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「アメリカンギニーピッグ」シリーズの2作目は”会心の一作”!?・・・観るに耐えない医療系拷問と鬼レベルにトラウマなラブシーン~「アメリカンギニーピッグ ブラッドショック!!/American Guinea Pig : Bloodshock」~

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以前、このブログで書いた「ギニーピッグ」シリーズのアメリカ版スピンオフ「アメリカンギニーピッグ~血と臓物の花束~/American Guinea Pig : Bouquet of Guts and Gore(めのおかし参照)から約一年・・・2作目となる「アメリカンギニーピッグ ブラッドショック!!/American Guinea Pig : Bloodshock」のDVD/Blu-rayがリリースされました。

本作の舞台となっているのは、基本的に監禁されている部屋と手術部屋のみ・・・実際に撮影が行なわれたのは、「アメリカンギニーピッグ」シリーズのエグゼプティブ・プロデューサー(本作では脚本も担当)であるステファン・バイロ氏が以前レンタルビデオ屋を経営していたビルの隣にあった廃屋の医療施設(現在はリノベーションされて住居になっている)で、わざわざセットを組んだのは拘束部屋”だけ”だったそうです。極めて低予算であったことが伺えます。


壁にクッションが貼られた小さな拘束部屋に閉じ込められている中年男(ダン・エリス)・・・マッドドクター(アルベルト・ジョヴァネッリ)から、繰り返し繰り返し医療器具で拷問を受けています。何も説明なしに監禁されているという「ソウ」シリーズではお馴染みのソリッド・シチュエーション・スリラー仕立てといったところで、淡々と行なわれる拷問が描かれるのです。

アシスタントの男に顔を殴られる、話せないように舌先を切断される、股間や膝をハンマーで殴られる、ペンチで歯を抜かれるなどなど、中年男性は顔を歪めて苦痛に耐えて続けます。極めつけは、糸のこで骨を切断されて骨を延長する器具を取り付ける手術・・・どう考えても、これほどの手術に何らかの薬なしに痛みに耐えることはアリエナイので、何らかの麻酔(麻薬?)などを投与されているのかもしれません。


ゴア描写を”売り”にするならば、リアルな血や肌の色を見せつけるべきなのかもしれませんが、本作の大半が白黒の映像ということもあり、残虐性は控えめになっています。また、繰り返し切ったり縫い合わせられる手術部分をクロースアップで撮影しているので、慣れてしまえば(?)少々退屈な映像に感じるかもしれません。もしも、これらのシーンがフルカラーの映像だったならば、皮膚と筋肉のシリコン模型のプヨプヨ感が”ニセモノ”っぽく見えるてしまったかもしれないし、エンディングシーンのインパクトを際立たせる意味では、効果的であるとは言えます。

ここからエンディングのネタバレを含みます。


中年男が監禁されている部屋の壁から、メモ書きが差し込まれ始めます。隙間から見える手から若い女(リリアン・マッケニ)らしく・・・彼女は紙と鉛筆を所持することが許されているようなのです。映画の中盤になると、今まで中年男のみだった視点から、この女性の視点からも描かれていきます。

どうやら、彼女の方が先に監禁/拷問されているらしく・・・既に骨延長器具などが体に取り付けられており、常に朦朧とした状態の中、中年男と同じように繰り返し体を切られては縫い合わされるという拷問的な手術を施されているようなのです。監視のアシスタントに見つからないように、メモの読後には食べてしまうことをしながら、次第に短いメモ書きを通じて、中年男と若い女はコミュニケーションを深めていき、次第にお互いを特別な存在として感じ始めていきます。


前作の「アメリカン・ギニーピッグ~血と臓物の花束~」は、単に人体分解の即物的なトーチャーポルノでしたが・・・本作の主人公の中年男と若い女を演じているダン・エリスとリリアン・マッケニーは台詞らしい台詞がないにも関わらず、精神的にも肉体的にも極限まで追い詰められた状態を、表情や目の動きで見事に演じきっており、映画作品として作られていることが明らかです。

遂に、若い女は反撃にでて、マッドドクターらにメスを突き刺します。中年男のいる監禁部屋へ行って一緒に逃亡するのかと思いきや・・・二人は監禁部屋の中で抱き合い、お互いの傷を愛撫し始めるのです。徐々に抱擁はエスカレートして、お互いの傷口を広げて、舐め合ったり、傷口を広げたりして、ドンドン血だらけになっていきます。


白黒だった画面は、徐々にカラーに変化していき・・・血だらけで内蔵を引き抜き合って息絶えていく二人を姿を、まるで「ラブシーン」のように映し出すのです。繰り返し行なわれた拷問によって人格を失っていたかのような二人が、共有した苦痛の中で目覚めた愛情表現は、お互いを死へ導くことだったということなのでしょうか?あまりにも究極の状況なので、理解不可能な行為ではありますが・・・。

脚本を担当したステファン・バイロ曰く、本作は「ラブスートリー」ということですが・・・拷問する”さま”を映画にするは”サディスト”的な嗜好であると同時に、自らも拷問を受けたいという”マゾキスト”的な願望もあるのかもしれません。あの「ネクロマンティック」のエンディングで、死体愛好者の男が、自分の腹にナイフを刺しながらマスターベーションをすることによって得られる”死に際の恍惚感”に繋がっていくのです。

中年男と若い女の死後、相変わらずマッドドクターは犠牲者を監禁して拷問をしています。ここで本編は終わるのですが・・・エンディングタイトルをバックに、中年男と若い女の監禁される前の様子が描かれます。どうやら、彼らはそれぞれ自分の家族を惨殺した殺人者であり、その罪の償いとして拷問されても仕方なかった・・・という”オチ”のようなのです。”設定”も”オチ”も、結局「ソウ」シリーズと同じというところは”イマサラ感”が拭えません。

何かとツッコミどころのある作品ではありますが・・・「ギニーピッグ」のタイトルに相応しいトラウマを残す作品ではあります。シリーズ2作目となる本作「アメリカンギニーピッグ ブラッドショック!!」は、今後の「アメリカンギニーピッグ」の布石となる”会心の一作”となるかもしれません。


「アメリカンギニーピッグ ブラッドショック!!」
原題/American Guinea Pig : Bloodshock
2015年/アメリカ
監督 : マーカス・コーチ
脚本 : ステファン・バイロ
出演 : ダン・エリス、リリアン・マッケニー、アルベルト・ジョヴァネッリ
日本劇場未公開
2017年1月7日DVDリリース


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エディナとパッツィーの”ひとでなし”っぷりが相変わらずの映画版「アブ・ファブ」・・・ラフトラック(Laugh track=録音笑い)はブラックな笑いには不可欠かも?~「アブソリュートリー・ファビュラス・ザ・ムービー(原題)/Absolutely Fabulous the Movie」~

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1992年からイギリスBBCで放映された「アブソリュートリー・ファビュラス/Absolutely Fabulous 」(通称:アブ・ファブ/Ab Fab)は、2000年代初めにも日本でもレンタルショップから火がついたシットコム/Sitcom(コメディドラマ)であります。主人公のエディナ(ジェニファー・サンダース)がプレス・エージェント、エディナの親友パッツィー(ジョアンナ・ラムリー)がファッション誌のディレクターという設定ということもあり、特にファッション業界人の中では大変人気があったのです。



そもそも「アブ・ファブ」は、コメディアン兼コメディライターのコンビであるジェニファー・サンダースとドーン・フレンチの「フレンチ・アンド・サンダース/French and Sanders」というコメディ番組が元ネタ・・・キャラの濃い”あるある”ネタや、映画のパロディで知られる本番組のシーズン3(1990年放映)エピソード6の「モダン・マザー・アンド・ドーター/Modern Mother and Daughter」というスケッチで演じられたキャラクターから派生しています。


ファッション・ヴィクティム(すでに死語?)で自己チューな母親エディナと、保守的で極々フツーなティーンエイジャーの娘サフロンの対比が、当時は「モダン=今どき」の”あるある”ネタであったのかもしれません。「アブ・ファブ」の主人公エディナ・モンスーンは、常にダイエットに励んでいるキャラクターという設定なので・・・シリーズ化となる際、ジェニファー・サンダースより太っているドーン・フレンチが娘役であるよりも、より普通っぽいジュリア・サワラの方が適役と判断されたようであります。

さらに、エディナに輪を掛けてぶっ飛んでるアル中でドラッグ中毒(?)の親友パッツィーが加わったことで、大ヒットに繋がったのではないでしょうか?放映開始時のジェニファー・サンダースは若干34歳(年齢設定は40代!)で、娘役のジュリア・サワラは24歳・・・エディナと同世代という設定のパッツィーを演じていたジョアンナ・ラムリーの実年齢は、なんと46歳です。


ジョアンナ・ラムリーは、元モデル(ジーン・ミュアのハウスモデルを務めたこともある)で、「女王陛下の007」(1969年)でボンドガールを務めたセクシー系女優・・・「アー・ユー・ビーイング・サーブド?/Are You Being Aerved?」で、コメディ演技にも開眼(?)、1970年代~80年代は主にイギリスのテレビで活躍します。「アブ・ファブ」で世界的に大ブレーク後は、映画にも活躍の場を広げて”コメディ”演技に磨きが勝かかったようです。また、ネパールの「グルカ兵正義キャンペーン」や先住民族をサポートする「サバイバル・インターナショナル」など、さまざまな人権運動の活動家としても知られています。

1992年から1995年から(1993年には制作されず)の3シーズンの後、2001年に第4シーズン、2004年に第5シーズン、1996年から2012年の間にもスペシャル版が制作されるなど、息の長~いイギリスのコメディシリーズです。そして2016年、満を持して(?)映画化となったわけなのであります!

ファーストシーズンから約25年経った今でも、主人公を演じている二人の印象が殆ど変わらないということが一番の驚きです。相変わらずスレンダーな体型のジョアンナ・ラムリーは、現在、御年70歳!!!・・・ジェニファー・サンダース(50代後半の)との年齢差を感じさせません。


さて、本作「アブソリュートリー・ファビュラス・ザ・ムービー(原題)」は、良くも悪くもテレビシリーズの延長上です。ファッション界で働く(?)女性二人の主人公のコメディではありますが、いわゆる”キューティー映画”とは違います。イギリスの伝統(?)でもあるブラックな笑いのコメディで、日本のコメディにありがちの「実はいい人」とか「エンディングに感動」というウェットな”落としどころ”はありません。一歩間違えば人権を侵害しかねないようなギリギリのユーモア/ギャグ炸裂して放置・・・と、結構、辛口/毒舌でもあるのです。

映画版では全体的にゴージャスな作りとなっているのですが・・・テレビのスペシャル版でもお馴染みの海外ロケ(本作では南仏地方)、ファッションジャーナリストのスーザン・マンキーズ、ミック・ジャガー元妻で元モデルのビアンカ・ジャガー、イギリスの女装コメディアンのデーム・エドナ・エヴェレイジ、ファッションデザイナーのステラ.マッカートニーとジャン=ポール・ゴルティエ、アメリカ女優ジョーン・コリンズなどファッション業界やエンターテイメント界からのカメオ出演、そして、さまざまな映画へのオマージュなども”みどころ”ということになります。


スーパーモデルのケイト・モス(ケイト・モス自身が出演!)が、新しいプレスを探しているという情報を得たエディナが、ファッション界のパーティーに乱入して、誤ってケイトを川に突き落としてしまい、フランスへ逃亡するというドタバタ劇というのが、本作のプロットなのでありますが・・・エディナとパッツィーの”ひとでなし”(?)っぷりは相変わらずです。オリジナルシリーズ放映当時は、イギリスらしい境界線ギリギリのブラックな笑いが、まさに”ツボ”だったわけですが・・・いろんな意味で、世情が変化した”今”改めて観てみると、ちょっと笑えないような気がしてしまうのはボクだけでしょうか?

エディナやパッツィーの行動や発言は、ぶっ壊すべき”ダサい”保守”が大きな存在感のあった時代だからこそ、笑いとして受け入れられたような気がするのです。単純な”保守”と”革新”という区分けは難しい”今”の時代に於いて、”ポリティカリー・コレクトネス”に欠けた笑いは、面白がってしまうことに対して、どこかしら居心地の悪さを感じさせてしまうのかもしれません。パッツィーが男装して世界で一番金持ちの未亡人を遺産目当てで誘惑して、結婚するという「お熱いのがお好き」の逆張りのドタバタを繰り広げるのが本作の山場なのですが・・・あまりにも短絡的な詐欺行為(?)に、正直いって爆笑とはならないのです。


テレビシリーズと映画版の大きな違いが、ラフトラック(Laugh track=録音笑い)の存在・・・シットコム黎明期から使われてきたラフトラックは、視聴者の笑いを促す”呼び水”として有効な方法であります。「アブ・ファブ」のテレビシリーズでもラフトラックが使われており、眉をひそめるようなブラックな笑いも、ついつい釣られて苦笑い・・・なんてことも多々あったのです。ところが映画版にはラフトラックはありません。そのため、ブラックな笑いが、少々”空回り”気味になってしまった気がします。

と言いつつも・・・オリジナルのテレビシリーズからの往年のファンにとっては、ずっと変わらないエディナ・モンスーンとパッツィー・ストーンに会えることは”喜び”以外何物ではないのであります。


「アブソリュートリー・ファビュラス・ザ・ムービー(原題)」
原題/Absolutely Fabulous the Movie
2016年/イギリス
監督 : マンディー・フィッチャー
脚本 : ジェニファー・サンダース
出演 : ジェニファー・サンダース、ジョアンナ・ラムリー、ジュリア・サワラ、ジェーン・ホロックス、ジューン・ウィットフィールド、ケイト・モス
日本未公開

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”コレジャナイ”感しかない「キング・オブ・カルトムービー」のリメイク・・・シャドウキャスト公演の”お約束”だけを拝借~「ロッキー・ホラー・ショー:レッツ・ドゥ・ザ・タイムワープ・アゲイン(原題)/The Rocky Horror Picture Show : Let's Do the Time Wrap Again 」〜

