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”男の子になりたい女の子”と”女の子になりたい男の子”・・・トランスセクシャル=性同一障害も男の子と女の子ではまったく違うのね~「トムボーイ/Tomboy」「ぼくのバラ色の人生/ma vie en Rose」~

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”性同一障害”については、この「めのおかしブログ」で何度か取り上げてきました。「LGBT」というセクシャルマイノリティという分類において、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルと共に並び語られるトランスセクシャルなのですが・・・ボクは違和感を感じてきました。

レズビアン、ゲイ、バイセクシャルというのは、自分の性別の認識は生まれ持った性別で性の対象が異性ではない(だけではない)ということなのですが、トランスセクシャルは自分の性別の認識が生まれ持った性別と違うという”個人”のはなし・・・性同一障害という医学的な「障害」とすることで、あっという間に社会的な理解を得たようなところがあります。日本では、いまだに”同性婚”の是非さえ論議されていませんが、”性同一障害”と認められ条件さえ揃えば、戸籍上の性別を変更することが可能になのですから。

トランスセクシャルという存在を分かりにくくしている原因のひとつが、ゲイやレズビアンもトランスセクシャルとい似たような行動をすること。ひと昔前までなら、ゲイというのは女性っぽい恰好、しぐさ、言葉遣いをするというステレオタイプが主流・・・今でも「おネエ」という男の姿をしながらも中身は女である方が、一般的には理解されやすいのかもしれません。まぁ、実際は男性らしさを求め性的にも男性を求めるゲイというの大半で、過剰に男らしさを求めると、髭、短髪、マッチョになるわけであります。

トランスセクシャル=性同一障害というと、世間的に話題になりがちなのが、男性として生まれながら性別は女性である人・・・逆の女性として生まれながら性別は男性という人は、あまり注目を浴びていないような気がします。その理由として・・・女性として生まれた性同一障害者が男性として生きている場合、違和感が少ないようないからだと、ボクは思うのです。

男性として生まれた性同一障害者が女性になった場合、どうしても男性の痕跡が残っていることが多くて・・・どんなに普通の女性以上にキレイであっても、何かしらの違和感を拭いきれなかったりします。それは声が低いとか、肉体的な特徴からというのではなく、過剰なほど女性らしさを演出してるからかもしれません。ナチュラルにすればするほど、隠したい男性らしさというのが伺えてしまうこともあるので、誰からも元男性でると気付かれない自然な女性となることは、かなり難しいと思います。

元女性が男性ホルモンの治療をすると、髭が生えてきたり、体つきがゴツゴツしてきて、見た目がほぼ男性になってしまことがあります。体格は華奢かもしれませんし、顔つきは優しかったりするかもしれません・・・それでも、男性として「パス」してしまうことが多い気がします。女顔の男性タレントを好むストレートの女性は多いし、レズビアン女性の中にも受け入れる人が多そう・・・全般的に女性からの嫌悪感はないのかもしれません。ストレート男性にとっては男性として権威となる存在でもなく・・・また、ゲイの男性に取っても性の対象にもなりにくいので、ある意味、無関心ということもあるのかもしれません。

またまた前置きが長くなってしまいましたが・・・フランス映画の「トムボーイ/Tomboy」は、10歳の少女の性のアイデンティティの葛藤を描いた作品・・・”トムボーイ”とは男の子っぽい女の子のことで、ひと昔前なら”おてんば娘”と呼ぶようなタイプの女の子のことであります。

ボーイッシュな女の子のロール(ゾエ・エラン)は、家族と夏休みにパリ郊外の団地に引っ越してくるのですが・・・近所で知り合った子供たちにミカエル(男の子の名前)と名乗り、外で遊ぶ時には男の子として振る舞うようになります。上半身裸になってサッカーをしたり、男の子たちと互角に遊び回って夏休みを満喫。おしっこしたくなっても男の子のように立ち小便は出来ず隠れて木々の中で用を足そうとしたり、粘土で作った股間の膨らみを海水パンツに忍ばせて泳ぎに行ったり、グループのちょっとおませな女の子リサと仲良くなってキスしちゃったり・・・それでも家では女の子に戻らなければなりません。ロールと真逆の超ガーリッシュな妹が、ごく自然に「お兄ちゃん」としてミカエルを受け入れているところは、興味深いところでした。

ここからネタバレを含みます。

夏闇も終わりに近づいた頃、グループの男の子ひとりと取っ組み合いのケンカをしてしまいます。男の子の母親が、ミカエルの家を訪ねたことで、母親は娘が男の子のふりをしていたことに知ることになります。普段からタンクトップに半ズボンという服しか着ない娘の本意を理解していなかったわけではないとは思うのですが、母親はあえてワンピースを着せて、男の子の家に謝りに行かせます。そして、淡い恋におちていたリサにもワンピース姿のまま真実を告白させるのです。永遠に男の子と偽り続けるのは不可能なこと・・・母親の行動は残酷にも思えますが、ロール自身が向き合わなければならない現実でもあるのです。最後には、近所の子供たちのグループに、実はミカエルは女の子であった噂が伝わります。服を脱がせて男か女か確認するというガキ大将を制したのはリサ・・・「あなたの名前は?」と訪ねるリサに、優しい微笑みをかえすロールのアップで映画は終わります。

セリーヌ・シアマ監督は、過剰な演出をすることなく自然な子供たちの姿を映していて、台詞や音楽も最低限に抑えられています。ロールが男の子のように振る舞っていたのは一時期のことで、思春期を迎えると女性的になっていくのでしょうか?ロールが将来的に、性同一障害者になるのか、レズビアンになるのか、それとも単に男っぽい女性となるのか、どうであれ彼女自身が受け入れていくしかないのです。子供でさえ当たり前のように区別する「性別」・・・「男」か「女」かハッキリさせたいのは、ある意味、人間の無意識なのかもしれません。初対面の人の人種、年齢、階級などが認識できなくても、性別だけは最低でも認識しているものだったりするのですから。


「トムボーイ」を観て思い出したのが、”女の子になりたい男の子”を描いた「ぼくのバラ色の人生」でした。この作品については「おかしのみみ」で書いたことがあるのですが・・・「トムボーイ」の自然体とは、真逆の世界感によって表現されているところが、大変興味深いところです。女の子が男の子になりたいときは自然のまま、男の子が女の子になりたいときは人工的で過剰な装飾・・・濃い化粧だったり、装飾のあるドレスだったり、現実離れした極彩色の妄想の世界だったりします。

7歳の男の子リドヴィック(ジョルジュ・デュ・フレネ)は、大勢のゲストの集まるホームパーティーに”おめかし”のつもりで、姉のドレスに母親のイヤリングをつけ、真っ赤な口紅で堂々と登場してしまうほど、無邪気。なんとかして”男の子”としての自覚を持たせようと、両親はカウンセリングに通わせたりもするのですが、このことに関してだけはリドヴィックは頑固・・・父親の上司の息子ジェロームに恋をしていて、将来、結婚することを夢見ていたりします。母親から「男同士は結婚できないのよ!」(近い未来には死語になりそうな理屈ですが)嗜められると「大きくなったら女の子になる」からと答えます。しかし、そんなリドヴィックに対して、両親は”男の子”であることを強要して、大事に伸ばしている長髪もバッサリ刈られてしまいます。そんな過酷な状況でも、極彩の人工的な”パム”の世界(テレビ番組のミューズ)を妄想して、リドヴィックはやり過ごしているのです。

「トムボーイ」と「ぼくのバラ色の人生」は、子供の”性同一障害”という似たテーマを扱っています。両親は、時には厳しすぎると思えるほど、生まれもった性別を強要していきます。しかし、それが不快に感じないのは、どちらも子供に対する両親の愛情も描かれているからかもしれません。世間一般的な「男らしさ」や「女らしさ」を求めるのではなく、ありがままの息子や娘を受け入れようとする両親の葛藤こそが、ボクの心を震わせて止まないのです。


「トムボーイ(原題)」
原題/Tomboy
2011年/フランス
監督 : セリーヌ・シアマ
出演 : ゾエ・エラン、マーロン・レヴァナ、マチュー・ドゥミ、ソフィー・カッターニ、ジャンヌ・ディソン

2011年6月26日「フランス映画祭2011」
2011年10月8日「第20回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」にて上映



「ぼくのバラ色の人生」
原題/ma vie en Rose
1997年/ベルギー、フランス、イギリス
監督 : アラン・ペルリネール
出演 : ジョルジュ・デュ・フレネ、ミシェール・ラロック、ジャン=フィリップ・エコフィ、ピーター・ベイリー

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男同士のバディを卒業して一生の伴侶として女性を選ぶことで一人前の男になる・・・”男性向け恋愛映画”による、ある洗脳~「テッド/ted」~

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日本では、それほどポピュラーな映画のジャンルないんだけど、アメリカでは盛んに制作されているのが「男性向け恋愛映画」・・・といっても、ブロンドのおねえちゃんが脱ぐだけのセクシー映画というのではなく、男性目線で楽しめる恋愛映画というのでもなく、恋愛下手な男性に「どのように恋愛したら良いのか」をレクチャーするような映画であります。

いつまでも大人になりきれず男同士でつるんでばかりいる男性が、親友(バディ)たちとの友情から卒業して、女性を伴侶として選択して成熟した大人の男へと成長していくというのが王道のパターンであります。下品なエロ満載なのは、あくまでも男性客相手だから。「無ケーカクの命中男/ノックドアップ」「40歳の童貞男」「40男のバージンロード」や、グレッグ・モットーラ監督作品の「スーパーバッド 童貞ウォーズ」「アドベンチャーランドへようこそ」などが、この手のジャンルの作品としてあてはまるかもしれません。


「テッド/ted」は、ネタバレ気味に”ひと言”で言ってしまうば・・・主人公のジョン(マーク・ウォールバーグ)が、親友のテディベアのテッド(声/セス・マクファーレン)とのバディの関係を卒業して、4年間付き合ってきた恋人ロニー(ミラ・クニス)を人生の伴侶として選んで大人の男に成長するお話。日本では「世界一ダメなテディベア」というコピーで、テッドの可愛らしさを前面に押した宣伝をしていますが・・・うっかりデートで観に行ったりしたら、後悔してしまいそうなほど、実はかなりのブラックジョークと下品な下ネタ満載の一作であります。

いじめられっ子で友達のいなかったジョンが、クリスマスプレゼントに受け取ったテディベアのテッドが、永遠の友達になるように祈ったところ、魂が宿ってしまうというというファンタジーな設定であるのですが・・・27年後(ジョンが35歳)には、テディベアのテッドも同じように年を取って”おっさん”になっているのであります。このテディベアのテッドというキャラクターの立ち位置は「宇宙人ポール」のポールっぽい感じで・・・ボクの観た”アンレーテッド・バージョン”は、その過激さが一線を越えていて頭を抱えてしまいそうになることもしばしばでありました。見た目は”かわいらしいテディベア”でありながら、内面はどうしようもない”エロ親父”と化したテッドは、ある意味、反則的にチャーミングであります。


本作が、あくまでも「男性向け恋愛映画」なのは・・・ジョンの恋人のロニーにしても、スーパーマーケットのアルバイト先で知り合ったレジ係のテッドのガールフレンドのタミ・リン(ジェシカ・バース)にしても、男にとって都合のいい女としてしか描かれていないところであります。まぁ・・・スーパーマーケットの倉庫で下着を足首まで下ろして、テディベアとエッチしてしまうようなタミ・リンに、リアルな女性像を求めることが、所詮、無理なことなのかもしれませんが。また、マーク・ウォールバーグが、元”いじらめられっ子”で、いまだに「フラッシュゴードン」に夢中な”オタク”というのも、正直ハマっていない感じ・・・なにはともあれ、テッドの可愛らしさと下品さが、本作の魅力を担っている作品であることには間違いありません。

それにしても、なんで繰り返し繰り返し、男同士のバディから卒業して、人生の伴侶として女性を選ぶことで、一人前の男になる・・・というアメリカ映画って多いのでしょう?そこには、ウーマンリブの先進国でありながら、レディーファーストの習慣も生き残っている、アメリカ独特の、ある洗脳を感じてしまうのです。

ハイスクールの最後のイベントとなる「プロム」というダンスパーティーは、男子が女子を誘うのが通例でありまして、これは将来のために女性をどのようにエスコートするかを男子に習得させるためと言われております。プロポースは男性が女性の前で跪き、バレンタインズデーには男性から女性へプレゼントをして食事に招待するというのが、いまだに常識・・・どれほど女性が社会的、経済的、肉体的にも強い時代になったとしても、表面上(?)は男性に主導権を与えるような習慣を洗脳している文化なのです。

ただ、そのような洗脳の仕組みの中でも落ちこぼれてしまうのが、近年増えてきた「オタク」っぽい男の存在であります。趣味に没頭したり、男同士でつるんで遊ぶことにしか興味のない・・・大人になりきれていない男性に対して、人生の伴侶となる真のパートナーは男友達ではなくて女性であると、潜在意識に擦り込んでいるような気がしてならないのです・・・。

「テッド」
原題/ted
2012年/アメリカ
監督 : セス・マクファーレン
出演 : マーク・ウォールバーグ、ミラ・クニス、セス・マクファーレン(テッドの声)、ジョバンニ・リピシ、ジェシカ・パース、サム・J・ジョーンズ(本人)、ノラ・ジョーンズ(本人)

2013年1月18日より日本劇場公開


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宇宙の中にひとつの命として存在する私、地球温暖化と格差社会、少女の父親との死別・・・場所、人種、時代を超えた普遍的な寓話~「ハッシュパピー バスタブ島の少女/Beasts of the Southern Wild」~

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最近、ドラマだけではなくバラエティ番組や宣伝のイベントにも”ひっぱりダコ”になっているように「子役」・・・現場の空気を読んで、自分の言葉で切り返す能力までもが求められているようで、大人が期待する子供らしい”かわいさ”を演じている「こども大人」ようで、キモち悪く感じることがあります。歌舞伎では子役の台詞は、わざと一本調子の”棒読み”・・・鼻っから一人前の演者としては扱わないという割り切りがあったりします。ただ、時に監督の指導や、絶妙なキャスティングによって、素人の子役がとんでもない”名演”をして、映画祭の演技賞を総なめ・・・なんてことがあったりします。ただ、その後成長してからも演技者として成功を続けることは稀ではありますが。

オーディション当時、若干5歳(撮影時は6歳?)だったクゥヴェンジャネ・ウォリスちゃんが、演技の経験がまったくないのも関わらず、主役のハッシュパピー役で奇跡の名演をみせる「ハッシュパピー バスタブ島の少女」は、一般的なジャンル分けに戸惑ってしまう不思議な作品であります。

ハッシュパピーの父親のウィンクを演じるドワイト・ヘンリーさんも、本作を制作したプロダクションの近所でパン屋さんをしている素人だし、その他のキャストの殆どが素人・・・その上、アメリカ映画としては超低予算(約1億5千万円)で16ミリカメラで撮影されたということもあって、まるでドキュメンタリー映画のような生々しい手触りを感じさせます。と同時に・・・寓話のようなファンタジーとさまざまな社会の問題のリアリティが入り交じります。ハッシュパピーの視点とモノローグで語られる本作は、どこまでが現実で、どこから想像なのかも曖昧・・・「ツリー・オブ・ライフ」にも似ているところもあり、観客を選ぶ作品かもしれません。


少女ハッシュパピーは父親のウィンクと、”バスタブ”と呼ばれるルイジアナ州あたりにあるらしい三角州のような湿地帯に住んでいます。家畜を飼っているようですが、それで生活が成り立っているとは思えません。多くは描かれませんが、ハッシュパピーの母親である女性は、随分と前に家を出ていってストリッパーになってしまったようで・・・母親の着ていたランニングトップを、ハッシュパピーは母親がわりのように大切にしています。

「ここって本当にアメリカ?」「いつの時代の設定?」と思ってしまうほどの過酷な生活環境に、まず驚かされます。かろうじて雨を防ぐ程度の小屋はゴミだらけ、同じ服を着たっきりでまるでホームレスのよう・・・周辺の住民たち(黒人だけでなく白人のいる)も似たような生活をしているのだけど、その生活に不満を持っているような感じでもありません。自然破壊や地球温暖化などの環境問題に憤りを感じていて、ある種の政治的な意志をもってバスタブでの生活を選んでいるようにも思えます。

実は父親のウィンクは重い病気で、先はそれほど長くないようなのですが、ちゃんと治療する意志はないようで・・・入院していた病院を勝手に飛び出して、ハッシュパピーの元へ戻って来てしまいます。もしかすると、治療費とかを払えないからかもしれません。自分が病気で苦しんでいる様子や、徐々に死に近づいている自分の姿を、ハッシュパピーには見せないようにしようとするウィンク・・・年齢的にハッシュパピーが「死」を理解しているかわかりませんが、宇宙の中のひとつひとつ、ひとつの命が調和して共存しているということは、彼女なりに実感しているようです。

ある日、大きな嵐がやってきます。それでも、ウィンクはバスタブから離れることはせずに、小屋にとどまろうとします。嵐のあと、バスタブ周辺の一帯は完全に水没してしまいます。ドラム缶ボートで彷徨っていたハッシュパピーとウィンクは、同じように非難せずに留まっていた他の住民達と合流します。嵐のおかげで蟹とかザリガニとか大量に獲れて、まるで収穫祭のようなお祭り騒ぎとなります。食物連鎖の中で、自然と共存する人間も”動物”のひとつであることを証明するかのように、蟹を手で割って中身を食らうシーンが印象的です。

しかし、そんなお祭り騒ぎは長くは続きませんでした。一帯が水没したことによって、ますます衛生状態が悪化してしまい、食用のためにボートに乗せていた家畜たちが続々と死んでいってしまったのです。バスタブ一帯の水はけをしようと、ウィンクと仲間たちは、堤防を手作り爆弾(魚に火薬を詰め込んだ!)爆破させます。それで、すぐに水は引いたものの、バスタブは元のようにはなりません。徐々に病気で弱っていくウィンク・・・ハッシュパピーも、父親が死が近づいていることを察し始めます。

ここからネタバレを含みます。


ハッシュパピーを含め住民達は、衛生環境の悪化を問題視した政府当局により、近代的な病院施設に強制的に避難させられることになります。白い壁ばかりの病院で、ハッシュパピーは新しいドレスを着させられ、ウィンクは手術を施されます。ある意味、このような救助の手を差し伸べられて良かったと思えるのですが・・・ウィンクは病院ではなくバスタブで死ぬことを選びます。もう娘の面倒をみることはできないと、ハッシュパピーだけをバスに乗せようとするのですが・・・ハッシュパピーはウィンクの思惑を察し、離れようとしません。結局、ハッシュパピーはウィンクや他の住民らと共に、バスタブに戻ってきます。

バスタブの子供たちが海で泳いでいると、遠く沖から離れてしまいます。そこで、通りかかった船に乗って、海に浮かぶ売春宿のような施設に向かうことになります。もしかすると、ストリッパーになったという母親は、こんな場所にいるのかもしれません。そこは、まるで竜宮城かのように光に満ちた夢のような空間に子供達の目には映ります。売春婦と子供達は、抱き合って踊り、しばし夢のような時間を過ごします。

再び、ハッシュパピーがバスタブへ戻ってくると、ウィンクは死を待つだけのベットに伏してします。そこに「オーロックス」という百獣の王であったという伝説の動物が現れます。その巨大な動物に、まったく怯えることもなく、正面に立ちはだかるハッシュパピーに「オーロックス」もひれ伏します。ハッシュパピーは、バスタブの王として選ばれた者なのでしょうか?亡くなったウィンクをドラム缶ボートで弔ったハッシュパピーは、バスタブの住民達と共に力強く行進をしながら、高らかに訴えるのです!

私はとっても大きな宇宙の中で小さなピース
私が死んだら未来の科学者はすべてを見つける
ハッシュパピーがバスタブでダディと暮らしていたことを!

当たり前のことと言ってしまえば、そうなのですが・・・ハッシュパピーという少女に「与えられた命なんだから、生きている限り、生きなければいけない」と、ボクは改めて教えられたのです。自殺願望があるわけというわけではありませんが・・・自分の子供がいるわけでもないボクが「1人で長生きする意味って何だろう?」って考えてしまうことがあったりします。年老いて「生きる」ということに消極的になってしまいそうな時、必ずこの映画を観ようと思ってしまったのです。

少女が大自然の中で自分を見つけ成長するというテーマから、宮崎駿監督の影響を受けていると評されることが多い本作・・・確かに「オーロックス」という巨大なイノシシのような動物(もののけ姫)、水没してしまう村(崖の上のポニョ)、幻想的な水に浮かぶ売春宿のような施設(千と千尋の神隠し)など、モチーフとして非常に似ているところがあります。日本人として・・・宮崎駿監督の共通点を指摘したい気持ちも分かりますが、実写とアニメという違いだけでなく、作品の雰囲気は、かなり違うものだったりします。また本作は、共同脚本のルーシー・アリバーによる一幕の舞台劇「ジューシー・アンド・デリシャス/Juicy and Delicious」をベースにしていて、重要なモチーフは舞台劇から引き継いでいます。

舞台となる場所、登場人物の人種、設定されている時代を超えた普遍的な寓話としてだけでなく、最近リアルに感じさせられる自然破壊の危機さえも織り込んでいる、真の”オリジナリティー”を感じさせる一作であると、ボクは思うのです。

「ハッシュパピー バスタブ島の少女」
原題/Beasts of the Southern Wild
2012年/アメリカ
監督 : ベン・ザイトリン
脚本 : ルーシー・アリバー、ベン・ザイトリン
出演 : クゥヴェンジャネ・ウォリス、ドワイト・ヘンリー

2013年4月より日本劇場公開


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追悼・大島渚監督・・・超低予算映画でありながら斬新なアイディアで不条理な国家権力を皮肉った革命的な一作!~ATG映画「絞死刑」~

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2013年1月15日大島渚監督が亡くなられた。1996年に脳出血で倒れてから、一度は「御法度」で監督復帰するものの、病状が悪化して闘病生活を送られていました。言語障害や右半身不随のリハビリの様子をテレビのドキュメンタリー番組で拝見したときには、とても心が痛みました。心よりご冥福をお祈りします。

ボクが映画に興味を持ち始めた1970年代後半というのは、「ロードショー」や「スクリーン」といった洋画雑誌が全盛の頃で、ロードショー形式という全国の主要映画館で一斉に封切るという拡大ロードショーというスタイルが定着してきた時代でした。また、角川映画のマスメディア戦略による邦画が次々と製作され、商業主義の大作映画ばかりに注目されていたものです。当時は、レンタルビデオ屋なんてもんは存在していませんでしでしたから、古い作品というのは名画座かテレビ放映で観るしかありません。だだ、映画を放映するテレビ枠は毎晩がありましたし、2本立て、3本立ての名画座も都内にまだ多くありました。ボクは「ぴあ」を片手に名画座を巡り、ある年には1年間で400本以上の映画を観たものです。しかし、名画座で上映されることもなく、テレビ放映されることもない映画というのもありました。

初期(1967~1971)のATG(日本アート・シアター・ギルド)映画については、文献などで読むことはあったも、テレビ放映はもちろん、名画座で上映されることも殆どなく、ボクにとっては”幻の映画”でした。1962年から映画配給を行なっていたATGが、1000万円という低予算映画を製作し始めたのが1967年・・・1970年代後半には、長谷川和彦監督の「青春の殺人者」や、東陽一監督の「サード」のように、全国的に大ヒットする作品などの映画の製作を行う会社になっていました。

1979年、ATG創立20周年を記念して、日劇地下の映画館で「ATG映画の全貌」という映画祭が開催されました。ボクは上映作品のすべてを観るために回数券を購入して毎週通いました。この映画祭は、それまで観ることのできなかった初期のATG映画を集中的に上映するもので・・・「人間蒸発」「絞死刑」「初恋・地獄篇」「肉弾」「心中天網島」「地の群れ」「無常」「書を捨てよ町へ出よう」「儀式」「あらかじめ失われた恋人たち」の10作品がラインナップされていたと記憶しています。

この時に上映された作品の中でボクが一番衝撃を受けたのが大島渚監督の「絞死刑」でした。映画を「監督」で観るようになったのは、この時「絞死刑」と「儀式」2本を観たことがきっかけと言ってもいいでしょう。しかし、当時(1980年前後)大島渚監督の初期の松竹映画やATG以前の独立プロ時代の作品は名画座でも上映されることにはなく、その後(1985年)留学先のニューヨークの”フィルム・フォーラム”で行なわれた大島渚監督のレトロスペクティブにて、デビュー作の「愛と希望の街」や、松竹を辞めるきっかけになった問題作「日本の夜と霧」など、多くの大島作品を観る機会に、やっと恵まれました。初めて観た大島渚監督作品ということだけでなく、すべての大島作品の中でも斬新さが際立つ「絞死刑」は、ボクにとって大島作品のベストワンなのです。

