日本を”許さない隣国”(韓国、中国)に対しての”あてつけ”のようでもあります。見方を変えれば本作は「反日映画」なんかではなく、戦後70年経っても日本の戦争責任を問い続ける国々を、暗に批判しているとも受け取れます。歴史から学ぶ教訓というのは、”語り継ぐ者”次第、また”学ぼうとする者”次第で、如何様(いかよう)にもなってしまうものなのかもしれません・・・。


「永遠の0」
2013年/日本
監督 : 山崎貴
原作 : 百田尚樹
出演 : 岡田准一、三浦春馬、井上真央、吹石一恵、風吹ジュン、夏八木勲、橋爪功、山本學、田中泯、濱田岳、三浦貴大、新井浩二、染谷将太、平幹二朗
2013年12月21日より日本劇場公開


「アンブロークン(原題)」
原題/Unbroken
2014年/アメリカ
監督 : アンジョリーナ・ジョリー
原作 : ローラ・ヒレンブランド
出演 : ジャック・オコンネル、ドーナル・グリーソン、ギャレット・ヘドランド、雅-MIYAVI-
日本劇場公開未定



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矢頭保が”カリスマ写真家”になるまで/その1・・・宝塚歌劇団男子部から日活アクション映画の端役時代

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数年前(2010年)に、このブログで「矢頭保」という写真家について書いたことがあるのですが(めのおかし参照)・・・その後、ますます彼の足跡について興味が湧いてきて、自分なりに彼の足跡の点と点をつなげていくことをしています。

矢頭保から広がっていく、さまざまな疑問・・・何よりも写真家として世の中に認知される前の彼の人生については知られていないことばかりで、矢頭保本人とされる写真も非常に少ないのです。いろいろと謎が多かった理由のひとつは、芸名を何度か変えてリセットを繰り返していたこともあるかもしれません。

「矢頭保」こと、本名「高田実男」(たかだじつお)は、兵庫県西宮市で生まれたことは確かなようですが、正確な生年月日は不明です。誕生日については全く情報が見つけられませんでしたが、生まれた年については1924年~1928年の間に諸説あります。ただ、1973年5月20日に亡くなった時に48歳だったという証言が、生前の彼を知る人々からあるようなので、ここでは1925年説を前提にしようと思います。

1925年生まれとなると・・・三島由紀夫(1925年1月14日生まれ)とほぼ同い年ということです。ちなみに、ボクの母親も1925年生まれで、今年(2015年)90歳となります。この年代というのは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に生まれていて、幼少時は豊かになっていく近代日本で育っているのですが、中学生の時に太平洋戦争が始まり、暗い青春時代を過ごすことになるのです。高校生になった頃には勉強どころではなく、女子生徒は軍事工場で働かされ、男子生徒は徴兵検査を受けて学徒出陣させられています。母いわく・・・同世代の男性は亡くなった人が非常に多かったそうです。

三島由起夫は仮病で徴兵を免れたことを戦後告白していますが、同い年の「高田実男」が出兵したかは分かりません。年齢的に考えて・・・徴兵検査を受けてないとは考えられないし、健康的に問題がなければ(国内勤務で終わったとしても)徴兵された可能性は高いと思います。たとえ徴兵を免れていたとしても、実家のある西宮市に住んでいたとしたら、空襲で焼け出されていたかもしれません。阪神工業地域として発達していた西宮市は、1945年に5回(5月11日、6月5日、6月15日、7月24日、8月6日)もの空襲に襲われているのです。いずれにしても戦争の影響は大きく受けることは免れなかったと思われます。

「高田実男」の家族に関しては諸説あるのですが・・・後年、彼が母親については語ることはあったものの、父親については何も語っていなかったそうで、父親とは特に不仲だったのかもしれませんし、母子家庭のような環境で育ったのかもしれません。兄弟姉妹のうち、少なくとも一人はいたと言われています。いつ彼が実家を離れたかは分かりませんし、戦争が終わった20歳の時、どのように生活の糧を得ていたのかは全く分かりません。

もっと古い「高田実男」とされるのは、1950年に撮影されたとされるバットを片手にユニフォームを着てポーズをとっている写真(下画像参照)。趣味で野球ということは当時でもあったかもしれませんが・・・ユニフォーム一式揃えてというのは、一般的なことだったのでしょうか?もしかすると、どこかで野球選手(プロ?)として活躍していたのかもしれません。ボクは野球には全く知識がないので、彼の着ているユニフォームがプロ野球選手のモノだったとしても、どこのチームのモノかは分かりませんが・・・。


終戦間もない1945年12月、宝塚歌劇団が男子部を開設して第一期生5人を採用、1946年には後に「西野バレイ団」(金井克子、由美かおるを輩出)を設立する西野皓三を含む第二期生3人、1947年には第三期生5人を採用・・・そして、1951年12月、5年ぶりに第四期生12人を採用することになります。この第四期生の中に「高田実男」がおり、このときから「高田延昇」(たかだのぶのり?)という芸名で芸能活動することになるのです。


第四期生は宝塚新芸座のオープンを控えての採用で、即戦力として研究生を集めたところがあったそうなので、何らかの経験がなければ、採用されなかったのではないでしょうか?第三期生までは3年間の研究生として学んでから舞台に立つことを許されたらしいのですが、第四期生については採用されてすぐに宝塚映画劇場での1952年正月公演「ウキウキ世界一周」舞台に出演しているのです。1951年というと「高田延昇」は、すでに26歳・・・おそらく、それまでに何らかの”演技”または”ダンス”の経験があったのかもしれません。また、すでに「和製ターザン」と呼ばれていたようなので、当時としては珍しく鍛えた体格であったようです。


宝塚歌劇団男子部の活動は限られたもので、宝塚大劇場での公演には至らなかったようです。ただ当時、宝塚は映画製作も行なっており、「高田延昇」は「昔話ホルモン物語」「選挙戦のうらおもて」の2作品に出演しています。役柄としてはなかったようですが、この経験が後に日活での大部屋俳優としてのきっかけになっているのかもしれません。残念ながら1954年3月、宝塚歌劇団男子部は解散・・・メンバーは別々の道を歩むことになります。


「高田延昇」は解散直後は、芝居中心の宝塚新芸座に所属したらしいのですが、すぐに北野劇場ダンシングチームへ移籍したようです。このときの年齢は29歳・・・すでに”若手ダンサー”ではありません。詳しいことは分かりませんが、大阪でのダンサー生活は決して楽ではなかったらしく・・・1956年、31歳で上京することを決意するのです。ちなみに、彼の所属していた北野劇場ダンシングチームは、1959年に映画専門館となり解散しています。