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映画作品の”リメイク”というのは、昔から行なわれていたこと。”リメイク”されるということは、元となる作品に人気があるからですが、オリジナルを超えることは稀です。ドラマをミュージカル化するとか、時代設定を現代にするとか、オリジナルとは”別物”としてリメイクされれば、新たな作品として成功することもあるのですが「何故リメイクするの?」という作品もよくあったりします。


「ロッキー・ホラー・ショー」は、カルト映画の中でも有名な作品のひとつ。ロンドン舞台版のキャストをそのまま起用して、1975年に映画化されましたが、公開時はそれほどヒットしなかったそうです。その後、ニューヨークやロサンジェルスのミッドナイト上映で人気を博して「カルトムービー」を代表する作品となります。映画上映中にお約束のツッコミを入れたり、画面の中に登場するモノ(お米、新聞紙、ライター、紙吹雪など)を使用したりするのは、今でいう”応援上映”(?)のルーツと言えるのかもしれません。また、キャラクターと同じ”コスプレ”をして、スクリーンの前で映像と同時進行で演じる”シャドウキャスト”は、初公開から40年以上経った今でも世界各国で行なわれています。


「ザ・ロッキー・ホラー・ピクチャー・ショー:レッツ・ドゥ・ザ・タイムワープ・アゲイン(原題)/ The Rocky Horror Picture Show : Let's Do the Time Wrap Again 」は、アメリカのFOXテレビにて放映されたテレビ映画で、監督を務めたのは元々振り付け師のケニー・オルテガ・・・ドキュメンタリー映画「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」の監督を務めたことで知られていますが、ライブコンサートの演出家としてはさておき、映画監督としては「どうなの?」という人”では”あります。

オリジナル版の「ロッキー・ホラー・ショー」は、フランクン・フルター博士を演じたティム・カリーの出世作です。スパンコールのコルセットとガーターベルトに厚底のハイヒール、毒々しい化粧の女装姿は、一度観たら忘れられない強烈なインパクトです。リメイク版では、このフランクン・フルター博士役を「オレンジ・イズ・ニュー・ブラック」に出演しているトランスジェンダー(性転換手術済み)でアフリカ系のラヴァーン・コックスが演じています。



フランクン・フルター博士は、女装趣味のある(マッチョ好きでかなりゲイ寄りの)バイセクシャルの男性という設定で、良くも悪くも悪趣味気味で男性と分かる程度のクオリティの低い(?)女装ということろが愛すべきポイントだと(ボク個人的には)思うのですが、本作でフランクン・フルター博士を演じるラヴァーン・コックスは、豊満な胸の谷間をもつ「女性」・・・声の低さや体格の大きさから「元・男性」であることは分かりますが、アフリカ系の男女の外見的な性差が他の人種と比較して少なめ(?)ということもあり、女装趣味の男性というよりも大柄な女性に見えてしまうかもしれません。

フランクン・フルター博士を演じる俳優が「”白人=アングロサクソン系”でならなければならない」とは思いません。ただ、博士が理想の男性とする人造人間のロッキーは、歌詞にもあるように”ブロンドで日焼けしたマッチョマン”なのですから、違和感が全くないかというとビミョーなところであります。さらに、リフ・ラフ(リーブ・カーニー/アングロサクソン系)の”妹”であるマジェンタは、ヒスパニック系のクリスティーナ・ミリアン・・・エディ(アダム・ランバート/アングロサクソン系&ユダヤ系)の叔父であるスコット博士は、アフリカ系ベン・ヴァリーンによって演じられているのです。”ポリティカリー・コレクトネス”の観点では、演じる俳優の人種と役柄の設定は”無関係”とするべきなのかもしれませんが、シャドウキャスト公演、または、舞台ならまだしも、テレビ映画のような映像作品の場合、少々無茶な印象はあるのです。


「ロッキー・ホラー・ショー」は、1930年代から1950年代のサイエンス・フィクション、モンスター、ミュージカルに数々のオマージュを捧げています。しかし、今の視聴者には、それらの”元ネタ”には馴染みがないかもしれません。リメイク版のオープニング曲(Rocky Horror Picture Show Science Fiction Double Feture)では、シャドウキャスト公演や舞台版と同様に”案内嬢”(アイビー・レバン)が登場・・・歌詞にでてくる映画のポスター(「キングコング」「地球が静止した日」「透明人間」「禁断の惑星」など)が壁に貼られており、親切な(?)説明となっています。


「タイムワープ」で登場する”トランスベニアン”たちは、オリジナル版では”奇人変人”としかいいようのない摩訶不思議なキャスティング(デブ、ノッポ、チビ、老人など)と、お揃いの黒い燕尾服姿により(良い意味で)時代性を意識させませんでした。しかし、リメイク版では衣装と振り付けが今風(?)に変更されています。また「タイムワープ」の直後、フルター博士の登場シーンに於いては、オリジナル版はエレベーターを巧みに使うことにより、その姿の異様さの”サプライズ”を演出がされていたのですが、リメイク版ではフルター博士は撮影用(?)クレーンに乗ってゆっくりと現れる上に、その後ろの壁にはフルター博士の肖像画が飾られているために”サプライズ”もありません。


エキスパート(犯罪学者)が物語を解説するという”メタ構造”をもっている「ロッキー・ホラー・ショー」・・・リメイク版では本編を映画館の観客が観ているという、さらなる”メタ構造”となっているのです。2012年に脳梗塞により車椅子生活で言語障害を抱えている御年70歳のティム・カリーが、物語をナレーションするエキスパート役で起用されているのは胸がいっぱいになります。ティム・カリーがエキパート役でスクリーンに登場するやいなや、大騒ぎになる画面の中にいる映画館の観客たちは、本作をテレビで観ている視聴者と同じ立場(オリジナル版を知っていてリメイク版を観ている)ということになるわけであります。カルト映画であることが”前提”でのリメイク版で、オリジナル版”ありき”の”メタ構造”というわけです。


アメリカ絵画の「アメリカンゴシック」、B級のSF映画で知られていた「RKOピクチャー映画会社シンボルタワー」、トランスベニア星人としてマジェンタが登場するときの髪型の「フランケンシュタインの花嫁」、など、オリジナル版で随所に散りばめられていたオマージュの数々は、リメイク版では何故かスルー(?)という矛盾・・・逆(?)に、フルター博士がゴム手袋を引っ張るとか、スコット博士がいきなりカメラに向かって話しかけるとか、些細なギャグはしっかりと踏襲されていたりして、オリジナルへのリスペクト度合いが少々不可解。なんだかんだで、カルト映画の”お約束”だけを拝借している印象になってしまうのです。


古くは1980年の映画「フェーム」から近年では「Glee」のセカンドシーズンでフィーチャーされて、新たな世代にも浸透している「ロッキー・ホラー・ショー」をリメイクするというのは、いくらテレビ映画といえ”コレジャナイ”感しかない無謀なチャレンジではあります。セットや美術などにはオリジナル版よりもプロダクションの規模も大きくなっていますし、出演しているキャストたちも良い仕事をしていると思うのですが・・・ケニー・オルテガ監督によるリメイク版は、まったくの”別物”として突き抜けているわけでもなく、といって・・・オリジナル版への愛に満ち溢れているようにも特に感じられません。

「キング・オブ・カルトムービー」を甦えらせるのであれば、オリジナル版に忠実なシャドウキャストのライブの方が、(今までに、そのようなスペシャル番組はありましたが)素直に”リスペクト”が感じられたのではなかったでしょうか?


「ザ・ロッキー・ホラー・ピクチャー・ショー:レッツ・ドゥ・ザ・タイムワープ・アゲイン(原題)」
原題/ The Rocky Horror Picture Show : Let's Do the Time Wrap Again 
2016年/アメリカ
監督 : ケニー・オルテガ
出演 : ラヴァーン・コックス、ヴィクトリア・ジャスティス、ライアン・マッカータン、アナリー・アッシュフォード、アダム・ランバート、リーブ・カーニー、クリスティーナ・ミリアン、アイビー・レバン、スタッズ・ナール、ベン・ヴァリーン、ジェーン・イーストウッド、ティム・カリー
2016年10月20日アメリカFOXテレビにて放映
日本未公開

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”進駐軍慰安婦”と”パンパン”がいた時代・・・武智鉄二と五島勉による”反米思想”と”民族主義”に貫かれた実話(?)の映画化~「戦後残酷物語」と水野浩著「日本の貞操 外国兵に犯された女性たちの手記」~

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”武智鉄二監督”というと・・・まず「白日夢」(1981年公開)が、頭に浮かんでしまいます。公開当時、大島渚監督の「愛のコリーダ」(1976年)に続く”本番映画”(ハードコアポルノ)として大々的に宣伝されたものの作品としての評判は散々で、エロス映画の大御所(?)映画監督による”駄作”という記憶しかありません。

10年ほど前に武智鉄二監督作品の多くがDVD化された際、初めて一連の作品を観る機会があったのですが・・・映画監督としての稚拙さ、民族主義に偏った思想、伝統芸能とエロスの陳腐な融合と、エログロ映画を観尽くしたからこそ堪能できる(?)腐ったチーズのような(?)珍映画監督っぷりに、すっかりボクは魅せられて(?)しまったのです。


「戦後残酷物語」は、1964年版「白日夢」で一世風靡した(?)路加奈子を再び主演に迎えて、武智プロダクションの第一作品として製作された武智鉄二の”映画監督”として(ある意味)脂ののっていた時代の作品であります。

1960年代は、それまでの保守的な既成概念を覆すことが”良し”とされて、革新的な芸術表現ととらえられた”節”があり、エロス映画を「芸術映画=アートフィルム」とする傾向が少なからずあったようです。関西の恵まれた家庭の出身で1940年代~1950年代に「武智歌舞伎」と呼ばれた演出家として知られていた武智鉄二監督ですから、大胆にエロチシズムを描いた作品は(映画としての出来の良し悪しは別に)当時は注目されたとしても不思議ではありません。


小野年子(路加奈子)は、東京の空襲で両親を失い京都の親戚の家に、戦後身を寄せている元(?)お嬢さま・・・闇でストッキングを購入したことで、警察に連行されてしまいます。実は、この警察官は日本人女性を物色していた米兵たちの手先・・・年子は人里離れた山の中へ連れて行かれてしまうのです。何人もの米兵たちに追い回されたあげくに、年子は全裸にされて米兵たちに輪姦されてしまうのです。


年子は大京都に居づらくなり、一人東京へ戻ります。仕事を探しの帰り道、年子はMP(ミリタリーポリス/憲兵)の”狩り込み”に運悪く遭遇、パンパンの疑いをかけられて検挙されてしまいます。この当時、性病感染予防の名目で、検査のために病院へパンパンと疑われた女性たちを連行することが行なわれていたそうです。年子は、疑いは晴れて解放されると思っていたのですが・・・大阪で輪姦された時に性病に感染していたらしく、梅毒の陽性であることが判明してしまいます。


主治医の望月先生(剣持伴紀)に、自分は”パンパン”ではないことを訴えるものの、性病治療のために年子はパンパンらと一緒に入院させられてしまうのです。退院後、身寄りもない年子は行き場はありません。そこで、一緒に捕まったパンパンのカズコ(李麗仙)に誘われて、パンパンらと共に青森の三沢基地へ行くことになります。年子らが立ち去った後、病院は大勢の米軍兵たちに襲われて、看護婦だけでなく入院中の患者まで強姦・・・生まれたばかりの新生児は踏みつけられて殺されてしまうのです。


三沢へ行った年子は”パンパン”たちの身の回りの世話をしているのですが・・・ある時、年子は煙草一箱と引換に、米兵たちに体を奪われてしまいます。「どうせ”ヤラレル”なら金を獲れ!」という先輩パンパンのアドバイス(?)により、年子は”パンパン”として街に立つようになります。ある晩、醜男のエミソン軍曹(トム・ハーバー)と出会い、彼に懇願されて”オンリー”となるのです。”オンリー”というのは俗にいう”愛人契約”で、月々の”お手当”をもらうことを条件に専属となることであります。一方、相手を決めずに客を取るのは”バタフライ”と呼ばれていたようです。


”オンリー”になったことで、進駐軍の施設に出入りするようになった年子は、そこで若くてハンサムなロジャース大尉(ボブ・ベイン)と知り合います。ロジャース大尉には英語をまったく理解することができないオンリーがいるのですが、そんなことはおかまいなしに年子はロジャース大尉に接近して行くのです。男から男に乗り換えようとする年子の体には、バタフライの影が浮き出たり消えたり・・・なかなか”ベタな”武智演出の技が冴えます。当然のことながら、年子の出現によりロジャース大尉にとっては、英語を話さない人形のようなオンリーの存在は、次第に邪魔になってくるのです。


屈辱的な扱いを受けながらも、必死に尽くそうとする貞淑なオンリーを、ロジャース大尉は身ぐるみ奪って家から追い出にかかります。ロジャース大尉が年子と家に戻ると、そこには首を吊ったオンリーの姿が。それを見て「なんてバカな女だ~」だと、大笑いするロジャース大尉・・・まさに戦前の「鬼畜米英」的な米兵の描き方であります。


年子はロジャース大尉のオンリーに成り上がり、小さいながらも自分の家を手にするのです。かつては被害者側だった年子が、あっさりと加害者側 の人間になるのには時間はかかりません。ロジャース大尉の上司であるミラー少佐(マイク・ダニン)のために「女狩り」の手引きを、年子自らすすんで行なうようになるのですから・・・。


米の買い出し途中の娘を無理矢理自宅へ連れて帰り、アメリカ兵カップルや年子を含む3組でスワッピングのパーティーに興じます。ロジャース大尉に犯されて泣き叫ぶ娘・・・その姿は、かつて米兵たちに強姦された年子の姿に重なります。ここで流れる音楽がワーグナーの「ワルキューレの騎行」(コッポラ監督の「地獄の黙示録」)なのですから、国家が汚されるかの如くです。娘はロジャース大尉の舌を噛んで反撃・・・ロジャース大尉は絶命して、娘も自らの舌を噛み切って自害してしまうのです。そして、日本地図のように散らばったお米に、徐々に血が広がっていく”ベタな”武智演出は、逆に”あっぱれ”であります。