「絞死刑」は、当時としても超低予算の”1000万円映画”で製作された作品の””劇映画”第一作目で・・・大掛かりなセットを組むことは出来ないという状況を逆手に、舞台となるのは絞死刑を行なう刑場の部屋の中(一部、外部ロケもあり)だけという手法を使った作品でした。1958年に実際に起きた在日韓国人李珍宇による”小松川高校殺人事件”をヒントにしているのですが・・・事件の背景に「朝鮮人差別」「極貧問題」があるとして、死刑判決後に助命要請運動も行なわれたそうです。犯人の少年は、死刑執行される前にカソリックの洗礼を受けたりしたものの、最後まで被害者たちへの罪の意識を感じることがなかったらしいということも、本作に反映されているようです。

映画は、いきなり主人公”R”(アール)の死刑が、拘置所所長、教育部長、神父、保安課長、医務官、検事らが立ち会いのもと執行されるシーンから始まります。ところが絞死刑が執行された後も、”R”の脈は止まらず処刑は失敗・・・意識は取り戻すものの記憶を失ってしまいます。法律上、心神喪失状態にある時には死刑執行は出来ないということで、教育部長らは処刑の再執行を行なうために、”R”の記憶と罪の意識を取り戻させるために、寸劇で”R”の家庭や犯罪状況を再現したりすることになります。そう・・・死刑制度問題、在日韓国人差別、貧困による犯罪心理、国家権力の見えない力、などデリケートな社会問題を扱ってはいながらも、本作は「コメディ映画」なのです。

”R”の素朴な疑問は、ボクが問い正すことされも考えてみなかった世の中の仕組みの疑問でもありました。「国家」という存在を意識することもなく生きていたボクでしたが、その「国家」によって「正義」と「罪悪」が決められていることに、反発や疑問を感じたものです。また、本作の”R”は、自分にとって確信できるのは自己認識していることだけなので、罪の意識を持つことはできないということに、共感している自分に怖さも感じました。第二次世界大戦後の教育により「自己」は尊重されるべきものとして、自分自身の価値観を持つことは「良」として、ボク以降の世代は育てられてきました。「ボク」「わたし」という自己を中心とした物事の認識が当然の時代に・・・「国家」の正義を、どのように個人に認めさせるのかを、大島渚監督は本作で映像的に表現することを試みています。刑場を出て行けと言われた”R”がドアを開けた瞬間、まばゆい光に思わず”R”の足はすくみ外へ出ることは出来ません。”R”は”R”であることを認め、差別や貧困で苦しんできた在日韓国人の重荷を引き受けて処刑されることに同意して再び絞死刑が執行されます。しかし、処刑を行なったロープの先には”R”のカラダはなく、そこには空のロープがぶら下がっているだけ!なんという皮肉・・・「国家」が認識させた「正義」さえも、その実体がないのです。

「絞死刑」を観るたび、さまざまな問題提起に対して、何ひとつ納得出来る答えを出せない自分を感じます。映画というのは、なにかしらの結論を導くきっかけを与えてくれるものですが、本作は哲学的な問答の大海原に、観る者を投げ出してしまうような作品なのです。


「絞死刑」
1968年/日本
監督 : 大島渚
出演 : 尹隆道、佐藤慶、渡辺文雄、石堂淑朗、足立正生、戸浦六宏、小松方正、松田政男、小山明子


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さりげなくゲイのおじいさんが登場する大人映画・・・でも、さわやかなエンディングは迎えさせてもらえないの!~「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」~

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ゲイ(同性愛男性)のキャラクターを扱う場合・・・女装の狂言回し役だったり、サイコパスの犯罪者であったり、哀れむ対象であったりということが、多かった時代というがありました。今ではそんな意識はすっかりなくなった・・・と言いたいところですが、女装やオネェ言葉は、いまだに笑えるギャグとして有効というのは、深層心理的には昔とそれほど変わっていないのかもしれません。同性愛をテーマとた作品というわけでもなく、登場人物の一人としてゲイを扱う場合には、一見してゲイと分かるようなステレオタイプの「ゲイ・キャラ」というのも、まだまだ多いような気がします。

「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」は、イギリス人の高齢者7人が、インドのマリーゴールド・ホテルに老後を過ごすために移住するというお話・・・さわやかな感動を呼ぶ”高齢者向け”(?)の大人映画であります。実際にホテルに到着してみると、宣伝写真とは違ってボロボロ・・・さらに、慣れないインドの環境にヘキヘキしていく様子を、暖かい眼差しと皮肉さの混じった視点で描いていきます。当初、英国人のプライド丸出しで異文化を蔑視するような彼らの態度は、傲慢に感じられますが・・・これも、新しい環境を段々と受け入れていく後半の展開との対比のためであります。それぞれの抱える問題が明らかになっていくに連れて、気難しい英国人気質さえも共感を生んでいきます。また、経営困難なホテルを再建しようとする若いインド人青年ソニー(デヴ・パテル)とイギリス人高齢者との対比は、まさに経済発展を進めるインドという国の若さとエネルギーと円熟したイギリスという国そのものであることは言うまでもありません。

夫に先立たれて自立の道を探る元専業主婦のイヴリン(ジュディ・デンチ)、腰の手術を受けるためにやってきた元家政婦のミュリエル(マギー・スミス)、離婚の危機にあるダグラス(ビル・ナイ)とジーン(ペネロープ・ウィルトン)の熟年夫婦、新しい恋を探しているオールドミスのマッジ(セリア・イムリー)、若さに執着して女の尻を追い回すノーマン(ロナルド・ピックアップ)・・・それぞれの物語の展開には、小さな驚きと清々しい結末が待っているのですが、ボク自身が注目したのは、少年時代インドに暮らしていた元判事のグレハム(トム・ウィルキンソン)の物語です。

グレアムが父親の仕事の関係でインドに住んでいた少年時代のこと・・・現地の使用人家族の息子マナージと遊び相手として仲良くなるのですが、ある時をきっかけに(本作では深くは語られません)ふたりの関係は”恋人関係”へと発展していったのでした。数ヶ月後、ふたりの関係はグレアムの両親に知られてしまいます。マナージの父親は解雇され、マナージの家族は屋敷を追い出されてしまいます。しかし、まだ少年だったグレアムは、この状況を傍観してやり過ごしてしまっていたのでした。その後、グレアムはイギリスに帰国して、何事もなかったように進学して、判事として働くまでになっていたのです・・・マナージへの愛と罪悪感をずっと抱えたまま。

ここからネタバレを含みます。

マナージにとって自分は最も会いたくない人間ではないかと恐れながらも、グレアムは根気よく役所に問い合わせてマナージの居場所をみつけます。マナージは、お見合いで妻を娶っていたのですが・・・その妻は夫のマナージが、グレアムというイギリス人の少年と愛し合っていたことを知っていたのです。無言で再会の抱擁をするマナージとグレアムを見つめる妻・・・彼女の夫への複雑、かつ、深い愛情を感じさせます。

本作は、特に同性愛の是非を問いただそうという映画ではありません。ただ、グレアムがストレートという設定で、過去に愛したインド人の少女と再会する話だとすると、陳腐なロマンチズムを感じさせたかもしれません。また、グレアムとマナージの過去、そして再会した後の様子は、フラッシュバックなどではなく、グラハムの台詞だけでしか説明されません。過去の思い出も、再会した後の会話も、観客が想像するしかないのです。

マナージはインド社会で、同性愛者として辱められ「終身刑」に追い込んでしまったと、グレアムはずっと思っていたのですが・・・実は、妻にグレアムとの関係を隠すこともなく、マナージは穏やかな人生を送っていました。そして、マナージもグレアムのことをずっと愛していたことを知らされるのであります。グレアム自身こそが、罪悪感という「終身刑」に自らを追い込んで生きていたことを悟り、彼はやっと解放されるのです。

マナージとの再会により、グレアムの愛の物語はひとつの決着はしているわけですが・・・その直後、グレアムは心臓麻痺でポックリ亡くなってしまいます。登場人物が高齢者ばかりなのですから、その中ひとりぐらいは亡くなることはあっても不思議はありませんが、よりにもよってゲイのキャラクターというのが、ちょっと釈然としません。映画本編は、さわやかで楽天的なエンディングを迎えることになるのですが・・・グラアムが、その結末を迎えさせてもらえないのは、彼がゲイという”特別枠”のキャラクターだからなのでしょうか?

高齢者のイギリス人がインドで暮らすというシチュエーションの”ネタ”は尽きないようで、続編の製作も噂されている本作・・・過去の愛を確かめ合ったグラアムの、その後が描かれることがないことが、ボクには悔やまれてならないのです。


「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」
原題/The Best Exotic Marigold Hotel
2011年/イギリス、アメリカ、アラブ首長国連邦
監督 : ジョン・マッデン
出演 : ジュディ・デンチ、マギー・スミス、ペネロープ・ウィルトン、ビル・ナイ、デヴ・パテル、セリア・イムリー、ロナルド・ピックアップ、

2013年2月1日より日本劇場公開


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向田邦子の台詞を巧み紡いだ魔性の女優たち競演の舞台!・・・オリジナルの「品性」「エグさ」「斬新さ」は超えられない!~2013年舞台版、森田芳光監督映画版、NHK土曜ドラマ版「阿修羅のごとく」~

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NHK土曜ドラマ枠(午後9時から)で放映されていた「阿修羅のごとく」は、舞台となる1979年の”リアルタイム”で制作されていたこともあって、向田邦子の代名詞となっている「昭和の家庭」を懐古するようなノスタルジーさを感じさせるというよりも「”斬新なホームドラマ」でありました。テーマ曲のトルコの軍楽(メヘテルハーネ「ジェッディン・デデン」)や、本編中の楽曲は、当時のホームドラマとしては不気味なセレクションと言えます。レインボー「バビロンの城門」、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド「フィール・ブルー」、サンタ・エスメラルダ「悲しき願い」、シルバー・コンベンション「Get Up and Boogie」、イエロー・マジック・オーケストラ「テクノポリス」、ピンクレディー「UFO」などが、不穏な感情を揺さぶったものです。

日常に潜む”おんな”の阿修羅的な恐ろしさを描いたといわれる本作・・・四姉妹がそれぞれの心に潜ませる妬み、嫉みなどの愛想を、何気ない台詞や表情で”ミニマル”に表現されています。夫が愛人を囲っていることを長年知りつつも、知らん顔していた母親がみせる嫉妬が、一番恐ろしいです。母亡き後のパート2では、さらに四姉妹の運命は劇的な展開をしていくのですが、沈黙の中での一瞬の表情さえも見逃すことを許さない、緻密で凝縮された演出が凄いことなっています。また、父親の”柳に風”のような動じないさや、男たちの優柔不断さや頼りなさなど、”おとこ”への厳しい視線も鋭いです。


長女・綱子を演じるのは「寺内貫太郎一家」の母親役でお馴染みの加藤治子・・・長女らしい保守的なところがありながらも、どこかしら”すっとぼけ”ていて、ゆるい”エロさ”を漂わせているところが絶妙でありました。夫に先立たれて生け花の師匠として生計を立てているのですが、実は営業先の料亭・枡川の旦那と不倫中・・・その旦那を、往年の二代目俳優・菅原謙次が演じているのですから、なんとも艶っぽいわけです。優柔不断で優しい二枚目という存在自体を、せせら笑うようでありました。そして料亭の女将さんを演じているのが、三條美紀という女優さん・・・着物の似合う大御所でありますが、意地悪さ加減が、観ていて小気味良いほどです。

次女・巻子を演じるのは、八千草薫・・・品の良いお母さん役というイメージの女優さんでしたが、同時に”のほほん”とした不気味な印象もボクは持っていました。専業主婦で視聴者が一番親近感を感じやすい役柄ということもあってか、四姉妹の中では主役的な存在であったような気がします。巻子の夫の鷹男役は、パート1が緒形拳で、パート2は露口茂・・・緒形拳は飄々と演じている印象でコミカルさを感じさせるのですが、露口茂はどこかウェットでシリアスな感じで、ボク個人的には緒形拳がいい味出していたように思います。またパート2では、2013年の舞台版で巻子役を演じる荻野目慶子が、巻子の娘役で出演しています・・・ただ、現在の魔性っぷりからは想像出来ないほどの初々しさです。

三女・滝子を演じるのは、いじだあゆみ・・・ボクの世代にとっては「ブルーライト・ヨコハマ」というヒット曲の歌手というイメージが強いのですが、性に関して潔癖性なクセに、実は欲求不満の図書館の事務員という、華やかなイメージからはかけ離れた役柄が意外でした。父親の愛人調査を依頼した探偵・勝又と恋に堕ちてしまうのですが・・・勝又を演じるのが、宇崎竜童という意外なキャスティングで・・・口下手で正直者という役柄が、妙にハマっておりました。

四女・咲子を演じたのが風吹ジュン・・・今でいうグラドルみたいな存在で、歌手として歌っても吐息ばっかりで音痴、演技もけだるい感じでやる気なさそうというノリが、学生運動が終結した当時のアンニュイな雰囲気に合っていたのかもしれません。本作の中では、ソバージュの髪型、肩パッドなどの1979年~1980年当時の”今風”ファッションを体現している役柄でもありました。

四姉妹を演じる女優にも増して、スゴいのが父親を演じる佐分利信であります。威厳のある父親という、いわゆる”寡黙な親父”像そのもののような役者さんなのですが、出演作のどれを観ても似たような演技というイメージ・・・ボクは「あまり演技が上手ではない役者さんだなぁ」と思っていたのですが「阿修羅のごとく」を観て印象は変わりました。一見すると無表情でありながら、目の奥で内面を表現していたのです。物語が進むにつれ・・・愛人に振られ、妻に先立たれて、侘しさを増していく様子は惨めさをヒシヒシと感じさせます。向田邦子が描いてきた父親像というものを崩壊させている本作ですが・・・と同時にまわりの女たちの繰り広げる嫉妬や葛藤にも感情を露にしない”男のズルさ”もしっかりと覗かせています。

母親を演じた大路三千緒という女優さんについては、ボクは何も知らなかったのですが・・・元宝塚の男役スターだったそうです。ただ、本作では影の薄い専業主婦の母親を演じています。夫に愛人がいたとしても家庭を守るということが美徳ととらえられていた時代の母親・・・しかし、娘のフリをして新聞社に投書したり、愛人の暮らすアパート付近で見張っていたりと、内面では嫉妬に燃えていたというのが、向田邦子が男に対して放つ平手打ちのようです。まったく素振りを一切見せない演技が、より奥深い嫉妬の怖さを増しているのかもしれません。

オリジナルのNHK土曜ドラマ版は、演じる役者を考慮して脚本を書かれているということもあって、キャスティングは役者さんの表層的なクラクターだけでなく、深層に潜むキャラクターまでもあぶり出している”エグさ”がありました。だからこそ、観るたびにキャラクターの人間像の発見があり、制作から30数年経った今でもNHKドラマの名作として語り継がれているに違いないのです。


2003年(オリジナルドラマ放映から24年・・・森田芳光監督により「阿修羅のごとく」が映画化されます。パート2放映後から1年後に飛行機事故で向田邦子が亡くなったこともあり、本作は繰り返しNHKで再放送されていましたし、昭和という良き時代の家庭を懐かしむ風潮が高まってきたこともあったのかもしれません。ただ、森田芳光監督と豪華な配役にも関わらず、映画版は失敗作であったとボクは思っています。

まず、過去を舞台とする物語となったために、昭和的なノスタルジーを取り込もうとしたようです。確かに、本作で描かれる父親像、母親像、そして、四姉妹それぞれの物事の考え方・・・さらに、物語の辻褄上、黒電話などの小道具も重要ではあり、1979年という時代設定は無視できません。しかし、リアルタイムで生きていたボクからすると・・・1979年というのは、もはや懐かしい”昭和”を感じさせてくれるような時代ではなく、学生運動が盛んだった混乱からバブル景気への”中間点”・・・”しらけ世代”の冷めた無気力感、個性尊重の個人主義、ブランド志向などの風潮が広がっていく、実は”昭和”感から大きく脱却した時代であったのです。

ドラマのパート1とパート2の全7話のストーリーを2時間ほどにまとめるわけですから、はしょらなければならない場面が出てくるのは当たり前のことです。おおまかな物語の流れは、パート1の母の死をクライマックスにしながらも、パート2の四姉妹のエピソードを前後シャッフルして織り交ぜていくという手法をとっています。しかし、オリジナルの台詞を忠実に再現しようとするばかりに、その言葉だけが残っていて、その背景にある感情が希薄になってしまった印象です。

キャスティングにも問題があったように思います。それぞれの役柄に合った役者を起用しようとしたのでしょうが・・・逆に周知の”キャラクター”を前面に押し出すだけになってしまった気がします。長女役の大竹しのぶは、デビュー時代は”田舎臭い娘役”で天才女優の名を欲しいままにしていました。しかし、人生を重ねるうちに上手な演技と呼ばれてきた芝居もある種パターン化してきて・・・身持ちの悪い役を演じさせると、下品さだけが目立つようになってきました。長女は、確かに料理屋の旦那とカラダの関係を断ち切れないのですが、生け花の師匠で未亡人という”気品”も共存しているはず・・・その”品”が、大竹しのぶには絶望的に欠けているのです。また、料理店の女将を演じる桃井かおりも、下品さでは大竹しのぶに負けていなくて・・・二人が対決する場面は場末のホステス同士の喧嘩のようです。

次女役の黒木瞳にしても、三女役の深津絵里にしても、それぞれの役のイメージに合わせたキャスティングなのかもしれませんが、それまで演じてきた役柄の延長線上という感じです。四女役の深田恭子に至っては演技が下手で話になりません。父親役の仲代達矢も、母親役の八千草薫も、四姉妹の物語の背景のような扱いをされているので、生かされていないキャスティングです。一番ヒドいのは三女と付き合う探偵の勝又役の中村獅童・・・監督の指示なのか、中村獅童の役作りなのかは分かりませんが、口下手で正直者という以上に、落ち着きがなく吃るという変なキャラクターになってしまっています。その演技が、あまりにも大袈裟で、まるで障害者を滑稽に真似しているかのよう・・・観ていて不謹慎に感じました。映画版のキャスティングで良かったのは、長女の夫・鷹男役の小林薫と、長女の不倫相手の料理屋の旦那役の坂東三津五郎ぐらいでしょうか?残念ながら・・・映画版「阿修羅のごとく」は、オリジナルドラマファンのボクにとっては残念な作品でした。


「阿修羅のごとく」が、初めて舞台化されたのは・・・小説版「阿修羅のごとく」の文庫あとがき(南田洋子著)によると、1999年6月のようなのですが、ネットで調べても詳細が分かりません。南田洋子が母親役、長門裕之が父親役を演じていたようですが、四姉妹を誰が演じられたのか分かりません。2004年に、再び、南田洋子の母親役、長門裕之の父親役で、芸術座で公演されています(2006年の博多座で再演では、母親役は水野久美、父親役は天田俊明)。長女・山本陽子、次女・中田喜子、三女・秋本奈緒美/森口博子、四女・藤谷美紀/細川ふみえ、鷹男・国広富之、勝又・渋谷哲平というキャスティングというのは、商業演劇らしい気がします。どちらの舞台もボクは観ていません。

さて、先日観に行った2013年版舞台「阿修羅のごとく」は・・・母親・加賀まりこ、長女・浅野温子、次女・荻野目慶子、三女・高岡早紀、四女・奥菜恵という”魔性の女優”ばかりを集めた確信犯的なキャスティングに、興味を惹かれてしまいました。

母親役に”加賀まりこ”というのが”ありえない”気がします。”おんな”として枯れてしまった役柄を演じるには、69歳であっても加賀まりこは瑞々しい”現役感”ありすぎの印象・・・白菜のお漬け物を漬けるイメージからも程遠く、嫉妬に燃えながらも夫の浮気に絶えたりせずに凄い剣幕で愛人宅に怒鳴り込みそうです。ただ、年を取っても若い役を演じられる舞台の魔法が逆に作用して”老け役”に挑んだという感じでしょうか?

長女役の”浅野温子”が「未亡人」の「生け花の師匠」というのは、かなり無理・・・未亡人の枯れたエロスもなければ、生け花の師匠らしい気品もなく、不倫することなんか全然気にしなさそうな”あっけらかん”としているイメージしかありません。目力の強いデビュー時代には男性ファン、W浅野時代には女性ファンを獲得していた浅野温子も、その後は迷走し続けているような感じがします。この舞台では「サザエさん」役を彷彿させるコミカルな演技をみせています。

次女役の荻野目慶子が、専業主婦というのもシュールです。まったりとした独特のエロさは、長女役に適しているような気がするのです。夫の浮気を疑う様子は妙におどろおどろしいし、夫を問い詰める様子は変に甘えているようで・・・隠せないエロさが滲み出てしまっています。三女役の高岡早紀は、いい意味で、高岡早紀っぽさを消して役柄になりきっていた印象でした。四女役の奥菜恵は、頑張り過ぎて下品で派手なオバサン(?)みたいになってしまっていました。この5人の女優よりも異彩を放っていたのが・・・長女の浮気相手の奥さんを演じていた”伊佐山ひろ子”でした。長女とのやり取りでは、完全に浅野温子を制圧してしました。

さて・・・全7話のテレビドラマを、どうやって2時間ちょっとの舞台にするのか?場面が頻繁に変わる展開を、どうのような舞台装置を使うか?というのが、ボクは大変興味がありました。舞台は15分の休憩を挟んで、1部と2部に分かれているのですが・・・1部でパート1、2部でパート2の物語を追っていきます。時間的にかなり凝縮されているので、全体的にドタバタ感があって展開のペースが早いです。ただ、向田邦子の書いた台詞を言うだけでは感情が伴わなくなってしまいますが、巧みに時間軸や場面を変更して、生きた台詞として紡いでいたのには驚きました。また、舞台という制約もあるなかで、記憶に残っていたキーポイントとなるドラマの場面も殆ど再現されていました。

今回の舞台版の脚本の巧みさだけでなく、舞台セットも複数に進む物語を効果的にみせることに成功していた気がします。真ん中に大きな茶の間、その左横に出入り口のある茶の間(長女宅の茶の間)、左上にダイニングテーブル(次女宅の食堂)、右脇に病室や外など自在に変化する空間、右上に小さな茶の間(四女の部屋)、その茶の間の奥に土手・・・という風に舞台上に6つの空間を設けることで、めまぐるしく場面の変わる物語を手際良くみせていました。

舞台としての完成度は決して低くはありません。興業として考えた場合、今回のキャスティングというのは、ボクのようなオリジナル版のファンの興味も惹いたわけですから、成功と言えるのかもしれません。ただ・・・焼き直されるたびに失われていく「品性」「エグさ」「斬新さ」を、改めて確認してしまうことも事実なのです。


「阿修羅のごとく」
1979年、1980年/テレビドラマ
演出 : 和田勉、高橋康夫、富沢正幸
出演 : 加藤治子、八千草薫、いしだあゆみ、風吹ジュン、佐分利信、大路三千緒、緒形拳(パート1)/露口茂(パート2)、宇崎竜童、荻野目慶子(パート2)

パート1/1979年1月13日~1月27日放映
パート2/1980年1月19日~2月9日放映

「阿修羅のごとく」
2003年/映画
監督 : 森田芳光
出演 : 大竹しのぶ、黒木瞳、深津理絵、深田恭子、八千草薫、仲代達矢、小林薫、中村獅童、桃井かおり、坂東三津五郎

2003年11月3日劇場公開

「阿修羅のごとく」
2013年/舞台
演出 : 松本祐子
出演 : 浅野温子、荻野目慶子、高岡早紀、奥菜恵、加賀まりこ、林隆三、伊佐山ひろ子

2013年1月11日~1月29日 ル・テアトル銀座/東京
2013年1月31日~2月3日 森ノ宮ピロティホール/大阪
2013年2月9日~2月10日 名鉄ホール/愛知 


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”日本のカワイイ文化”と”見世物的クラブシーン”を融合した(?)日本人デザイナー・・・”日本人のメンタルの弱さ”と”総合的デザイン力の欠如”が露呈してしまったのかも!?~「プロジェクト・ランウェイ・シーズン10/Project Runway Season 10」~

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2004年からアメリカで放映されている「プロジェクト・ランウェイ/Project Runway」が、遂に「シーズン10」を超えました!番組の内容については、以前「めのおかしブログ」で「プロジェクト・ランウェイ」について書いたことがあるので、良かったらご覧下さい。

過去のファイナリストたちを集めた「プロジェクト・ランウェイ・オールスターズ」、ジュエリー、ハンドバッグ、靴などのデザインで競うアクセサリー版の「プロジェクト・アクセサリー」という”スピンオフ番組”が制作されていますし、世界各国(イギリス、オーストラリア、ベルギー、オランダ、フィリピン、韓国など、計20カ国)で、その国のバージョンの「プロジェクト・ランウェイ」というのも制作されています。現在「シーズン11」がアメリカでは放映され始めたところで、リアリティー番組の中でも長寿番組のひとつとなっています。

ボクは「シーズン1」からアメリカでDVDボックスが発売されると同時に購入して、全エピソードを一気に観てきました。しかし「シーズン8」を最後に、アメリカではネット配信のみ(日本からは閲覧不可能?)で、DVDボックスの発売をしなくなってしまったため「シーズン9」以降は観ていませんでした。日本では、WOWWOWが日本語吹き替えで放映しているようですが、先日「シーズン8」が終わったところのようで、2013年に「シーズン9」の放映が決まっています。オフィシャルサイトには放映中の「シーズン11」について書かれているし、番組の一部の映像は”YouTube”にアップされているので、リアルタイムで情報を得ることは出来るのですが、まとめて観る時の楽しみを奪われてしまうような気がして・・・あえて、ボクはネット上の情報は見ないようにしてきました。

最近になって怪しげなサイトで「シーズン10」までのDVDボックスセットを販売しているのを発見し、さっそく取り寄せてみました。テレビからダビングした番組をDVDに焼いた中国版海賊版らしく、画質はVHS並み、編集点ではシーンが飛ぶことがある粗悪品・・・ただ、正規版DVDが販売されない以上、海賊版の存在はありがたいものだったりします。

「シーズン8」では日系アメリカ人(四世?)の女性(アイビー・ヒガ/Ivy Higa)が出演していましたが・・・「シーズン10」では、初めて日本生まれの「日本人デザイナー」が「プロジェクト・ランウェイ」のキャストの一人として出演しているのです!