上京して「高田延昇」という芸名を名乗り続けていたのかは定かではありません。当初は”フラメンコダンサー”を目指していたらしいのですが、レッスンを開始する直前に交通事故で両足を骨折してしまい、ダンサーとして食べていくことを断念したという話があります。生活に困窮して日雇い人夫をすることもあったようなのですが、思いがけない幸運が彼に訪れます。この頃(1957年?)に、パートナーとなるアメリカ人メレディス・ウィザビーと出会うのです。このことは「その2」で詳しく書こうと思っています。

六本木のウィザビー邸で、当時の日本人の生活レベルからすると贅沢だったであろう同棲生活を始めます。しかし「囲われた愛人生活」に甘んじていたわけではありません。1958年からは日活の(主に)アクション映画に「高田保」(たかだたもつ)という芸名で、数々の作品に出演しているのです。33歳という年齢を考えると・・・応募資格が男子満17歳~22歳だった「日活ニューフェイス」での採用ではなく、いわゆる「大部屋」での採用だと思われます。

当時の日本映画業界では、スター俳優の多くは映画会社に所属(入社)して、基本的にその会社の製作する映画作品にしか出演できませんでした。映画会社お抱えの俳優だけでは映画は作れませんから・・・演技の基礎がある劇団所属の俳優が脇を固めて、その他の端役は大部屋俳優が演じていたのです。毎週数本の映画を量産していた当時の製作体勢を支えるための仕組みで、大部屋俳優からスターになることは、まずありませんでした。

「高田保」が出演したのは、”ダイアモンドライン”と呼ばれた日活アクション映画が中心で、主演には石原裕次郎、小林旭、赤城圭一郎などのスター俳優が並んでいます。彼が演じた役柄の殆どは、チンピラ、愚連隊、悪役の部下/手下、ヤクザの子分/乾分といった、いわゆる”殴られ役”・・・エキストラに近い一瞬しかスクリーンに映らないような役柄もあり、よほど注意して映画を観ていなければ、その存在さえ気付かないほどであります。

演技といても凄みを利かせた表情するだけだったり、スターに殴られるスタントマンのような役柄ばかり。当時の日活アクション映画というのは、主人公を演じるスター、主人公のライバルを演じる俳優、脇を固める劇団出身の役者、悪役を演じる俳優などの顔ぶれは大体決まっていて、それぞれがパターン化された演技をすることが一般的・・・端役の演技がワンパターンだとしても当然のことです。それに、大部屋俳優は役者としての演技うんぬん以前に、見た目の特徴で毎度毎度似たような役柄を与えられていたに過ぎません。

いくつかある映画会社の中で、彼が日活を選んだ理由は今になっては知る由はないのですが・・・宝塚時代からのコネがあったのかもしれませんし、オーディションにたまたま受かったのが日活だったということだたのかもしれません。「東映の大部屋俳優になっていれば任侠映画で活躍できたのでは?」と思うところもありますが、逆に東映だと”イカツイ”タイプなんて吐いて捨ているほどいるので、逆に個性が埋もれてしまっていたかもしれないと思います。

特に根拠もなく「矢頭保」は「どちらかというと小柄だったのでは?」と、ボクは漠然と思っていたのですが・・・出演作品を観てみるかぎり、少なくとも身長170cm以上はあったようです。身長174cmと公表していた赤木圭一郎や宍戸錠と同じぐらい・・・当時としては決して”小柄”ではなかったようです。役作り(?)のためか日焼けしていて色黒、天然パーのような髪、目鼻立ちがごつくて唇も厚く濃い顔、当時としては鍛えた(?)筋肉質の身体、全体的な雰囲気は垢抜けないサル系(?)で、今でもゲイにはモテそうなタイプのひとつ・・・彼が後年、好んで撮影した”日本男児”よりは”南方系”な印象です。


1960年夏頃(?)、芸名を「高田保」から「矢頭健男」(やとうたけお)に変更するのですが・・・相変わらず大部屋俳優で、演じる役柄にも大きな変化はなく、芸名を変えた理由は分かりません。ここで初めて「矢頭」と名乗り始めることになるのですが、何故、この名字を選んだのかも分かりません。ただ興味深いのは「矢頭保」という写真家としてのペンネームは、大部屋俳優時代の芸名の「矢頭(健男)」と「(高田)保」を組み合わせだったということです。

確認できただけでも、約5年間の日活映画の出演作品数は(クレジットなしも含めて)「高田保」名で47作、「矢頭健男」名で28作、計75作もあります。そのうち20作品がDVD化されており「高田保」「矢頭健男」の動いている姿を観ることはできます。大部屋俳優でしたから、ポスターに名前が記述されたことは一度もありませんがでしたが、タイトルのクレジットに出演者として名前が出てくる作品は結構あります。

ただ、出演シーンの多くはコマ送りで再生しないと顔が確認できないほど短く、当時映画館で観ていたお客さんが「高田保」もしくは「矢頭健男」という俳優を認知できたかは、疑問ではあります。また、クレジットには名前があるにも関わらず、何度観ても姿を確認できなかった作品(「錆びた鎖」)があるかと思えば、クレジットに名前はないのに妙に目立っている作品(「風速40米」)があったり、役名があってもなくても似たような役ばかりなのです。

面白いのは・・・日活映画出演も後期になると、その他大勢のエキストラ的な役柄が増えたにも関わらず、ひとりだけ違う色のスーツやシャツを着ていたり、カメラ位置を把握して顔が映る場所を陣取っていたり、他の大部屋俳優が激しく動いている中で一人だけ体は固定されていたりと、上手い具合にスクリーンの中で目立っているのです。監督や他の役者のいる現場なので、勝手なことは許されないとは思いますが、大部屋俳優同士の中には先輩後輩の序列があったのかもしれません。

出演作品で、印象に残る役柄を演じているのは「ギターを持った渡り鳥」「大学の暴れん坊」「銀座風雲児 黒幕は誰だ」「海を渡る波止場の風」でしょうか・・・。中でも流れ者シリーズ二作目となる「海を渡る波止場の風」は、映画全編に渡って登場しており、主演の小林旭、宍戸錠、浅丘ルリ子それぞれと絡んでいて、ひとりでスクリーンに大写しになるシーンもあります。

結果的には「高田保」としても「矢頭健男」としても、大部屋俳優の枠を超えることはなく、1962年7月29日に劇場公開された作品を最後に、日活映画の出演作品の確認はできません。当時はクランクインしてから、一ヶ月ほどで公開されていたようですから・・・おそらく1962年夏には日活を退社していたのではないでしょうか?