ロジャース大尉を失った年子には、かつでのロジャース大尉の自殺したオンリーと同じ運命が待ち受けています。ロジャース大尉がミラー少佐からしていた借金の”カタ”に、年子が暮らしていた家はミラー少佐のものとなり、年子は身ぐるみ剥がされて家から追い出されてしまうのです。年子はロジャース大尉からもらったダイアモンドの指輪まで、ミラー少佐と彼のオンリーに奪われてしまい・・・再び、生きるために街娼として夜の街に立つことになります。


さらに、年子の性病が再び悪化・・・痩せ細った年子の体は20代前半とは思えないほどボロボロです。治療のために行った病院で、望月先生と再会することとなります。病院が米兵に襲われた後、責任を取って東京の病院を去り、三沢の病院へと都落ちしたとのこと・・・やつれきった二人は米兵によって人生を狂わされた同志なのかもしれません。望月先生の身の回りの世話をしてあげたいと願い、性病の治療のために何とか金の工面をしなければならないことを、年子は確信するのです。


そこで・・・年子はミラー少佐と”オンリー”の暮らす家を訪れて、せめてダイヤモンドの指輪だけでも返して欲しいと懇願します。しかし、そんな年子をあざけ笑いながらムチでいたぶる二人に、年子は吹っ切れたように銃を放ってしまいます。当然、米軍の少佐殺しから逃げきれるわけもなく・・・年子は河川敷から入水して自ら命を絶つのです。そこで流れるのが、当時流行っていた反戦フォーク調(?)の「小野年子の唄」という武智鉄二監督自身作詞による”トンデモナイ”歌であります。

「小野年子の唄」作詞:武智鉄二

年子はこうして死んでいった
さぎしろの海の果てに
赤々とのぼる太陽のまたないで
年子はこうして死んでいった
てがらとのたすぐ岸辺
米軍のレーダーは黒く影落とし
年子はこうして死んでいった
今日もまた一番機が
朝空を旅立つであろうベトナムへ
年子はこうして死んでいった
やごうだやま吹雪しきり
風花は堕ちて消えてゆく水面に
年子の一生はこうして終わった
こうして終わった
こうして終わった
(語り)戦争はまだ終わらない



空襲で家族を失わなければ・・・闇でストッキングさえ買わなければ・・・騙されて米兵たちに輪姦されなければ・・・MPの狩り込みに遭遇しなければ・・・性病に罹っていなければ・・・パンパンにならなければ・・・エミソン軍曹からロジャース大尉に乗り換えなければ・・・女狩りの手引きをしなければ・・・ロジャース大尉が死ななければ・・・時には運の悪さ、時には自らの選択によって、人生の階段を堕ちてしまった年子に、観客が同情してしまうかというとビミョーなところがあるのです。同じく占領軍慰安婦を描いた「肉体の門」や「女の防波堤」には、敗戦後の日本を逞しく生き抜いていく”女性の強さ”を感じさせるところがあるのですが、「戦後残酷物語」は”カストリ雑誌”的なメロドラマで・・・堕ちていくヒロインを、アメリカに日和った”裏切り者”かのように突き放して、敗戦国である日本人男性が感じていた”反米思想”を色濃く感じさせるのであります。


本作の物語は、元々ルポルタージュとして出版された「戦後残酷物語 あなたの知らない時に」の第一部「小野年子の遺書」をベースに、本書に収録されている他のエピソードを加えて脚色したモノです。原作の遺書は、ヒロインの一人称ということもあり、読者の同情心を煽るようなところもあり、映画版ほど反米思想を強く感じさせるわけでもありません。実はこの「戦後残酷物語」・・・1973年のベストセラー「ノストラダムスの大予言」で知られる五島勉氏によって編集されているのです。それ故か(?)原作に書かれている内容の信憑性は疑われ気味・・・さらに、民族主義者で反米思想の持ち主であると知られている武智鉄二が監督したこともあり、本作は事実を歪めた”反米映画”というレッテルを貼られることになってしまします。


1963年に出版された五島勉氏編集の「戦後残酷物語」ですが、これには”元”になった別の書籍が存在するのです。GHQの占領下が終わって間もない1953年に出版された「日本の貞操 外国兵に犯された女性たちの手記」という本で、出版当時は「日本の貞操」という言葉が流行語のようになるほど、ベストセラーとなったそうです。帯には「新映プロ映画化」と謳われていたり、平塚らいてう、神近市子、久布白落実、などの女性運動家に加えて、野間宏や安部公房などの著名作家からも推薦されていることから、出版当時は”まともな”書籍として世間で受け止められていたことが伺えます。

「日本の貞操」の第一部に「死に臨んで訴える」というタイトルで、小野年子(仮名)の遺書という形で収録されているのですが、この”小野年子”という女性が実在したのか定かではありません。「日本の貞操」は、米兵とパンパンの通訳として働いていた”水野浩”氏によって取材され、まとめられたとしているのですが・・・この”水野浩”という人物自体、実在したか疑問視するところもあるのです。

「日本の貞操」は、1982年に「死んで臨んでうったえる<空洞の戦後叢書1>」として復刻されたのですが、その際に出版社が著作権の確認のために”水野浩”なる人物を捜索したものの見つけることが出来ず、結局無断で再出版となったといわれています。また、この”水野浩”という名前で出版されている書籍は、たったの「日本の貞操」一冊のみ・・・本書で書かれているエピソートの真偽は別として、この”水野浩”という人物はそもそも存在せず、偽名、もしくは、ペンネームとして複数の人物が本書には関わっていたのかもしれないと推測できてしまうのです。


「小野年子の遺書」以外の「戦後残酷物語」に収録されているエピソードは、1953年に五島勉氏がルポライターとして関わった初めて編集者として関わった書籍である「続・日本の貞操」に収められていたものです。この「続」も、空洞の戦後叢書として「黒い春ー米軍・パンパン・女たちの戦後」と改題されて1985年に復刻されています。「続」は「日本の貞操」がベストセラーになったことを受けて、急いで出版されたようで・・・五島氏自身が取材したのではなく、基地の女性たちをはじめ、一般市民、新聞記者、公務員、学生、基地労働者、金融業者、売春業者、米国兵、国連兵などから集めた”資料”の提供を受けて、書かれたものだと序文にあります。

「日本の貞操」や「続・日本の貞操」のエピソードを、フィクションと決めつける意見もあるようですが・・・このような事実がなかったという証拠もありません。ただ、両書籍に共通しているのは、米兵が行なった日本人への侮辱的な行為を語り継ごうとする強い思いと、明らかな”反米思想”のメッセージなのであります。このような歴史解釈の”ぶりかえし”は、韓国の慰安婦問題と似通ったところがあるのかもしれません。


降伏宣言から僅か3日後から計画が始まり、1945年8月26日には日本政府は特殊慰安施設協会「RAA」を、売春業者側と政府側から5千万円づつ出資して設立するのですが・・・「RAA =Recreation and Amusement Association/余暇娯楽協会」とは名ばかりで、実態は占領軍専用の「国営売春所」だったのであります。日本各地(大森海岸、向島、若林、銀座、赤羽、福生、調布、立川、三鷹、熱海、箱根、大阪、名古屋、広島、静岡、兵庫、山形、秋田、岩手など)に設置されたRAAには、日本人女性の貞操を守るための”肉体の防波堤”として数万人の女性が雇われたそうで、戦争未亡人や空襲で両親を失った婦女子もいたといわれています。

「慰安婦」または「接待婦」とも呼ばれることが多かったようですが・・・戦前教育で「お国のために犠牲になること」を美徳して生きてきた世代ということもあり「特別挺身隊員」という肩書きを信じて疑わなかった者もいたそうです。一日に大勢(多い日は70人も?)の客の相手をしなければならなかったという記録も残されており、今の風俗嬢と比べても相当ハードだったと思われます。当時の金額で月に5万円(現在の貨幣価値で2000万円ぐらい?)稼ぐ女性もいたとも言われていますが・・・精神を病む者や自殺する者が後を絶たなかったらしく、多くの女性が人生を狂わされてしまったことは事実のようです。


”RAA”は広く国民に知られていたわけではなかったらしく・・・敗戦の時に20歳だったボクの母に尋ねても、存在自体まったく知らなかったとのこと。1946年秋頃、母は九州の疎開地から東京近郊へ戻ってきたのですが、翌年には生活のために新橋にあった楽譜出版社で校正の仕事をしながら、藤原歌劇団に入団して、オペラ歌手として日比谷公会堂などの公演の舞台に立っていたそうです。当時の新橋や日比谷界隈には”パンパン”が多くいたと言われていますが、”パンパン”の姿を見たことはなかったと母は言います。また、斎藤秀雄氏(後に桐朋学園学長)が指導していた女性コーラスグループに参加して、立川米軍基地内にあった教会で毎週日曜日に賛美歌を歌っていたそうなのですが、礼拝に参加していた米兵は紳士的な人ばかりで、母によると「米兵が女性を襲う」なんてことは考えもしなかったそうです。敗戦後の日本の記憶というのは、その時の生活圏によって大きく変わるということかもしれません。

RAAの「日本女性の純潔を守る」という役割は、結果的には失敗(?)します。開設から僅か7ヶ月後の1946年3月26日には、特殊慰安施設は”表向き”閉鎖となるのですから・・・(ただし、実際に協会がなくなったのは3年後)。公式な閉鎖理由は、アメリカの婦人団体の反対運動があったからと言われていますが、RAA設置後も米兵による性犯罪が減らなかったことと、GHQ軍医から米兵への性病感染の懸念などもあったようです。

RAA閉鎖後、慰安婦として働いていた女性は、風俗嬢として赤線(日本人相手の売春)で働き続けた者もいたそうですが、職場を失って街頭に立つ”パンパン”となった者も多くいたようです。性病対策のため、MP(ミリタリーポリス/憲兵)主導で”狩り込み”と呼ばれた検挙を抜き打ちで行なわれることもたびたびあり、通行人だった一般女性が無差別に病院へ連行されて、膣検査を強制されたということも起こったことといわれています。


当初は生活苦から”パンパン”になる女性が多かったようですが、次第に復興されていくと、ある程度の英会話ができる・・・向上心の高くて生活水準を上げたいという”欲”で、”パンパン”になる女性も現れたそうです。また、自由恋愛の対象として”米兵”と出会おうとする一般女性も現れるようになり、”パンパン”たちとの縄張り争いも起こったといわれています。歴史として振り返る時・・・生きるために仕方なく”パンパン”になるしかない”可哀想な女性”というステレオタイプで考えがちですが・・・実際には、生活苦からよりも贅沢欲から”パンパン”になった女性も、結構いたということなのかもしれません。

しかし敗戦から年月が経つと、次第に”パンパン”という存在は世間的には蔑まれ恥ずべき存在となっていきます。それでも”パンパン”以外に生きる術のなかった女性たちの中には、朝鮮戦争勃発後に朝鮮半島へ連れて行かれて、在韓米軍の慰安婦となった者もいたそうです。当然ながら・・・韓国人女性も慰安婦に志願したと思われますが、朝鮮戦争中の慰安婦問題というのは、韓国で論じられることってあるのでしょうか?


日本人女性が米兵と結婚できるようになるのは、1947年に日本人戦争花嫁法が制定後のことですが、多くの戦争花嫁が渡米するようになったのは朝鮮戦争勃発後のようです。ただ、戦争花嫁=元”パンパン”という偏見は長い間拭われることなく・・・戦争花嫁という響きには、どこかしら侮蔑的なニュアンスが1970年代頃までは残っていた気がします。

進駐軍慰安婦については、語る人の立場によって「反米」になったり、「反日」になったり、「女性」問題になったりするのです。誰が加害者で誰が被害者なのかさえ、見方によっては変わってしまうし・・・何が正しいかったのかという答えもありません。”いま”の倫理的な尺度で、過去の責任問題を検証したところで、時間を巻き戻して”やりなおし”ができない以上・・・それぞれの立場で自らを戒めるしかないのです。

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武智鉄二監督フィルモグラフィー
(*印はDVDリリース、○印はVHSビデオのみリリース)

1963「日本の夜 女・女・女物語」(ドキュメンタリー)*
1964「白日夢」*
1964「紅閨夢」*
1964「黒い雪」*
1966「源氏物語」*
1966「幻日」
1968「戦後残酷物語」*
1968「浮世絵残酷物語」*
1973「スキャンダル夫人」
1981「白日夢」*
1982「白夜夢 第2話」(ビデオ作品)○
1983「花魁」*
1984「高野聖」○
1984「日劇ミュージックホール(復刻集)能艶SAMBA奏」(ビデオ作品)○
1987「白日夢2」*
1987「人喰い 安達原奇談」(ビデオ作品)○

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「戦後残酷物語」
1968年/日本
監督&脚本: 武智鉄二
出演   : 路加奈子、紅千登世、有沢正子、小畑通子、剣持伴紀、月まち子、李麗仙、八木千枝、ポップ・ペイン、マイク・ダニン、トム・ハーバー
1968年2月10日劇場公開



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映画監督として作家性を確立したトム・フォードの第二作・・・オースティン・ライト原作「ミステリ原稿」を、よりグラマラス、より深く心えぐる「後悔」と「喪失」の”謎”めいた一作に~「ノクターナル・アニマルズ(原題)/Nocturnal Animals」~

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映画界とファッション界といのうのは、映画作品への衣装提供や、ブランドイメージと映画スターの関係など、業界としての親和性も非常に高いと思うのですが・・・ファッションセンス=映画作家性というわけでもないようで、商業的な映画監督として作家性を発揮したファッションデザイナーというのは、トム・フォード以外には思いつきません。