アメリカ人以外のキャストは、今まで数多く出演しているのですが、リアリティー番組の性質上、英語でのコミュニケーション能力というのは「必須」となります。また、単に言葉の問題だけではなく・・・共同生活しながらキャスト達とのコミュニケーションを取っていったり、審査員からの辛口批評に対して屈せずに自分の意見を述べたり、番組の中で自分のキャラクターをどう表現して振る舞っていくのかなどの能力も要求されるのです。

同調性をコミュニケーションの手段とする日本人にとって、お互いを批判し合いながらも尊重していくというのは(頭で分かっていても)なかなか難しいこと・・・英語力や服作りの才能以前に、切磋琢磨しながら素人同士が争うというリアリティー番組というフォーマット自体に、日本人にはハードルが高いのかもしれません。それ故に(1対1のバトルの似たような番組は過去にあったけど)日本版の「プロジェクト・ランウェイ」という番組が制作されることがないのかもしれません。初めての日本人キャストに対して(ボク自身がなし得なかったことをやってくれるという)大きな期待と同時に・・・最悪の結果を残してしまうのではないかという不安も感じぜずにはいられませんでした。

さて・・・「プロジェクト・ランウェイ」に登場する日本人デザイナーというのは、どんな人なのでしょうか?「Kooan Kosuke」という名前で出演していますが、本名は「大川公輔」という姫路出身の現在(番組出演時)30歳男性・・・番組内では「KOOan/コーアン」と呼ばれています。2002年(20歳?)で渡米して、「F.I.T」に入学してファッションデザインを学んだということなので・・・18歳で渡米し、英語学校、プレップスクール、芸術大学を経由して、23歳でパーソンズ・デザイン大学のファッション科に入学したボクには親近感が湧きます。

2006年、彼は「ベストデザイナー」を受賞して「F.I.T.」を卒業します。デザインの方向性はさておき・・・日本人のステレオタイプとしての手先の器用さを裏切らず、彼の服作りの”クラフトマン・シップ”ののレベルは高いことは間違いないようです。「パーソンズ・デザイン大学」と合同で開催された「Fusion Fashion Show/フージョン・ファッション・ショー」では、計30名の卒業生たちのフィナーレを飾っています。


卒業の1年後には、2008年の春夏コレクションを発表・・・このショーの後、セントクリストファー・ネイビス連邦(西インド諸島にあるイギリス連邦の王国のひとつ)でのファッションショーに参加したり、ニューヨークマガジンが出版している「ルックブック」で取り上げられたり、ケーブルテレビのTLC(ザ・ラーニング・チャンネル)で放映された古着をリメイクして素人をメイクオーバーするという「I 've Got Nothing to Wear」という番組に出演したり、ビヨンセの「Freakum Dress」ミュージックビデオに出演しているダンサーのジョンテ(JONTE'☆ MOANING)の衣装デザインを韓国人アーティストのクラヨン・リー(Crayon Lee)とコラボをしたりと・・・デザイン活動の場を広げていきます。

彼のファッション・ショー映像を見るかぎり、ファッション専門学校の学生に”ありがちな”スタイルという印象は拭えません。彼のスタイルが日本人デザイナーを代表しているとは、殆どの日本人が思わないでしょう。クラブシーンで受けそうな見世物的なキッチュさはイギリスのパフォーミング・アーティストのリー・バワリーなどの影響と同時に、外国人受けしそうな日本の「カワイイ文化」の引用をしているようにも見えます。ある意味、いつの時代にも必ず存在しているナイトクラブ受けする”アヴァンギャルド”・・・既成の服のディテールを誇張した”Catoon/カートゥーン”(漫画チック)のスタイルは、アメリカでは「ハラジュク系」と解釈される「ストリートクチュール(?)」といったところでしょうか?

ニューヨークにいる日本人には、異様に”キャラ”が立っている人が、たくさんいるのですが・・・その人たちに共通するのは、とにかく見た目が派手で、テンションが異様に高いということ。良くも悪くも「イロもの」として、クラブシーンでは目立つ存在となり、”プチ有名人”になることも結構あったりするのです。何を隠そう・・・ボク自身もパーソンズ・デザイン大学に在学中は、髪の毛をブリーチしてブロンドならぬ”たまご色”にして、相当おかしな格好をして、クラブを徘徊しておりました。とりあえず目立つことによって、言葉のコミュニケーションに多少ハンディがあっても、クラブシーンでは注目を浴びることができるわけです。地方から原宿に遊びに来て、ド派手なファッションや奇妙な行動をするのに、ちょっと似ているのかもしれません。


「プロジェクト・ランウェイ」のオーディションでは、彼のハイテンションなパーソナリティーと金髪のアフロヘアの奇抜なパーソナルスタイルが受けたそうです。実は「シーズン10」は三度目の挑戦で・・・「F.I.T.」在学時代にオーディションを受けて落選、その後「シーズン6」(2008年)の時に再挑戦して一旦キャストに選ばれるものの、クリーンカード(永住権)を持ってないことを理由に却下されてしまったそうです。2008年から2012年の間に、何らかの手段でグリーンカードを取得したのか、仕事を通じてワーキングビザが発行してもらえたのか分かりませんが、晴れてアメリカ滞在のためのステイタスの問題もなくなり、念願が叶ったということになるのでしょう。

ただ、どう見ても彼は「ヒーローズ」に出演していた日本人俳優マシ・オカ的な「イロもの」として扱われているようで・・・ハイテンションの「おかしな日本人」というポジションでのキャスティングであることは否定することは出来ません。

ここからは「プロジェクト・ランウェイ・シーズン10」のネタバレを含みます。


エピソード1の「お題」は、宿題として制作してきた自分のデザイン哲学を表現したルックと対になる二着目をデザインして一日で制作するというものでした。色の組み合わせも、使用している生地の選択も、服のディテールも、まるでジョークのようなコスチュームだと、彼のデザインはレギュラー審査委員たちには評されてしまいます。一着目と二着目のデザイン的な関連性も、イマイチ分からず・・・リアルな服としての存在感の感じない奇妙なスタイルでした。ただ、ゲスト審査員が、個性的なストリートスタイルに理解のあるパトリシア・フィールドであったことはラッキーだったかもしれません。評価の低い3人に選ばれるものの、最初の落伍者になることは免れることができました。


エピソード2では、一般的には服の素材でないモノで服を作るという「プロジェクト・ランウェイ」ではお馴染みの「お題」・・・今シーズンは、ロルフ・ローレンの娘さんが経営するキャンディ屋さんが舞台。彼のデザインの方向性とキャンディの相性は良さそうなので、彼には”もってこい”の「お題」のように思えたのですが・・・溶けてしまう綿アメをスカートにしようとして失敗し、単にたくさんのキャンディをモスリン生地で作った土台に無理矢理縫いつけただけのドレスを制作しました。勿論、ランウェイを歩くモデルのドレスからは、ボロボロとキャンディが落ちてしまったことは言うまでもありません。せっかく、彼の持ち味のスタイルに合ったテーマであったのに、そのポテンシャルを生かすことなく、かろうじて合格点で通過という無難な結果に終わりました。

このエピソードまでは、相変わらずハイテンションで、おちゃらけていたのですが・・・その後、様子が急変して塞ぎ込むようになってしまうのです。番組には映っていない部分なので、あくまでもボクの想像なのですが・・・長時間ライバル同士で競い合う状況で、他のキャストたちと本当の意味でのコミュニケーションが、彼は取れていなかったのではないでしょうか?元々、キャラ”が立ち過ぎているところはあったのですが・・・一体、彼がどういう人間なのかは、他のメンバー達には理解出来なかった気がします。結局、番組内で彼は「おかしな日本人」という理解を超えた不思議な存在というアピールしかできなかったのかもしれません。

日本人は「建前」と「本音」という習慣が、深みのある美徳のように自負しているような気がするのですが・・・実は、これこそが日本人のメンタルの弱さの根源ではないかと、ボクは考えています。日本人は、追い込まれた状況になると、急に押し黙ったり、感情的になりがち・・・「建前」である”キャラ”が崩壊して”素”という「本音」を露呈させてしまうことがあります。ある時まで「建前」で冷静さを装っている日本人は、実は非常に感情に流されがちだったりするのです。映画やドラマでは、すぐに感情を剥き出すステレオタイプのあるアメリカ人ですが、実は”素”を出してしまうほど感情的になることは、理性のある大人であったら恥ずかしいこと・・・”幼稚な行動”と受け取られて周りからは敬遠されます。日本人からみるとタワイもないことで感情的になっているようにみえるのも、実はガス抜きであったり、自分の意向を押し通すための主張をしているだけ・・・自己のバランスを保つために必要な防衛策だったりするのです。


エピソード3の「お題」は、デザイナーがペアとなってクライアントのために”レッドカーペット・ルック”(エミー賞授賞式に出席するためのドレスやガウン)を制作するというものでした。「プロジェクト・ランウェイ」では、自分ひとりでデザインするだけでなく、他のデザイナーとの共同作業や、クライアントのためにデザインするというチャレンジが多くあり、自己主張しているだけでも駄目・・・といって、自分の個性を殺しても駄目という”コミュニケーションの駆け引き”も求められるのです。

この「お題」は、明らかに彼にとって苦手なことは推測できました。運良くフェミニンなスタイルが得意なデザイナーとペアを組むことになるのですが・・・イニシャティブは完全にパートナーに奪われてしまい、デザインプロセスに関わることもできないまま終わってしまいます。結果的には、審査員たちには好評で、高い評価の2グループに入る快挙を成し遂げるのですが・・・自分を見失ってしまった結果、彼のおちゃらけた”キャラ”は崩壊してしまいます。

エピソード4ではスタート早々、とんでもないニュースが明らかにされます。女性キャストの1人が夜中に共同生活しているマンションから逃げ出したというのです。過去にリタイヤした人は何人かいますが、夜中にコッソリというのは初めてのことです。キャスト内に衝撃が走る中、生地を購入して作業室に戻って来たメンバーたちに、いきなり彼はリタイヤすることを告げます。すでに混乱しているキャストたちは、ただ唖然・・・もしかすると彼なりに、このドサクサに紛れてリタイヤしなければ、もうチャンスはないとでも思ったのかもしれません。

彼はリタイヤの理由として「自分なりの方法でファッションデザインをしたい」という”もっともらしい”言い訳をするのですが・・・正直、これには理解に苦しみます。どのような「お題」が出されるとか、どれほどの短時間で完成品を制作しなければならないとか、などは「プロジェクト・ランウェイ」を観たら明らかなこと・・・自分の好きなスタイルだけでなく、アヴァンギャルドからエレガント、太った女性から子供、幅広いデザインをこなす柔軟性が要求されることは、覚悟できたはずではないでしょうか?極端な時間の制約や無茶なお題にチャレンジすることを承知して、番組に参加していることが前提なのです。「厳しいファッション業界でデザイナーになる別な方法を探していきたい」という、当たり前な結論に達してリタイヤしてしまうのであれば・・・「そもそも何故、そこまでして出演しようと思ったの?」と根本的な疑問さえ浮んでしまいます。

ライバルである仲間たちが、彼のリタイヤを湿っぽく引き止めたりしないのはアメリカならでは・・・サポート役であるティム・ガン氏も、自分で決めたのであれば仕方ないというサッパリとしたものです。こうして、エピソード4で唐突に、彼は番組から消えることとなります。作業室を去る際の彼の行動は、残されたキャストたちの目を点にさせるのですが、最後の最後に、おちゃらけた”キャラ”を取り戻して、彼なりの「建前」を繕ったのかもしれません。ただ悲しいかな、それは・・・「おかしな日本人」の不可解な振る舞いとしかキャストの目にも、多くの視聴者の目にも映らなかったのではないでしょうか?

残念ながら、日本人的なメンタルの弱さと総合的なデザイン力の欠如を露呈させてしまう結果となりました。もし、彼が自らリタイヤしていなくても、遅かれ早かれドロップアウトしていたかもしれません。ただ、誰もが簡単に手にすることの出来ないチャンスを得た者の使命を感じて、石にかじりついてでも、行ける所までは頑張って欲しかったというのが、ボクを含む多くの日本人、そして視聴者の気持ちだと思います。

「プロジェクト・ランウェイ」を観るたび、過去の自分に与えられていたのかもしれない”可能性”を振り返って漠然とした後悔に襲われてしまうことがあるボクにとって・・・リタイヤした彼の姿は自分自身の淡い後悔の念と重なり、胸を切なく痛めて止まないのです。

「プロジェクト・ランウェイ」
WOWOWプライムにて順次放映

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個人的には全く萌えないマシュー・マコノヒー・・・”変態”役者として最近妙にキレキレなの!~「Magic Mike/マジック・マイク」「The Paperboy/ペーパーボーイ 真昼の引力」「Killer Joe/キラー・スナイパー」~

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俳優の好き嫌いを”外見”だけで判断することはないけれど、”外見”が好きでないから興味がない・・・興味がないから出演作を観ない・・・観ないから”外見”だけのイメージしか持てないという連鎖によって、ますます興味を持つ”機会”さえ少なくなってしまうことがあります。

ボクにとって、そんな俳優のひとりがマシュー・マコノヒー・・・もう20年近くアメリカ映画に出演し続けているハリウッドスターのひとりの俳優であるし、一般的なアメリカ人の感覚では・・・(好き嫌いは別にして)「典型的なハンサム」の代表格ではありますが、そのルックスが災いして、特に強く惹かれる個性を感じられなかったりもします。彼の出演作を観た記憶というのがボクには全くと言っていいほどなくて・・・漠然とロマンチック・コメディとかに出演していそうという程度のイメージしか持っていません。そんなわけで、マシュー・マコノヒーの出演している作品を”あえて”観ようということは、ボクには今までなかったのです。

本編のエンディングのネタバレを含みます。


「Magic Mike/マジック・マイク(原題)」は男性ストリッパー業界を描いた(最近やたら多作の)スティーブン・ソーダバーグ監督作品・・・チャニング・テイタムを始め、男優たちのストリップシーンばかり注目されている一作。チャニング・テイタム自身の男性ストリッパー時代の経験を元にした結構真面目(?)な青春映画です。物語は、大学を辞めて金をとりあえず稼ぐためにストリッパーになったアダム(アレックス・ペティファー)と、昼間は家具デザイナーとしてビジネスを立ち上げようとしながらも人気ストリッパーとしても頑張るマイク(チャニング・テイタム)の、転落と成長を描いていくのですが・・・プレイーガール誌のピンナップボーイのような若手男優たちの中で異彩を放っているのが、ストリップクラブのオーナーのダラス役のマシュー・マコノヒーであります。

アダムの姉に「30歳にもなって、ストリッパー」と罵られ、自分はダラスのような「40歳でも、まだストリッパー」にはなりたくないと、マイクはストリップから足を洗うことを決断するのですが・・・40過ぎのダラスにとってのストリップこそ「天職」。もっと集客の見込める大都市のマイアミに移転して、ストリップクラブのビジネス拡大を狙う野心さえもあるのです。薬物中毒になって堕ちていく者や、ペニス増大器まで使ってストリッパーを続ける者がいる男性ストリッパーの「闇」と、スポットライトを浴びている間だけの「光」の痛々しさが、映画の佳境に満を持してダラスのストリップで表現されます。痩せた筋肉質の40男のカラダには、ハッキリ言って健康的なセクシーさはありませんが、自分の仕事に誇りを持って生き抜いてきた男の気迫を感じさせられてしまいました。ある意味、年齢と共に劣化した自らの肉体をも曝け出したマシュー・マコノヒーのダンスに、涙してしまったほどです。単にハンサムだけの無個性な俳優と思っていたけれど・・・実はボクの大好物の”変態役者”なのかもしれない・・・と、気付いたのです。


マシュー・マコノヒーの気味悪さを確信させたのが「The Paperboy/ペーパーボーイ 真昼の引力」であります。「プレシャス」のリー・ダニエル監督によるフィルムノアール系の気持ち悪いスリラーサスペンスで、ニコール・キッドマンがザック・エフロンに放尿する(!)映画として話題になった一作です。まだ黒人差別が色濃く残る1969年のフロリダを舞台で、”マイアミ・タイムズ”の記者であるワード(マシュー・マコノヒー)が、大学を中退したばかりの弟ジャック(ザック・エフロン)を雑用係にして、死刑囚ヒラリー(ジョン・キューザック)の無実を明かそうとする話・・・ジャック以外の登場人物は一癖も二癖もあるキャラばかりで、つかみどころのない気持ち悪さとエグさ満載なのです。

ヒラリーのフィアンセ(といっても手紙のやり取りだけで婚約したのですが)であるシャーロット(ニコール・キッドマン)というのが、とんでもない女でありまして・・・ミニスカートのまま大股開きをしてパンティ越しに割れ目を見せつけたり、面会の際にはフェラチオの真似事をしてヒラリーをイカせちゃうのであります。話題のシーンというのは、海でクラゲに刺されたジャックの応急処置のためにシャーロットがおしっこをかけるということだけのことでした。アバズレっぷりを生き生きと演じるをニコール・キッドマンや、狂気のセックスマニアックっぷりを熱演するジョン・キューザックとは対照的に抑えた演技で脇を固めているマシュー・マコノヒーが、一番気味が悪いのであります。語り手であるワードとジャックの実家のハウスメイドの台詞だけでしか説明されないのですが・・・実はワードは同性愛者のマゾで、黒人の男たちから受けるハードなSMプレーを好んでいたらしいことが分かります。こんな理解し難い不可解な役柄を、すんなりと演じてしまうマシュー・マコノヒーって・・・なんて気持ち悪いんでしょう!


制作された順序は前後するのですが・・・日本では劇場未公開で、何故かDVD/ブルーレイの発売さえなく、レンタルのみという不遇の作品が、ウィリアム・フリードキン監督による「Killer Joe/キラー・スナイパー」です。テキサス州のホワイトトラッシュ(白人貧困層)の家族の崩壊と再生(?)を、エロスと暴力とブラックユーモアを交えてハードボイルに描いた本作では、マシュー・マコノヒーは”保安官”でありながら副業で”殺し屋”という「善」とも「悪」とも取れない屈折した役柄を演じています。

借金の返済に困っているクリス(エミリー・ハーシュ)は、父親ハンセン(トーマス・ヘイデン・チャーチ)と彼の現妻シャリア(ジーナ・ガーション)と共謀して、保険金目当てに実の母親の殺害を殺し屋ジョー(マシュー・マコノヒー)に依頼するのですが・・・この家族に前払いで全額を用意できるわけがありません。受け取らなければ仕事は引き受けないというジョーだったのですが・・・母親の保険金の受取人のひとりがクリスの妹のドッティ(ジュノ・テンプル)であることから、ジョーはドッティの身柄を担保に殺害依頼を一方的に承諾します。実はジョーは、この家族の中で唯一ピュアな心をもつドッティにひと目惚れしていたのです。ドッティにとってもジョーはダンディで素敵な大人の男・・・二人はあっさりと恋に落ちてしまいます。

依頼通りあっさりとクリスの母親を殺害したジョーは、ある「真実」をこの家族に突きつけて、ドッティを受け取るために彼らのトレーラーハウスに現れます。現妻シャリアは裏でクリスの母親の現ボーイフレンドとデキていて、クリスをそそのかして、自らの手を汚さずに邪魔者のクリスの母親を殺して、保険金も全額受け取ろうという魂胆だったことを、ジョーは巧みな尋問で暴露していきます。そして、ジョー自らの手でシャリアに屈辱的な罪滅ぼしを強要するのです!フライドチキンのドラムスティックを股間にかざして、跪かせたシャリアにドラムスティックをしゃぶるように命令します。興奮しながらドラムスティックをシャリアの喉の奥まで突っ込むジョー・・・明らかに絵的には「強制フェラチオ」であります!