日活映画に出演していた期間には、ウィザビー邸で同棲生活をしていたはずなので、生活のために仕事をする必要はなかったと考えられます。それでも約5年ものあいだ大部屋俳優を続けたのは、彼なりに「夢」を追っていたのかもしれません。普段無口で垢抜けない印象を与えた人だったそうですが、自分のルックスにはソコソコ自信を持っていた節があったそうです。(だからこそ、ダンサーや俳優を目指したのでしょうが・・・)もしかすると、今だと裸でセルフィーとかSNSにアップしちゃうようなタイプだったと想像してしまいます。

何故、彼が俳優業を辞めたのかは分かりませんが・・・37歳という年齢に潮時と感じたのでしょうか?ニューフェイス採用のスター候補として同じ年に日活入社した赤城圭一郎はたちまち人気者となり、ニューフェイス入社の後輩たちの作品で相変わらずの大部屋俳優という立場に、少なからず憤りを感じることがあったのかもしれません。それとも、ウィザビーから写真家への転向を奨められていたのでしょうか?

その後、1967年にインディーズで前衛的な実験映画を製作をしていた友人のドナルド・リチーの「青山怪談」に友情出演しましたが、カメラの前に自ら立つこと多くなかったようです。彼自身が撮影したといわれているセルフポートレイト(下画像参照)は、この1枚ぐらいしか発見されていないのです。遺族によってセルフポートレイト写真は全て破棄されてしまったのかもしれませんが・・・。

「高田実男」として生まれ、「高田延昇」として宝塚歌劇団/ダンサーとして活動し、「高田保」「矢頭健男」として大部屋俳優となり、写真家として「矢頭保」と名乗ることで、彼は人生をリセットし続けていたのかもしれません。


************

矢頭保出演作品リスト/クレジットなしも含む
(*印はDVDリリース/○印はVHSビデオのみリリース)

高田延昇(芸名)

「昔話ホルモン物語」役柄不明
監督 : 内村禄哉
出演 : 渡辺篤、木戸新太郎、八千草薫
1952911日公開/宝塚映画

「選挙戦のうらおもて」役柄不明
監督 : 不明
出演 : 鈴木繁男
195335日公開?/宝塚映画

高田保(芸名)

「素晴しき男性」劇団関係者 役/クレジットなし
監督 : 井上梅次
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、月丘夢路
195876日公開/日活

「野郎と黄金」大門
監督 : 牛原陽一
出演 : 長門裕之、二谷英明、岡田真澄
1958722日公開/日活

*「風速40米」尾崎の子分/クレジットなし
監督 : 藏原惟繕
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、川地民夫
1958年8月12日公開/日活

「酔いどれ幽霊」片桐の乾分A
監督 : 春原政久
出演 : 柳沢真一、白木マリ、西村晃
1958826日公開/日活

「銀座の沙漠」キャバレーのボーイ 役
監督 : 阿部豊
出演 : 長門裕之、南田洋子、芦川いづみ
1958915日公開/日活

*「赤い波止場」学生A
監督 : 舛田利雄
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、中原早苗
1958923日公開/日活

「太陽をぶち落せ」浅草の通行 役/クレジットなし
監督 : 野口博志
出演 : 川地民夫、菅井一郎、南田洋子
1958101日公開/日活

「夜の狼」役柄不明/クレジットなし
監督 : 牛原陽一
出演 : 葉山良二、芦川いづみ、白木マリ
1958108日公開/日活

「俺らは流しの人気者」山中の乾分A
監督 : 野口博志
出演 : 川地民夫、沢本忠雄、宍戸錠
19581029日公開/日活

「嵐の中を突っ走れ」チンピラ(一)
監督 : 藏原惟繕
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、岡田真澄
19581029日公開/日活

「完全な遊戯」吉祥寺のノミ屋の客/クレジットなし
監督 : 舛田利雄
出演 : 小林旭、芦川いづみ、白木マリ
195811月12日公開/日活

「忘れ得ぬ人(第一部)」役柄不明
監督 : 吉村廉
出演 : 筑波久子、待田京介、葉山良二
19581210日公開/日活

「獣のいる街」関根
監督 : 古川卓巳
出演 : 葉山良二、梅野泰靖、芦田伸介
19581217日公開/日活

*「女を忘れろ」大沢の部下四
監督 : 舛田利雄
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、南田洋子
1959128日公開/日活

「愛は空の果てへ」銀河の政
監督 : 野口博志
出演 : 青山恭二、初井言栄、稲垣美穂子
1959218日公開/日活

「逃亡者」トラックの助手
監督 : 古川卓巳
出演 : 長門裕之、稲垣美穂子、露口茂
1959325日公開/日活

「海は狂っている」高田
監督 : 古川卓巳
出演 : 川地民夫、南田洋子、清水まゆみ
195969日公開/日活

「若い豹のむれ」ボクシングジムの先輩 役/クレジットなし
監督 : 松尾昭典
出演 : 小林旭、渡辺美佐子、白木マリ
1959616日公開/日活

「ゆがんだ月」高校生
監督 : 松尾昭典
出演 : 長門裕之、芦川いづみ、赤木圭一郎
1959728日公開/日活

「男なら夢をみろ」岩淵組の乾分A
監督 : 牛原陽一
出演 : 石原裕次郎、葉山良二、芦川いづみ
195989日公開/日活

「清水の暴れん坊」チンピラ(二)/タイトルバックの愚連隊 役
監督 : 松尾昭典
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、芦川いづみ
1959927日公開/日活

*「ギターを持った渡り鳥」清水
監督 : 斎藤武市
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、中原早苗
19591011日公開/日活

「天と地を駈ける男」バーでからむチンピラ/クレジットなし
監督 : 舛田利雄
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、二谷英明
1959年11月1日公開/日活

「密会」若い男
監督 : 中平康
出演 : 桂木洋子、宮口精二、千代侑子
19591111日公開/日活

「波止場の無法者」役柄不明
監督 : 齋藤武市
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、岡田真澄
19591115日公開/日活

*「大学の暴れん坊」イタチの勝
監督 : 古川卓巳
出演 : 赤木圭一郎、葉山良二、芦川いづみ
19591118日公開/日活

*「銀座旋風児 黒幕は誰だ」武田鉄兵
監督 : 野口博志
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、南風夕子
1959127日公開/日活