ファッションの第一線で活躍したファッションデザイナーが、映画監督としても高い評価を得て、商業的にも成功するということは結構”稀”なことのようです。1970年代のパリのファッション界を席巻した高田賢三は、1981年に日本資本の劇映画「夢・夢のあと」で、ファッションデザイナー”ケンゾー”の世界観と映像美を表現する意気込みで映画監督としてデビューしましたが・・・評価も興行のどちらも大コケしてしまいます。この作品は、どの国でもビデオ化さえされていない幻の作品となっており、高田賢三による映画作品は結局のところ、この一作のみ・・・その上、ケンゾーのファッションブランド自体も、この頃から急速に失速していくのです。

数年前に山本耀司が監督した映画が作られる・・・というニュースを読んだことがあるのですが、その後、映画が完成したという話を聞きません。近年、芸術(ファイン・アート)へ表現のフィールドを移行しようとしているところもありますので・・・もともと商業的な映画の監督というのではなく、あくまでも表現手段のひとつとして企画されていたのかもしれません。カール・ラガーフェルドは何本か短編作品を監督していますが・・・あくまでもシャネルがらみのファッション的な世界観の延長上にある”プロモーションの映像”です。日本では、アート集団の明和電機が立ち上げたファッションブランド「Meewee Dinkee/ミーウィーディンキー」のトータルディレクターとデザイナーを務めるTRICOが「少女椿」を監督してますが、そもそも映像作家としてでてきた人で初めから”アート寄り”のクリエーター(!?)だったりします。

トム・フォードはテキサス州出身のアメリカ人でありますが、ヨーロッパの老舗ブランド「グッチ」「イヴ・サンローラン」のクリエティブ・ディレクターを務めて・・・その後、自社である「トム・フォード」を立ち上げた近年最も成功したファッションデザイナーのひとりです。デザインの勉強をする以前のニューヨーク大学時代には、俳優を目指した時期もあったらしいので、映画界には少なからず興味があったのかもしれません。

2009年公開の「シングルマン」でトム・フォードは映画監督としてデビューします。1930年代~60年代に活動したゲイ作家のクリストファー・イシャーウッドの原作からして渋くて知的な印象なのですが・・・ファッション的美学に貫かれたスタイル、隅々まで考え抜かれた構図、過去と現在や現実と心象を行き来する巧みな映像美で、”ファッションデザイナーによる”という枕詞が不要なほど「完璧」な映画作品であったのです。ただ、コリン・ファース演じる大学教授の潔癖なスタイリッシュさやゲイの中年男性であることから、トム・フォードを彷彿させるところもあり・・・自らを投影した奇跡の一作とも思えてしまうところはあります。


「シングルマン」から7年、二作目となる「「ノクターナル・アニマルズ(原題)/Nocturnal Animals」は、トム・フォードの映画監督としての作家性を確立させたと言っても、過言ではないかもしれません。原作は(これまた渋くて知的な?)オースティン・ライトによる「トニー・アンド・スーザン(原題)/Tony and Susan」(”スーザン”は語り手の主人公の主婦の名前で、”トニー”は作中小説の主人公の名前)で、日本翻訳版タイトルは「ミステリ原稿」・・・前夫から送られてきた原稿(この小説のタイトルが「ノクターナル・アニマルズ/Nocturnal Animals」=「夜の獣たち」)を、別な男性と結婚した主婦のスーザンが読んでいくうちに、前夫エドワードとの過去や今の結婚生活に思いを巡らすという心理小説です。


タイトルオープニングでは、極端に太った女性たちが妖しく踊るシーンから始まります。これらは主人公のギャラリーオープニングで展示されているアート作品(映像と彫刻)ということなのですが、かなりのインパクトです。トム・フォード曰く・・・太った女性は社会的な(美しさの?)枠組みに囚われていない存在として、主人公と対比しているということらしいのですが、赤いベルベットのカーテンを背景にしているところは、デヴィット・リンチ監督的な禍々しさを漂わせています。

若い頃アーティストを目指してたスーザン(エイミー・アダムス)は、裕福なハットン(アーミー・ハマー)と再婚・・・アートディーラーとして成功しています。小説版では、スーザンとハットンの結婚は破綻していないのですが(前夫のエドワードも別な女性と再婚している)・・・映画版では、ハットンは他の女性と浮気をしていて、二人の関係は冷えきっているセレブとして描かれているのです。そんなスーザン宛に、若い頃には小説家を目指していて、今は大学で映画を教えている前夫のエドワード(ジェイク・ジレンホール)から、「ノクターナル・アニマルズ」というタイトルの原稿が送られてきます。

「ノクターナル・アニマルズ」は、トニー(ジェイク・ジレンホール)が遭遇する悲惨な事件の物語・・・妻のローラ(アイラ・フィッシャー)と娘のインディア(エリー・バンバー)は、ハイウェイで遭遇した暴漢たち(アーロン・テイラー=ジョンソン)に誘拐されて、強姦されたあげくに惨殺されてしまいます。前夫エドワードと主人公トニーを、どちらもジェイク・ジレンホールによって演じられていることからも分かるように・・・「ノクターナル・アニマルズ」はエドワードとスーザンの物語でもあるようです。トニーは、癌で死を宣告されているボビー刑事(マイケル・シャノン)の手助けにより、事件から一年後に暴漢たちへ復讐を果たしますが、拳銃の暴発事故により、誤って自らも死んでしまうのです。

主人公が作中で小悦を読む「入れ子構造」となっている本作・・・スーザンは次第に残酷な小説の内容に引き込まれていき、前夫のエドワードが何故暴力的な小説を自分に送りつけて感想を求めてきたのか考え始めます。そして、幼馴染みのエドワードとのニューヨークでの再会、保守的で現実主義の厳しい母親に反対された結婚、エドワードの小説を厳しく評価して傷つけて、最後には妊娠していた子供を堕して離婚した経緯などを回想していくのです。現実のクールな配色、過去の暖かな色合い、小説のどぎつい色彩と、特徴的な映像で描き分けながら、時にはショットごとに入れ替わる「現在」「過去」「小説」を巧みな編集によって、小説家(クリエーター)のフィクションとノンフィクションの関係を紐解いていきます。

ここからネタバレを含みます。


現在や過去がスーザンによってビジュアライズされる作中小説の世界とリンクされていて、小説が著者である前夫エドワードの過去の体験によって構築されていることが明らかになっていきます。例えば・・・以前、スーザンがエドワードを傷つけた時にあった”赤いソファ”は、小説のトニーの妻と娘の死体が放置された”赤いソファ”と同じですし、エドワードがスーザンが二人の子供を堕胎手術をして、二人の関係が決定的に終わった時にあった”緑の車”は、トニーの襲う暴漢たちが乗っている”緑の車”と同じなのです。小説の中のトニーの妻はスーザンに似ていますし、娘はスーザンが堕した二人の子供かもしれません。小説の内容がトニーの復讐劇となっていくと、スーザンの画廊には、「REVENGE」=「復讐」と書かれた絵画があったりします。暴漢たちの正体を暴き、必要に復讐に誘うボビー刑事は、エドワードの強い別人格・・・かつてスーザンがエドワードを傷つけた「弱虫」という言葉が、追い詰めた暴漢から発せられた時、トニーは初めて拳銃を撃つことができるのです。

原稿を読み終わったスーザンは小説の感想を伝えるため、久しぶりにエドワードと会う約束をして、高級レストランで待ち合わせをします。しかし、いくら待ってもエドワードは姿を現しません。閉店間近のレストランで一人佇み、なにかを悟ったような表情のスーザンの姿で映画は終わるのです。正直いって”尻切れトンボ”で”謎めいた”エンディングであります。作中小説のトニーと同じようにエドワードも死んだのではないか?そもそもエドワードは、スーザンと二度と会うつもりさえなかったのではないのか?スーザンに待ちぼうけを食らわすことが、エドワードの復讐だったのか?


考えてみれば・・・現在のエドワードの姿というのは一度も画面に登場することはありません。スーザンの思い出す過去のエドワードの姿と、作中小説のトニーの姿しか映画では描かれていなのですから、エドワードの存在自体が観客にとっては漠然とした存在だったりします。強い衝撃を与えられた小説を書き上げたエドワードに対して、スーザンが改めて関心を持ったことは確かなようです。しかし、小説を書き上げて、スーザンとの過去からの呪縛から解き放たれたエドワードにとって・・・スーザンと再会する意味はないのかもしれません。

小説版では、スーザンが感想をエドワードに伝える約束をしようと、短い手紙を投函するところで終わります。映画版では、破綻した結婚生活という厳しい現実にいるスーザンが、さらに過去からも報復を受けるという・・・”より”深く心をえぐるような結末となっています。「シングルマン」にしても「ノクターナル・アニマルズ」にしても、トム・フォード監督の映画は、一般的に言って”ハッピーエンディング”ではなく・・・「過去への深い後悔」と「失った者への強い喪失感」を感じさるのです。


パートナーのリチャード・バックリー(元「VOGUE HOMME intternatinal」編集長)と約30年間を共にして、1990年代から2000年代初頭にはヨーロッパの老舗ブランドを再生させて一世を風靡、2005年には自社を設立、2012年には代理母出産で息子を授かり、2014年にはアメリカ国内で同性婚、ファッションデザイナー/映画監督としての成功だけでなく、私生活でも”超リア充”のトム・フォードが、何故「後悔」や「喪失」の映画を撮るのか?・・・これこそが、ボクにとって一番の”謎”であります。


「ノクターナル・アニマルズ(原題)」
原題/Nocturnal Animals」
2016年/アメリカ
監督、脚本、制作:トム・フォード
出演      :エイミー・アダムス、ジェイク・ジレンホール、マイケル・シャノン、アーロン・テイラー=ジョンソン、マイケル・シャノン、アーミー・ハマー、アイラ・フィッシャー、エリー・バンバー
2017年劇場公開予定


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「イン・ベット・ウィズ・マドンナ/Truth or Dare」から25年目の真実(Truth)・・・ブロンド・アンビション・ツアー(Blond Anbition Tour)のバックダンサーたちの、その後を追ったドキュメンタリー映画~「ポーズ~マドンナのバックダンサーたち~/Strike the Pose」~

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1990年、マドンナの世界的な人気のピークの時期に行なわれた「ブロンド・アンビション・ツアー/Blond Anbition Tour」は、セックスとカトリックをテーマとして宗教的な論争を巻き起こし、興行的な大成功を収めます。当時ファッション界で席巻していたジャン=ポール・ゴルチエによる衣装、表現主義映画「メトロポリス」にインスパイアされた近未来的な舞台セットなど、ビジュアル的に圧倒的な完成度であっただけではありません。

ブロンド・アンビション・ツアーが行なわれた時、ボクはニューヨーク在住だったのですが・・・当時、コンサートチケットを購入するためには、チケットブ売り場に徹夜で並ぶか、ひたすら電話をかけまくるしかありませんでした。どうしても行きたいならば、高額に釣り上げられたダフ屋から買うしかないのです。当然ながらブロンド・アンビション・ツアーは即完売・・・マジソンスクェアガーデンでの公演は、非常に高騰していました。

そんな中、マドンナファンだった友人から、チケットが手に入ったので一緒に行こうという誘いがあったのです。ステージから5列目の”かぶりつき”の超プレミアシートにも関わらず、その友人はボクには正規のチケット価格(40~50ドル?)しか請求しなかったので(当時、経済的には貧しかったボクには)有り難かったことを覚えています。数年後、その友人から、実際にはダフ屋から1枚500ドル(1990年頃1ドル=150円程度だったので約75000円!)で手に入れたと聞かされて、驚いたと同時に申し訳なく思ったものでした。


ブロンド・アンビション・ツアーでは、カソリック教会のような宗教イメージと「ライク・ア・ヴァージン」での自慰行為的なダンスが強い批判を浴びましたが、流行りという観点では「ヴォーグ/Vouge」で世界的に知られることになった”ヴォーギング”(Vouging)と呼ばれたダンスの人気が最も頂点に達していた時期でもあります。

”ヴォーギング”は、1980年代後半にはニューヨークのクラブシーンではみかけられましたが・・・そもそもはハーレムやイーストハーレムにいたラテン系やアフリカ系の貧しいゲイの若者たちが、殴り合いの喧嘩の変わりに”威嚇”し合ったのが始まりです。ヴォーグ誌のモデルのように、リッチでグラマラスなライフスタイルを表現するジャスチャーがダンスへと発展していったもので・・・ドキュメンタリー映画「パリ、夜は眠らない。」で詳しく描かれています。


翌1991年に公開された「イン・ベット・ウィズ・マドンナ/Truth or Dare」は「ブロンド・アンビション・ツアー/Blond Anbition Tour」に密着したドキュメンタリー映画で、当初の企画だったツアーの記録フィルムという枠を超えて、アメリカ全土(特に都市部以外の地方)に大きなインパクトを与えたのです。

当時は、エイズ蔓延による同性愛者への差別が激しくなり、政府へのエイズ対策批判運動が高まっていた時代でした。マドンナはゲイコミュニティーだけでなくセーフセックスの啓蒙運動や、性的嗜好による差別をなくそうという訴えは、エンターテイナーの域を超えて政治的オピニオンリーダーとしても影響力を発揮したのです。「イン・ベット・ウィズ・マドンナ」で露呈したマドンナの素(?)には、保守的な人種は眉をひそめてたものですが、マドンナファンにとっては期待どおりの破天荒っぷり・・・当時、人気絶頂のハリウッドスターだったケビン・コスナーや、付き合っていると報道されていたウォーレン・ベイティへの歯に衣着せぬ態度は小気味良いものだったのであります。


ただ、マドンナ以上に注目されたのは、ツアーメンバーとして参加していたバックダンサーたちだったかもしれません。男性バックダンサー7人中、6人がゲイというのは、業界的(都市部のゲイにも、ダンス業界にも)には”定説”だと思いますが、アメリカ全土にいる普通のティーンエイジャーにとっては驚愕の事実であったようで、映画公開直後から彼らは連日のようにテレビ番組で取り上げらるようになっていきます。