溺愛する妹ドッティをジョーに奪われることを阻止するため、クリスはジョーを殺害しようとするのですが・・・すでに崩壊した家族は元に戻ることよりも、ジョーを加えた再生を目指そうとするのであります。父親ハンセンはクリスを押さえつけ、銃を奪い取ったドッティはクリスを銃殺してしまうのですから・・・。ジョーに銃を向けながら、ドッティは妊娠したことを告げます。それを聞いて喜ぶジョーの笑顔で映画は終わり、ドッティがジョーを撃ったのかは分かりません。なんとも、拍子抜けするエンディングなのですが・・・血だらけの暴力描写の中に、きわどいユーモアを感じさせる本作は、コメディ映画だったと思い知らされるのです。

個人的には全く萌える要素を感じていなかったマシュー・マコノヒーですが、熟女ならぬ「熟男」となって、いい具合(?)に腐ってきた感じが堪りません!醸し出される変態性と、シニカルな可笑しさから、しばらく目が離せなくなりそうです。


「マジック・マイク(原題)」
原題/Magic Mike
2012年/アメリカ
監督 : スティーブン・ソーダバーグ
出演 : チャニング・テイタム、マシュー・マコノヒー、アレックス・ペティファー、オリビア・マン、ライリー・キーオ、マット・ポーマー、ジョー・マンガニエロ、アダム・ロドリゲス、ケヴィン・ナッシュ、ガブリエル・イグレシアス

2013年8月3日より日本劇場公開


「ペーパーボーイ 真昼の引力」
原題/The Paperboy
2012年/アメリカ
監督 : リー・ダニエル
出演 : ニコール・キッドマン、ザック・エフロン、ジョン・キューザック、マシュー・マコノヒー、デヴィット・オイェロウォ、スコット・グレン、

2013年7月27日より日本劇場公開


「キラー・スナイパー」
原題/Killer Joe
2011年/アメリカ
監督 : ウィリアム・フリードキン
出演 : マシュー・マコノヒー、ジーナ・ガーション、ジュノ・テンプル、エミリー・ハーシュ、トーマス・ヘイデン・チャーチ

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マツコ・デラックスの”俗っぽさ”を露呈させた池上彰の”毒”・・・テレビタレントのコメント瞬間芸 VS. ジャーナリストの取材力と分析力~「池上 X マツコ ニュースな話」~

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先日(2013年4月4日/木曜日)ゴールデンタイムのテレビは、マツコ・デラックスにテレビジャックされていました。まず午後7時台からテレビ朝日で「池上 X マツコ のニュースな話」の3時間スペシャル、その番組終了後の午後10時台からはフジテレビで「アウト x デラックス」のレギュラー番組化を控えての1時間半スペシャル・・・午後7時から午後11時半の4時間半、マツコ・デラックスが出ずっ張りという事態になっていたのです。どちらもコメンテーターではなくMC・・・特に「ニュースな話」は、池上彰とマツコ・デラックスが”ツーショット”で語り合うという構成だったので、なんとも濃厚なマツコ・デラックス尽くしの一夜となっていたのでした。(ボクは録画して週末に何度かに分けて視聴しました)

分かりやすいニュース解説で知られるジャーナリストの池上彰氏でありますが・・・テレビ東京の参議院選挙速報の生放送番組でも覗かせた”毒”のある鋭い追求をする「ブラック池上」のファンも結構多かったりします。逆に、世間的には歯に衣着せぬ辛口コメンテーターとして知られるマツコ・デラックスでありますが、超巨漢の女装というインパクトのある風貌のわりには、コメント内容は非常に常識的・・・特に、ここ1~2年はテレビタレントとしての立ち振る舞いを心得てしまったのか、自分に求められている「ご意見番」的役割をテレビ向けにこなしているようです。

番組制作側の意図としては、ニュースの本当の意味から「今の日本」を考えるということだったようで・・・池上氏がニュースの話題の背景や歴史を解説して、マツコに鋭く切り込ませるつもりであったのかもしれません。しかし、報道されてきたニュースの上っ面を覆すような池上氏の鋭い分析を前にして、マツコは視聴者視線の凡庸な相槌を打つしかなかったのでした。とは言っても、頭の回転は早いマツコですから、池上氏の意見に”瞬間芸のコメント力”で摺り合わせていくのはお上手・・・しかし、”おうむ返し”で同調するマツコを許すほど、池上氏は優しくありません。

池上氏は、アジェンダごとに冒頭でマツコに投げかけて、世間の期待を裏切らない鋭い意見を求めます。しかし、マツコから引き出せるのは常識的、かつ、表層的な意見ばかり・・・そんなマツコに対して「今日は随分と大人しいね?」と、何度も繰り返しダメ出しをする池上氏というのは、なかなか意地が悪い人であります。アジェンダとして取り上げているのは、政治的な背景を理解した上で倫理的な立場を明らかにすることを求められるような難しいものばかり・・・一般的なワイドショーではコメンテーターは、視聴者の反感を買わないような世論に添った意見を言うことで水を濁すような話題です。

学校のいじめ問題について「いじめられるって、想像したこともない」というマツコに「もしかしたら、自覚しないで”いじめる側”だったのでは?」と切り返す池上氏。「いじめ」はいつもの時代に起きていることだから、その状況から「逃げる」ことも選択ひとつだと池上氏はアドバイスします。それに対して、両親から野放しで育てられたおかげで自分で考える力を養ったというマツコは、いじめ問題には親の対応が大切と説くのですが・・・いじめに関しても「親は野放しで良い」というのがマツコの主張なのでしょうか?また、教師による体罰に関して「体罰になるか、ならないかは、やられた側がどう受け取ったか次第」というワイドショー的な薄っぺらい意見のマツコに・・・「体罰は愛情だったと感じられる信頼関係があるのであれば、そもそも手を上げる必要などなかったのでは?」と、池上氏は体罰をする教師側の根本的な「指導不足」を厳しく指摘します。

日本人の学力が下がってきたといわれますが・・・ゆとり教育を批判して塾の必要性を宣伝した学習塾や、PISA(国際的な学力テスト)の調査で日本の順位が下がったことだけを浅く扱う報道が煽っていることを池上氏が指摘すると、マツコは水を得た魚のように学習塾やマスコミ叩きを始めます。池上氏は、新しく参加した国は日本よりも学力が高いという結果だったけど、学習能力自体は昔(数十年前)よりも良くなっていることから、決して日本の教育レベルが低くないことを強調します。さらに日本人は英語がしゃべれないという問題については、いきなりマツコが「英語が話せることが、そんなに偉いの?」と発言・・・確かにグローバル化に反するラジカルな意見だけど、DQNな人たちにありがちの考え方であります。池上氏は、日本人が高等教育を母国語で受けられることが裏目に出て、逆に英語を学ぶ機会を失ってしまっていることを指摘します。

日本と中国の問題についても「政治家や外務省は、もっと頭を使った対応すべき」という漠然とした見解を述べるマツコに、池上氏は日本は中国をもっと研究すべきだと投げかけます。また、反日教育で不満を国外に向けさせる本来の意味というのは、民主的な選挙で選ばれていない共産党政府に政治的な正当性を持たせるためであると分析します。将来的に中国が民主化したとしたら反日教育や反日主義の必要性がなくなり、ひとりっ子政策で少子高齢化する中国は急激に労働人口が減少し経済発展が失速するのは確実・・・日本は中国抜きでもやっていける体勢をつくることで、交渉力を身につけて”したたか”に付き合うのが良いのではと、池上氏が締めくくります。

番組後半、自衛隊の国防軍化というアジェンダになると、マツコは視聴者的な立ち位置の聞き役に回っていました。池上氏は、自衛隊には交戦規定がないので偶発的に戦争に巻き込まれてしまう可能性があるのではと危惧されているので国防軍とすることで、より役割や対応を実体に近い形にしようとするのが今の自由民主党の考え方であると説明します。さらに日米安保については、その歴史を紐解いた後「やっぱりアメリカなしでは日本は生きていけないのね」という平凡なまとめ方しかできないマツコに、何気なくガッカリしたような池上氏・・・さらに、これからの世界での日本の立ち位置をどうするべきかという質問に、会社内でどの上司に付いていくかという社内抗争の”例”にして得意げに語るマツコに、池上氏は「打算的に動く国は信用されない」「民主主義という理念を大切にして日本の立ち位置を考えることが大事」と嗜めます。それでも「民主主義って、経済ほど魅力ないわ〜」というマツコこそ、池上氏が危惧しているであろう日本人の考え方のかもしれません。

番組の最後に収録を振り返り池上氏は、マツコ・デラックスをゴールデンタイムのニュース番組起用するというリスクをテレビ局は背負ったのに・・・と、マツコの日和っぷりに苦言します。マツコからは、マイノリティ(同性愛者、女装)という立場から、斬新な意見を期待していたのかもしれませんし、自分とは違う視点の考え方をぶつけてくることで「池上氏の分析」=「番組の結論」としない意図もあったのかもしれません。いずれにしても、池上氏(番組制作側)の期待にマツコ・デラックスは応えていなかったことは明らかで・・・それには本人も気付いている様子ではありました。

芸能の話題だけでなく社会/政治から道徳的なことまでを語る「ご意見番」として、もはや”文化人”レベルに扱われているようなマツコに対して「ブラック池上」が”身の丈”を知らしめるような”冷や水”を浴びせる番組になってしまったわけですが・・・逆に第2弾、第3弾と「特番」として続くのであれば、マツコ・デラックスの面の皮の厚さも”なかなか”なものだと言えるかもしれません。

その後、午後10時からのフジテレビの「アウト x デラックス」では、”OUT”な芸能人や素人を相手にノビノビとイジりまくっていたマツコ・デラックス・・・ある種の安定感を感じずにはいられませんでした。やはり、マツコ・デラックスの主戦場は、トコトン”俗っぽい”バラエティ番組であることを再確認した次第であります。

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日本への怨み節が止らない「メイロマ劇場」・・・”動物化”した信者たちは「dis」る”キャリアポルノ”に救われているの?~谷本真由美(@May_Roma)著「ノマドと社畜~ポスト3・11の働き方を真剣に考える」「日本が世界一『貧しい』国である件について」~

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勝間和代氏の本をわざわざ購入しては、ネガティブな意見をブログにアップしていたボクに対して・・・「嫌いな人のこと、よく書けますねぇ~」と厭味を言われたことがあります。「嫌い」=「無関心」ということもあるけれど、期待を裏切らない「嫌さ加減」から、逆に目を離せなくなるようなこともあるのです。中身を読まずして内容を批判するというのはアンフェアでありますから、著書は購入して読んで批判というのがボクのモットー。しかし最近、勝間氏はすっかり影が薄くなくなってしまい・・・以前ほどの勢いはありません。アンチ”ファン”としては、残念な限りです。

そんな時・・・新たな獲物を物色していた(?)ボクの目にとまったのが、メイロマ(@May_Roma)こと”谷本真由美”というロンドン在住で女性であります。現地時間の早朝から夜中まで(睡眠時間を除く全時間帯)ツイッターに張りついて、毎日数百以上のツイート&リツリートを”日本語”で日本人相手にしている重度の「ネット依存症」という”痛い”人ではあるのですが・・・熱狂的な支持者=信者も存在する「カリスマツイッター職人」でもあるのです。失笑を誘う彼女のツイートに、ボクはすっかり”アンチ”ファンとなってしまったのでした。

メイロマと信者たちによって日々繰り広げられている”やりとり”を、ボクは勝手に「メイロマ劇場」と命名して傍観しているのですが・・・カツマー信者の「身の程知らずの上昇志向」や「自己評価だけは高い」”キャリア系”(?)の人というイメージとは対照的に、メイロマ信者は、精神構造が”負け組”な人や、中途半端な海外経験によって”日本人コンプレックス”を拗らせてしまった人など、どこかしら「Lower Class(下層階級)臭」がプンプンします。日本を「dis」るツイートに「禿同!」することによって、自分は他のバカな日本人とは違って”海外目線”で日本がダメなことを分かってるいる・・・という底上げされた”選民意識”を死守しようとしているのかのようです。

思いの外、谷本氏の職歴(Yatedo参照)の多くは日本(日系)企業・・・ネットを通じて知り合ったイギリス人の男性と結婚してロンドンに移住後、2010年以降は日系銀行に勤めている(すでに退職したという噂も)らしいのですが、現地採用で日系企業というのは、ある意味、日本国内にある日本の企業で働くよりも「日本」や「日本人」を意識させられる環境と言えるかもしれません。嫌いな日本から離れるために海外留学や海外就職を繰り返してきて、やっとイギリス人男性と結婚してロンドンに移住したのに、日本企業で働いている(でしか働けない?)というのは、悲しい”皮肉”と言えるでしょう。


そんな”日本人限定の自称国際人”の谷本氏は、今年に入ってから日本での出版予定が続々・・・その1冊目が「ノドマと社畜~ポスト3・11の働き方を真剣に考える」であります。この本は「電子書籍」として2013年1月に発売され、その2ヶ月後の3月に「紙の本」が出版されたのですが・・・「紙の本」になる際に「電子書籍」ではタイトルにありながら殆ど触れられていなかった「社畜」について”大幅”に書き加えています。単行本から文庫本になる時(単行本の発売から年月を経ている)ならば分かりますが・・・「電子書籍」発売の2ヶ月後に完全版(?)の「紙の本」出版というのは「電子書籍」の購買者を欺むいているとしか思えません。しかし「電子書籍」を購入した信者は喜んで「紙の本」も購入して、すぐさまツイッターで谷本氏にご報告。「お礼なう」のリツリートをしてもらうことに歓びを感じているようなのだから・・・トホホです。

サブタイトルに「ポスト3・11の働き方を真剣に考える」とあるものの・・・”はじめに”で「ノマド」ブームは『東日本大震災の後に生活や人生の価値観が激変してしまった若い人たちの間で顕著な気がします』という谷本氏の個人的見解で触れているだけ。「ノマド」「社畜」「ポスト3・11」という目を引くキーワードを並べただけで、中身は薄いという印象です。本書に書かれている「ノマド」の実体というのは、取材しているケーススタディが少な過ぎる上に偏り過ぎ・・・イギリスの「ノマド」の実例として「ニッチな専門職」を取り上げる一方で「アフェリエイト」「せどり」「下請け」という”副業”的な「ノマド」と比較するのは不釣り合い。自分の視点は「最高レベル」の実例として、読者の立場は「最低レベル」を持ち出すのは、ツイッターでもお馴染みの谷本氏の手法で・・・詐欺まがいの「ノマド」推しの商法と真逆のレトリックです。

「英語できないとダメ」「日本の仕組みが悪い」「専門職しか生き残れない」「ノドマ的社畜であれ」と・・・英語ができて、海外在住で、IT系の専門職(システム監査)で、日系企業に勤めながら英語添削塾や執筆活動している谷本氏自身の生き方を「自画自賛」するような結論の本書は・・・「私って凄いでしょ?」と自負しているノマド系の「自己啓発本」と変わりありません。谷本氏は、美味しそうに撮影された料理の写真を”フードポルノ”と呼ぶことに引っ掛けて「自己啓発本」を”キャリアポルノ”と呼んで「dis」っていますが・・・”ポルノ”として「自己啓発=勃起させる」直球の「自己啓発本」の方が(確かにゴミみたいな本ばかりだけど)まだ健全かもしれません。谷本氏の「dis」る”キャリアポルノ”は「英語できないとダメ」「日本のノマドはダメ」「社畜もダメ」のダメダメ尽くしの、やる気を削ぐような逆張り”ポルノ”で・・・読者を勃起不全にしようとしているかのようです。逆に・・・すでに勃起不全で社会の底辺に堕ちている信者たちは、谷本氏の日本「dis」という”お墨付き”によって辛うじて救われているのかもしれませんが。


谷本氏が結婚したイギリス人男性の言動は(彼女がツイッターで披露する限り)かなりの日本「dis」の人に見受けられます。彼女に影響されたのか、彼女と出会う前からそういう人なのかは分かりませんが、下層階級的なマインドの人ほど、人種差別によって”低俗なエゴ”を満足させるものだったりするもの・・・モノの見方が屈折している夫婦という印象は拭えません。「母国を恨み嫌う日本人妻」と「妻の母国を蔑むイギリス人夫」の、先入観と妄想を入り交じった”誇張”も加わって「メイロマ劇場」の日本への怨み節は止むことはなく・・・ますます暴走していくのであります。

谷本氏の2冊目は「日本が世界一『貧しい』国である件について」・・・一冊目よりも、さらに日本「dis」に満ちた内容となっています。些細なことでも日本「dis」に結びつけていく反面、イギリスについては”いい加減さ”も心の豊かさに解釈するという、お馴染みのメイロマ式の現実変換が行なわれているのは言うまでもありませんが・・・生活の質という観点から「日本が世界一貧しい」というのは、”本当に貧しい”国の人たちからしたら腹立たしいほど自虐的過ぎる見解でしょう。その上、彼女が訴える日本「dis」は、新鮮味のないステレオタイプばかりで、日本を捨てた(?)彼女自身の正当化の根拠を何とか見出そうとしているようにしか思えません。「日本が世界一『貧しい』国」というタイトルのインパクトだけ・・・内容の説得性には欠けています。

「紙の本」購入者には、谷本氏の生声ポッドキャスト(約23分)を聞くことができるという”おぞましい”(?)特典がついてくるのですが・・・恐る恐る聞いてみると「たぶんリアルでは嫌われるタイプだろうなぁ」という印象の声質と話し方。日本のバカベスト3(ベスト何だ?)として「ノマドバカ」「自己啓発バカ」「社畜バカ」を挙げているのだけど、メイロマ信者のことを言ってるかのようで笑えました。日本が”海外で”バカにされるようになったと肌身に感じるということは、ロンドン在住の彼女がどう周りの人々に扱われてきたかを反映しているわけでもあって・・・”日本人限定で自称国際人”気取りで勤務中にツイッターばかりしてたら「バカにされても当然」と思ってしまうわけであります。まるまる一冊、日本「dis」しておきながら、本書の最後の最後に「多様性を受け入れて自分とは異なる『他者』を尊敬し認めること」と本書を結んでしまう谷本氏に”ひとこと”言うとしたら・・・「おまえが言うんじゃないよ!」に尽きるのです。

去年9月頃、ボクのもうひとつのブログ「けいたいおかし」に「上から目線のツイートが痛々しい@May_Romaさん」という記事を書いたのですが・・・記事をアップしてから3ヶ月ほどしたある日、アクセスが急に増えて信者とおぼしき人たちからコメント欄へ書き込みがありました。エゴサーチを日課としている谷本氏本人が、このブログ記事についてのツイートを見つけたようなのです。そこで”あえて”記事へのリンクを貼ったまま「誹謗中傷が含まれているのでブログ運営会社に通報する」と、彼女はリツリートしていたのでした。4万人のフォロワーたちにブログ記事を晒すことで、信者たちにバッシングさせようという魂胆だったのかもしれません。

これまでもツイッター上で彼女と絡んだ人が、信者たちから理不尽なバッシングを受けるのは目にしてきました。しかし、数名の信者たちがボクを中傷するコメントを付け加えてリツリートはしたものの・・・彼女が望んでいたような「バッシングで大炎上」とはなりませんでした。谷本氏が(ツイッター、個人ブログ、Amazonレビューなどで)批判されると、谷本氏や信者は「嫉妬だ」「コンプレックスだ」「嫌がらせだ」と反撃するのですが、これこそ「嫉妬」や「コンプレックス」「嫌がらせ」という感情に囚われているから”こそ”の発想・・・嫉妬心やコンプレックスを原動力にしていることの証であり、人としての低俗さを露呈させています。

彼女がブログ運営会社(アメーバ)に通報したかどうかは分かりませんが・・・個人情報を掲載したり、脅迫しているわけではないのに、ブログ運営会社が一方的な要求で記事を削除するわけはありません。彼女のツイッター発言によると・・・『ツイッターは広告媒体として、彼女の旦那が講師らしい「英語ビジネス」へ誘導することや、「有料ウェブマガジン」を購読させることが目的らしく(略)』という文章がお気に召さなかったらしく(あの記事の中でソコ?)・・・「ツイッターは英語塾への勧誘」という解釈が「誹謗中傷」「名誉毀損」「営業妨害」だというのが彼女の言い分のようです。「英語塾は営利目的ではない」「家人の暇つぶしと人助けでやってる」と、彼女が必死(!)に反応したことで、「なんで英語塾の添削料金ってそんなに高額なの?」(英文履歴書添削3万円から/「英語虎の穴」お仕事の依頼参照)とか「英語塾からの収入の納税はどうなっているの?」という疑問も生みました。

谷本氏の日本「dis」が多少なりとも支持されたのは、民主党時代のデフレ経済による出口の見えない状況が長く続いていたということがあったかもしれません。しかし(すべての人が景気回復を実感しているわけではありませんが)「アベノクミス」によって世の中の雰囲気は、急激に変わりつつあります。不景気の時には「政治が悪い」「会社が悪い」「システムが悪い」と、自分のおかれている環境を「dis」ることで不満を晴らすところがありますが、景気が良くなっていく時には、その波に乗ることの方に人の興味は移っていくものです。もし、順調に日本経済が上向きになっていくならば、谷本氏のような偏った日本「dis」をする風潮は「時代遅れ」になっていくような気がします。

谷本氏の3冊目の出版も間近(2013年5月21日)で、そのタイトルは「日本に殺されずに幸せに生きる方法」・・・カルト宗教の勧誘文句(?)のような根拠のない危機感を煽っています。勃起不全の信者たちにとって、救い主=メイロマ神(?)によって授けられた”ノアの箱船”になるのでしょうか?「メイロマ」という踏み絵によって、狂信的な信者たちを寄り分けているようで・・・彼女の私怨である日本「dis」が、どこに向かっているのか分からなくなってきます。メイロマの”アンチ”ファンとしては「嫌いがい」のある””痛さ”を発揮し続けてくれることを願うばかり。さらに6月13日には「キャリアポルノは人生の無駄だ」というタイトルの4冊目となる新書を出版・・・”日本人限定の自称国際人”による上から目線の日本「dis」、同族嫌悪のような自己啓発本「dis」という、ツイッター上でお馴染みの”スタンスは変わりないようです。

仲正昌樹氏の「いまを生きるための思想キーワード」という本で、最近のネット住人の”動物化”について書かれているのですが・・・まるで「メイロマ劇場」で起こっている現象を言い表しているかのようなので、その文章を引用して終わります。

ブログやツイッターに一日中張りついて、同じようなパターンのイタイ発言を繰り返している人たちがいるが、彼らはごく少数の同じような嗜好の人たちから承認されれば、それで結構満足する。批判的なコメントはすぐ削除・ブロックするか、(承認/非承認機能を使って)「承認」しないことにする。そして、自分たちのスゴさを理解できない”俗人”たちを、(どの程度の実体があるかは分からない)”仲間”と一緒に軽蔑、罵倒し、溜飲を下げたつもりになる。小さな”仲間”サークルに属している人たちは、発言の中身や真偽にかかわらず、脊髄反射的・・・ネット上では、条件反射よりも更に原始的という意味合いで、「脊髄反射」という言い方をする・・・に、”味方”を賛美し、”敵”を攻撃する。そのせいで、”仲間”内で結束すればするほど、言葉による表現力、理解力、意思伝達力はどんどん低下していく。




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とことん”ドライ”で、とてつもなく”ブラック”なブリティッシュコメディの新・真骨頂・・・共感にも感動にも意味がないシュールさにハマってしまうの!~「Sightseers/サイトシアーズ〜殺人者のための英国観光ガイド〜」~

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何かを訴えようとする志の高い(?)映画だけでなく・・・スラップスティックコメディであっても、エログロのトラウマ映画でも、何らかの感動、または不快感を生み出して、どこかしら観客の心を動かすところがないと、観るに絶えない”つまらない映画”と評価を下されてしまいがちです。「この映画って何が言いたいの?」というのは、多くの場合、褒め言葉ではありません。

何だかよく分からないのに、何故か、何度でも見たくなってしまう・・・ボクの”お気に入り”の一作となったのが、殆ど予備知識もない状態で観た「Sightseers/サイトシアーズ(原題)=ツーリスト/観光客と同義語」。”あの”エドガー・ライト(「ショーン・オブ・ザ・デッド」「ホットファズ~俺たちスーパーポリスメン」「スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団」)がプロデューサーに名を連ね、クールなバイオレンス映画の「キル・リスト」を監督したベン・ウィートリーによる最新作のブリティッシュコメディ映画であります。

カップルがイギリスの田舎をキャンピングカーで旅をするというロードムービーなのですが・・・まず、主人公のカップルの二人がイケてなさ過ぎ。ティナ(アリス・ロウ)は、ビターな性格の母親と小さな町で暮らしをしている34歳の女・・・付き合い始めて3ヶ月になる恋人のクリス(スティーブ・オラム)は、ティナに「俺の世界を見せやりたい!」とか、「君はボクのミューズ!」とか、ほざいている”さえない中年男で自称(?)ライター。約1年ほど前に、唯一の友達として可愛がっていた愛犬を失った(ティナがソファに置きっぱなしにしていた編み物棒に誤って突き刺さって死んじゃった!)母親は、いまだに落ち込んでいるのですが・・・ティナは一週間の予定でヨークシャー地方へ、クリスの執筆の取材を兼ねた旅行に出かけようとしています。

奇妙な依存関係にある母と娘でありますから、勿論のこと母親はクリスを”信用出来ない男”だと毛嫌いしていて、旅行にも大反対・・・なんだかんだで、この旅行は二人にとっては”エッチやり放題”目的の旅行であることは、母親にもバレているようです。だからこそ、罵声を浴びせる(!)母親を振り切ってティナはクリスとキャンピングカーで旅立ってしまうわけですが・・・このタイトルシーンで流れるのが「Taited Love」(Marc Almond姐さんの”Soft Cell”バージョン!)というもの、この先の皮肉な展開を予感させているかもしれません。

最初に立ち寄った「トラム(路面電車)博物館」で、アイスクリームの包み紙を捨てる男の客に遭遇したクリスは、すぐさま注意するのですが、その男は注意を無視しただけでなく、中指を立てるサインまでしてきて、その後もゴミを施設内でまき散らします。彼の大好きなトラム博物館を汚すマナーの悪い奴なんて許せない・・・という苛立ちを抱えながら出発しようとしたところ、その男が偶然にもキャンピングカーの背後に。クリスはうっかりを装おって(?)その男をバック運転でひき殺してしまうのです。タイヤで踏みつぶされた男の顔や腕は、見事にグッチャリ・・・スプラッター映画に匹敵するほど悪趣味な描写でありながら、あっさりと見せてしまうセンスは、とことん”ドライ”であります。

パニックになるティナを慰めながらも、ニヤリと微笑むクリス・・・これは、故意だったのです。結局、警察では事故と処理されて、二人はあっさりと解放されるのですが・・・その後、トラックドライバーの休憩所近くに駐車して、覗き見されることも気にせずに激しくエッチに興じます。殺人によって、性的にも興奮しちゃうって・・・ヤバいです。これをきっかけに、ある種の”歯止め”が効かなくなった二人は、イギリスの美しい田舎を旅しながら、彼らたちに関わる人々を次々と殺害していくことになっていくのであります。最初の殺人は(ゴミを捨てたからといって殺していいという正当性はありませんが)非常識な相手ではありました・・・しかし、その後は自分勝手な理由で、次々と普通の人々を殺していくのです。