「昼下りの暴力」愚連隊のチンピラ
監督 : 野口博志
出演 : 川地民夫、水島道太郎、稲垣美穂子
19591214日公開/日活

○「男が命を賭ける時」労働者B
監督 : 松尾昭典
出演 : 石原裕次郎南田洋子芦川いづみ
19591227日公開/日活

*「鉄火場の風」街のチンピラB
監督 : 牛原陽一
出演 : 石原裕次郎、北原三枝、赤木圭一郎
1960115日公開/日活

*「やくざの詩」乾分B
監督 : 舛田利雄
出演 : 小林旭、芦川いづみ、南田洋子
1960131日公開/日活

「六三制愚連隊」乾分三
監督 : 西河克己
出演 : 和田浩治、木下雅弘、守屋浩
1960313日公開/日活

*「打倒(ノックダウン)」拳闘部長島
監督 : 松尾昭典
出演 : 赤木圭一郎、二谷英明、稲垣美穂子
1960320日公開/日活

「闇に光る眼」十太
監督 : 春原政久
出演 : 川地民夫、中川姿子、谷川玲子
1960330日公開/日活

「邪魔者は消せ」佐川の仲間 役/クレジットなし
監督 : 牛原陽一
出演 : 赤木圭一郎、二谷英明、葉山良二
1960416日公開/日活

「素っ飛び小僧」今村の子分 役/クレジットなし
監督 : 西河克己
出演 : 和田浩治、葉山良二、清水まゆみ
196053日公開/日活

「特捜班5号」銀行ギャングA
監督 : 野村孝
出演 : 青山恭二、二本柳寛、深江章喜
1960511日公開/日活

*「海を渡る波止場の風」サブ
監督 : 山崎徳次郎
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、宍戸錠、白木マリ
1960528日公開/日活

*「男の怒りをぶちまけろ」稲上勇二の子 役
監督 : 松尾昭典
出演 : 赤木圭一郎、浅丘ルリ子、二谷英明
1960618日公開/日活

*「霧笛が俺を呼んでいる」酒場35ノットの船員乾分C
監督 : 山崎徳次郎
出演 : 赤木圭一郎、芦川いづみ、吉永小百合
196079日公開/日活

「喧嘩太郎」神風会の男C 役
監督 : 舛田利雄
出演 : 石原裕次郎、芦川いづみ、白木マリ
1960810日公開/日活

「疾風小僧」黒須組乾分1
監督 : 西河克己
出演 : 和田浩治、吉永小百合、由利徹
1960821日公開/日活

「一匹狼」乾分D
監督 : 牛原陽一
出演 : 小高雄二、芦川いづみ、南田洋子
1960829日公開/日活

「小雨の夜に散った恋」三木
監督 : 吉村廉
出演 : 川地民夫、和田悦子、稲垣美穂子
1960831日公開/日活

○「やくざ先生」愚連隊A 役/クレジットなし
監督 : 松尾昭典
出演 : 石原裕次郎、宇野重吉、北原三枝
1960年9月21日公開/日活

「闇を裂く口笛」チンピラC
監督 : 森永健次郎
出演 : 高山秀雄、笹森礼子、飯田蝶子
1960928日公開/日活

*「錆びた鎖」役柄不明
監督 : 齋藤武市
出演 : 赤木圭一郎、笹森礼子、白木マリ
19601112日公開/日活

矢頭健男(芸名)

*「大草原の渡り鳥」ロク
監督 : 斎藤武市
出演 : 小林旭、宍戸錠、浅丘ルリ子
19601012日公開/日活

「コルトが背中を狙ってる」劉の輩下宗
監督 : 古川卓巳
出演 : 葉山良二、芦川いづみ、上野山功一
19601221日公開/日活

「俺の故郷は大西部」乾分(二)
監督 : 西河克己
出演 : 和田浩治、東野英治郎、浜村純
19601227日公開/日活

*「豚と軍艦」増山
監督 : 今村昌平
出演 : 長門裕之、吉村実子、丹波哲郎
1961121日公開/日活

*「紅の拳銃」ブン
監督 : 牛原陽一
出演 : 赤木圭一郎、垂水悟郎、白木マリ
1961211日公開/日活

「東京のお転婆娘」アベックの男
監督 : 吉村廉
出演 : 中原早苗、藤村有弘、南寿美子
1961312日公開/日活

「早射ち野郎」人夫繁
監督 : 野村孝
出演 : 宍戸錠、笹森礼子、吉永小百合
196141日公開/日活

「用心棒稼業」殺し屋B
監督 : 舛田利雄
出演 : 宍戸錠、二谷英明、南田洋子
1961423日公開/日活

*「大海原を行く渡り鳥」磯部の乾分四
監督 : 斎藤武市
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、白木マリ
1961429日公開/日活

「闘いつづける男」チンピラA
監督 : 西河克己
出演 : 和田浩治、殿山泰司、吉永小百合
1961723日公開/日活

*「高原児」高山の乾分二
監督 : 斎藤武市
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、高橋英樹
1961813日公開/日活

*「あいつと私」人夫B 役
監督 : 中平康
出演 : 石原裕次郎、芦川いづみ、吉永小百合
1961810日公開/日活

「大森林に向って立つ」大須賀運輸乾分C
監督 : 野村孝
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、丹波哲郎
1961923日公開/日活

「波止場気質」フラッシュ畑
監督 : 山崎徳次郎
出演 : 川地民夫、平田大三郎、松原智恵子
19611014日公開/日活

「暗黒街の静かな男」黒川
監督 : 舛田利雄
出演 : 二谷英明、梅野泰靖、和泉雅子
19611014日公開/日活

「嵐を突っ切るジェット機」劉昌徳の部下 役
監督 : 藏原惟繕
出演 : 小林旭、笹森礼子、葉山良二
1961111日公開/日活

「どじょっこの歌」用心棒B
監督 : 滝沢英輔
出演 : 浅丘ルリ子、高橋英樹、葉山良二
19611122日公開/日活

*「渡り鳥 北へ帰る」おでん屋の客/クレジットなし
監督 : 齋藤武市
出演 : 小林旭、浅丘ルリ子、白木マリ
196213日公開/日活

「人間狩り」五味
監督 : 松尾昭典
出演 : 長門裕之、渡辺美佐子、梅野泰靖
1962123日公開/日活

「兄貴」岩田組乾分A
監督 : 山崎徳次郎
出演 : 二谷英明、杉山俊夫、清水まゆみ
1962127日公開/日活

「黒いダイス」室井
監督 : 牛原陽一
出演 : 二谷英明、和田浩治、笹森礼子
1962325日公開/日活

「夢がいっぱい暴れん坊」ゼガ
監督 : 松尾昭典
出演 : 小林旭、浅丘ルリ、郷英治
196241日公開/日活

○「青年の椅子」愚連隊(二)
監督 : 西河克己
出演 : 石原裕次郎、芦川いづみ、二代目水谷八重子
196248日公開/日活

「起動捜査班東京午前零時」岩本の乾分
監督 : 小杉勇
出演 : 青山恭二、郷治、三原葉子
1962520日公開/日活

「抜き射ち三四郎」健太
監督 : 山崎徳次郎
出演 : 和田浩治、葉山良二、笹森礼子
196263日公開/日活

「ひとり旅」小西大作の子分 役
監督 : 斎藤武市
出演 : 宍戸錠、浅丘ルリ子、白木マリ
1962624日公開/日活

「霧の夜の男」ボクサー権田原
監督 : 松尾昭典
出演 : 高橋英樹、小沢栄太郎、吉永小百合
196278日公開/日活

「燃える南十字星」テツ
監督 : 斎藤武市
出演 : 宍戸錠、松原智恵子、南田洋子
1962729日公開/日活

矢頭保(友情出演?)