その結果・・・バックダンサー数名は、映画公開後にマドンナを訴えると表明します。彼らの言い分としては、バックダンサーとして雇われた自分たちはプライバシーを売りモノにするつもりはなかったということであったり、ゲイであることを全世界に公開されたドキュメンタリー映画で強制的にカミングアウトさせられたということでもあったのです。ゲイへの偏見や差別に対して一石を投じた作品だけあって、この裁判沙汰(のちに調停で解決)は水を差したような印象もありました。その後、マドンナも徐々にゲイ・コミュニティーからの距離をとっていtyたような印象もあり、表現の切り口を、より”エロス”の追求へ舵をきっていくキッカケになったのかもしれません。

あれから25年、ブロンド・アンビション・ツアー当時20代だったマドンナのバックダンサーたちは40代・・・その後の彼らを追ったドキュメンタリー映画「ポーズ~マドンナのバックダンサーたち~/Strike the Pose」が、ベルギーとオランダ資本(本作はアメリカ映画ではありません)で製作されます。トライベッカ映画祭やイベントで上映されたものの、アメリカ国内の劇場公開も限定的で、DVDのリリースはオランダ版ののみ・・・本作についてネットニュースで読んだ際、25年前の記憶が甦ってきたと同時に、どう考えても本作は”切ない”内容であろうことは容易く想像できたのです。

ここからネタバレを含みます。


”ヴォーギング”の中心ダンサーであったルイス・カマチョとホセ・エクスタラヴァガンザの足跡から、まず本作は追っていきます。40代半ばとなったルイスは、中年太りしていて当時の面影はありません。またホセは、体系的には変わらないものの痩せているだけ老けっぷりも激しく・・・25年という年月の残酷さをまじまじと感じさせられます。

彼ら二人ともドラッグの問題があったようで、ツアー後はバックダンサーとしての活躍は殆どありません。ただ、それでも彼らは自らの可能性を求めて、小さなダンスクラスで教えたり、ドラッグクィーンのダンスパフォーマーのひとりとして、再び活動を始めているのです。その彼らを支えるのは、やはりマドンナのバックダンサーであったというプライドなのかもしれません。


「イン・ベット・ウィズ・マドンナ」公開後にマドンナを訴えた3人のバックダンサーのうちのふたり・・・ケヴィン・アレキサンダー・シア(アジア系)とオリバー・クルムス(唯一のストレート)が、本作に出演したことは驚きでありました。当然(?)ながら、その後マドンナとは連絡を取っていないそうですが、ゲヴィンはバックダンサーとしてブロンド・アンビション・ツアー以後も活躍(レディ・ガガのツアーなど)しています。

バックダンサーの中で最も年下だったオリバーは、25年前とは別人のように中年太りをしてしまっています。ツアー後はラスベガスで公演されていたマドンナのそっくりさんショーの振り付けをするなど、明らかにマドンナのンバックダンサーであったという”利子”で食っていた印象・・・プロフェッショナルなトレーニングを受けていない自己流ヒップホップダンサーであったこともあり、現在もラスベガス在住であるものの、カジノホテルでウエイターのような仕事をしているようです。

尚・・・もう一人、マドンナを訴えたバックダンサーのガブリエル・トルーピンは1995年にエイズで亡くなっており、本作では彼の母親がインタビューに答えています。


サリム・ガウロースとカールトン・ウィルボーンは、元々ダンサーとしての基礎的な教育を受けていたこともあり、現在でもダンサー/講師として第一線で活躍しているようです。この二人は本作で、既にブロンド・アンビション・ツアーに参加していた時には、HIVポジティブであったことをカミングアウトしています。

サリムは、初めての男性経験で感染してしまったそうで・・・ハッキリと本作では明言していませんが、おそらくHIVポジティブであることが判明したことが、ベルギーからアメリカへの移住に繋がったようです。カールトンに於いては・・・ブロンド・アンビション・ツアーが始まった日本で体調の変化に気付き、HIVポジティブであったことが分かったというですから。当然のことながら、二人ともHIVポジティブであることはスタッフやツアーメンバーには隠してツアーに参加していたわけですが、セーフセックスを呼びかけることがツアーの大きなメッセージであったことを考えると、なんとも皮肉なものであります。

「ポーズ~マドンナのバックダンサーたち~」のクライマックスは、インタビューに答えた生存しているバックダンサー全員6人が、ツアー終了後初めて(?)顔を合わせる場面でしょう。(本作のプロモーションで、その後は何度も会っている様子ですが)

「イン・ベッド・ウィズ・マドンナ」の原題である「Truth or Dare」というのは・・・「真実を言うか?挑戦するか?」の選択をするアメリカのパーティーゲーム(?)で、「Truth」を選んだら意地悪な質問にも正直に答えなければならず、「Dare」を選んだらやりたくないことを実行しなければならないのです。「イン・ベッド・ウィズ・マドンナ」の中でも、マドンナとバックダンサーたちが「Truth or Dare」を遊ぶシーンは印象的でした。本作の終盤で6人が「Truth or Dare」を始めるのですが・・・この時に選ぶのは「Truth/真実を言う」だけ。25年の年月を隔てたからこそ、お互いに”真実”で向き合うことができたということでしょうか?

マドンナの「ブロンド・アンビション・ツアー」や「イン・ベッド・ウィズ・マドンナ」に思い入れのない世代にとっては、お涙頂戴のノスタルジーを煽るだけのドキュメンタリー映画かもしれません。ただ、短い時間であっても若き日に苦楽を共にした仲間は(例え、確執があったり、ソリが合わなかったとしても)年月が隔てれば困難を乗り越えた同志として絆を感じるようになるということ。「あのとき」が、いかに貴重な時間であったことを気付けるのは、若さを失ったということなのです・・・。


「ポーズ~マドンナのバックダンサーたち~」
原題/Strike the Pose
2016年/ベルギー、オランダ
監督 : エスター・グルド、ライエル・ズワーン
出演 : ルイス・カマチョ、ホセ・エクスタラヴァガンザ、サリム・ガウロース、オリバー・クルムス、ケヴィン・アレキサンダー・シア、カールトン・ウィルボーン、マドンナ(アーカイブ映像)
2017年4月7日より「Netflix」にて配信


「イン・ベッド・ウィズ・マドンナ」
原題/Truth or Dare
1991年/アメリカ
監督 : アレック・ケシシアン
出演 : マドンナ、ケヴィン・コスナー、ウォーレン・ビューティ、ジャン=ポール・ゴルティエ、マット・ディロン、サンドラ・バーンハード、ライオネル.リッチー、アントニオ・バンダラス、ペドロ・アルモドバル
1991年8月31日、日本公開


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ジョーン・クロフォード主演の初のテクニカラーは”おキャンプ映画”の怪作?・・・主人公のキャラクターが痛々しく本人とシンクロするの!~「トーチ・ソング(原題)/Touch Song」~

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ひと昔の”映画スター”というのは、役柄を演じるよりも、その映画スターのカリスマ的なイメージを演じているところがありました。そのため、どの作品を観ても似たような役柄(強いヒーローや純粋なヒロインなど)を演じることになったわけですが、それこそが”映画スター”らしさでもあったのです。勿論、演技派と呼ばれる役柄を演じることに長けたスター役者という存在もいなかったわけでわけでありませんが・・・。ジョーン・クロフォードは、そんな”映画スター”全盛の時代に、何度も何度もイメージの再生を繰り返すことで”映画スター”として君臨し続けたのです。

1950年代のジョーン・クロフォード作品は一般的には”駄作”ばかりといわれるのですが、ボクのとっては”腐りかけの円熟期”として、最も充実(?)した時代に思えます。その中でも一番の”怪作”(?)といわれるのが、本作「トーチ・ソング(原題)/Torch Song」です。

主人公のジェーン・スチュワートには、ジョーン・クロフォード本人が役柄のキャラクターに強く投影されています。まず、ジェーン・クロフォードはハリウッドのスターですが、ジェニー・スチュワートはブロードウェイのミュージカルスター・・・ワンマンショーがブロードウェイで公演されている人気のエンターテイナーという設定なのです。

ジェーン・クロフォード自身、フラッパー女優として最初人気となったこともあり、ミュージカルスター役というのは、ジェーン・クロフォードにとっては”原点”なのかもしれません。ただ、歌って踊っていたのは20数年前のこと・・・それに、フラッパーダンスというのは、やたらと手足をばたつかせている”だけ”だったりするので、そもそもダンサーとしての実力は「イカホド?」なのです。本作では、ダンスパートナーとバックダンサーによって、全体的なダンスの見栄えが良くなっているという印象ではあります。

1930年代のレビュー映画では、ジョーン・クロフォード自身が歌っていましたが・・・それは”映画スター”が歌うということで、集客力が見込めた時代の話。本作のためにジョーン・クロフォードのレコーディングテストは行なわれたようなのですが、結果的には満足できるレベルではないと判断されたようです。本編ではインディア・アダムスという歌手が全てのミュージカルナンバーを歌っていて、ジョーン・クロフォードは口パクをしていています。

主演のスターが歌わないミュージカル映画を「なんで、わざわざ?」とも思ってしまうのですが・・・当時、それほど珍しかったわけではありません。ただ、本作のミュージカルナンバーは、そもそもは他の作品のために、インディア・アダムスが歌っていながらも、本編ではカットされて”お蔵入り”していたなど、本作のために作られたナンバーはなく使い回しばかり・・・正直、寄せ集めの即席感は拭えません。

前年インディーズ系で製作された「突然の恐怖」でカムバックを果たしたジョーン・クロフォードは、本作でミョージカルという新境地を開拓するつもりだったとも言われていますが・・・古巣でもある”MGM”に解雇されて以来の復帰、そして自身の初のテクニカラー作品ということで、ジョーン・クロフォードの気合が入っていたことは想像できます。

”MGM”側も、かつてのスタジオを支えた往年のスターの一人ですから・・・主演女優用の楽屋3人分を改築して、最大級の”おもてなし”でジョーン・クロフォードを向かい入れています。しかし、本作は見るからにして低予算だし、脇を固める出演者達もA級スターはいません。テクニカラー作品ではあるものの、MGMのようなメジャースタジオの作品としては明らかにB級扱い・・・ある意味、本作はジョーン・クロフォードの”スター・パワー”に依存しているジョーン・クロフォードによるジョーン・クロフォードのためのジョーン・クロフォード映画なのです。

主人公のジェニー・スチュワートのキャラクターは設定だけでなく、キャラクターもジョーン・クロフォードをモデルにしているとしか思えないほど”シンクロ”しています。「ファンのためには努力を惜しまず」「すべてのことをチェックして自分流にしようとし」「ダメなモノは容赦なくき罵倒して切り捨てる」は、ジョーン・クロフォードをディフォルメしたような人間像・・・もはや”強い女性”というよりも”ドラァッグ・クィーン”そのもので、台詞の数々はドラァッグ・クィーンの決め台詞になるほどです。



「Evening with Jenny/イブニング・ウィズ・ジェニー」というブロードウェイ・レビューショーの公演を控えて・・・「You're All the World to Me」(「ロイヤル・ウエディング」で有名なナンバーの流用)のリハーサルに余念のないジェニー・スチュワード(ジョーン・クロフォード)は、ダンスパートナーのアレックス(チャールス・ウォルターズ/本作の監督でもある)が、ジェニーの足につまずいて何度も転ぶことに苛立ち、激しく叱咤します。振り付け師が「少しだけ足を引っ込めたら・・・」と提案すると、

「And, spoil that line?/で、この(美しい足の)ラインをなくせって?」

と反論します。ジェニーが舞台監督よりも振り付け師よりも誰よりも現場では力を持っていて、周辺を威圧する姿は、語り継がれているジョーン・クロフォーの姿そのものです。

ファンとして痛切に胸が痛むのは・・・ジェニーがアシスタント(メイディー・ノーマン)相手に台本読みをした後、ひとりベットに寝そべってつぶやく「I'm NOT afraid of being alone. I've NEVER been lonely.(一人なんて怖くない。決して淋しくない」という(グレタ・ガルボが言いそうな)台詞・・・次第に感極まってジェニーは泣き始めてしまいます。ジェーン・クロフォード本人が、自宅のベットで一人で泣いていたかは知る由はありませんが・・・もしかすると、こんな夜もあったのかもしれないと思えてしまうシーンです。


ジェニーには、若いツバメ(?)らしきクリフ(ギグ・ヤング)というボーイフレンドが常に側いるのですが、二人の関係は上手くいっているような感じではなくて、なんでジェニーが彼と付き合っているのか分かりません。このギグ・ヤングという男優は、1940年代から70年代まで脇役(ちょい役?)で活躍された方なのですが、どこかしら「枯葉」(1956年)で共演したクリフ・ロバートソンに似ていて・・・これって、ジョーン・クロフォードの好みのタイプなのかしら?と思ってしまうほど。当然のことながら、物語が進むにつれて、いつの間にかクリフの存在は消えてしまうのは言うまでもありません。

ジャニーの横暴っぷりに愛想を尽かして、リハーサルのピアニストが辞めてしまったために、新しく雇われたのが目が見えないタイ・グラハム(マイケル・ワイルディング)というピアニストであります。当初は、楽譜を見ることができないなんてと、タイ・グラハムを解雇しようとするジェニー・・・しかし、周りのスタッフや人間はジェニーの”いいなり”なのですが、このタイ・グラハムはジェニーの辛辣な態度に辛口で反論しながらも、優しく受け止めるくれるのです。次第にジェニーはタイ・グラハムを意識するようになります。

「目が見えないってどういうことなのかしら?」と考えたジェニーが、時計の針を手で触って時間を確かめようとしてみたり、手探りでライターで煙草に火をつけようとして火傷しそうになったり・・・というのは、なんとも天然っぽい(?)一面でもあります。また、タイ・グラハムと音楽仲間が演奏パーティーを楽しんでいる自宅へ、いきなり訪問するという空気の読めなさも、人との付き合い方が不器用な人なのね・・・と愛らしく思えたりもします。