キャンピングカーで旅している夫婦の旦那を石で殴り殺した上に彼の飼っている犬(偶然にもティナが殺してしまった犬にそっくり!)と一眼レフカメラを奪い・・・遺跡で犬のウンチ処理をしなかったことを注意してきた男を撲殺しサンドイッチを盗み・・・田舎のパブでクリスにちょっかいを出してきた結婚間近の女を崖の上から突き飛ばし・・・車を止める時に路肩を走っていたランナーをひき殺し・・・キャンピング用の自転車を開発した旅行者を崖から突き落とし・・・と、スプラッター映画並みに死体がゴロゴロです。

しかし、ティナとクリスは、シリアルキラーのキチガイとして描かれるわけでもなく、ボニー&クライドのようなアンチヒーロー的な破天荒っぷりさもありません。妙にスピルチュアルになったり、エコ問題には敏感だったり・・・結局、人間は他者に対して、タカが外れてしまうと冷酷になってしまうものなのか・・・と、笑いは凍りつきそうになります。しかし、ロードムービーにありがちな登場人物の人間的な成長や、説教じみた教訓もなく、淡々と人を殺す以外は(!)ちょっとオフビートなセンスを持った変わり者のカップルとして描いているに過ぎないのです。

キャンピング用の自転車を一緒にビジネスにしようとクリスが仲良くなった男性(最後に殺される)にセクハラされたと訴えるティナ・・・それはクリスの気を引くための切ない乙女な嫉妬なのですが、その嘘の内容が”ウンコプレー”という意味のない下品っぷりにドン引きであります。「人の死」と「下品なジョーク」を横並びにしてしまう不謹慎さは、とてつもなく”ブラック”です。

ここからネタバレを含みます。


こんな二人が、呑気にティナの実家に帰宅して終わるわけはないだろう・・・と思っていたら、旅の最終地点となる古い橋まで来たところで、キャンピングカーをガソリンをかけて燃やしてしまいます。そう・・・旅の終わりというのは、二人にとっての死に場所だったのです。ティナとクリスは古い橋の上から飛び降り心中をするために、橋に登ります。結構、唐突な展開なのですが・・・さらに驚きの”どんでん返し”を迎えて、再び「Taited Love」(今度はオリジナルのGloria Jonesバージョン!)が流れて、いきなり映画は終わります。正直いって「この映画って何だったの?」という呆然とさせられてしまうエンディング・・・「これこそ男と女の違い!」という解釈もできるのかもしれませんが、登ってきた脚立がすっと外されたような感じなのです。

とっちらかしの伏線を見事につなげていくハリウッドのコメディ映画や、最後には涙ホロリとさせる邦画のコメディ映画とは違う本作の、共感にも感動にも意味のないシュールさは「ワハハハ」ではなく「ヒーヒーヒー」という”引きつり笑い”しかできないボクの笑いのツボにピッタリとハマったのであります。


「サイトシアーズ〜殺人者のための英国観光ガイド〜」
原題/Sightseers
2012年/イギリス
監督 : ベン・ウィートリー
出演 : アリス・ロウ、スティーブ・オラム、エイリーン・デイヴィス

2013年9月28日日本劇場公開

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母と息子の「贖罪」と「復讐」の物語でキム・ギドク監督、完全復活!・・・男のすべての「罪」は「母性」によって許されるの?~「嘆きのピエタ」~

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キム・ギドク監督の一連の作品は劇場公開時には見逃していたのだけど、数年前に「悪い男」を観て以来、すっかりボクはハマってしまいました。主要な登場人物が少なく、説明的な台詞も殆どなく、淡々と描かれるのは極限状況から仏教的な”悟り”へ導かれるような物語・・・中村うさぎが語る(めのおかし参照)絶望感と幸福感が共存している「地獄」の真ん中にある「天国」を、ボクは思い起こさせるのです。監督自身の山ごもり生活を追ったドキュメンタリー映画「アリラン」では「新作が撮れない!」という”ジレンマ”までをも表現してしまったキム・ギドク監督ですが・・・第69回ヴェネチア映画祭で(北野武監督の「アウトレイジビヨンド」やトーマス・アンドーソン監督の「ザ・マスター」と競って)金獅子賞受賞という韓国映画界初の快挙によって”復活”(?)を遂げたのが、本作「嘆きのピエタ」であります。

”ピエタ”とは、十字架から降ろされたイエス・キリストの遺体を抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画/彫刻などのこと・・・本作のポスターは、その中でも最も有名なミケランジェロの”サン・ピエトロのピエタ”を再現しています。ただ・・・このポスターのイメージは、映画の内容を表してはいるのですが・・・ある意味、誤解も生じさせてしているように思えるのです。何故なら、本作の息子と母親の物語は、イエス・キリストと聖母マリアの物語とは結びつきようもない「復讐劇」という韓国映画らしい展開していくのですから・・・。

ガント(イ・ジョンジン)は、親に捨てられ孤独に生きてきた借金の取り立て人・・・「金を借りておいて返さない方が人でなし」と、腕を工業機械に巻き込ませたり、廃墟から突き落とした上に蹴って脚の骨を折ったりして、負債者の身障者保険で取り立てるのです。自殺してしまった負債者の貧しい母親に金目のモノがないと分かると、飼っていたウサギまで奪うような非情な男であります。

ボク個人的には・・・このガント役は「悪い男」に主演していたチョ・ジェヒョンのような”硬派なやくざ”っぽいルックスの役者さんが演じていたら、もっと感情移入したのではないかと思うのですが、本作で起用されたのは、韓流スターっぽい優男系のイ・ジョンジン。逆に、優しそうな男が、実は冷酷という方が”怖い”ところもあるのですが・・・。

そんなガントの目の前に、彼の母親だと名乗る女・ミソン(チョ・ミンス)が唐突に現れます。彼の部屋に入り込んできて台所の洗い物を始めたり、彼の行く場所に現れて跪いて許しを乞うたり、生きているウナギに連絡先を括り付けて置いていったり・・・勿論、孤独なガントが、そう簡単に女の言い分を鵜呑みにするわけありません。

再び部屋を訪ねて来たミソンに、ガントはニワトリの内蔵をナイフの先に刺して「母親と言うなら、これを食え!」と迫ります。怯むこともなくミソンは、血だらけの生の内蔵をむさぼり食うのです。するとガントはミソンの股間に手を入れながら・・・「俺はここから出て来たのか?また戻ってやるよ!」と押し倒し、犯そうとするのです。悲痛に泣き叫ぶミソン・・・近親相姦という上にレイプとは気持ち悪すぎます。結局、レイプは未遂で終わるのですが・・・この時を機に、ガントはミソンを母親として受け入れていくことになります。

ガントの心の変化は、かなり強引です。翌日からは、ミソンが用意した朝食を嬉しそうに食べたり、帰宅前にはブティックでミソンのために服を買ったりするのですから・・・。また、腕を機械に巻き込ませて身障者保険で負債を支払わせるつもりでいたガントは、彼に子供がもうすぐ生まれることを知ると、突然優しさをみせます。腕を失う前にギターを最後に弾きたいという男に、ガントは「子供に聞かせてやれ」と請求書を置いていくのです。ただ、ガントが去るや否や、男は保険金欲しさに自ら腕を機械に巻き込むのですが・・・。

ガントは母親との関係を取り戻すかのように、濃密な関係を築いていきます。ガントの布団に手を入れて夢精を手伝うミンス・・・この親子の関係は、気色悪すぎです。また、ミンスは男物のセーターを編んでいるのですが・・・何故か、ガントのためにしては、サイズが小さいのです。すでに”母親”という存在なしでは生きられなくなってしまってガント・・・今まで非情な取り立てをされた負債者にとって、ミンスという母親の存在は、ガントへの”復讐”のための”弱み”でしかありません。足を折られた負債者は、ミンスを人質にしてガントにガソリンで焼身自殺をさせようとさせようとしたりします。その時はミンスの反撃で、その男を撃退できたものの・・・再び母親を失うことに耐えられないガントは、ミンスに携帯電話は必ず持っているように言いつけるのです。しかし、ある日ミンスは姿を消して、悲痛に助けを求める電話がガントにかかってきます。

ここまでは、金によって振り回される負債者たちの地獄のような”資本主義社会の恥部”や、子供を捨てた母の”贖罪”と子供の”母性を求める強さ”を描いているのでありますが・・・二転三転して真実が見えてくると、韓国映画らしい”復讐”へと物語は方向転換していくことになるのです。

ここから重要なネタバレを含みます。


ガントに助けを求める電話・・・実は、ミンスの一人芝居の狂言だったのです。何故なら、ミンスはガントの母親なんかではなく、ガントの取り立てを苦にして自殺した男の母親だったから。そう言えば・・・本作は、車椅子の男がチェーンに首を吊って自殺するシーンから本作は始まるのですが、その男がミンスの息子だったということだったのです。ガントにはサイズが小さいセーターも、この息子のために編んでいたものでした。”母性”に飢えているガントに近づき、自分を彼の母親と信じ込ませることで、ガントにも愛する家族を失わされることを身をもって知らしめてやろうという、命をかけたミンスの”復讐”だったのです。

ミンスが捕らえられているという廃墟(以前、ガントが男を突き落とした場所)へガントが行ってみると、ミンスは今にも誰かに突き落とされそう・・・地面にひれ伏してミンスだけは助けてくれと懇願するガントを上からみて満足そうなミンス。復讐を果たす時になって何故か、涙してしまうのは、誰の母親としての悲しみなのでしょうか?天国で待っている息子?それとも彼女の命乞いをするガント?

ガントの目の前で、ミンスは投身自殺をして息絶えます。以前から、ミンスが「私が死んだら埋めて欲しい」と言っていた松の木の下を掘り返すと・・・そこには、ミンスが編んでいたセーターを身につけた青年の死体。死体が着ていたセーターを身につけて、青年とミンスの死体と一緒に横たわるガント・・・ミンスが、本当は何者であったのかを、ガント理解したのかはハッキリとは描かれないのですが、この後のガントの行動は、何故か不思議な感動を生むのであります。

身障者保険を受け取らせた負債者のひとりの元をガントは訪ねます。ポン菓子を売ってやりくりしている彼の妻のトラックの下に潜り込み、ガントは自分のカラダと首をチェーンで結びつけます。まだ、夜の明けないうちに仕事にでかけるためにトラックで妻はでかけるのですが・・・薄暗い道路に赤い血のラインを残していくのです。ミンスに騙されていたと知っても、一度、母性を経験してしまったガントは、自分の取り立て人としての罪深さに、死による贖罪を選んだ・・・というのでしょうか?

キム・ギドクの作品は、男にとって都合のいい「女性蔑視」と批判されることもあるようですが、本作を含めて一連の作品に共通しているように感じるのは、女性の”母性”に対する、キム・ギドク監督の絶大な信頼感・・・どれほど過酷で極限の状態であっても、男のすべての”罪”は常に”母性”によって許されるということなのです。


「嘆きのピエタ」
原題/피에타
2012年/韓国
監督/脚本 : キム・ギドク
出演    ; イ・ジョンジン、チョ・ミンス

2013年6月15日より日本劇場公開

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不思議ちゃんアティーナ・レイチェル・トサンガリ(Athina Rachel Tsangari)監督とギリシャ映画界の”新しい波”の旗手ヨルゴス・ランシモス(Yorgos Lanthimos)監督の”ヘンテコリン”映画~「Attenberg/アッテンバーグ(原題)」「ALPS/アルプス(原題)」~

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ヘンテコリンな映画って、テイストが合えば「なんだか好き♡」であるし、合わなければ「なんじゃこりゃ???」と、好き嫌いが分かれてしまうものです。以前「めのおかしブログ」で取り上げたヨルゴス・ランシモス監督の「籠の中の乙女/Dogtoothは、奇妙であるが故に強く惹かれてしまうところがありました。その作品のプロデューサーのひとりだったアティーナ・レイチェル・トサンガリという女性が監督した作品が「アッテンバーグ/Attenberg」であります。まず「Attenberg」って何のことだろうって思ったら、動物ドキュメンタリー番組で知られるアッテンボロー博士の名前を主人公が”聞き間違えた”ということに由来しているということ・・・本作の不思議さはタイトルからもうかがえます。

主人公のマリーナ(アリアン・ラペド)は、人間的なコミュニケーションが苦手な23歳の女性・・・父親(ヴァンゲリス・モーリキス)と女友達のベラ(エヴァンジェリア・ランドウ)ぐらいとしか日常生活で他人との接触しかないようです。マリーナは、この二人とは動物のような動き(踊り?)をしてコミュニケーションを取っているようで、シーンとシーンの間に時々挿入されるのですが・・・この独特の奇妙な動きこそ、本作の見どころのようになっています。母親と父親は随分昔に別れて、マリーナは父親と二人で生活してきたようです。父親は最近までは建築関係の仕事をしていたらしいのですが、重い病気を煩い検査や入退院を繰り返しています。マリーナは車の送迎の仕事をしながら、父親の看病とアッテンボロー博士の動物ドキュメンタリーをテレビで観るという日々を過ごしているのです。

唯一の友人らしいベラは性体験が豊富ということで・・・男性経験のないマリーナに性的なレッスンをしています。本作のオープニングシーンは、ベラとマリーナのディープキスの練習をしているところで、いかにも”ヘンテコリン”映画であることを主張しているかのようです。ベラとのレッスンのおかげ(?)で、マリーナは自らのセクシャリティにも目覚めて、異性にも興味を持ち始めます。

仕事で町を訪れたエンジニアの男性(ヨルゴス・ランシモス)の送迎をきっかけに、マリーナはこの男性に好意を抱くようになるのですが・・・二人の肉体的な接触はギクシャクしていて、なんとも異様。それでも、何度目かには肉体的に結ばれる(挿入成功)となります。動物的な本能で処女がイニシアティブを取ってセックスをしようとすると、こういう感じになるのでしょうか?

ここから「アッテンバーグ」のエンディングを含むネタバレがあります


本作は、父親と一人娘の関係がテーマのようなのですが・・・結論というのは、ハッキリとは描かれていません。映画の中では、背景としても登場人物の4人以外の人間の姿というのが殆どなく、まるでこの世に存在するのは彼らだけのような錯覚に陥らされます。マリーナにとって、自分が関わっている人以外は、まるで最初から存在さえしていないとでもいうのでしょうか?また、舞台となるのは海に面したギリシャの小さな街なのですが・・・ギリシャっぽい白い建物はあるものの、いかにもギリシャだというような日差しも青い空も出てきません。工業地域の殺伐とした風景ばかりなのです。

限られた人間関係しかないマリーナにとって、父親の死というのは非常に大きな出来事ではあるはずなのですが・・・日に日に衰えをみせる父親は、あっさりと亡くなってしまいます。(亡くなるシーンさえありません)ギリシャ正教では火葬が許されていないようなのですが・・・マリーナは父親が望んでいたように火葬して海に散骨して、本作は終わります。殺伐とした工場は、何も変わりません。

エンディングを迎えても、何を訴えようとしているのか、いまいち分からない映画です。でも、奇抜さだけを狙った”ヘンテコリン”キャラのようなマリーナが、徐々にリアルな存在としてシンパシーを感じるようになるという不思議な作品でありました。


「籠の中の乙女/Dogtooth」でギリシャ映画界の新しい波の旗手となったヨルゴス・ランシモス監督による新作「ALPS/アルプス(原題)」は、前作以上に奇妙な世界観を印象づける”ヘンテコリン”な映画であります。”ALPS”というのは・・・死後に亡くなった人を演じて遺族の悲しみを和らげるビジネスを行なっている謎の組織のこと。最近日本映画界で続々と制作されているような「亡くなった人との絆」を描いた”お涙頂戴”を売りにするような「感動作」を期待したら、呆然とさせられてしまうような作品です。といって・・・前作のような風刺的なコメディという趣でもありません。

「アルプス」のメンバーは、リーダー格の救命士で通称”モンテ・カルロ”(アイリス・サーヴテイルズ)、同じ病院に勤める看護師で通称”モンテ・ローザ”(アッゲリキ・パプーリァ「籠の中の乙女」)、そして若い新体操選手(アリアン・ラペド「アッテンバーグ」)と、中年の新体操コーチ(ジョニー・ヴェキリス)の4人であります。モンテ・カルロは、病院の控え室で自分のマグが誰に使われることに神経質になるような男なのですが、モンテ.ローザは「だったら私の使えば?」と優しく接しています。また、新体操選手はポップミュージックでパフォーマンスをしたいと訴えているのですが、中年コーチはまったく許可しようとせず・・・二人のあいだには確執があるようです。

ある夜、テニス選手として活躍していた若い娘が事故で瀕死の状態になって救急病棟に運ばれてきます。すかさずに両親と親しくなる看護師のモンテ・ローザ・・・彼女は娘が亡くなるタイミングを見計らって、遺族を「アルプス」のサービス(週数回、数時間、娘を両親の前で演じることで悲しみを和らげる)へ勧誘することが目的だったのです。亡くなった人を演じるにあたって、アルプスがこだわっているのは、故人の口癖や、生前によくいう言い回しを再現すること・・・一字一句間違えずに言うことを重要視しているようです。あるクライアントに言い間違いをしってしまった新体操選手は、謹慎させられたり、厳しいトレーニング(?)を強いられたりしているのですから。

しかし、この「アルプス」が”ヘンテコリン”なのは、台詞の正確さにはこだわりをみせているにも関わらず・・・その台詞は何も感情が入っていない棒読みだということです。ところが、遺族が、そんな”やっつけ仕事”っぷりに怒るというわけではなく、遺族たちも淡々と台詞を棒読みして淡々とこなすだけといった感じなのであります。その上、遺族の顔は画面のカメラフレームからはみ出ていたり、フォーカスがボケていたりと、鼻っから遺族たちの反応には興味もないような演出をされていて、なんとも”ヘンテコリン”なのです。

亡くなった恋人との口喧嘩と仲直りを再現させてから、オーラルセックスを要求してきたクライアントの男は・・・彼がオーラルセックスをしていた時に、彼女が言っていた「やめないで!天国みたいだわ~」という台詞を言わせようとします。彼女が「天国」を「楽園」と間違えると、すぐさま言い直させる様子は、悲しみを癒すというよりも、単に彼の好きなプレーをしているに過ぎないように見えてしまいます。また、中年体操コーチのクライアントの盲目の老女は、亡くなった夫の浮気現場の発見したシーンを再現させて、夫役のコーチと浮気相手役のモンテ・ローザを、何度となくひっぱ叩きます。不愉快な過去を再現することで、何らかの癒しの効果があるのでしょうか?

ここから「アルプス」のエンディングを含むネタバレがあります。


さて・・・テニス選手だった娘を体操服を着て演じるモンテ・ローザですが・・・年齢的にちょっと無理が合って、悪趣味なロリコンのコスプレにしか見えません。しかし、父親はソファで自分に抱きつかせたり、ボーイフレンドだった若者に会わせたりと、亡くなった娘が生きていた時以上に”娘”を要求してくるようになていきます。

実際の生活では、父と娘のふたり暮らしをしてきたモンテ・ローザなのですが・・・最近、父親が社交ダンスクラブでガールフレンドができたことがきっかけで、彼女自身のアイデンティティーが演じているテニス選手の娘へと移行してしまうのです。娘のボーイフレンドだった男の子を誘惑してセックスしてしまったりと、契約外での勝手な行動により、彼女は仕事から干されることになります。さらに、リーダーのモンテ・カルロからの制裁は、暴力だけでなく「アルプス」のメンバーからも外されるという過酷なものだったのです。

テニス選手の家庭には、新体操選手の若い女性が娘役として入り込んでいることを知ると・・・モンテ・ローザは、ますます自分を失っていきます。自分の父親を誘惑してみたり、父親のガールフレンドに暴行をしたり、挙げ句の果て、夜中に窓ガラスを壊してテニス選手の両親の家に侵入して、父親相手に繰り返し娘の台詞を言い続けるという奇行をするようになってしまうのです。しかし、ここでモンテ.ローザは本作から姿を消します。

新体操選手は希望通りポップミュージックをバックグラウンドにパフォーマンスを行なっています。「あなたは最高のコーチだわ!」と言って中年コーチに抱きついて・・・本作は終わります。新体操選手とコーチとの関係というのは、リアルの関係だったのでしょうか?何がリアルの人間関係で、何がフェイクの人間関係なのか・・・分からなくなってしまうような不可解なエンディングでした。

前作「籠の中の乙女」は、父親が管理する閉じた家の中で育てられた兄弟姉妹のお話。コミュニケーションに不可欠な言葉(固有名詞)の意味を、父親よって意図的に変えてしまうことは・・・子供たちの”思想”までをもコントロールするかのようでした。本作「ALPS/アルプス」では、遺族にとって故人に対する癒しを感じられるのは、関係性から生まれる”感情”ではなく・・・感情を生み出した”言葉/台詞”そのものであるかのようであります。

ヨルゴス・ランシモス監督は、あえて”ヘンテコリン”な家族を描くことによって・・・「言葉」と「人間関係」を問い続けているのかもしれません。


「アッテンバーグ(原題)」
原題/Attenberg
2010年/ギリシャ
監督・脚本:アティーナ・レイチェル・トサンガリ
出演   :アリアン・ラペド、ヨルゴス・ランシモス、ヴァンゲリス・モーリキス、エヴァンジェリア・ランドウ

日本未公開


「アルプス(原題)」
原題/ALPS
2011年/ギリシャ
監督 : ヨルゴス・ランシモス
出演 : アッゲリキ・パプーリァ、アリアン・ラペド、アイリス・サーヴテイルズ、ジョニー・ヴェキリス

日本未公開

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バズ・ラーマン監督流の盛りまくったアメリカンドリームの映像化と純愛ラブロマンスとしての「2013年版」・・・絶妙なアンサンブルキャストでアメリカンドリームの幻滅と階級格差を皮肉に描いた「1974年版」~「華麗なるギャツビー」~

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F・スコット・フィッツジェラルド著の「華麗なるギャツビー」は、出版された当時には高い評価を受けながらも、初版はそれほど売れなかったそうです、現在ではアメリカの高校生まら必ず読まさせられる必須読書であり、アメリカ文学の最高峰のひとつというのも過言ではありません。1922年を舞台にしたこの小説が発表されたのは1925年・・・その4年後には株価が急落して世界恐慌の引き金となります。まるで書かれていたことが現実になっていったのです。また、フィッツジェラルド自身の人生も下り坂・・・心臓マヒで44歳という若さで亡くなります。

「華麗なるギャツビー」の最初の映画化は出版された翌年の1926年、二度目の映画化は第二次世界大戦終了直後の1946年なのですが・・・どちらのフィルムも現在は紛失してしまって観ることはできないようです。どちらも日本で公開されたようで・・・邦題から、どういう映画だったのかを推測出来るような気がします。「或る男の一生」という邦題がつけられた1926年版は、まだ世界恐慌が起こる前・・・おそらく喪失感よりもギャツビーという人物の人生に焦点を合わせたような印象です。1946年版の邦題は「暗黒街の巨頭」・・・裏社会で巨万の富を築いた男の物語をフィルムノアール調とかで描いていたのでしょうか?