「青山怪談」役柄不明
監督 : ドナルド・リチー
出演 : 矢頭保、他不明
1967年/公開詳細不明

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イギリス版「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」のラッセル・T・デイヴィスによる最新作!・・・スマホ時代の”LGBT”の恋愛とセックスを赤裸々に描いた三部作~「Cucumber, Banana, Tofu/キューカンバー、バナナ、トーフ(原題)」~

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「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」は、アメリカHBOでのリメイク版が世界的にも知られていますが、オリジナルはわずか2シーズン(2シーズンはスペシャル版のみ)で終了したイギリスのチャンネル4で放映されたテレビドラマ・・・先日、イギリス版とアメリカ版の「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」と「Looking/ルッキング」について書いたばかり(めのおかし参照)だったのですが、「Looking/ルッキング」は、シーズン2で打ち切りが決定しまいました。しかし、今年(2015年)1月には、イギリス版「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」クリエーターのラッセル・T・デイヴィスが、15年ぶりに”LBGT”のテレビシリーズ三部作を発表していたのです!

ラッセル・T・デイヴィスが脚本も担当した「Cucumber/キューカンバー(原題)」(チャンネル4で放映された各45分のテレビドラマ8話)を”核”として、「キューカンバー」では脇役/端役で登場するキャラクターのサブストーリーを新人脚本家が書いた「Banana/バナナ(原題)」(E4にてネット放映された各23分のミニドラマ8話)、「キューカンバー」と「バナナ」に出演した役者や一般人のインタビューで構成された「Tofu/トーフ(原題)」(4oDにてビデオデマンド配信された各11分のドキュメンタリー8話)という三部作構成となっていて、10代~20代と40代~50代の2つの世代の”LGBT”の恋愛とセックスを描いているのです。

タイトルの由来は、スイスの学者が唱えた男性の勃起度合いを表す”硬さのレベル”・・・一番柔らかいのが「トーフ」で、次が「皮を剥いたバナナ」、その次が「皮付きのバナナ」、そして最も硬いのが「キューカンバー(きゅうり)」ということから。「トーフ」といっても、絹豆腐ではなく欧米で売られているしっかりとした絹豆腐です。また「キューカンバー」は、日本の「きゅうり」ではなく瓜のようなモノ。トーフ、バナナ、キューカンバーのイメージは、老いと若さの象徴として繰り返しドラマの中で引用されます。切り口は、セックスでの立ち位置の葛藤や、外見/民族/年齢などの格差や差別など、あまり語れることのなかった問題にスポットをあてています。テレビドラマ的なスタイリッシュでテンポの良い演出にこだわるところは、同じイギリス出身の映画監督アンドリュー・ヘイ監督の「Looking/ルッキング」とは対照的なアプローチです。


「Cucumber/キューカンバー(原題)」は、保険のセールスマンとして働くヘンリー(ヴィンセント・フランクリン)を中心にした物語・・・彼には9年ほど同棲しているランス(シリル・ンリ)というアフリカ系イギリス人ボーイフレンドがいるのですが、今では倦怠期といったところ。知り合って以来、アナルセックスをずっと拒絶し続けるヘンリーに対して、ランスは不満を募らせています。また、泳げないランス(黒人は泳ぎが苦手が定説?)はビーチリゾートには行きたがらないのはヘンリーにとっては不満です。会社の食堂で働くバイの背年/フレディ(フレディ・フォックス)や郵便係でアフリカ系のゲイの少年/ディーン(フィサヨ・アキネード)らの、きゅうりのような”若さ”にも心乱される、ヘンリー・・・ランスとのロマンチックなデートから帰宅しても、各自オナニーしてから一緒のベットに寝るという(よくある?)セックスレスではありますが、そこそこ幸せなゲイカップルではあります。

頭は禿げまくっている上にブヨブヨのおじさん体型のヘンリーが”46歳”という設定に、複雑な気分にさせられるところもあったりするのですが・・・演じている役者さんの実年齢がそうなのだから、これがアングロサクソンのイギリス人46歳の実像に近いのでしょう。四六時中愚痴っていて、皮肉やイヤミばかり言っているヘンリーのような”ゲイおじさん”というのは、結構(特に欧米では?)リアルにいるタイプ・・・しかし、妙に茶目っ気があるところもあったりして人物設定としては絶妙なのです。クリエーターであるラッセル・T・デイヴィス自身(ボクと同い年の52歳)が、ヘンリーには投影されているのかもしれません。


ゲイが主人公の映画やドラマが珍しくはなくなってきた昨今・・・当然のようにベットシーンも描かれるわけですが、細かなディテールは思いの外”ざっくり”。前戯らしい前戯もなく唐突に挿入(!)されていたり、「タチ」「ウケ」のポジションが漠然と決まっていたり、体をくっつけているだけで体位的には無理そうだったり、現実からかけ離れていることが多っかたりします。セックスでの役割やプレイのバリエーションは多く・・・オナニーの見せ合い”だけ”とか、オーラルセックス”のみ”とか、射精を含まないSMプレイなど、それぞれの嗜好次第でゲイ同士の性行為は成り立ることもあるのです。普段は「タチ」だけど好きな相手に対してだけは「ウケ」になりたいというゲイもいるし、単に肉体的な快感を追求して「タチ」「ウケ」というポジションを選択する場合もあるし、年下だから女性的だから能動的だから「ウケ」というわけではありません。アナルセックスを「するか」「しないか」・・・「する」ならば「タチ」か「ウケ」かというポジションをめぐり、ゲイセックスの深層心理にはいろいろとあるのです。

ロマンティックなディナーをしているとき、ランスは不満を抱えながらもヘンリーにプロポーズします。しかし、ヘンリーは「結婚を考えたこともない。今のままで十分」と、あっさり断ってしまうのです。近年、同性婚が法律的に認められる国が増えていますが、人生のパートナーがいるからといって、すべてのゲイが同性婚したいわけではないのです。結婚について温度差があるゲイカップルというのは、実際には多かったりするのかもしれません。アナルセックスを拒否し続けられた上にプロポーズまで断られたランスは、3Pプレイを提案して堪る場所を探してた若い男を二人の家に連れ込みます。ヘンリーは激しく拒絶・・・それでも「アナルセックスしたい!」と、ランスは連れ込んだ男と寝室に籠ってしまうのです。