音楽仲間でもある美人のマーサ(ドロシー・パトリック)は、タイ・グラハムを深く愛していて、ことあるごとに積極的に彼に迫っているのですが・・・タイ・グラハムは彼女のアプローチを頑に拒否します。さまざまな言葉でマーサの美貌を説明されても、見たことはないから分からないと言い張って、決してマーサを受け入れないのです。しかし、何故か、ジェニーの美しさにはついては、彼は確信を持っているようなのであります。

実は、第二次世界大戦で視力を失ってしまう前、タイ・グラハムはブロードウェイの評論家で、デビューしたばかりで無名のジェニーの美しさと才能を、いち早く認めていたのです。彼の深い愛情を確信したジェニーはタイ・グラハムの自宅に忍び込み、マーサを追い出してしまいます。ジェニーが何をマーサに伝えたのかは描かれませんが・・・マーサを絶望させるような厳しい言葉であったのでしょう。


目が不自由になったことでジェニーの愛を勝ち取ることは出来ないと諦めて、逆にジェニーに対して厳しく接することしか出来なかったタイ・グラハムの心を、ジェニーは問い詰めることで無理矢理に開きます。そうして、やっと素直にお互いを必要としていることを認められるようになったジェニーとタイ・グラハムは、しっかりと抱き合い、キスをして、映画は終わるのです。

ブロードウェイのスターであるジェニーが、彼女の姿を見ることができない目の不自由なピアニストと結ばれる・・・というのは、何とも痛々しい”オチ”に感じてしまいます。役柄のジェニー・スチュワートも、演じるジョーン・クロフォードも、40代後半となって、多少の美貌の陰りが見え始めた頃。もう二度と自分を見ることのできない男は、若くて美しかった過去の自分の姿を脳裏に焼き付けているわけで・・・その姿は、永遠に年を取ることはないのです。過去の美に執着する女にとって、これほど都合のいい男はいないわけで、この二人が結ばれることはハッピーエンドではあるのですが・・・あまりにも切な過ぎます。


本作を「おキャンプ映画」の中でも、一番の怪作と言われる由縁は、本編の終盤で演じられる「Two-Faced Woman」というミュージカルナンバーがあるからです。このナンバーは、元々は「バンド・ワゴン」というミュージカルのために作られたもの・・・ただ「トーチ・ソング」では、ジェニー(とバックダンサーたちも)が黒塗りで黒人に扮するという”トンデモナイ”アレンジがされているのです。南部では白人と黒人の隔離政策が続いていて、黒人の人権運動が始める前ではありますが、本作が製作された1953年当時であっても、白人の俳優が顔を黒く塗って黒人を演じるというのは、かなり前時代的なこと・・・それもジョーン・クロフォードという大御所が、真面目に(?)やっているのですから、違和感が半端ありません。

公開当時、すでにズレまくりだった本作は、批評家から酷評され、興行的にも失敗・・・ジョーン・クロフォードは、二度と”MGM”で映画を撮ることななく、当然のことながら、ミュージカル映画の出演も本作っきりとなったのです。しかし、年月が経つにつれて、ジョーン・クロフォードと主人公のキャラクターが痛々しくシンクロする皮肉な本作が、「おキャンプ映画」として熱烈に支持される作品となったことは、ジョーン・クロフォードの表も裏も、美も醜も、ファンが愛してやまないことの証なのかもしれません。


「トーチ・ソング(原題)」
原題/Touch Song
1953年/アメリカ
監督 : チャールス・ウォルターズ
出演 : ジョーン・クロフォード、マイケル・ワイルディング、マージョリー・ランボー、メイディー・ノーマン、チャールス・ウォルターズ、ギグ・ヤング、ハリー・モーガン、ドロシー・パトリック
日本劇場未公開

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「信じる者は呪われる!」・・・”検索してはいけないワード”になったスプラッター系アダルトビデオ「猟奇エロチカ 肉だるま」、都市伝説の元ネタになった後日談ドキュメンタリー風アダルトビデオ「オソレザン 降霊ファック」

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インターネットで”検索してはいけないワード”として知られる言葉に「肉だるま」というのがあります。これは、1999年にマニア系ビデオメーカーのアロマ企画から発売されたアダルトビデオのタイトルで・・・「観たら呪われるビデオ」としても知られています。

タイトルどおり女性の四肢を切り落として”肉だるま”にするという、スプラッター系のアダルトビデオではあるのですが、都市伝説となった理由は、内容の過激さだけではありません。本作の出演女優であった大場加奈子(大馬鹿な子をもじった芸名)さんが、発売日の前日(1週間前という説もあり)に、下北沢駅近くの踏切で電車に轢かれて亡くなったからなのです。


お酒が好きで一人で飲み歩くことが日課だったいう彼女が泥酔して踏切に侵入して、運悪く”事故”に遭遇したとも言われる一方・・・「肉だるま」出演後、精神的に不安定になり自ら踏切に飛び込んだ”自殺”だったという人もいます。地元の友人にアダルトビデオに出演していることが知られて、精神的に苦しんでいたらしいという証言や、当時付き合ってた彼氏との関係が上手くいっていなかったという話もあるのです。

”事故”か”自殺”のいずれだとしても「肉だるま」発売日直前に彼女が亡くなられたことは事実のようで・・・出演作品の中で手足を切断されてバラバラになった彼女が、実際に亡くなった時も同じように電車にひかれてバラバラになってしまったということが、本作の”呪われている”感を煽っているのかもしれません。

「肉だるま」は、多くのスナッフフィルムにありがちな”ドキュメンター”というスタイルになっています。出演者は4人だけ・・・カナ役の大場加奈子さんと、キク役の菊淋、悪徳カメラマン役は当時のアロマ企画社長の北野雄二氏で、悪徳監督役は穴留玉狂監督です。

大場加奈子さんは、下北沢の飲み屋で北野雄二氏にスカウトされた”素人さん”だったそうで、本作以外には一作だけハメ撮りビデオに出演したことはあったそうです。穴留玉狂監督は「私の赤い腸(はな)」というアダルトビデオ(女性が過激な自傷行為を行うだけ)でアロマ企画からデビューして、本作が2作目。菊淋は、現在でもAV男優と監督の二足のわらじをはいてアダルトビデオ業界で活躍しています。


悪徳監督(穴留玉狂)は、クライアントの趣味嗜好(フェチ)に合わせたアダルトビデオを撮っている人物らしく・・・撮影の一週間前に、カメラマンから次回作の連絡があり、「最後に男優も殺しちゃうんで」と伝えられます。その後、監督はカナ(大場加奈子)とキク(菊淋)という素人を面接をするのです。カナは愛人バンクに登録しながら、いろんな仕事を掛け持ちしている女性で、プレイに関してはSMもスカトロも「NGなし」と断言して、やる気を見せます。キクは”死体好き”という変態で、今回の撮影内容に関しては「了解済み」ということらしいのです。


撮影現場は、伊豆の一軒家(実際に北野雄二氏の知り合いから借りた家らしい)・・・4人が到着するやいなや、絡みの撮影が始まります。ベットの底板が壊れたり、ダミーの射精用の”疑似”が使われたり・・・アダルトビデオ撮影現場の裏側を垣間みるようです。その夜には、豪勢に生きた伊勢エビをさばいて、和気あいあいとした食事会が繰り広げられます。


翌朝、グラドル風のイメージビデオのような着衣での撮影が行なわれた後、いよいよメインの撮影が始まるのですが・・・面談で「NGなし」とカナが断言していたこともあり、縄縛りや鞭打ちなどのSMや、浣腸プレイが待っていたのです。しかし実際に撮影が始まると「恥ずかしい」「痛い」「嫌だ」と、カナは駄々をこね始めます。クライアントの意向で”スカトロ”だけは、絶対に必要らしく、当初は優しく説得しようとする監督とカメラマン。しかし、本気で嫌がるカナの態度に撮影現場は一気にシラケ気味・・・監督はキレて激しく叱咤しますが意志は固く、カナはひとり帰宅することになるのです。実は、ここからが「肉だるま」の本編なのであります!

ここからネタバレとグロテスクな描写が含まれます。


玄関先で靴を履こうとしているカナを、監督が背後からバットで殴って気を失わせて、失神状態で撮影部屋へ連れ戻すのです。股間の部分だけ衣服を切り取られて丸出し状態にされながら、頭は包帯をぐるぐる巻きにして、手足をベットに括りつけられてしまいます。監督はキクにカナを犯すように指示・・・そして、キクが腰を振っている最中、監督はナタを取り出して女優の右足首を切り落としていまうのです。


キクは一瞬戸惑いを見せながらも、カナが無反応なことあって行為を続けます。次に膝下あたりにナタを振り落すのです。今度は、カナも叫び声を上げて反応・・・監督はキクを突き飛ばしてカナに馬乗りになり、舌を引っ張り出して皮むき器で舌を削ぎ始めます。(本物の豚の舌を使ったらしい)苦痛の悲鳴をあげるカナに構わず、裁ちバサミで舌先を二つに切ってしまうのです。


監督とカメラマンによるカナへの残虐行為は夜通しで行なわれます。監督はナイフで右腕を切り落とそうとするのですが、骨や皮に試行錯誤するのですが、それさえも監督は楽しんでいる様子。さらに、止血剤や痛み止めのモルヒネを打ちながら、息絶え絶えのカナに向かって「痛いの~?生きたいの~?」と、子供をあやすかのように問いかけるのです。まるで、息絶え絶えのカナを愛しんでいるかのようで・・・残虐なフェチに恐怖を感じます。


居眠りしていた(この状況のショックから?)キクを起こして、監督は左足を切り落とすように命令・・・洗脳されたのかのように監督の言いなりのキクは、素直にナタをカナの膝下に振り下ろすのです。もはや、カナが生きていることがアリエナイ感じでありますが・・・カナのお腹をナイフで裂いた監督は、その切り口を広げながら「気持ちいいよ~」と、キクに犯すように促すのです。そもそも”死体好き”を自負していたキクでありますから、すぐさま勃起したモノを挿入して、異様に興奮して射精してしまいます。


その様子を背後から眺めていた監督は、今度はキクの後頭部に一撃・・・「なんで、なんで」と断末魔のつぶやきをしながら、キクも息絶えます。監督はキクの股間から睾丸を取り出し、カナの顔面にナタを振り下ろし顔を二つに割って殺害・・・カメラマンは惨劇の現場をじっくりとカメラに収めて、撮影は終了します。監督は誰か(スナッフビデオの製作を依頼したクライアント?)に電話で後片付けの依頼をすると・・・「帰りますかっ」とカメラマンに向かって話しかけ、本編は終わるのです。


本作よりも十数年前につくられた「ギニーピッグ2 血肉の華」と比較すると、特殊効果は稚拙なレベルです。しかし、本作の制作費が65万円であったことを考慮すると、これはこれで上出来なのかもしれません。穴留玉狂監督は、美容学校に通った経験を生かして特殊効果も担当したそうです。人体分解が見せ場の本作には、全身のダミーは制作しなければならなかったようなので、制作費の殆どはダミー制作費であったと思われます。ちなみに、大場加奈子さんの本作のギャラは5万円だったそうで・・・当時のアダルトビデオ業界の常識でも破格の低ギャラだったそうです。

アダルトビデオとしては”ヌケない”ことがアダ(?)となってか、一時期にはVHSテープのセールワゴンで100円で投げ売りされていたこともあったようですが、ネット上で「肉だるま」が都市伝説化したことによって、世間の注目を浴びる作品となったのです。2000年代半ばには、アロマ企画直営の高円寺バロック(現在は新宿に移転?)で、DVD版が販売されていたようですし、去年(2016年)にはアロマ企画の通販サイトでもDVD版が再販されています。

現在は再び販売終了となり、DVD版の入手は困難になっていますが、アメリカのMASSCRE VIDEO社から発売されたDVD版は、日本のアマゾンでも購入可能(2017年6月時点)。ボクが視聴したのは、この海外版ですが、日本国内で流通したビデオと同じマスターを使用しているらしく、モザイク加工されています。実は、このモザイク加工が本作のリアル感に貢献しているところありまして・・・ぼかされている部分があることで、特殊効果の”粗”が気にならないのです。

「観たら呪われるビデオ」と言われている本作に、どのような”呪い”があるのかと調べてみると・・・かなり胡散臭いところがあります。何故なら、どれもこれも「肉だるま」のスタッフに起こった出来事で、あくまでも彼らの自己申告であるからです。また”呪い”と言われる話の元になったのは、女優さんが亡くなってから3年後に「肉だるま」と同じスタッフとキャストによって(性懲りもなく!)制作された「オソレザン 降霊ファック」というドキュメンタリー風アダルトビデオの中で語られていた事なのであります。


松永花葉という女優を伴って、北野雄二氏、AV男優の菊淋、穴留玉狂と他スタッフ2名と恐山のイタコさんに大場加奈子さんの降霊して、彼女の死の真相を解明することが目的の作品なのですが・・・アダルトビデオとしての要素は、北野氏と菊淋が代わる代わるで女優とエッチをするというところです。口内射精したザーメンをお地蔵様に吐いたり、わざわざ恐山の賽の河原でエッチしたり、仏様のフィギュアをアソコに挿入したり・・・と、不謹慎極まりありません。


大場加奈子さんとの思い出などを「肉だるま」の映像を挟みながら、北野雄二氏が出演女優に語るのが・・・彼女の命日になると不思議なことが起きるという”呪い”の数々(まとめサイトよって多少の違いあり)なのであります。