三度目の映画化は、ベトナム戦争終結直前の1974年版で、時勢を反映してアメリカンドリームの喪失感を際立たせた作品になっています。2000年には、アメリカのケーブルテレビ局「A&E」で制作されたバージョンは、上流階級のお嬢さま(ワスプ/WASP)であるべきデイジー役がミラ・ソルヴィノ(イタリア系)というとんでもないキャスティングで、ただ文芸作品を映像化しただけという印象の凡作でした。「ロミオ+ジュリエット」「ムーラン・リュージュ」のバズ・ラーマン監督が、ギャツビー役にレオナルド・ディカプリオで5度目の映画化が2013年版・・・オーストラリア時代のデビュー作「ダンシング・ヒーロー」から、過剰なまでの装飾的世界観だけでなく、感情的にも極端にドラマチィックな演出をする”らしさ”が発揮されています。時代考証なんて無視して、今までのどの「華麗なるギャツビー」よりも豪華絢爛な映像となっています。

現存しない1926年版と1946年版、そして殆ど語るに値しない2000年版はさておき・・・1974年版と2013年版の「華麗なるギャツビー」を比較をしてみようと思います。初めて1974年版を観たのは、リアルタイムの劇場公開ではなくて、おそらくテレビの洋画劇場で・・・その後、名画座のスクリーンでも観ているはずです。10代のボクは映画の描こうとしていた喪失感は、理解はできていませんでした。また、ロバート・レッドフォードが、ミア・ファローのような美人とは言えない女性にメロメロになってしまうことに、強い違和感を感じてしまったものです。しかし、自分自身が成長してから改めて1974年版を観てみると、絶妙なキャスティングと独特の演技アンサンブルによって、アメリカンドリームの喪失感や階級格差の皮肉さを、見事に描いていることを再発見したのであります。

1974年版も2013年版も、ギャツビーの”隣人”で、デイジーの”また従兄弟”で、トムの”学友”であるニックの視点から語られるのですが・・・何故か2013年版では、アルコール依存症のリハビリの中で、ギャツビーを回想するという原作にない設定になっています。おそらく、ニック自身の喪失感も強調したいという思いだったかもしれませんし、2013年版でニック役を演じるトビー・マグワイアの草食系っぽい弱いキャタクターには合っているのかもしれません。ただ、ニックは、証券会社に働いていて裕福ではありませんが、デイジーの”また従兄弟”であることから分かるように・・・彼自身も”上級階級”のメンバーのひとりでもあるのです。

英語のオリジナルタイトルの「The Great Gatsby」の「THE GREAT」には・・・「上流階級の女に恋をして、アメリカンドリームを叶えて金持ちになった男が、結局、その女に振り回された挙げ句に、罪を着せられて殺されてしまう」という”愚か”を皮肉くるニュアンスが含まれているのですが・・・そのような表現をする語り手のニックが、物語の結末にアルコール依存症や不眠症になるほどナイーブだとはボクは思いません。良くも悪くも、一歩離れたところから成り上がりの悲劇を傍観した・・・というのが、上流階級のあり方であるのです。1974年版でニック役を演じたサム・ウォーターストンは、トムやデイジーの人道的に自己中心的な生き方に憤りを感じる”誠実さ”はあるものの・・・所詮は、上流階級のことなかれ主義も同時に持ち合わせている、微妙なキャラクターを演じています。

主人公のギャツビーが、どうやって膨大な富を手にしたかは、ちょっとした謎なのですが・・・ユダヤ人の賭博師と組んで怪しい裏ビジネスをしていて、禁酒法の時代にヤミで酒を売ったり、ドラッグストアで麻薬を売ったりして儲けているらしいことは分かります。また、実際には貧しい中西部の出身であったことも、ニックはギャツビーの死後に知ることになるのです。2013年版では、ユダヤ人賭博師を謎のインド人風にして裏の顔の怪しさを際立たせていたり、彼の貧しかった子供時代や、どのようにして彼が上流階級のマナーを学んだかまでの経緯を映像で描いていきます。1974年版では、ギャツビーの裏の顔については噂として描く程度で、死後に現れるギャツビーの父親の台詞によって、ギャツビーの出生を察することができるぐらいです。ギャツビーが”成り上がり”であることを描いた2013年版よりも1974年版の方が、アメリカンドリームの体現者としての、輝かしいギャツビー像が映画を観終わった後にも印象づけられていると思うのです。

2013年版でギャツビーを演じるレオナルド・ディカプリオは、今のハリウッド映画男優の中で適役と言えるのかもしれません。しかし、ディカプリオらしい熱い演技力を発揮したことが、裏目に出てしまったような気がするのです。ディカプリオの感情を露にする「熱演」は、違和感を感じることがしばしばありました。デイジーとの久しぶりの再会で慌てる様子はコミカルだし、トムと喧嘩では機関車のように怒りまくります。ラブロマンスのヒーローとしては”素敵”なのかもしれませんが・・・ギャツビーがデイジーを追い求める姿はストーカー的でもあります。別れてからの新聞記事をスクラップしていたり、再びデイジーの気を引くために対岸に引っ越したり、毎週末パーティーを開いてデイジーがやってくるのを待ち構えていたり・・・感情的に演じるほどにデイジーへの思いの強さだけでなく執着さえも感じさせられます。過去に戻ってやり直せると信じて近づくというのは、まさにストーカーが陥る妄想的な願望そのもの・・・しかし、あの”ディカプリオ”が演じているからこそ、純愛ラブロマンスとして成立するのです。

1974年版でギャツビーを演じたロバート・レッドフォードは、当時、ブロンドの髪とブルーアイズのアメリカ人の理想とするルックスで、圧倒的な二枚目として君臨していました。しかし、演技力を評価される役者ではありませんでした。目や顔の表情に乏しく、役者としての個性や面白みには欠けている印象があります。ただ、真の二枚目には”個性”も”面白み”も不要で、完璧な二枚目であることだけで圧倒的な存在感であることを、レッドフォードは体現していたようなスターだったのです。ギャツビー役として表情の乏しさは、逆にプラスに働いていたように思います。表情の変化の少ないレッドフォードの演技(?)は、ギャツビーという人物像のミステリアスさを印象づけるだけでなく・・・デイジーへの思いも、淡々と純粋さを感じさせられるような気がするのです。

2013年版でデイジーを演じるキャリー・マリガンは、旬のハリウッド女優のひとり・・・可愛らしくてコケティッシュなルックスは非情に魅力的で、シカゴの社交界で将校達を虜にしたというのも説得力があるのですが、彼女の魅力は上流階級のお嬢さまではなく、素朴な田舎娘としてのような気がするのです。「金持ちの家の娘は貧しい男とは結婚はしないの」と平然と言ってのける”お嬢さま”には、かなりの無理を感じます。また、夫の浮気や精神的なハラスメントに苦しんでいるという同情を誘うような描き方をしているので、デイジーというキャラクターに必要不可欠な上流階級ならでは”ズルさ”も、表現してきれていないように思いました。

ミア.ファローのデイジー役というのは1974版の公開当時から賛否両論で、完全なミスキャストだという意見もあります。しかし、ボクはミア・ファローのエキセントリックなルックスと演技が、精神的に不安定、優柔不断で自己中心的なデイジーのキャラクターを見事に表現しているように思うのです。突然に泣き出したり、急に子供のようにはしゃいだり、ちょっとしたことでご機嫌が一変してしまうデイジーに、夫のトムもギャツビーも振り回されてしまうのは、彼女の言うことに従わないと脆く崩れてしまいそうだから・・・決して、わがまま放題の強さではありません。一見すると受け身でありながら、男たちを思い通りにコントロールする”悪女”なのです。

2013年版では原作通り・・・デイジーはギャツビーの死後、夫のトムと長旅に出掛けるところで映画本編から姿を消します。自分にとって都合が悪くなれば、さっさと夫の庇護の元で逃げてしまうのです。1974年版では、原作にもないデイジーの登場シーンが最後に追加されています。ギャツビーの死後しばらく経って、ニューヨークを離れようと決心したニックの前に、新しい屋敷を建築している期間はヨーロッパに長旅にでかけるデイジーとトムが、偶然現れるのです。自分の罪をかぶって殺されたギャツビーの葬式にも花ひとつも送らず、見知らぬフリをしてきたデイジーは、悪ぶれることもなく振る舞います。「新しい屋敷には一番最初に遊びに来てね」と、微かな良心の呵責とも受け取れるような”社交辞令”をニックに残すことにより、デイジーの強かをさらに際立たせて、映画は終わるのです。

2013年版も1974年版もギャツビーの”喪失感”は、ニックのナレーションで語られているのですが・・・2013年版の方が、原作からの引用も多く、若干説明過の印象です。また、ラブロマンスの要素に焦点を当てているために、ギャツビーとデイジー周辺以外のキャラクターの描写が、ステレオタイプに陥り気味でもあります。1974年版では、デイジーの夫トムの愛人であり、デイジーの運転していた車で轢き殺されてしまうマートルと、妻のマートル殺された恨みを晴らすべくギャツビーを射殺してしまう夫ジョージの物語も、アメリカンドリームに取り残された移民(カソリックなのでアイルランド系?)の物語として、しっかりと描かれています。


2013年版では、それほど強い個性を与えられていないマートルですが・・・1974年版では、カレン・ブラック演じるマートルの存在感が、登場シーンが少ないにも関わらず、場末感と狂気が際立っております。トムとの出会いを語るマートルの卑しい野心に溢れた恍惚感、トムに殴られて鼻血を出しながら呆然とする瞬間、そしてトムに合図を送るのにガラス窓を叩きすぎて手が血だらけになったことにようやく気付く時など・・・カレン・ブラックの「顔」と「表情」が目に焼き付いて忘れられません。2013年版ではマートルが車に轢かれて殺される様子を映像で見せますが、1974年版ではマートルが事故に遭う場面の映像はありません。しかしギャツビーの死後、ニックが店の前を通りかかると、すでにマートルの後釜であろう女性が店先ににいる・・・なんとも残酷なオチが用意されています。マートルも彼女なりに必死にアメリカンドリームを掴もうとしていたけれど・・・かつて彼女が「人生には限りがある」とつぶやいて涙したように、ギャツビーと同様、すでに、それは果たせぬ夢となっていたのです。

まだ世の中が”世界恐慌”を経験していなかった狂乱の時代に、フィッツジェラルドはやがて来る未来を予見するかのような「華麗なるギャツビー」を書いています。世界恐慌後も、何度も発展と衰退を繰り返しながら、所有することで富を増やしていく豊かな者と、労働で日々の糧を得るしかない貧しいる者という”格差社会”の基本的な構造は、100年近くたっても何も変わりません。金融というマネーゲームよって築かれる富は、まるで儚い夢のように一瞬にして虚構になりえるのです。ベトナム戦争終結末期に制作された1974年版は、アメリカンドリームの喪失感を際立たせた皮肉に満ちた一作になっていますが・・・豪華絢爛に盛りに盛ったアメリカンドリームを映像化している2013年版は、アメリカが再びバブル経済に向っていることを象徴しているような気がしてなりません。


「華麗なるギャツビー」
原題/The Great Gatsby
2013年/アメリカ
監督 : バズ・ラーマン
出演 : レオナルド・ディカプリオ、キャリー・マリガン、トビー・マグワイア、ジョエル・エドガートン、アイラ・フィッシャー、アデレイド・クレメンス、ジェイソン・クラーク

「華麗なるギャツビー」
原題/The Great Gatsby
1974年/アメリカ
監督 : ジャック・クレイトン
脚本 : フランシス・フォード・コッポラ
出演 : ロバート・レッドフォード、ミア・ファロー、サム・ウォーターストン、ブルース・ダーン、カレン・ブラック、ロイス・チャイルド、スコット・ウィルソン


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「めのおかしブログ」が5年目突入~!・・・”エゴサーチ”で見つける「批判的なコメント」「バッシングのつぶやき」「ネガティブな書き込み」を楽しむ”皮肉屋”なの!

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この「めのおかしブログ」は、本日(6月23日)で、開始からちょうど4年になりました。

ツイッターやフェイスブックなどのSNSもやっていいるのですが・・・リアルタイムの時間軸でフローするよりも、じっくりと書けるブログの方が、ボクには合っているような気がします。「けいたいおかし」「おかしのみみ」(現在休止中)というブログもやっていますが・・・メインとなるのは、やはり「めのおかしブログ」です。最近は、ますます記事が長文になってきているので更新頻度が激減していますが、それでもブログへのアクセス数が増えているのは、過去の記事をネット検索で訪問してくださる方がいるからのようで・・・月日が経っても、読んで頂くことに意味があるような内容を書き残したいと、気が引き締まります。

ボク自身、誰かのブログにコメントを書くことを殆どしないので、コメントを残すこと自体が、ハードルの高い行為のように思ってしまいます。これまで「めのおかし」「けいたいおかし」のコメント欄に書き込んでくれた方々には、この場を借りてお礼申し上げます。基本的に宣伝目的以外のコメントは基本的には公開させて頂いていますが・・・同じ意見で盛り上がるのも、議論を交わして炎上するのも、どちらにも十分な対応できないという理由で、コメントへの返信はしていません。

もともと、コメントの書き込みが多いブログではないのですが・・・たまに批判的なコメントを頂くことがあります。面識もない人のブログに、そういうコメントを残すというのは「よっぽど」なんだろうと推測します。どうやら(目的はまったく分かりませんが)ブログの書き手を不快にさせたいようなのですが・・・そういう方に限って”匿名”や”ハンドルネーム”の書き込みなので、ボクにとっては「野次」にしかならないので、批判的なコメントをわざわざ残すという”執念”との温度差というのを感じてしまいます。「稚拙な文章」「読みずらい」「長過ぎる」などという批判(?)は、すでにボクも自覚してることだし・・・「だったら、無理して読まないでね!」としか言いようがありません。

内容への批判が一番多かったのは、なんと言っても「けいたいおかし」の「上から目線のツイートが痛々しい@May_Romaさん」という2012年9月8日の記事でしょう。「めいろま信者」らしき方々から・・・めいろま擁護/めいろま批判への批判のコメントを頂きました。考え方の屈折ぶりから、カルト宗教にハマっていく時には、こうして”まともな感覚”というのが失われてしまうのだというのが、よく分かる実例であります。

「同族嫌悪」
同族嫌悪ですね。
このブログも常に上から目線で
文句タラタラで相当痛々しいですよ。
メイロマさんは自分の痛さをエンタメに
昇華してるけど、文句言いっぱなしの
ブログは情けないですね。
”S”さんより/2012年9月10日 

「無題」
わあすごいやっかみ。これ書いてる人ってきっと日本でも外国でも注目すらされないノーワンなんだね。自分に自信ないんだー
”まりあさんより/2013年3月5日 

「要は客観的な目線の俺カコイイでしょ、てこと?」
痛いことがウリで4万ものフォロワーを持ってる人なら単純に他の人達と一緒にその痛さを楽しめばいいのでは。
私も周りも海外の経験がありますが、その4段階を4年も5年もかけて経験する人なんて皆無です。
環境が大きく変わると、12ヶ月の間にそんな感情が芽生える事もあるかな、というくらいなもので、別に海外に限らず北海道から沖縄に引っ越しても、東京から大阪に引っ越しても同じ感情が芽生えるものです。
グローバルな視点を持っていることと、謙虚さや他者を批判するような性格であることは、全くの別問題です。特に直接自分の生活に利害が関わらないtwitterなら尚更。ジョブズやゲイツはグローバルな視点がないとでも?
結局の所気に入らない奴にフォロワーが多いことに嫉妬して、痛さに便乗して叩けば共感を得られるだろう、という安っぽさを感じます。
せっかく海外経験があって彼女の境遇がわかるのなら、もっと違う視点で深く洞察してみては。
”さら。”さんより/2013年4月4日

この記事の場合、ブログ内のコメント欄に留まらず、ツイッターにも広がっていきました。めいろま”本人が記事のリンクを貼ってツイッターで拡散したことによって、賛否どちらもコメントを付けてRTをされたようです。ボクの考えを支持して頂くことは嬉しいのですが、振り返って読んで面白いのは・・・批判的なコメントやつぶやきです。ボクの日常で、面と向かって否定されることって、そう頻繁にあるわけではありませんので、とっても新鮮に感じます。

批判と非難の違いを分かっていないことがよく分かる記事。
”Koki Hayashi”さんより/2012年11月8日

遊び心を知らんなぁ。おまけにこの文章の方がよっぽど上から目線だよ。
”やす”さんより/2012年11月8日

ネットで他人に対して「上から目線」どうこう言う人は、高い確立で関わるべきではないという法則を提唱。
”shu”さんより/201211月8日

「上から目線が痛々しい」という批判コメント自体が上から目線で矛盾している件
”おろろん”さんより/2013年3月5日

めいろまたんを「撃たれ弱い」とか言って長々とブログエントリーまで書いちゃう方がよっぽど痛々しいや。コンプレックスなんだろうね。
”大原ケイ” さんより/2013年3月5日

批判的なコメントだったり、バッシングのつぶやきというのは、厭味ということが殆どで・・・論理的に反論できているわけではありません。そもそも、ボクは何かを論争するつもりでブログを書いているわけではないので「賛成も反対も、ご勝手に」というスタンスしか持っていません。

ボクのような(それも何も影響力のない一般人でネット有名人でもない”雑魚”)見知らぬ他人の記事を見つけて、共感しないからといって、わざわざ批判的な書き込みをするのは、”ヒマ過ぎ”だからなのでしょうか?批判というカタチで”自己主張の便乗”してしまうのは、結局のところ・・・記事で感情を揺さぶられてしまった”証”でしかありません。

また「コンプレックス」や「嫉妬」を持ち出して批判する人って、その人自身が、そういう感情に囚われているからこそ・・・他者をみる基準に”色眼鏡”を通して見ているということです。

「はじめまして」
はじめまして。
ここで批判されているような裸のブログを
楽しんで見ている者です。
私は、リスクを背負いながら裸になる子たちは
エンターティナーだと思うし、一読者として
とてもサービスさせてもらってますよ。
なんだか、若さやブログへの嫉妬しか
感じられない批判の仕方に呆れてしまいました。
愚痴ばっかりのブログで説得力が無いし。
もうこのブログ見ませんが、どうしても
言いたくてコメントさせてもらいました。
”S”さんより/2012年4月16日

「けいたいおかし」の「ブログで脱ぐ人」という記事へのコメントです。人によって何がエンターテイメントであるかは様々でしょうが・・・そう感じられない人が存在することも理解する必要はあると思います。例えば、ボクの好きな映画を酷評する人がいても当然のことです。

前出のめいろま批判のコメント「同族嫌悪」の”S”さんの、改行のやり方、語尾の選択、文章のトーン、タイトルと書き始めの文章が同じなど似ているところがあるので、同一人物ではないかと思われます。なんだかんだで、結局、またブログ見たんですね。

ボクはアイロニーを好む嗜好があり、意図するニュアンスを感じ取ってもらうことは難しいことがあります。読み手が受け取るポイントというのは、結局のところ読み手次第・・・読み手が好きなように解釈するのは仕方ないことのようです。

いろいろな記事を読ませていただきました。 
「松木冬子」さんや「手芸女子」の記事で、本当に容姿が美しく生まれてこなければ女は価値のない害獣になることがよくわかりました。本当に容姿の悪い女(ブス)が嫌いなんですね(笑) 
視界に入るな消えろというのが直に伝わってきますv 
普通の男は「性格が良ければいい」「内面のほうが必要」なんてきれいごとを言いますが、生まれてきた時点で人生って決まります。きっとそういうことをはっきりと言えるおかしさんは美男子なんでしょうね!(^V^)
 私は生まれてきた時点で消えるべき美しくない女なのでこちらのブログを読んでますます自殺するべきなのだというのを再認識いたしました。何度死ねと言われて実際に試したのに本当にブスって害獣ですね!(笑)容姿を向上させようとしても笑われるだけ、ブスの努力は見苦しい!美人の努力は美しい!美人は何があっても守る!ブスは死ね!全部正しいことだと思います。
 いつも面白い記事をありがとうございます。長文で申し訳ありませんでした。
”じこ”さんより/2013年2月9日

ゲイにとって、自分の性的嗜好と無関係だからこそ、女性へのイメージは身勝手で、好き嫌いも無責任なんです。別に女性が「美人」だろうと「ブス」だろうと関係ありません・・・個人的には外見に関わらず内面的に崩壊している女性の方が、ネタとして面白くて、イジりがいがあると思っているだけです。

「性格が良ければいい」「内面のほうが必要」と言ってくれる”普通の男”が、この方の身近にいるみたいなのに・・・どうして「ブス」は「害獣」だと”ひがむ”必要があるのでしょうか?”普通の男”の「ブスに優しい言葉」に耳を傾けることもせずに、どこの馬の骨と分からないゲイブログのコメント欄に絡むという”無駄な労力”に、とりあえず感謝しておきます。

いろんなキーワードで”エゴサーチ”をしてみたら、ボクも「2ちゃんねる」デビューを果たしていることが分かりました!「痛いブログを晒せ」というスレッド(現在はPart2がある)で、『手芸女子は「ブス」というパンドラの箱・・・ほとんど実用性のない芸人本としてのニードルフェルト手芸教本~「男子がもらって困るブローチ集」光浦靖子著~』という記事への反応でした。

なんか色々見下すのに必死な人発見。おかしライターとかいうらしい。 
男でこのねちっこさはあまりに気持ち悪い。ネナベ? 
光浦のブローチがクオリティ高いと聞いて、まさかぁと思い 
冗談半分で検索したらキモイの出てきた。 
このブログの人は、色々なことを見下してチマチマブログ書くのが、 
自己満足の手段なんだろうな。 
金もあって、手芸に打ち込む光浦の方がよっぽど幸せそう。 
”匿名さんより/2012年9月13日

わざわざ「おかしライター」とまで名指しで、晒されているので「よっぽど・・・」なんでしょうねぇ。どうやら、自己満足の手段として「ねちっこく」「見下して」ブログを書いているということに”苛立ち”を感じているらしいんだけど・・・そもそも、ブログをするなんて自己満足だし、世の中に溢れている「自分好きの日記ブログ」なんかは、さらに自己満足以外の何物でもありません。逆に「他人(読者/ファン)のためにブログをやっていま~す」と考えながらブログやっている人の方が、厄介ではないでしょうか?共感できないからこそ「ねちっこく」「見下して」と感じるだけのことで、共感すれば「論理的に」「違う視点で」と感じるものです。この記事にこういう反応してしまったということは、”匿名”さんはきっと「お金がなくて」「何も打ち込むことがなく」「幸せを感じない」「光浦さんよりもブス」な方なんでしょうね・・・。

「エゴサーチ」をして、自分のブログに対するネガティブな書き込み、バッシングするつぶやき、批判的なコメントを読んで楽しむ・・・ボクはちょっと意地の悪い「皮肉屋」なのかもしれません。

5年目もよろしくお願いします。

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たまには母親と息子の”いいお話”も良いもんさっ・・・ジューイッシュ・マザー(ユダヤ系の母親)は罪悪感を煽って息子を自責の念に追い込むの!?~「人生はノー・リターン~僕とオカン、涙の3000マイル~/The Guilt Trip」~

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日本では毛嫌いされる”マザコン”・・・「旦那(または彼氏)が、マザコンで」というのは、人生相談の定番のお悩みであります。また、日本人の男性が自ら「マザコン」と、自慢げになることもありません。しかし、世界的にみると、日常的に母親と息子がベッタリの相思相愛の「マザコン」が当たり前のような国(スペインやイタリア)とかもあるわけで・・・日本の親子関係というのは、日本人が感じているほど濃密ではないのかもしれません。単純に「マザコン」で片付けられないのが、ジューイッシュ・マザー(ユダヤ系の母親)と息子の関係であります。

ジューイッシュ・マザーが・・・多くのアメリカ移民に於いて母親が家族の中心であるように、大きな存在であるのは当然のことです。息子を溺愛するという意味ではイタリア/スペイン系の方が凄まじいですが・・・ジューイッシュ・マザーの屈折した愛情表現と息子の服従っぷりは独特なものを感じさせます。まず、ジューイッシュ・マザーは必要以上に息子の罪悪感を煽り、重箱の隅を突つくような愚痴や厭味で息子を追い込んでいきます。それによって息子は自責の念にかられて、母親の”いいなり”にさせられてしまうのです。勿論、根底にはお互いの深い愛情があるのだとは思いますが・・・息子にとって母親のコントロールは、ストレス以外の何もでもないはずです。しかし、ユダヤ系の息子が母親の首を絞めたなんて事件を、聞いたことはありません。実際、ジューイッシュ・マザーと息子の関係は、恨むべきトラウマとしてよりも、アメリカのコメディの”鉄板”ネタのステレオタイプとして、アメリカ文化に浸透していると言えるかもしれません。息子視点で見ると”地獄”のような状況だからこそ・・・ジョークとして笑っちゃうしかないのでしょう。

「人生はノー・リターン~僕とオカン、涙の3000マイル~/The Guilt Trip」は、バーブラ・ストライサンド(16年ぶりの主演作!)とセス・ローゲンが、ユダヤ系の母親と息子を演じるコメディ映画であります。「人生はノー・リターン」という邦題は内容とも一致しませんし、説明過多な副題のセンスも疑ってしまいます。あえて「オカン」としているのは、ジューイッシュ・マザーを、ズバズバとモノを言う「大阪のオカン」と似たようなもんだと考えてのことなのでしょうか・・・?