ここからが、如何にもドラマ的な展開なのですが・・・ヘンリーはキレまくって、道路にいた警察官に知らない男が家に侵入したと通報。ランスと若い男は手錠をかけられて警察官に連行されてしまいます。実は大騒ぎの最中、ヘンリーのインド系部下が自殺するという事態が起こっていたのですが、留守電のメッセージを聞くことをしなかったヘンリーは何も知りません。自殺者の妻の偽証により、ヘンリーは人種差別の濡れ衣を着せられ、職を失ってしまいます。二人で暮らしてきた一軒家を出ることをヘンリーは決意し、フレディやディーンの住んでいる不法(?)シェアハウスに移り住むことになるのです。(ここまでがエピソード1)

今(2015年)という時代性を強く意識していて・・・ショートメッセージやSNSなどの今っぽいネットツールが満。職を失ったヘンリーは甥っ子の同級生の男子同士(ノンケ)がボーイズラブの真似事をしてリップシンキングするという動画配信のプロデュースで稼せごうとするし、イケてるウェイターはSNSでセックス趣味からヌード画像まで公開しているし、出会いは所謂”出会い系”SNSでインスタントだし、ショートメッセージのやりとり”だけ”で思惑がすれ違い、人間関係が悪化していくなど、ネット社会だから起こりえることがエピソードには盛り込まれています。

本作では、恋人関係が破綻していくヘンリーとランスの物語を軸に、フレディやディーンらの若い世代のゲイのセックスライフを描いていくのですが・・・ラッセル・T・デイヴィスは(「クィア・アズ・フォーク」でもそうでしたが)若い世代(10代?)のゲイに、並々ならぬ関心があるようでLGBTのティーンの物語をいくつも織り込んでいきます。ただ、ヘンリーの世代にとって、フレディ、ディーン、甥っ子らの、美しい肉体や旺盛な性欲は「若さの象徴」としての”羨望”や”妄想”の対象ではあっても・・・人生のパートナーとなる対象ではありません。”若さ”に振り回されるのではなく、逆に”若さ”を利用するゲイおじさんの「したたかさ」さえも垣間見せているのです。

ヘンリーの世代に近いボクは、二人の関係がギクシャクして終焉を迎えていく”サマ”に、身につまされるようなリアリティを感じてしまいます。ヘンリーとの共同の銀行口座から全額着服して知らん顔してるほど、心が離れてしまったランスとは対照的に、ヘンリーは徐々に自分を見失い始め、何とかランスとやり直したいと願うようになっているのですが、ランスは”自称ストレート”のダニエル(ジェームス・マレー)に魅了されてしまっていて、過去を振り返ろうとはしません。実はランスも自分自身を見失い始めていて・・・それが、その後の想像だにしない悲劇的な展開となっていきます。

ここから「Cucumber/キューカンバー」のネタバレを含みます。


ヒットすれば「セカンドシーズン」「サードシーズン」と続くということが前提の海外ドラマですが・・・「Cucumber/キューカンバー」は各43分の8つのエピソードで、とりあえずは”完結”となるようで(スペシャル版が制作されることはあるかもしれませんが)、最終話(エピソード8)では後日談として数年後のヘンリーの姿が描かれています。8つのエピソードの中で”キモ”となるのは、ランスを主人公とした「エピソード6」・・・他のエピソードとは全く違う構造で語られるのは、ランスが生まれてから亡くなるまでの一生の物語なのです!

まず、冒頭に「ランス・エドワード・サリバン 1966-2015」とテロップが出て、彼が亡くなることが明らかにされます。これまでのエピソードの流れとしては、ヘンリーと別れたランスが、同僚で自称ストレートのダニエルとのデートの約束をして、いよいよ新しい人生を歩み始めようというところ。ヘンリーとの共同預金全額をランスが着服したことで、ヘンリーとの関係はますます悪化・・・復縁を求めてきたヘンリーを冷たい態度であしらってしまうのです。この状況下で、何故ランスが亡くなってしまうのか全く推測できません。

このエピソードは、ランスが生まれた瞬間からスタートします。母親により「ランス」と名付けられたように、母親に愛されて育つのですが、彼が幼いときに母親は亡くなってしまうのです。厳しい父親はランスを男らしい男の子にしようと男同士の性教育にも励むのですが、ランスはこっそり「プレイガール誌」(男性ヌードを掲載した最初の女性誌)を見ている、ちょっとフェミニンな少年になっていきます。誰にも見つからないように見終わったプレイガール誌を池に沈めようとするランスは、自分のセクシャリティに対して罪悪感を持ってしまった少年でもあるのです。こういう葛藤は、ゲイであることに少年期に気付いたゲイならば、誰もが経験したこと・・・心が痛みます。

大学生になり寮生活を始める頃になると、同級生のガールフレンドができるのですが、セックスに積極的な彼女にドン引きしてしまうランス・・・徐々に自習を理由にデートを断るようになり、結局、彼女とは別れてしまいます。その後ランスは男性と付き合い始めるようになるのですが、純粋な気持ちとは裏腹に、次から次に新しい男と関係を築いていくのです。父親や妹にカミングアウトした後、クリスマスには実家へ帰るようになるのですが・・・ボーイフレンドを連れてくるランスを父親は家には入れようとはしません。そのうち、ランスもボーイフレンドと一緒に実家に足を踏み入れること諦め、玄関先で毎年新しいボーイフレンドを紹介することになるのです。

ある年のクリスマス、ランスは一人で実家に現れます。何故なら、去年まで一緒にいたボーイフレンドはAIDSで亡くなってしまったから・・・この時になって、父親は初めてランスを実家に招き入れようとします。同性愛者であることを告白された父親にとって息子を理解して受け入れるためには、長い長い年月が必要だったということなのかもしれません。親にカミングアウトした多くのゲイが経験したことであろう家族との”蟠り(わだかまり)”と”和解”の過程を、テンポの良くサクっとみせる演出は見事です。

そして月日が経ち、ランスはヘンリーと出会い同棲を始めます。いつしか時間軸は、二人が泥沼の別れ話という”現在”に追いつくのです。復縁を迫るヘンリーに、あくまでも冷たい態度であしらうのは、ある意味”優しさ”なのか、ダニエルという新しい男が現れたから生まれた気持ちの余裕なのか、それとも、ある種の”復讐心”なのか・・・いずれにしても、ヘンリーとの元の鞘に戻るのはアリエナイという結論は出てしまっているのかもしれません。そしてランスは、ますますダニエルにのめり込んでいくことになるのです。


ある晩、ランスは念願かなってダニエルとゲイバーでデートにこぎつけます。ノンケぶった態度はゲイバーでの受けも良く、たちまちダニエルは人気者です。若いゲイのグループと楽しげにつるむダニエルを横目で見ながら、ただ一人でポツンと待っているしかないランス・・・そこに、オバサンが声をかけてきます。「ハンサムな男、でも・・・それだけの価値があるの?」と。若くてハンサムな男に魅了されてしまう・・・それは性欲を満足させるというよりも、自分の存在の意味意義のための悪あがきでしかないのかもしれません。ランスはアドバイスには耳を貸さず「彼にはそれだけの価値がある」と自分に言い聞かせるように答えます。するとオバサンの姿は夜の闇に消えてしまうのです。このオバサンの亡霊って・・・ランスに残されていた最後の”良識”の声だったでしょうか?