撮影スタジオに行こうとしたら、彼女が埋葬された雑司ヶ谷霊園に着いた。

サラリーマンのスーツであるはずの男優の衣装が、喪服になっていた。

北野雄二監督が絡みをする撮影が、呼吸困難になって出来なくなった。

撮影後の帰路で、いきなり黒猫が道に飛び出してきて事故りそうになった。

菊淋が共演することになった女優の名前が「カナ」だった。

打ち上げをしようとして、辿り着いた店が「スナック カナ」だった。

お酒をお供えしたら、不思議なことが起こらなくなった。

スプラッター系の作品の企画をすると、穴留玉狂監督の精神が不安定になる。

”呪い”であって欲しい(そうであった方が楽しい?おもしろい?儲かりそう?)という先入観が、偶発的な出来事を”呪い”と結びつけているとしか思えません。大場加奈子さんの死をネタにしたビデオの販売促進のために、不届きにも”呪い”を利用しているだけなのです。「オソレザン」の中で語られていた”呪い”の現象が、真しやかにネットで拡散し、やがて「本当の呪いのビデオであって欲しい!」という”オカルト好きな人々”の願望と結びついて「検索してはいけないワード」や「観たら呪われるビデオ」という都市伝説になっていったのだと思われます。

「信じる者は呪われる!」


販促の”呪い”には恐怖心を感じませんでしたが・・・「肉だるま」撮影時の話でドン引きしたことがあります。スプラッターシーンの撮影後、現場は異様な興奮状態になり、北野雄二氏、菊淋、穴留玉狂監督、大場加奈子さんの(プライベートな?)4Pで盛り上がったというのです。やはり「肉だるま」に関わった全員、フツーの精神の人たちではありません。ただ、大場加奈子さんが嫌々撮影に臨んでいたわけでなく、本人的には結構ノリノリであった(楽しんでいた?)であったのかもしれないというのは・・・妙にホッとしてしまうところもあります。

穴留玉狂監督は、近年はスカトロ系アダルトビデオを専門としているようで、手掛けている殆どのタイトルに「糞」の文字が入っているという徹底ぶり!本当の殺人や傷害行為を行なっている映像を販売/流通させることは法律上不可能なので、全てのスプラッタービデオは疑似で制作するしかありませんが、スカトロビデオならマニア(もしくはお金のためにできる人)が出演してくれれば「本物」が法律に触れることなく撮影することができます。性のタブーのハードルは年々低くなっているので、スカトロも珍しくはなくなっているようですが・・・まだまだ一般的には一線を越えた世界です。

ただ「ジャンク」「デスファイル」の死体ビデオ、極限のSMドキュメント、獣姦モノ、スカトロ、障害者や奇形者とのセックスと、倫理観とアダルトビデオの可能性に挑戦していたV&Rカンパニー(安達かおる、バクシーシ山下による1980~90年代の一連の作品)のようなタブー破りの”メッセージ性”というのは、穴留玉狂監督には欠如しているように思います。しかし、逆に安っぽい禍々しさに際立っていたからこそ、都市伝説になりえたのかもしれません。

ちなみに、ボクは「肉だるま」を数回観ましたが、現時点で体調不良などの呪われている兆候は、全く起こっていません。そもそも、ボクは霊的に敏感な方ではないし、都市伝説のたぐいは信じない方なので、たとえ呪われていても(!)気付つかない可能性もありそうです。しかし、この記事を最後に本ブログが二度と更新されることがなかっとしたら・・・「観たら呪われる」という都市伝説どおり、ボクは本当に呪われてしまったということなのかもしれません・・・(笑)


「猟奇エロチカ 肉だるま」
1999年/日本
監督 : 穴留玉狂
出演 : 大場加奈子、菊淋、穴留玉狂


「オソレザン~降霊ファック~」
2002年/日本
監督 : 北野雄二
監督 : 松永花葉、北野雄二、菊淋、穴留玉狂


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未解決の殺人事件の真相に迫る”だけじゃない”ドキュメンタリーシリーズ・・・衝撃的な事実が明らかになればなるほど深い闇に引きづり込まれていく・・・~Netflix オリジナル作品「キーパーズ/The Keepers」~

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下世話な興味をひく犯罪事件については、テレビニュースや新聞の報道以外にも、ワイドショーや週刊誌のネタとして消費されることが多いものですが(日本だけでなく世界的に)・・・未解決犯罪のドキュメンタリー作品が数多く制作されるアメリカでは、実際に事件解決/犯人逮捕となるケース(「ザ・ジンクス/The Jinx」など)があったりして、ひとつのジャンルとして確立されているようです。

「殺人者への道/Making Murders」「アマンダ・ノックス/Amanda Knox」「ジョンベネ 殺害事件の謎/Casting JonBenet」などのオリジナルドの犯罪キュメンタリーを次々と配信するNetflix(ネットフリックス)から配信されている「キーパーズ/The Keepers」は、1969年に起こった未解決のシスター・キャシー・セスニック殺人事件の真相に迫る全7回(なんと約7時間!)のドキュメンタリーシリーズであります。

事件が起こったメリーランド州のボルチモアは、アメリカの中でもカトリック教会が大きな影響力を持っている街として知られており・・・ジョン・ウォーターズ監督をはじめ、ディヴァイン、ミンク・ストール、デヴィット・ロッカリー、マリー・ヴィヴィアン・ピアース、エディス・マジーらの出身地であり、宗教的抑圧(?)のもと、おかしな人がたくさん(?)排出された土地柄というイメージがあったりします・・・ボク的には(笑)。

シスター・キャシー・セスニック殺人事件というのは・・・ボルチモアにあったキーオ大司教高校で英語の教師を務めていたシスター・キャシーが、1969年11月7日夜に行方不明になり、翌年1月に死体で発見されたという未解決の事件で、彼女に何が起こったのか、誰が彼女を殺したのか、どうして彼女の死体が町外れのゴミ捨て場に約二ヶ月後に発見されたのかなど、未だに分かっていないのです。

本作の監督であるライアン・ホワイト氏の叔母が、シスター・キャシーが元生徒だったことが制作のきっかけだったそうですが・・・同じく教え子であったジェマ・ホスキンズ(Gemma Hoskins)さんと、アビー・シャウブ(Abbie Schaub)さんの二人によって、事件の真相解明を求めて開設されたFacebookページ(現在はThe Keepers Ofiicial Groupに移転)が、多くのキーオ高校の卒業生や関係者に事件を風化させてはならないという思いを起こさせたに違いありません。


事件発生時、シスター・キャシーは同じくキーオ高校で教師をしていたシスター・ラッセルと(カトリックのシスターが共同生活を送ることが当たり前だった当時としては実験的な試みとして)一般のアパートメントでルームシェアをしていました。シスター・キャシーは妹の婚約祝いを買いに出かけて、その夜帰宅しなかったのです。ルームメイトのシスター・ラッセルは、すぐに警察に連絡することはなく・・・まず、シスター・キャシーと個人的に親しかった(当時は神父だった)ジェリー・クーブ氏を呼び出します。朝方、シスター・キャシーの車は、自宅アパートメントの近くに不自然な位置に停車しているのが、ジェリーによって発見されるのです。

キーオ高校の生徒たちには詳しいことを伝られることもなかったそうで・・・(行方不明になった11月7日は金曜日だったので)週明けの月曜日(11月10日)に、シスター・キャシーがいなくなってしまったこと”だけ”を知らされるのです。事件当時25歳だったシスター・キャシーは、年齢的に女生徒達とも近く”お姉さん”的な尊敬と憧れの存在であったそうで、生徒たちのショックは計り知れません。それ故、元教え子のジェマやアビーは、事件発生から45年経っても真相を追求せずにはいられなかったのかもしれません。

ジェマとアビーのacebookページ以前・・・1994年にシスター・キャシー・セスニック殺人事件は、キーオ高校の元生徒を名乗る匿名女性の衝撃的な告発よって全米の注目を集めているのですが、本作では匿名女性本人のジーン・ハルガドン・ウェーナー(Jean Hargadon Wehner)から詳細が語られます。事件当時、キーオ高校は修道女によって運営されていたのですが、ジョゼフ・マスケル(Joseph Maskell)とニール・マグナス(Neil Magnus)という二人の神父も在籍してしました。ジーンは二人の神父から性的虐待を受けていたのです。


ジーンの証言は、聞くだけでも心が痛むほど具体的であります。叔父から性的な悪戯されたことを懺悔したジーンを、最初に虐待したのはマグナス神父・・・彼はジーンの懺悔に耳を傾けながら自慰をしていたといいます。その後、マグナス神父だけでなくマスケル神父も加わり、聖霊であるとして精液を飲み干させられたり、罵られながら強姦されたり、張型で悪戯されたりと、在籍中は繰り返し繰り返し性的虐待を受け続けていたのです。

”神”に近い存在であった神父から”性的虐待”を受けているということは、当時のジーンには認識できせんでした。性的虐待をされた者の多くは、罪悪感とストレスより虐待されたことさえ記憶からさえ消し去ってしまいます。卒業から20年以上経った、あるとき・・・高校時代の同級生から同窓会に誘われたことをきっかけに、ジーンは徐々に記憶を取り戻していくのです。

1990年代には、記憶を取り戻したという人々による虐待の告発が、アメリカでは多く報道されていました。一時期、大きな社会問題となったのですが・・・年月が経ってしまうと虐待の事実を証明をする手段がなく、被害者の訴えが認められないことも多々あったのです。ただし、カトリック教会内では性的虐待は(男女共に)全米各地で起こっていたことが明らかで、ジーンも氷山の一角であったのかもしれません。

ジーンの他にも、ジーンと共に匿名で告発していたテレサ・ランキャスター(Teresa Lancaster)や、本作でのインタビューに応じたキャシー・ホベック(Kathy Hobeck)やドナ・ヴォンデンボシュ(Donna Vondenbosch)からも、神父らによる性的虐待の実体が語られます。女生徒の個人情報を知ることのできた彼らは、過去に性的な虐待の経験のある者や家庭環境が悪く親子関係が破綻している者を選別・・・信仰だけでなく、精神分析、薬物、催眠術を駆使して、彼女たちに非があるようにマインドを操って、性的虐待をしていたのです。


ジーンによる推理は・・・マスカル神父らの女生徒達へ性的虐待を知ったシスター・キャシーは、警察に訴えるなど何らかの行動を起こそうとしていたため、口封じのために殺されたというのです。ただ、殺害に関与したり、遺体を処理したのは、神父らとは直接関係のなかった人物であったと示唆します。また、ジーンはマスカル神父に連れられてシスター・キャシーの死体を見せられたという証言もしています。シスター・キャシーの死体を見せることで、ジーンの口封じもしたということなのです。

1994年に行なわれたジーンによる告発は、結果的には不起訴となります。ボルチモアのカトリック教会からは協力してもらえるはずもなく、ジーンは自ら虐待の証明することを強いられるのですが・・・警察は証拠となる文書を紛失、州検事も証拠不十分という判断を下します。この時点で、既にマグナス神父は死去していましたが、マスケル神父は復職していたのですから驚きです。性的虐待の被害者が、差別や偏見を乗り越えて声を上げることあげることが、どれほど困難なことなのか・・・さらに、法律に従って虐待を証明して起訴する道のりが、どれほど険しいのかを思い知らされます。

本作が、被害者だけの回想で構成されていたとしたら、カトリック神父による性的虐待の暴露ドキュメンタリーのひとつでしかなかったかもしれません。しかし、本作では被害者だけでなく、事件当時に捜査に関わった警察関係者、虐待されていた女生徒を診察した婦人科医、1994年に起訴を取り下げた性犯罪班の州検事・・・さらに、シスター・キャシーの殺人に関わったかもしれない隣人のビリー・シュミッド(Billy Schmid)とエドガー・デヴィットソン(Edgar Davidson)という人物の存在を、彼らの親族からの告発で発見・・・本人にもインタビューしているのです。

ここからネタバレを含みます。


加害者側の関係者の多くは既に亡くなっていたり、生存していたとしても高齢でまともにインタビューができる状態ではなかったりします。シスター・キャシーが何故殺されなければならなかったのか、どう殺害されて死体遺棄されたのか・・・その答えの糸口は見つかりそうで見つからないのです。性的虐待を暴露しようとしていたシスター・キャシーの動向を察知したマスカル神父が、ビリーとエドガーに殺害を指示したのではないかと推測はできるのですが・・・真相は本作の中では明らかにはされません。しかし、7時間にも及ぶ本作を観ていると、犯人探し”だけ”が目的ではなくなっていきます。

シスター・キャシー・セズニック殺人事件の真相は、いまだに分かっていませんが・・・被害者が声をあげたことで、メリーランド州の性的虐待の通報期限が(25歳から38歳に)延長されたり、少しだけ状況は改善されつつあります。本作に出演した被害者と家族、事件に関わった人々は、各自それぞれの”幕引き”をして人生を歩んでいくしかないのです。でも、それは過去を葬り去ることではありません。いつか、真実を遮る壁が打ち砕れるまで「キーパーズ/The Keepers」は終わっていないのですから。


「キーパーズ」
原題/The Keepers
2017年/アメリカ
監督 : ライアン・ホワイト
2017年5月19日より「Netflix」にて配信

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三島由紀夫の「切腹映画」!・・・”武士道”でも”愛国主義”でもない同性愛的なマゾシズムの”切腹ごっこ”~「憂國」「人斬り」「巨根伝説 美しき謎」「愛の処刑」「Mishima : A Life in Four Chapters/MISHIMAーー11月25日・快晴(仮題)」「11・25 自決の日 三島由紀夫と若者たち」~

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ボクが小学生の頃(1970年代)・・・男の子たちの間では”切腹ごっこ”なるものが流行っていた時期がありました。定規などをお腹に当てて「うっ・・」と呻いて、前屈みになって死んだ真似をするという他愛ないもので、お腹から血や腸が飛び出してくる様子まで再現することを、この上もなく面白がっていたわけであります。当時は、毎晩のようにテレビでも時代劇がやっていたし、切腹シーンがお茶の間でフツーに放映されていた時代ではあったのですが、子供たちに強いインパクトを与えたのは、1970年11月25日に起こった三島由紀夫の自決事件だったのです。