バーブラ・ストライサンドは歌手としてだけでなく、シリアスな映画女優としても活躍していますが・・・”コメディ女優”としてのバーブラ・ストライサンドが一番好きなボクとしては、本作の日本公開を楽しみにしていました。しかし、アメリカ公開時の評判も決して高くなく、制作費を回収した程度で特にヒットもせず、その上、バーブラが第33回ゴールデンラズベリー賞で最低女優賞にノミネートされてしまったという悪評もあってか・・・結局、日本では劇場公開されずに、DVDスルーとなってしまいました。

なんと言っても、本作を観て驚かされるのは、バーブラ・ストライサンドの”見た目の若さ”に尽きます。御年71歳(撮影時は70歳!)とは、到底信じられません。彼女は相当のお金持ちだから、アンチエイジングやら美容整形の費用を、湯水のごとく使っていて当然なのですが・・・それでも、このレベルの若々しさは尋常ではありません。本作での役柄は50歳ぐらい(20歳で息子を出産)のはずなのですが、若作りし過ぎとか、不自然なフェイスリフトもなく・・・年齢設定に違和感はありません。息子役のセス・ローゲンは、実年齢31歳(撮影時は30歳?)で役柄の年齢と同じなのですが・・・小太り体型ということもあって実年齢よりは上に見えてしまうので、二人の年齢差を感じさせないところもあります。また、バーブラ・ストライサンドとセス・ローゲンが、リアルに親子に見える(二人とも生粋のユダヤ系だし!)だけなく、一緒に画面に映っているだけで”コメディ”として成り立てしまう二人のスクリーン・ケミストリーの良さが、本作の”キモ”です

アンディ(セス・ローゲン)は、エコロジーな洗浄剤を開発して営業に励む30歳のユダヤ系の一人息子・・・母親のジョイス(バーブラ・ストライサンド)は、朝から目覚ましの電話をかけまくるほど、息子に干渉する典型的なジューイッシュ・マザーです。東海岸から西海岸へ車でアメリカ横断しながら洗浄剤を営業する旅に出掛ける前に、ニュージャージーに暮らす母親を訪ねるのですが・・・そこで、母親のジョイスが父親と結婚する前に、恋に落ちたボーイフレンドの話を聞かされます。アンディの父親となった男性がジョイスにプロポーズをして、そのボーイフレンドとは別れることになったのですが・・・ジョイスは、ボーイフレンドを忘れられずに、息子にボーイフレンドと同じ名前のアンディとしたというのです。母の告白に呆然とする息子のアンディでしたが・・・インターネットで母親のボーイフレンドを検索してみると、現在、独身でサンフランシスコで広告会社の社長をしていることが判明します。そこで、アンディは母親をアメリカ横断の営業の旅に誘って、最終目的地のサンフランシスコで、昔のボーイフレンドと再会させようと企てるのです。

ユダヤ系の息子にとって、8日間も母親と車で旅をするというのは、まさに”地獄”・・・原題の「The Guilt Trip」は、”罪悪感で自責の念にかられる”というような意味で、大陸横断の旅(Trip)と引っ掛けているようです。二人の旅は、よくあるジューイッシュ・マザーと息子のコメディで・・・正直、それほど新鮮さはないのですが、バーブラ・ストライサンドとセス・ローゲンの相性の良さと、ステレオタイプのコメディだからこその安定感のあるギャグと相まって、安心して観られるのです。ただ、営業のプレゼンテーションをしながら大陸横断って「いつの時代の話?」とツッコミたくなりますが(おそらく1970年代ごろまでは有効な営業手段だったかもしれませんが)・・・脚本と演出のテンポがサクサクしていて、95分という比較的に短い上映時間は、あっという間に過ぎてしまうという印象でした。

ここからネタバレを含みます。


サンフランシスコに到着して、昔のボーイフレンドの自宅を訪ねてみると・・・現れたのは本人ではなく、彼の息子のアンディ。アメリカでは父親と息子の名前が同じということもあるので、起こりえる事態ではあります。母親のボーイフレンドだった父親のアンディは、5年前に亡くなっており・・・なんとも切ないオチであります。しかし、さすがハリウッド映画・・・切ないだけでは終わらせません。最後に、ちょっとした”サプライズ”が用意されていて・・・小さな感動を生むのであります。

エンディングでは帰路につくため飛行場で別れる母親と息子・・・「ボーイフレンドよりも、亡くなった夫よりも、あなたという息子が生まれて会えたことが一番嬉しい」という母親の言葉は、ジューイッシュ・マザーだけでなく、どの民族の母親でも感じることなのかもしれません。別れるやいなや、携帯電話を手にする母親を見て、思わず自分の携帯電話を手にする息子・・・しかし、母親が電話をかけたのは、旅の途中で出会った男性でした。母親は、息子との8日間の旅を終えて、ちょっとだけ”子離れ”したということなのかもしれません。普段はドロドロした愛憎の母子関係を描いたようなトラウマ映画が大好物のボクではありますが・・・たまには、こういう”いいお話”も良いもんだったりします。


「人生はノー・リターン~僕とオカン、涙の3000マイル~」
原題/The Guilt Trip
2012年/アメリカ
監督 : アン・フレッチャー
脚本 : ダン・フォーゲルマン
出演 : バーブラ・ストライサンド、セス・ローゲン


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自分の”まん中部分”をモチーフにする”女子”アート活動家・・・ナルシシズムと自虐性のギミックに惹かれるの!~ろくでなし子著「デコまん/アソコ整形漫画家が奇妙なアートを作った理由」~

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近頃ツイッターのタイムラインで、頻繁にリツリートされていたので知った「ろくでなし子」さん・・・「デコまん」という自分の体の”まん中”部分をモチーフにしたアート活動をしている若い女性であります。「日本性器のアート協会」のメンバーということですが、会員は彼女と男性器のオブジェを作成する「増田ぴろよ」という”女子”アート活動家の二名でありますから、内輪的な”お仲間”という感じです。

「デコまん」というのは、印象剤によって女性器の”型”をとり、石膏で固めたものに色を塗り、既成のパーツをデコレーションした「ジオラまん」など立体コラージュのオブジェ(?)のこと・・・女性器の”型”押しされた樹脂を多数ぶら下げた「シャンデビラ」など、一見すると「まぁ、キレイ!」と思ってしまう作品もあります。手作業の”型どり”のために手のひらサイズが限界だったり、印象剤のシリコンが劣化しやすくて大量生産には向いていないらしいのですが・・・女性器の布団(柄?)、車(ボンネット上部)、船(屋根の上部)、ドア(ドア板の表面?)などもっともっと大きな作品を作りたいそうです。

「キャンプファイア」というクラウド・ファンディングのサイトで、彼女の”ある”プロジェクト”への支援資金を募っています。すでに支援金の総額は60万円を越えていて、プロジェクトの現実化は確定(目標額51万4800円)となっています。彼女の”プロジェクトというのは、世界初の夢のマンボート(カヤック)にて海を渡るというもの。マンボート(カヤック)というのは・・・3Dスキャナーで取った彼女の女性器の正確なデータから削り出したスチロール材を、カヤック本体に上部にはめこんだボートなのです。これに何の意味があるのか?・・・ということはさておき、デジタルデータという特性を生かして、正確な女性器の”型”の拡大縮小が自由に行なえることにより、実現できる企画ということなのであります!

彼女は「ま○こ」をもっとポップにカジュアルに日常に溶け込ましたいと「ジオラまん」だけでなく、リモコンで走るまん中、まん中の照明器具、まん中のアクセサリー、iPhoneカバーまん中などの制作にも励んでいるとのこと・・・さらに、自分も「デコまん」を作りたいという女性のために「デコまんワークショップ」を開催したり「デコまんキット」も販売されているそうです。ろくでなし子さん曰く、日本では長らく”まん中”はタブーとされてきたので、『「ま○こ」に市民権を!』ということのようであります。おじさんは「”まん中”のことを口にするな!」「”まん中”を見せるな!」と怒るのに、実はおじさんは「”まん中”を見たがる」というのは・・・「法律の建前」と「個人の本音」を指摘して、AVの宣伝コピーのように皮肉たっぷりです。

女性器をモチーフとしたアート作品というのは「ろくでなし子」さんが”パイオニア”というわけではありません。最も有名なのは、1920年代から活躍したアメリカのアーティストのジョージア・オキーフによる花シリーズでしょうか・・・?キャンバスいっぱいに描かれた極端な花のクロースアップは、あきらかに女性器を想像させます。また、1970年代に活躍したジュディ・シカゴによる「ザ・ディナー・パーティー/The Dinner Party」は、皿の上にディフォルメされた女性器のような立体的なリリーフを施しています。女性器をモチーフとしたアート作品というのは、単に”女性美”を讃えるだけでなく、政治的なメッセージを含んでいることが殆どで、”フェミニスト・アート”の中でも過激な表現方法と捉えられることが多い気がします。「ろくでなし子」さんのアプローチは、面白かったら何でもありのカジュアルさ・・・フェミニストの政治的なメッセージというのは感じられません。



人体からの”型どり”という手法というのも、アートの世界ではポピュラーなものです。性器を模した造形アートというのも、たくさんありますが・・・最近、話題になったのは、イギリスの”男性”アーティストのジェイミー・マッカートニー(Jamie McCartney)が2012年に発表した「The Great Wall of Vagina」ではないでしょうか?20ヶ国、18歳以上の女性、400人から協力を得て、5年の歳月をかけて作成された作品で、母と娘、一卵性双子、性転換した男性/女性などの女性器を”型どり”した非常にリアルな石膏40人分を、ひとつのパネルに張り合わせています。400人分の10パネルで全長9メートルにもなり、圧倒的なインパクトがあります。アーティストによると、女性器は十人十色で「普通」なんてものはなく、ありのままで美しいことを訴えたかったということらしいです。規則的に並べられた”だけ”なので、いたずらに性的な興奮を煽るわけでもなく・・・といって、政治的なメッセージを感じさせないところが、ヒジョーに興味深い作品です。


しかし、この女性器の”型どり”という手法も一歩間違えば、日本では”犯罪”になってしまいます。出会い系サイトなどで出会った女性の性器模型をオークションで販売していた日本人男性が、先月(2013年6月)”わいせつ物頒布”の容疑で書類送検されたそうです。彼は「女性器の型どりを自分よりも上手に取れる人はいない」と自負していたそうで・・・確かに「外性器模型工房」というサイトで見る限り、その模型は見事な完成度です。型どりをするためには女性の協力は不可欠だし、販売の許可も得ていたそうで、売り上げも女性に支払っていたという話もあります。型どりをしたモデルのプロフィール(出身地、職業、年齢、身長/体重、画像)を記載したり、シリコン製の模型もあったということなので・・・模型の購入者の目的というのは、どう考えても「エロ」です。また、協力者の女性にとっても、ネット上に自分のアソコの模型画像がアップされて販売されているという事実が、ある種エロティックな経験になりえるのかもしれません。

「ろくでなし子」さんの「デコまん」は、フェミニストの政治的メッセージでもなく、セックスを想像させるエロい模型でもありません・・・とは言っても、クラフト的な制作方法、さまざまな商品の販売ビジネス、アート活動関連のイベント開催などは、純粋な芸術作品と捉えるには、商業的なアプローチが目立ちます。メディアの取り上げ方も、自分の性器をモチーフにしている”女子”という週刊誌的な興味本位のものが、殆どだったりするのです。まぁ・・・男性が同じように”アート活動家”を名乗って、自分のペニスの型どりした「ち○こ」に、デコレーションを施した「デコちん」を制作したとしたら、日本では”わいせつ物頒布”の容疑をかけられるでしょう・・・例え「デコちん」がファンシーでキュートであっても!性器の”型どり”は「女子」であることが「ミソ」であり・・・「女子」マーケティングの「ギミック」からは逃れられることはできません。

人体からの”型どり”という手法ではなく、自らの手で素材を削って形状をリアルに再現するという「彫刻」的なアプローチもあるわけで・・・”型どり”や3Dスキャナーの”データ”に頼るのは、クラフト的な制作方法かもしれません。また、ジオラマに使用しているパーツも、既成のモノを使っているようなので・・・アート作品としての”オリジナル要素”というのは希薄であります。「ジオラまん」などのオブジェ作品にしても、照明器具やアクセサリーなどのデザイン商品にしても、見慣れた作風/デザインに「ま○こ」の型どりを取り込んだという印象は、正直拭えません。3Dスキャナーで外部のデータを取るならば・・・MRIで内部(膣)の形状までを正確にデータ化して、巨大な”何か”にチャレンジして欲しいなんて思ってしまいます。ただ、彼女にとって関心があるのは、あくまでも視覚的に外部から見える”外性器”の部分だけのような気がします。

一部の女性からは「キモ~」と否定的な反応をされてしまうこともあるらしいのですが・・・それは、ある種の「イタさ」を感じてさせてしまうからかもしれません。ボクも、最初にろくでなし子さんのプロジェクトをことを知った時に、女性問題にこだわる女性にありがちな「痛々しさ」を感じました。そして、彼女の自伝的な著書「でこまん/アソコ整形漫画家が奇妙なアートを作った理由」を一読して、ますます、その印象は強くなったのです。

ここからは著書「デコまん」のネタバレが含まれます。

次女として生まれた「ろくでなし子」さんは、2歳年上の器量の良いお姉さんと比較されて、自分は「ブサイク」だというアイデンティティーを持って、少女時代を成長したそうです。現在の彼女の画像を見るかぎり、そこまで「ブサイク」と思い込むほどではないと思いますが(といって、美人でもないかも)・・・コンプレックスというのは、個人の主観によって培われるので、実際にブサイクか、どうかは重要なことではありません。ただ、将来、整形手術をするために必死に節約をして貯金をしたというのですから、その思いは強いものではあったようです。

東京の大学に進学して、”オタク男子”ばかりのアニメ漫画研究同好会に入ったところ・・・(おそらく女子がいなかったこともあって?)一躍人気者となってしまいます。節約で身なりさえも気にしていないところが、中学生的な幼さとして捉えられて、ロリコン的な萌え要素に変換されたらしいのです。「ブサイク」を自分のアイデンティティーとしてきた女の子が、いきなり「かわいい。かわいい」と、もてはやされたのだから舞い上がってしまうのは、容易に想像できます。アイデンティティの上下の振り幅が大きすぎる人というのは、どうしても自己認識のバランスが”いびつ”になりがち・・・彼女も例にもれず、自意識過剰で新たなコンプレックスを培うことになるのです。

ブロッコリのように毛深い(!)股間と悩む彼女は、それでは「かわいくない!」と思って陰毛を剃ってしまうのですが、エッチの相手に「パイパンの変態趣味」と笑われてしまいます。それならばと陰毛をボウボウのままにしていたら、今度は別の相手の歯に陰毛が挟まって笑われてしまいます。そこで彼女は、エステで脱毛をしてもらうのですが・・・脱毛によって、より露になった自分の女性器をしげしげと観察してみて、小陰唇が肥大しているのではないかと思い始めるのです。女性同士で性器を見せ合うなんてことは、普通はあまりないわけで・・・彼女が「ま○この、基本形が分からない!」と嘆くのは理解できます。しかし「ビラビラが嫌!」と、切除手術をしまうというのは・・・コンプレックスの反動の決断力のような気がします。自分の美的センスを一致しないからという理由で、顔の整形手術をする女性と同じように、自己満足の世界であることは明らかで・・・根底には自分を受け入れられない「自虐性」を感じさせてしまうのです。

こうして、毛深いコンプレックスも小陰唇肥大コンプレックスも克服した彼女は、術後の「完璧なま○こ」を友人や友達に見せまくるようになるのですが、これも極端な行為であります。いつでも自分の”ま○こ”を愛でられると考えついたのが、そもそも「デコまん」を始めたきっかけだそうなのですが・・・まさに「私の世界」を表現するかのような立体コラージュで、自分自身のま○こをデコるというのは究極の「ナルシシズム」を感じさせます。

最近のウェブマガジン(messy)で、結婚していた事と、すでに離婚している事の告白をしていてましたが・・・元夫に「デコまん」のアート活動が受け入れてもらえなかたことが、離婚原因のひとつであるとも語っています。(離婚の理由はそれ以外にもあるようです)おそらく、自分の性器を型どりしてデコるという行為に、引いてしまう女性、または男性というのは、「ろくでなし子」さんの「ナルシシズム」と「自虐性」が同居した”念”を無意識に感じてしまうからではないでしょうか?

本来であれば・・・『美人の姉と比べられて「ブサイク」というアイデンティティを持って少女時代を過ごした』『ブロッコリのように毛深くて、ビラビラの小陰唇肥大のま○こ』という”マイナス要素”は、『大学生になってアニメ漫画研究同好会に入ってロリコン要素でモテモテ』『エステの脱毛と整形手術で完璧なま○こを手に入れた』『素敵な男性と結婚できた』などの”プラス要素”で、プラマイ=ゼロとなるところなのですが、彼女の場合「プラス」も「マイナス」も過剰のまんま・・・いくら彼女がポップな感性で、自分の「ま○こ」を面白がっていても、その”念”というのは伝わってしまうのです。個々の作品ではなく、彼女の生き様そのものが、ある種の「アート」と言えるのかもしれません。

そんな”念”をさえも、一種の「ギミック」として面白がってしまうタチのボクは・・・やはり「ろくでなし子」さんに惹かれてしまうのです。



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過激なフェミニスト、カトリーヌ・ブレイヤ(Catherine Breillat)監督の”トラウマ”三昧・・・エッチに興味あり過ぎの”ロリータ”に萎えるの!~「ヴァージン・スピリト/36 Filette」「本当に若い娘/Une Vraie Jeune Fille」「処女/À ma sœur!」~

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ボクが、初めて観たカトリーヌ・ブレイヤ監督の作品は「ヴァージン・スピリト」でした。ニューヨークのリンカーンセンターの小さな映画館だったと記憶しています。すでに上映が始まってからかなり数ヶ月が経っていたのですが・・・『フレンチ版「ロリータ」』という宣伝により、外国語映画としては異例のロングヒットをしていました。特に予備知識もなく観たのですが・・・「処女喪失のどうでもいい話」という印象で、正直、期待外れだったという記憶があります。しかし、その後「処女」を観たときに「うん???このイヤ~な感じ・・・記憶があるぞ」と「ヴァージン・スピリト」のことを思い出したのです。これぞ、映画監督の作家性なのでしょう。カトリーヌ・ブレイヤ監督の作品は、ボクにとって本気でイヤ~なトラウマを呼び起こすのであります。

各作品のエンディングを含むネタバレあります。


「ヴァージン・スピリト」は、家族と避暑地で過ごしている処女喪失願望のある14歳の少女リリ(デルフィーヌ・ザントゥ)が、中年男モリース(エチエンヌ・シコ)と出会い、彼を追いかけ回すという話なのですが・・・「少女らしさとか」いうロリコンが喜ぶような作品ではなく、苦虫をかみつぶすようなイヤ~な作品なのです。「ロリータ」とは逆に少女が中年男を追いかけるわけですが、中年男が少女を子供扱いするのは当然と言えば当然のこと・・・これも、この年代の少女と女の狭間の思春期の”好奇心”と”不可解な行動”ということなのかもしれませんが、よりにもよって”感は否めません。さらに、リリを演じている女優さんが14歳のわりには(実際に役柄と同じ14歳だったらしい)妙にムチムチのおばさん体型で、ずっと仏頂面(まぁ、これは役柄なんだけど)で14歳らしい「可愛らしさ」とはほど遠い「不潔さ」を感じさせて・・・いろんな意味で、萎えさせられてしまうのです。

追い回されているうちに中年男もスケベ心を誘われて(?)少女と女友達の寝室で「ベットイン」となるのですが・・・実際に行為に及ぶと勃つべきモノが勃たちません。少女は必死に中年男のモノをフェラチオするのですが、結局モノは勃たないという、なんとも男にとって気まずい展開・・・「私のせいじゃないよね?」と懇願する少女から、中年男は逃げるように寝室を出てしまいます。残された少女はひとりで号泣してしまうのです。その上、中年男のエロい女友達からさえも罵倒されて、部屋を追い出されるという始末なのだから、少女にとっては悲痛な限りであります。しかし、こうなったのも自業自得としか言えない少女に対して、観る者の同情心さえ感じさせないドライな描き方に、カトリーヌ・ブレイヤ監督の突き抜けた信念を感じさせることも確かなのです。

中年男と処女喪失することができなかった少女は、以前から彼女に気のある近所のイケてない少年を誘って、あっさりと処女喪失を達成します。初めての男性になったと知った少年が「ボクを愛しているの?」と尋ねると、鼻で笑ってバカにする少女・・・ただ、処女を失ったことには満足なようで、少女の満面の笑みで映画は終わります。

どれほど、したたかに強がってみても、結局は自分の中での空回りという思春期の”惨め”極まりない状況を冷たく突き放すように映画いているだけでなく、中年男の性的不能、中年男の女友達のおばさんっぷり、奇しくも初体験の相手となる少女と同世代の少年の浅はかさ・・・描かれている登場人物の誰も良く描いていないという”悪意”に満ちた作品として・・・トラウマ的魅力に惹かれている自分がいたりします。


「ヴァージン・スピリト」を遡ること12年前の1976年(撮影は1975年?)・・・カトリーヌ・ブレイヤ監督のデビュー作「本当に若い娘」は製作されていたのですが、本国フランスでも初公開されたのは製作から23年後でありました。「本当に若い娘」の製作前後、美少女写真家で知られるデヴィット・ハミルトン監督の「ビリティス」の脚本に、カトリーヌ・ブレイヤ監督は関わっています。もしかすると、当時のプロデューサーは「ヴィリティス」のような世界観を期待していたのかもしれません。しかし本作の本質は「性器モロ出しのエグい表現」・・・それを受け入れられるようになるのに、23年という年月が必要だったと言えるのかもしれません。

「本当に若い娘」も、また処女喪失にまつわる話です。というか・・・本作だけでなく、「ヴィリティス」も「ヴァージン・スピリト」も「処女」も、すべて少女の処女喪失の物語(それも夏休みの避暑地や実家!)なのであります。同じテーマを同じような少女で描き続ける・・・これは、ある意味、主人公の少女たちは実は同じひとりの少女=カトリーヌ・ブレイヤ監督自身ではないかと思えてしまうほどです。

舞台となるのは1963年(これはカトリーヌ・ブレイヤ監督が、ちょうど14~5歳のとき!)・・・14歳の少女アリス(シャーロッテ・アレクサンドラ)は、夏休みなると寄宿学校からランド地方に暮らす両親の元に里帰りします。帰宅した夜には、何故かベットで寝ている時に嘔吐してしまったり(まるでエクソシストみたいに!)と、精神的には不安定のようなのですが・・・実は、このアリスは、とんでもない少女なのであります。食卓でわざとスプーンを落としたと思ったら、テーブルの下でスプーンを自分の性器に入れたリ出したりして遊び始めるのです!また、幼い頃と変わらずにアリスを可愛がる父親に寄り添いながら、父親のズボンからポロリと出たペニスを想像したりしています。とにかく、なんだかんだで自分の性器をいじくってばかりいる少女で、何故か下着を足首まで脱いで歩いてみたりと「本当に若い娘」というよりも「本当にバカな娘」としか思えません。

ランド地方は森林地帯で、父親は小さな製材会社を経営しているのですが、その製材工場でアリスはジム(ハイラム・ケラー)という青年に一目惚れするのです。しかし、まだ幼い過ぎるから(もちろん処女だから!)とか、付き合っている恋人がいるからなどの理由で、ジムに無視され続けてしまいます。そこで・・・アリスの「妄想」とも「現実」ともハッキリしない性的なイメージが交錯していきます。ノーパンで自転車のサドルで性器をこすって誘ってみたり、ジムの通る道の真ん中で下着を脱いで両足を広げて性器を晒してみたり、お尻にニワトリの羽を突っ込んでニワトリの真似をして誘惑してみたり・・・仕舞いには、真っ裸で有刺鉄線で大の字に縛られているアリスの性器に、ジムがミミズを入れて責めるという、トンチンカンな妄想まで描かれるのです。少女っぽい感受性でありながら、意識は女性的な生理と自身の肉体へ向かっている・・・カトリーヌ・ブレイヤ監督の作品に共通するナルシシズムを感じさせる独特の女性像です。

自分に振り向かなかったジムが、いざ体を求めてくると「ピルがないと妊娠する」と言い訳して、エッチを拒むアリス・・・妄想するほど彼の肉体を求めているにもかかわらず、実際に行動となると躊躇してしまうのは「まだまだ少女だから弱気」なのでしょうか?それとも「すでにセックスによって男をコントロールする術を知っている女」なのでしょうか?ただ、エッチを”おあずけ”状態にしておいて、ジムに自分の寝室に来るように誘ったことが仇なります。父親が畑に仕掛けていた罠のライフルによって、ジムはあっさりと命を落とすことになるのです。勿論、恋人がいながら、アリスの誘いにのってしまったジムに過失がないわけではありませんが・・・アリスがジムを破滅に導いたと言えるのかもしれません。ジムが死んだことを知ったアリスの睨めつけるような表情のクロースアップで映画は終わります。