ダニエルの自宅へ二人で戻ってきたランスとダニエル・・・しかし、自分自身の同性愛を受け入れてないダニエルは、自分から誘惑しておきながら、犯されたとキレまくり「ゲイなんて最低のブタだ!」と、ランスを罵倒し始めます。ゲイを恨み嫌う”自称ストレート”が、潜在的に同性愛嗜好を隠しているということはありがちなこと・・・逆恨みのようなゲイ男性への暴行事件は、社会的な要因だけでなく宗教的にも同性愛否定する欧米では結構ありがちだったりします。自己嫌悪に陥ったダニエルを優しくなだめようとするランスに拒否反応を示して、ダニエルはゴルフクラブでランスを頭部を思いっきり殴るのです。


頭部から大量の血を流しながら、ランスの脳裏には、それまで人生がフラッシュバックで駆け巡ります。輝く光の中、ベットの横で微笑むヘンリーの顔・・・最も大切な人を失ったことを気付くのは、いつも手遅れになってからなのです。後悔に涙を溢れ出しながらランスは意識を失い・・・画面は真っ黒になって、このエピソードは終わります。あまりにも衝撃的な展開とエンディングに、ボクはしばらく放心状態になってしまったほどです。このエピソード6の後は、後日談的にヘンリーの姿が描かれて、エンディングを迎えます。アメリカのテレビドラマだと、ランスが亡くなるまでがシーズン1で、その後の物語をシーズン2で描くという風に引っ張っていくところなのでしょうが・・・。


「Cucumber/キューカンバー」は、革新的なテレビドラマとしてラッセル・T・デイヴィスの手腕が再び発揮されていることは言うまでもありませんが・・・新鋭の脚本家たちを採用した「Banana/バナナ(原題)」は、1エピソードがたった23分とは思えないほど、内容が凝縮され、新鮮なテーマに挑んだ意欲的な一話完結のドラマなのであります。

「Cucumber/キューカンバー」の中では、脇役、または、端役/エキストラ(?)だったJGBTの人物が主人公となる8つのエピソーだから成り立っており、本国イギリスでは「キューカンバー/Cucumber」の放映直後にネット配信されたようです。主人公なる人物の年齢も性別もセクシャリティもバラバラでありながら、全体的には統一感が感じられるのは、各エピソードの制作スタッフや出演キャストが「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」に大きく影響を受けた人たちだからかもしれません。

8つのエピソードの中で、最もボクの印象に残ったのは、”イケメン”に運命の出会いを感じた”イケてないゲイ”の妄想とシビア過ぎる現実を描いた「エピソード7」・・・あまりにも冷酷なゲイのヒエラルキーの描き方には、思わず胸が苦しくなってしまいます。エイデン(ディノ・フェッチャー)はヘンリーらがたむろするレストランで働く24歳のウェイター・・・オールマイティーにモテ筋のチャーミングなハンサムなエイデンは、出会い系のSNSでは誰もが知る有名人です。


その夜もゲイバーに入店するや否や、エイデンはセクシーな髭面のベン(ジャマール・アンドレアス)と早々にいい感じになるのですが、フランク(アレックス・フロスト)も連れて帰って3Pをしようと提案されます。ベン曰く「フランクのような”イケてないゲイ”にとって、自分たちのような”イケメン”とヤレるなんてラッキーなことだから、必死にサービスしてくれるはずだ」というのです。なんとも残酷な見解ではありますが、イケメンとデキる機会が少ないフランクにとっては、二人のイケメンと同時に相手できるなんて「ラッキー!」なのかもしれません・・・侮辱的な扱いを受けていたとしても!

英語では「out of my league/アウト・オブ・マイ・リーグ」という言い方をするのですが・・・これはヒエラルキーでは自分より上の存在のことを指します。ゲイでいうヒエラルキーは社会的、または、経済的な地位の格差よりも、あくまでも「イケているか」「イケてないか」という”見た目”によって決まってしまうものです。明らかに同じリーグに属していない二人がデキている場合、イケてない方が「社会的な地位を利用して」とか、「金にモノをいわせて」とか、ヒエラルキーの低さを補う”何か”がない限り、第三者にはヒエラルキーバランスが納得できないところがあったりします。男女であれば、社会的に成功しているブサイクな男が、美女を連れ添っているということは、非常によくあることはあるのですが・・・。

当初はフランクの存在を怪訝に感じて、自分の体には触らせないようにしていたエイデンでしたが、3Pの2回戦目(!?)となってくると、いつしかフランクとも抱擁し合うようになっていくのです。翌朝、ひとりでコッソリとベンの家を出ようとしたエイデンを追いかけてきたのはフランク・・・すぐ嘘とバレるような言い訳をしてまで、エイデンを帰らせまいとします。「見た目だけで判断しないで!二人の出会いは運命だ」と必死にアピールするフランクに、仕方なくエイデンはカフェに行くことを同意します。「見た目じゃない!」と訴えるフランク自身が、実は「見た目」でエイデンを求めているという「矛盾」・・・ロマンチックで純粋な恋心の”正体”なんて、こんなものなのかもしれません。

コーヒーを付き合ったものの、道端で知り合いとすれ違う時には、フランクを横道に突き飛ばして見知らぬフリをするエイデン・・・さすがのフランクも、これには激怒します。さすがにエイデンも罪悪感を感じ、もう一軒フランクと付き合うことにするのです。今日知り合った二人の関係は「DAY 1」・・・「次から次へと新しい出会いをして、いつまで”DAY 1”を繰り返し続けるのか?」と、フランクはエイデンに問いかけます。相変わらずエイデンのスマホには、出会い系SNSから頻繁にメッセージが届くのですが、フランクの言葉に何かを気付いたかのように、断りのメッセージを送り、今目の前にいるフランクと向き合おうとするのです。遂に、イケメンのモテ男が改心したのでしょうか?