「本当に若い娘」は、極端に過激な性描写であることは確かです。日本では完全無修正版を観ることができないので、本作のトラウマ的なエグさを伝えることは難しいのですが・・・少女の性器の生々しい過ぎる”ドアップ”は、エロティズム的な興味を削ぐような即物的な扱いになっています。自らを性的存在として陶酔しながらも、男性の性的興味を拒絶するような・・・ロリコンさえも萎えさせる”悪意”を感じさせます。デビュー作である本作は、その後のカトリーヌ・ブレイヤ監督のすべての作品を予感させる一作なのです。


カトリーヌ・ブレイヤ監督の処女喪失モノ(?)として「処女」は、集大成的な作品であるかもしれません。本作で描かれるのは、避暑地に家族と来ている15歳の美人の姉エレナ(ロキサーヌ・メスキダ)と、13歳の太っている妹アナスイ(アナイス・ルブー)という姉妹の処女喪失にまつわる話なのです。エレナは本当に愛し合う相手でなければエッチは最後まで(挿入)はできないという・・・ありがちな”男と女の幻想”を抱いている少女。しかし、妹のアナスイは、一般的な幻想には惑わされていません。処女を失う相手なんて誰でも良いと、なんともドライ・・・姉の行動を観察することで、男女についての洞察力だけが妙に研ぎすまされてしまっているのです。エレナが男に関心持たれることを何よりも優先するように、アナスイは食欲を満足させることを優先しているという似ても似つかない姉妹なのですが・・・これは、世の中のある女性の2つの代表的で対照的なパターンかもしれません。

カフェで声をかけてきたお金持ちのイタリア青年フェルナンド(リベロ・デ・リエンゾ)に即座に心を奪われてしまうエレナ・・・アナスイの存在を無視するかのように、姉妹でシェアする寝室に、フェルナンドを連れ込んだりします。ただ、ベットでいちゃいちゃしても、挿入までは許さないというのがエレナの信念・・・そんな処女信仰ほど無意味な価値観なのに。とにかく挿入までしたいフェルナンドは、あらゆる甘い言葉で誘い、結局、エレナのアヌスを犯すのです。そんな傷ついたエレナをしっかりとフォローするのですから、アナスイは結構姉思いではあるのです。もしかする・・・アナスイは「デブ」で「ブス」という殻をかぶって、食欲だけを満足させながら現実逃避しながら、姉を身代わりにして現実を体験をしているかのようにも思えてしまいます。しかし、アナスイもやっぱり”少女”・・・プールの手すりにキスしながら妄想をつぶいやく姿は、ドライで冷静だけでないところに、ホッとさせられました。

イタリア青年は、母親の高価な指輪をエレナに渡して、婚約の真似事をするのですが・・・勿論、あっさり彼の母親に指輪がなくなっていることがバレてしまいます。彼の母親がエレナの母親のところへ怒鳴り込み・・・二人の関係はあっさり解消されてしまうのです。もしかすると、エッチをやるだけやったフェルナンドにとって、体よくエレナと別れるために仕込んだのではないかとも思えてしまいます。しっかり姉を見張っていなかったからと平手打ちを母親から食らうのは、何故か何も悪くないアナスイの方・・・エレナとアナスイは母親の運転で急遽、避暑地を去ることになるのです。

大型トラックのあいだをぬうように、急いで運転する母親は、いつ事故を起こしても不思議ではありません。しかし、予想だにしなかった悲劇は、「もう運転するのは無理」という母親が停車した休憩所で起こります。いきなり暴漢に襲われて、あっさりと母親とエレナは殺されてしまいます。そして、暴漢はアナスイを車から引きずり出して、駐車場脇の木立で犯すのです。アナスイが望んでいたとおり(?)・・・通りすがりの男(それも母親と姉を殺したばかりの殺人者に!)に処女を奪われてしまうとは・・・。犯されながらも、ゆっくりと手を男の肩に手をまわすアナスイ・・・とんでもなく悲惨な現実をリアルに受け入れていく姿に、ボクは”健気さ”を感じてしまい感動さえ覚えたのです。

日本での公開時には、美人の姉を演じたロキサーヌ・メスキダが主人公のように宣伝されていたようですが(映画の宣伝ポスターも彼女がメイン)・・・英語タイトルに「Fat Girl」とあるように、本作の主人公は太った妹のアナイス・ルブーであります。事件の翌朝、救出されたアナスイは、警官たちに「私、犯されてなんかないわよ。信じないなら信じなくて良いけど・・・」と投げ台詞を放って、映画は終わります。状況からして、どの警官にも彼女が犯されたことは明らか・・・しかし、アナスイは自分が悲惨な行為を受けた”被害者”に成り下がることよりも、起こった現実を自分自身で受け入れることを選んでいるのです。

アナスイは、カトリーヌ・ブレイヤ監督の、最も近い分身であることは確かでしょう・・・「本当に若い娘」「ヴァージン・スピリト」で、繰り返し描かれてきた少女たちというのは、実は崇高な精神性をもった存在であったことを「処女」によって、ボクは改めて気付かされたのです。

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カトリーヌ・ブレイヤ監督(Catherine Breillat)の主なフィルモグラフィー


1976「本当に若い娘」(Une Vraie Jeune Fille
1979「NIght After Night」(Tapage nocturne
1988「ヴァージン・スピリト」(36 Fillette
1991「Dirty Like an Angel」(Sale comme un angel
1996「堕ちてゆく女」(Perfait amour!
1999「ロマンス X」(Romance X
2001「処女」(À ma sœur!
2001「Brief Crossing」(Brève traversée
2002「セックス・イズ・コメディ」(Sex Is Comedy
2004「Four NIghts ~4夜~」(Anatomie de l'enfer
2007「最後の愛人」(Une vieille maîtresse
2009「青髭」(Barbe bleue
2010「禁断メルヘン眠れる森の美女」(La belle endormie
2013「Abuse of Weakness」(Abus de taiblesse)

「ヴァージン・スピリト」
原題/36 Filette
1988年/フランス
監督・脚本 : カトリーヌ・ブレイヤ
出演    : デルフィーヌ・ザントゥ、エチエンヌ・シコ、ジャン=ピエール・レオ、オリビエ・パニエール
1989年日本劇場公開

「本当に若い娘」
原題/Une Vraie Jeune Fille
1976年/フランス
監督・脚本 : カトリーヌ・ブレイヤ
出演    : シャーロッテ・アレクサンドラ、ハイラム・ケラー、ブルーノ・バルプリタ、リタ・メイデン
2001年日本劇場公開

「処女」
原題/À ma sœur!
2001年/フランス
監督・脚本 : カトリーヌ・ブレイヤ
出演    : アナイス・ルブー、ロキサーヌ・メスキダ、リベロ・デ・リエンゾ、アルシネ・カーンジャン
2003年日本劇場公開



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ジョーン・クロフォードの過剰演技とウィリアム・キャッスルの悪趣味演出のコラボレーション・・・母と娘の確執がエグい”サイコ・ビッディ”(Psycho-biddy)の金字塔!?~「血だらけの惨劇/Strait-Jackest」~

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ジョーン・クロフォードという女優にボクが興味を持ったのは、1981年にアメリカで公開された「愛と憎しみの伝説/Mommie Dearest」というフェイ・ダナウェイがジョーン・クロフォードを演じた映画でした。養女によって暴露された継母の私生活は、彼女の50年近い女優としての栄光を打ち砕いてしまうほど致命的でありました。エイドリアンによる肩パッドの入った衣装と太い眉と真っ赤な口紅のメイクが印象的なハリウッドスター女優のひとりでだという程度の知識しかなかったボクのようなリアルタイムで彼女を知らないファンにとっては、ある種のカルト的なイメージを永遠に植えつけることとなったのです。

1962年に公開された「何がジェーンに起ったか?」の大ヒット以降、往年のベテラン女優が醜悪な老女役を演じる「サイコ・ビディ/Psycho-biddy」と呼ばれる一連のサイコホラー作品が作られるようになるのですが・・・「血だらけの惨劇」は、上映館の座席に電気ショックの装置を取り付けたり、ガイコツの人形を浮かばせたり、エンディングが怖くて観れなかったら入場料払い戻しなどなど、子供騙しのような”仕掛け”を売り物にしてヒット作を生んできたギミック映画の帝王と呼ばれていたウィリアム・キャッスル監督が、満を持してA級スターであるジョーン・クロフォードを主演に迎えて製作した意欲作であります。ジョーン・クロフォードは「何がジェーンに起ったか?」のロバート・アルドリッチ監督による「ふるえて眠れ」への出演をベティ・デイヴィスと共にオファーされていたそうなのですが「もうベティとの共演は懲り懲り」と断り・・・「不意打ち」の出演オファーも「もう閉じ込められる役はもうやりたくない」と蹴ったそうです。結局「ふるえて眠れ」と「不意打ち」のどちらも、ジョーン.クロフォードの代わりにオリヴィア・デ・ハヴィランドがキャスティングされました。

ジョーン・クロフォードが、これらの「サイコ・ビッディ」への出演オファーを蹴ってまで、この「血だらけの惨劇」の出演を決めた理由として・・・B級映画監督のウィリアム・キャッスルが、ジョーン・クロフォードを「スター女優」として特別待遇してまで出演を懇願したということがあるのかもしれません。彼女専用の楽屋には、バーボンとキャビアを常に用意させ、専属のコスチューム、専属のアクセサリー、専属のヘアメイクは勿論のこと、カメラマン、脚本、演出、配役まで口を挟むことを許されていたそうです。実際、娘役は元々セクシーな若手女優が演じるはずだったのですが、ジョーン・クロフォードの意向で、過去に共演したことのある地味なダイアン・ベイカーに変更されています。また、医者を演じたミッチェル・コックスは、彼女が副社長をしていた”ペプシ・コーラ”の重役のひとりの素人さん・・・彼の要望に応えるために、彼女の口添えでキャスティングされました。さらに、彼女が撮影現場に到着する時には、すべての出演者と撮影スタッフがお迎えしなければならなかったり、すでに彼女の肌の張りを保つために、撮影セットは常に凍えるほど低い温度に設定されていたそうです。

常にヒッチコックを意識していたウィリアム・キャッスル監督は「サイコ」の原作者であったロバート・ブロックを脚本に起用します。それでも”ウィリアム・キャッスル”は”ウィリアム・キャッスル”・・・子供騙しの悪趣味な演出には変わりなく、ジョーン・クロフォードの熱の入った過剰な演技と相まって、本作は一連の「サイコ・ビッディ」作品の中でも、低俗さが際立つ”素晴らしい”怪作となっているのであります!ちなみに原題の「Strait-Jackest」というのは、手の自由がない「拘束服」のこと・・・今では、テロリストが人質の移送ぐらい(!?)でしか使われない非人道的な代物です。


今から20年前、ルーシー(ジョーン・クロフォード)は、浮気して寝入っていた年下の夫フランク(リー・メジャース)と浮気相手の元カノを「斧」で首を切り落として殺害してしまいます。その一部始終を、幼い娘のキャロルは目撃してしまっていたのです。状況的には明らかな”意図”をもった”殺人にか思えないんだけど・・・浮気現場を目撃して気が狂って殺人を犯したということになり、ルーシーは精神病院に収監されることになるのです。この事件を起こしたとき、映画の中での設定ではルーシーは「29歳」・・・それを60歳のジョーン・クロフォードが演じているんですから、かなり無理があります。ジョーン・クロフォードのトレードマークの髪型、太い眉、大きな唇に、派手なプリントのドレスとジャラジャラと付けたイカニモ安っぽいバングル・・・どう見ても”場末の女”にしか見えません。これって・・・ジョーン・クロフォード自身が女優としての全盛期(1930年代)に演じていた男を手玉に取って成り上がっていくという女性像の”パロディ”のようでさえあります。

キャロル(ダイアン・ベイカー)はルーシーの兄夫婦(リーフ・エリクソン、ロチェル・ハドソン)引き取られて、田舎の農場で育てられました。地元の名士で金持ちであるフィールド家の息子マイケル(アンソニー・ヘイズ)と、結婚を前提に付き合う若い女性に成長しています。そして、20年間の精神病院での治療を終え、ルーシーは兄夫婦の農園に戻ってくることになっているのです。20年ぶりに再会する母と娘・・・ルーシーは白髪まじりで地味なダークグレーのアンサンブルに身を包む年相応(設定では49歳ぐらい)となっています。上品な初老の女性になったルーシーは、事件前と同じ女性とは思えないほど・・・ルーシーからは事件のトラウマからは完全に抜け出していない様子もうかがえます。彫刻家となったキャロルの工房で彫刻ナイフや、事件の際に身につけていたジャラジャラ音のなるバングルに、異様な反応をしたり、殺した旦那と元カノの生首が枕元に現れる(!)悪夢にもうなされいてしまっているのですから・・・。

キャロルが、精神病院から帰宅した日のうちに、婚約者であるマイケルを紹介しようとするというのも、いくらなんでも配慮に欠けていると思うのですが・・・案の定、ルーシーはマイケルとは会わずに姿を消してしまいます。洒落っ気もないからマイケルに会いたくないんだろうと勝手に察したキャロルは、翌日、ルーシーを街に連れ出して、ワードローブ一式と、美容室でカツラを奨めるのですが・・・コーディネートしたスタイルが、殺人事件を起こした夜と殆ど同じというのが、まるで忘れたい過去を蒸し返してしまいそうで・・・かなりヤバいです。20年前と殆ど変わらない姿となったルーシーは、精神病院で過ごした20年間の時間を埋め合わせてしまったかのように、いきなり場末のズベ公に豹変・・・娘の婚約者のマイケルに色仕掛けで迫るという、痛々しさを見せつけます。

ルーシーを20年間診ていた精神科の医者(ミッチェル・コックス)が、いきなり農場を訪ねてきます。平常心を装うとするルーシーですが、明らかに不可解な行動や発言を繰り返し・・・「毎日、何をして過ごしているの?」と尋ねられて「あみもの」とポツリと返答するジョーン・クロフォードの演技は、上手い下手を超越した「怪演」であります。医者はルーシーが再び狂い始めているのではないかと疑問を持ち始めます。そこでキャロルと話をしようと、農園の納屋に入るのですが・・・いきなり斧を持った”何者”かに首を切られて殺されてしまうのです!その後、医者が乗ってきた車に気付いた農園の手伝いのレオ(ジョージ・ケネディ)も、首を切られてあっさりと殺されてしまいます。

そんな惨劇が起こっているにも関わらず、キャロル、ルーシー、兄夫婦の4人は、婚約者マイケルの実家に訪問する予定となっています。ルーシーは、まだ精神的に不安定だからと躊躇するのですが・・・キャロルが強引な求めに応じてルーシーは渋々同行させられてしまうのです。地味な年相応なダークグレーのアンサンブルの方が、娘の婚約者の両親に会うのには適していると思うのですが・・・ルーシーは派手なプリントのドレス、昔の髪型のカツラにジャラジャラとしたバングルという”場末の女”風のファッションに再び身を包んでいきます。実は婚約というのは本人同士の話だけで・・・マイケルの両親(特に母親)はキャロルとの結婚を許してはいません。勿論、理由は母親であるルーシーの過去・・・持病のために静養所に20年間いたという話を胡散臭く感じていたのです。

過去を問いただされてルーシーは真実を自ら暴露してしまいます・・・本当は20年間精神病院にたことを。そして、母親として娘キャロルの幸せを阻むものは許さないと震える声で訴えるのです!この場面でのジョーン・クロフォードの演技は大袈裟ではありますが、精神的に崩壊する瀬戸際であっても、娘の幸せを望む母親の愛情を強く心に訴えてくる名(迷?)演技なのであります。取り乱して婚約者の実家を飛び出すルーシー。その夜はお開きとなり、キャロルや兄夫婦は帰路につくのですが、ルーシーは行方知らずのまま・・・マイケルの実家の寝室では彼の父親が、寝室のクローゼットの中で首を斧で切られて殺害されてしまいます。

ここから本作のネタバレを含みます。


マイケルの母親までをも殺そうとする殺人者は、キャロルだったのでした。謝罪のために再びマイケルの実家を訪れたルーシーによって、ルーシーと同じドレスとカツラを付けた上に、顔にはルーシーの顔をかたどったゴム製のお面を付けていたのです。彫刻家であるキャロルは、母親の頭像からお面の型を取っていました。自分とマイケルの結婚を阻む者を消すために、夫殺しという過去を持った母親が再び狂ったことにして、殺人罪の罪をかぶせようとしていたのです。母親を憎みながらも、愛情に飢えていたキャロルは、遂に発狂してしまいます。歴史は繰り返す・・・とでも言うのでしょうか?

実はこの場面・・・「愛してる!」「憎んでる!」と繰り返しながら、母親のお面を握る潰すという熱演で終わるはずだったのですが、ジョーン・クロフォードが自分以外の人物のクライマックスを許すわけはありません。彼女は撮影現場で勝手に、玄関の外で柱にしがみつきながら泣き崩れる・・・という劇的なシーンを付け加えさせたのです。最後は、兄に事件の経緯を説明し、キャロルが使ったトリックを解説するほど、正気を取り戻したルーシーの姿があります。夫殺しの母親ルーシーとと同じように精神病院に収監されることになったキャロル・・・ただ、ルーシーにしてもキャロルにしても、自分の感情や利益のために犯した殺人なんだから、本来は罪に問われるべきなのですが、「狂気の沙汰」で片付けてしまうところは、精神の病気が認識され始めた1960年代という時代だったのかもしれません。

「娘は今、私を必要としている」とルーシーが語って、キャロルを見守ることを仄めかして終わる本作・・・母親の愛情の深さを印象づけるという”お仕着せがましさ”というのは、その後、私生活での鬼のような母親っぷりを暴露されたことを考えると、正直、複雑な気持ちにさせられます。「何がジェーンに起ったか?」の成功によって、気の狂った大袈裟な演技で”あれば、あるほど”観客にウケるという流行が生んでしまった「サイコ・ビッディ」の金字塔とも言える「血だらけの惨劇」。ジョーン・クロフォードの”スター女優”としての強かさを見せつけられ・・・ボクが心から愛して止まない作品のひとつなのです。


「血だらけの惨劇」
原題/Strait-Jackest
1964年/アメリカ
監督 : ウィリアム・キャッスル
脚本 : ロバート・ブロック
出演 : ジョーン・クロフォード、ダイアン・ベイカー、リーフ・エリクソン、ロチェル・ハドソン、アンソニー・ヘイズ、ハワード・セント・ジョン、イーディス・アットウォーター、ミッチェル・コックス、ジョージ・ケネディ、リー・メジャース

1964年日本劇場公開

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”ハイファッション”を信じる”業界オネェさん”が支える世界・・・1%の富裕層のための百貨店はアメリカンドリームのアイコン~「ニューヨーク・バーグドルフ 魔法のデパート/Scatter My Ashes to Bergdorf's」~

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「昔は良かった」的な発言って、いかにも年配者の言い草で、あまり言いたくないんだけど・・・1980年代から90年代にリアルタイムで”ファッション”に関わったボクの世代の人たちの多くが、多かれ少なかれ感じていることだと思います。ただ・・・それは、ボクの前の世代(1960年代~70年代を経験した人たち)も感じていたことなのです。

近年、ハイエンドのファッションデザイナーや雑誌編集者に関するドキュメンタリー映画というのが続々と制作されています。その一方、ますます”ファストファッション”の売り上げはうなぎ上り・・・エンタメ情報として求められる(そして、あっという間に消化されてしまう)のは”ハイファッション”でありながら、その観客が実際に購入されているのは”ファストファッション”ということなのかもしれません。

「ニューヨーク・バーグドルフ魔法のデパート」は、ニューヨークの唯一無二の存在である超高級デパート「バールドルフ・グッドマン」の魔法の扉を開く(?)ドキュメンタリー映画です。原題の「Scatter My Ashes to Bergdorf's」=「私の遺灰はバールドルフに蒔いて!」というのは「ニューヨーカー誌」に掲載されたカートゥーンから引用されたフレーズ・・・「葬られたいほどの素晴らしい場所」であるということなのです。


数々のセレブやデザイナー達によって「バールドルフ・グッドマン」の素晴らしさが語られ、裏を支えるパーソナルショッパーやディスプレイスタッフへのインタビューや取材によって構成されている本作は、ドキュメンタリー映画としては、正直”まとまり”に欠けている印象・・・残念ながら「バールドルフ・グッドマン」について全く知らない観客には、その”魔法”さえ伝わりにくいかもしれません。

ボクは、1985年にパーソンズデザイン大学のファッションデザイン科に入学したこともあって「バールドルフ・グッドマン」には、学生時代からよく足を運んでいました。当時は現在のウーメンズ館だけしかなく、確か・・・メンズは地下(現在はコスメ売り場)にあったような(?)記憶があります。

女性のハイファッションに興味のあったボクは、部屋を通路で繋げたような構造のクチュールサロンのあった2階の売り場を、週に何度も通っていたのです。セール時期にには、1着が数十万円もするイブニングドレスやカクテルスーツが、通路に無造作にローリングラックに掛けられるのですが、その風景は消費社会の皮肉さを見せつけているかのようで、圧巻ありました。ファションデザインを学ぶ学生にとって、実際にトップデザイナーの服を間近で見ることのできる絶好のチャンス・・・内側の始末まで服を裏返してボクは見ていたものですが、販売スタッフの”おばさま”方は、そんなデザイン学生にも大変寛容で、暖かい眼差しで、時には応援の声までもかけてくれたりもしました。「バールドルフ・グッドマン」は、ただ高級品を売る敷居の高い”だけ”の店ではなく、富裕層のためのハイファッション業界を支えていたのかもしれません。当時ニューヨークにあったヨージヤマモトの店では、服を触るだけで「コピーするのか?」と厭味を言われたりしたのは、対照的でした。

「チャリバリ/Charivari」「マーサ/Martha」「リンダ・ドレズナー/Linda Dressner」などのハイエンドのセレクトショップの撤退、「サクス・フィフスアベニュー/Saks Fifth Avenue」「ブルーミングデール/Bloomingdale's」が、”ハイファッション”の販売店としての存在感を失っていく中・・・たった1%の富裕層をターゲットとした「バールドルフ・グッドマン」は、ラインのエクスクルーシブ(独占)によってデザイナーや顧客を囲い込むことによって、さらなる伝統と歴史を築き上げて、アメリカンドリームの”アイコン”にまでなったのです。


本作は、クリスマス商戦のウィンドウディスプレイの完成に向けて進んでいくことになります。ニューヨークのクリスマス商戦のディスプレイというのは、実はどこデパートでも力を入れており「バールドルフ・グッドマン」だけに限ったことではありません。インテリア/陶芸デザイナーのジョナサン・アドラーの彼氏としても知られるサイモン・ドーナン氏が手掛ける「バーニーズ」は、毎年斬新なディスプレイが話題になりまし・・・伝統的なクリスマスシーンを緻密かつ豪華に表現する「サクス・フィフス・アベニュー」は、多くの人が行列するほど、ニューヨークのクリスマスの風物詩となっています。本作のエンディングで披露されるウィンドウは、大変美しいものなのですが、クリエーションのプロセスをじっくり見せるというほどではなく・・・単にディスプレイ主任のデヴィット・ホーイ氏を追うだけに終わってしまっているのが残念でした。

「ニューヨーク・バーグドルフ魔法のデパート」を観て気付かされたのは、スタッフが思いの外”高齢化”していること・・・そもそも顧客の年齢層が高いこともありますが、販売スタッフ、ディスプレイスタッフ、警備員まで専門職なので、優秀なスタッフは長く働き続けるということがあるのかもしれません。主要スタッフはボクよりひと回りほど上の世代(60代?)のようで、1980年代から”現役”としてファッション業界に関わっていた人たち・・・彼らの信じる”ハイファッション”の世界が、ボク自身が馴染み深い”ハイファッション”と一致するのは当然と言えば当然のことなのです。インタビューに答えているデザイナーやスタッフの男性(経営陣を除いて)は、俗にいう”業界オネェさん”の方々・・・裕福な女性のためのファッション/美容に関わるのは、ゲイ男性という図式はニューヨークでは永遠のようであります。


「ニューヨーク・バーグドルフ魔法のデパート」
原題/Scatter My Ashes to Bergdorf's
監督 : マシュー・ミーレー
出演 : カール・ラガーフェルド、クリスチャン・ルブタン、マーク・ジェコブス、トム・フォード、トリ・バーチ、ジョルジオ・アルマーニ、マノロ・ブラニク、パトリシア・フィールド、ラウドミア・プッチ、シルビア・フェンディ、ドメニコ・ドルチェ、ステファノ・ガッバーナ、メアリー=ケイト&アシュレー・オルセン、ニコール・ニッチー、ヴェラ・ウォン、ダイアン・フォン・フォステンバーグ、ジョーン・リヴァース、キャンディス・バーゲン、マイケル・コース、

2013年10月26日より日本劇場公開


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