ここから「エピソード7」のネタバレが含まれます。


ここから、エイデンとフランクの恋愛の日々が描かれていくのですが・・・二人のラブラブっぷりには、何故か目の覆いたくなるような不快感を感じてしまうのです。見た目の不釣り合いなカップル同士だとしても、激しく愛し合っても勝手だとは分かってはいるのですが、なんとも釈然としません。エイデンを演じるディノ・フェッチャーは、どんな角度からでも、どんな表情でも絵になるハンサムな一方、フランクを演じるアレックス・フロストは薄毛で出っ歯で話し方も表情もどこかイケてないのです。この二人のキャスティングは気の毒なくらい適役で・・・身につまされます。

ただ、このラブラブっぷりは全てフランクの妄想だったことが、あっさりと明かされて・・・フランクには残酷すぎる現実が、突きつけられることになるのです。目の前にいるフランクではなく、次に出会う新しい男にエイデンの興味は、すでに向いています。次から次に新しい出会いのチャンスがあるエイデンにとって、どんな相手であっても、新しい誰かとの「DAY 1」の燃え上がる感情には敵わないということなのかもしれません。見た目”だけ”を追いかけて、次から次に”イケメン”に誘われるゲイのヒエラルキーの頂点にいるエイデンだからこそ、成り立つ論理と言えるでしょう。「見た目じゃなくて中身だ!」というのは正論ではありますが・・・外見的に惹かれてもいない相手の内面的な魅力を見出すことって、そもそもデキっこないのです。


エイデンはフランクにハッキリと伝えます・・・「君はブサイク過ぎる」と。あまりにもストレートな言葉ですが、ここまで言われてしまっては、さすがのフランクも諦めるしかありません。罪悪感から生み出されてしまう中途半端な優しさは逆に相手を深く傷つけることになり、残酷なほどの誠実さこそ相手を救うことになるのです。

エイデンが立ち去った直後、フランクは別な男(イケメンじゃない)に声をかけられるのですが「タイプじゃない」と、冷たくあしらうところは、なんとも皮肉な話・・・見た目”だけ”で判断しないで欲しいと訴えていたフランクだって、結局、見た目”だけ”で判断していることがアリアリと分かるのですから。そして、フランクに断られた男には、別な誰かがアプローチしてくる・・・まさにゲイのヒエラルキーは「捨てるものあれば、拾うものあり」なのかもしれません。


「Tofu/トーフ(原題)」は「キューカンバー」「バナナ」とは違い、セックスについてのインタビューを集めたドキュメンタリーとなっています。インタビューに答えているのは「キューカンバー」「バナナ」の出演者や、さまざまな職業や年齢の素人さん・・・セクシャリティもLGBTに限定していません。あくまでも「キューカンバー」「バナナ」の補足的な内容ではありますが、セックスの関わる個人的な性癖や習慣におよんでいて、下世話な興味がそそられます。

連続ドラマシリーズ、単発の短編ドラマ、ドキュメンタリーの三部作のメディアミックスという形で、日本で放映されるのは難しいと思います。前作の「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」もイギリスのチャンネル4で制作されていたのですが、BBCなどとは違い海外販売のチャンネルを持っていないテレビ局のようなので、本作の大々的な放映は絶望的でしょう。また、製作総指揮のラッセル・T・デイヴィスは、もしかすると「日本嫌い」なのではないかという”節”が,
何気に作品から感じられるので、日本での放映や日本語字幕付きのDVDリリースということには無関心かもしれません。当然のことながら・・・本人が特定の人種を毛嫌いしていることを公言することなどはしないので、あくまでも、推測ではありますが・・・。

イギリス版「Quuer as Folk/クィア・アズ・フォーク」で、唯一、登場する日本人というのが、英語をまったく理解できない”ハスラー”というキャラクターで、常に「金、金、金」と”お金”をせびるという、日本人にとっては観ていて不愉快な人物設定となっています。(この設定はアメリカ版にも引き継がれた)英語の単語を何一つ理解しないというのもアリエナイし、人の表情も場の空気も一切読めないのも日本人”らしからぬ”気がするのです。日本人が皇室(王室)を持つ島国同士という親近感をイギリス人に対して感じているほど、イギリス人は日本人に親しみを持っていないかも・・・と感じることは、海外生活で感じたことは何度かあるので、ラッセル・T・デイヴィス”だけ”に限ったことではないのかもしれませんが。(勿論、親日家のイギリス人もいます)イギリス映画を観ていると、明らかに中国語を話している登場人物なのに”日本人”となっていることがあったりしますから、”アジア系”の括りがざっくりしていて、自国の文化や習慣と対比した(どちらかというとネガティブな?)存在として描かれることが多ったりします。

「キューカンバー」には「日本」という単語が出てくるシーンが、ひとつだけあるのですが、日本へのネガティブなイメージを垣間見せます。ヘンリーが、ある男と夜中のカフェで語り合うシーンで出てくる台詞なのですが・・・「日本のポルノって最低~。こんな風に言うと人種差別だって言われるけど、日本のポルノが嫌いだからって、なんで人種差別扱いされなきゃいけないんだよ!」とぶっちゃけるのです。これって、ラッセル・T・デイヴィス自身の経験なのでしょうか?まぁ、日本のゲイポルノについてはボクも「どうなの?」と思うところがないわけではありませんが、ドラマの流れに必要ないのに、わざわざ”日本”を持ち出してくるところは、ちょっと不自然(?)な気がします。ラッセル・T・デイヴィスの脚本からは、アフリカ系やインド系に対しては好意的で親和性を感じさせるのですが・・・日本(アジア系のゲイ?)を毛嫌いしているのが見え隠れしている時があるような気がするのです。

・・・とはいっても、本作の革新的、かつ挑発的なラッセル・T・デイヴィスの制作姿勢は”さすが”であります。アメリカでは「LOGO TV」というLGBT視聴者向けのケーブルチャンネル(「ル・ポールのドラァッグ・レース」放映)で「キューカンバー」と「バナナ」が放映されたようですが・・・今のところ”リメイク”の噂はありません。おそらく、日本市場が眼中にない制作者側から、あえて売り込みはないかもしれませんが・・・最近、「ユートピア/Utopia」「12モンキーズ/12 Monkeys」など、イギリスのテレビシリーズの配信に意欲的な「HuLu」とかで、視聴できるようになればと願うばかりです。


「キューカンバー(原題)」
原題/Cucumber
2015年/イギリス
製作総指揮/脚本 : ラッセル・T・デイヴィス
出演       : ヴィンセント・フランクリン、シリル・ンリ、ジュリー・ヘスモンドハラー、フレディ・フォックス、ジェームス・マレー、フィサヨ・アキネード、コン・オニール
Channel 4にて放映/各45分8エピソード

「バナナ(原題)」
原題/Banana
2015年/イギリス
製作総指揮/脚本 : ラッセル・T・デイヴィス
出演       : フィサヨ・アキネード、レティティア・ライト、ジョージア・ヘンシャウ、ハンナ・ジョン=カーメン、ベサニー・ブラック、ルーク・ニューベリー、クロエ・ハリス、チャーリー・コヴェル、ディノ・フェッチャー、アレックス・フォレスト、リン・ハンター、ニキ・ファグべミ
E4にて放映/各23分8エピソード

「トーフ(原題)」
原題/ Tofu
2015年/イギリス
4oDにてビデオデマンド配信/各11分8エピソード

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