三島由紀夫が”切腹フェチ”であったことは、著書からも言動からも三島独特の”美学”として、生前から周知の事実であったと思います。1960年、増村保造監督の「からっ風野郎」でヤクザ役で映画主演デビューを果たしていた三島由紀夫は、1965年に 短編の切腹小説「憂國」の映画化を企画するのですが、当初は海外の映画祭への出品を前提に、芸術映画として製作しよう話もあったそうです。しかし、三島由紀夫は映画会社から干渉されることを嫌がり、あくまでも”自主映画”として製作することにこだわったため、大映のプロデューサーだった藤井浩明氏によって、秘密裏に大映のスタッフが集められて、会社上層部には隠れて撮影されることになります。そのため、撮影、メーキャップ・アーティスト以外のスタッフはアンクレジットとなっているのです。


「憂國」は、二・二六事件に参加できなかった新婚の中尉が仲間と役職の間で苦しんで、自分は切腹で妻は自害で心中という・・・三島由紀夫の典型的な”死の美学”の物語。能舞台を連想させるようなミニマルなセットと、三島由紀夫扮する中尉と妻(鶴岡淑子)の二人のみの出演者という、当時としては斬新で実験的な映画であります。三島由紀夫は企画当初から・・・台詞なしで字幕によって物語が説明されること、音楽はワグナー作曲の「トリスタンとイゾルデ」を使用することを考えていたそうです。「からっ風野郎」では大根役者っぷりが叩かれて不評だった三島由紀夫でしたが、本作では台詞がないことが作品の芸術性を高めるのに功を博したかもしれません。ボディビルディングに陶酔していた三島由紀夫は、ここぞとばかりに裸体を披露してします。三島由紀夫がリアルさにこだわった切腹シーンには、本物の豚の内蔵を使って飛び出す内蔵を再現・・・当時のスプラッター表現としてはモノクロの画面と相まって、かなりショッキングです。


日本で「憂國」は、当時は海外のアート作品配給専門だったATGで上映・・・「憂國」は28分の短編映画だったので、併映はルイス・ブニュエル監督の「小間使いの日記」だったそうですが、記録的な大ヒットとなります。後に独立プロと半分ずつ予算を出す「一千万円映画」と呼ばれるATGの低予算映画のきっかけになったのは、実験的な前衛映画であった「憂國」の成功があったと言われています。しかし、三島由紀夫の死後、未亡人の要望により、上映用のフィルムは全て焼却処分されてしまうのです。表向きは、自決事件をストレートに連想させるからという理由ですが・・・もしかすると、未亡人は「憂國」に秘められていた三島由紀夫にとっての”切腹”の意味が許せなかったのしれません。ボクが初めて「憂國」を観たのは、フランス上映版のコピーをダビングしたビデオテープだったので、本作の映像美の見る影もない粗悪なモノでした。2005年、「憂國」のネガフィルムと資料が三島由紀夫の自宅で発見された(実は未亡人の死後の1995年には発見されていたらしい)ことが公表されて、翌年には日本国内ではDVDと全集別巻として発売されています。


演出を担当した堂本正樹は、慶応普通部4年生の時(1949年頃?)に、銀座のゲイバー「ブランズウィク」のボーイから新人作家だった三島由紀夫を紹介されたという人物・・・二人の仲をとりもったボーイが亡くなったことがきっかけで親密になり、三島由紀夫の”弟分”として親交を結んだとのこと。「憂國」の映画化が企画されるずっと前から、二人で”切腹ごっこ”をしていたそうです。三島由紀夫は「聚楽物語」の無惨絵を見せて”切腹ごっこ”に誘ってきたそうで・・・新宿の小滝橋通りの岩風呂のあった宿にしけこみ(!?)、”兄弟ごっこ”といって風呂で背中を流し合い、忠臣蔵の判官切腹の場面、満州皇帝の王子と甘粕大尉、沈没する船の船長と少年水兵、ヤクザと学習院の坊ちゃんなど、三島由紀夫の好んだ設定で”切腹ごっこ”は繰り返し行なわれたといいます。美少年に見守られながら切腹をするシチュエーションには、特に興奮していた様子で、”切腹ごっこ”をしながら三島由紀夫は勃起していたそうです。堂本正樹によると「憂國」の新婚夫婦という設定は”方便”で、実は”美少年と美男”の物語であったとのこと・・・三島由紀夫と堂本正樹の”兄弟の神話”であったというのですが、三島由紀夫が”切腹ごっこ”をしていたのは、堂本正樹”だけ”ではなく他にも何人かいたと言われています。


三島由紀夫が自決する一年前に公開された五社英雄監督の映画作品「人斬り」で、三島由紀夫は再びカメラの前で切腹を演じることになります。「人斬り」は勝新太郎主演の人斬り以蔵の半生の物語で、勝プロダクションの第一作目・・・勝新太郎によって演じられた人懐っこい以蔵のキャラクター、仲代達矢や石原裕次郎などのスター共演、五社英雄らしい血しぶき殺陣シーンの娯楽作品で、興行的にも大ヒットします。三島由紀夫が演じるのは、以蔵の理解者であり友人でもあった田中新兵衛役で、主人公の以蔵と対比して寡黙でありますが、以蔵の裏切りにより切腹で自決するという物語に重要な役柄です。

新兵衛の出演場面はそれほど多くはないのですが、勝新太郎が演じる以蔵に互角に渡り合える強烈なキャラクターが必要だと制作側は考えて・・・自分の思想や美学を貫く姿勢が、当時の学生運動をしていた若者の人気を集めて”スーパーアイドル”のような存在だった三島由紀夫に白羽の矢が当たったそうです。当然、三島由紀夫は、切腹する新兵衛役を喜んで引き受けます。盾の会の設立、自衛隊への体験入隊、日本古来の武道への傾倒など・・・幕末の志士らを連想させる危険な雰囲気を漂わせていて、三島由紀夫の抜擢は好評だったそうです。

いざ撮影となると三島由紀夫は緊張してしまくり、上手く台詞を言えず、何度もNGを出したそうですが・・・衣装ではなく普段着でリハーサルをしたり、勝新太郎からの演技のアドバイスやフォローで、なんとか撮り終えることができたということです。素人臭い緊張している演技が逆に新兵衛の殺気ある存在感を生み出していたと、高い評価を受けます。基本的に五社英雄監督の演出には一切口出ししなかった三島由紀夫でしたが、切腹の場面の演技だけは任せて欲しい直談判して、一任されることになるのです。


以蔵によって暗殺の濡れ衣を着させられた新兵衛が、証拠となった刀を見せて欲しいと手に取ると・・・唐突に刀を自らの腹に突き刺して切腹してしまいます。さすがに「憂國」のように飛び出した内蔵などや血だらけのスプラッター表現はありませんが、カメラは三島由紀夫の鍛え上げられた上腕筋や背筋をじっくりととらえて、臨場感溢れる迫真の演技を見せつけるのです。否が応でも自決事件を連想させてしまうからなのか・・・五社英雄監督と勝新太郎の代表作ともいえる作品にも関わらず(1990年代には国内ビデオとレーザーディスクのリリース、フランス版DVDはありますが・・・)いまだに国内版DVDは発売されていません。


自決事件後・・・ことあるごとに歴史として振り返られるたびに、三島由紀夫の行動の異常さにスポットライトがあてられるようになります。若者は”シラケ世代”と呼ばれるように無気力になり・・・さらに経済的に豊かになっていくと「なんとなくクリスタル」的な(おそらく三島由紀夫が最も嫌っていたであろう)風潮が、若者文化の主流となっていったのです。「日本男児」という汗臭いイメージはトコトン嫌われて、切腹なんて「ダサい」という反三島由紀夫的な世界観に日本国内が満ちあふれていた1980年代前半に、三島由紀夫的世界観(ただし同性愛的観点)に傾倒していったのが「ゲイ」であったことは偶然ではありません。


1983年に「薔薇族映画」の第一弾として製作された「巨根伝説 美しき謎」は、ピンク映画の監督として知られる中村幻児によるソフトコアのゲイポルノ映画であります。以前「おかしのみみ」という映画ブログで、この作品について書いたことがあるので、そちらも参照してください。本作が三島事件を題材としていることは明らかです。登場人物は男だけでヌードやセックスシーンはふんだんにあるものの、ゲイポルノとしてそそられるようなエロではなく、コメディタッチの軽さやセットの陳腐さなどが、いかにもピンク映画らしい不謹慎さなのです。薔薇族映画という限られた観客向けに制作されたから、三島由紀夫の未亡人や関係者の目には留まらなかったものの・・・もしも、本作の存在を知られていたら、お咎めなしでは済まなかったと思います。

当時ピンク映画(ストレートもの)の常連男優だった大杉蓮扮する三谷麻紀夫(明らかに三島由紀夫を意識!)が率いるのは先生と呼ばれる右翼リーダー・・・若い隊員たちと半裸姿で筋トレしたり、愛国思想の勉強会をしたり、軍人訓練の合宿をしたりしています。当然のことながら・・・隊員は全員そろってゲイで、新人隊員は先輩に犯されてゲイに目覚めするし、合宿の夜は隊員同士はやりまくったりという単なるゲイ集団なのです。三谷先生の側近でもある森脇(森田必勝を意識?)は、夜になると先生のケツを掘って啼かせています。自決事件後、三島由紀夫の遺体の肛門から森田必勝の精子が検出されたという”デマ”が拡散したことがありましたが・・・その妄想を映像化しているようです。


先生と森脇で切腹ショーを演じれば、隊員たちはむせび泣きながら興奮して、全員で乱交という・・・とにかく「一心同体」をモットーに、ことあるごとにやりまくっている集団ではありますが、警視総監を人質にして自衛隊員を説得してクーデターを企てる(まるで三島事件と同じ!)ことになります。しかし、前夜にやりまくったために朝寝坊して決起できなかった隊員カップルは、その後新宿二丁目で女装バーで働いているという・・・なんとも陳腐なオチで終わるのです。ところどころ三島由紀夫を連想させる、確信犯的な本作が製作されて、宣伝もされて(ゲイ向けの専門館とはいえ)映画館で堂々と上映されていたことは驚きかもしれません。


「愛の処刑」は、1952年から1962年まで発行されていた”アドニス会”の同人誌「ADONIS(アドニス)」の別冊「APPLLO(アポロ)」5号(1960年10月)に発表された榊山保という名義で発表された同性愛小説・・・「憂國」との共通性が指摘されて、三島由紀夫が書いたものではないかと発表直後から噂されていたそうです。2006年に三島由紀夫によって執筆されたことが確定後には、三島由紀夫全集の補巻にも収録されています。筆跡から三島由紀夫であることが判明することを危惧して、堂本正樹によって書き写させた原稿が同人誌へ送られたそうです。この「愛の処刑」を原作とするゲイポルノ映画が、奇しくも「巨根伝説 美しき謎」と同じ年の1983年に制作/公開されます。

監督はピンク映画の黎明期から男優として活躍していた野上正義で、1970年代のATG映画っぽい暗くて陰湿な雰囲気を漂わせていて、「巨根伝説 美しき謎」のような”おふざけ”は一切なし・・・低予算ながら重厚な印象に仕上がっています。登場人物はほぼ二人だけの60分の中編作品ですが、制作者たちの気迫が伝わるような一作です。ゲイ向けのポルノ映画館で公開するために制作された作品なので(ただ”ポルノ”を期待すると肩すかしかもしれません)・・・三島由紀夫好きのストレートのお客さんに観られることは、殆どなかったカルト作品です。近年では、横浜の日ノ出町にある国内唯一の薔薇族映画の専門上映館で上映されることもあるようですし・・・上映権を持つケームービー株式会社によって、VHSビデオの通信販売は行なわれています。

さびれた漁港のある村の一軒家に暮らす中学校の体育教師の大友先生の元に、彼の教え子である今林少年が大雨の夜に訪ねてきます。素行の悪かった田所少年を大雨の中に立たせた体罰のせいで、肺炎で亡くなっていたのです。田所少年の死は大友先生のせいだから、責任をとって切腹して死ぬべきだと、親友でもあった今林少年は”処刑”を求めます。二人の少年を愛していた大友先生は、喜んで切腹を決心するのですが・・・褌姿になって井戸の水で体を清める大友先生の姿を、舐め回すように見つめる今林少年も、実は大友先生を愛していたのです。


手渡された短刀で切腹する大友先生の横で「ただ、先生が好きで切腹して死ぬところが見たかった」と告白する今林少年・・・大友先生も「君のような美少年に見守られて切腹したかった」と答えて、二人はお互いの愛を確認します。腹を切開した”だけ”で即死するわけではないので、介錯なしの切腹というのは腸が飛び出しても生きた絶え絶えという苦しみが続くのです。大友先生が息絶えた後、その遺体を前にして今林少年は心の中で「先生、愛している!」と何も叫び(きっと先生のカラダを愛したはず!)朝方には短刀で胸を突いて後追い自殺・・・翌朝、普段のように家政婦が大友先生の一軒家に向かっています。


本作に直接的なセックスシーンというのはないので”ポルノ映画”と呼べないかもしれません。それでも、強烈なエロティシズム漂ってくるのは、当時のゲイ好みを反映したキャスティング・・・大友先生を演じる役者さんの雰囲気は、高倉健と三島由紀夫を足して二で割ったような男臭いタイプですし、今林少年を演じる役者さんは「さぶ」の挿絵に出てきそうな”美少年”です。わきががキツかったと言われる三島由紀夫同様に、大友先生もわきががキツいという設定だったりして、明らかに三島由紀夫を意識しています。

愛する美少年に見守られて切腹死したい・・・という自らのフェチを昇華させた小説を(偽名であっても)発表せずにいられなかった三島由紀夫にとって、本作で描かれている切腹こそが理想であったと思えてしまいます。1983年というバブル景気に向かいつつあった日本で、時代の空気に逆行するような「愛の処刑」を映画化しようとした制作者たちの思いも強かったことも感じるのです。


「Mishima : A Life in Four Chapters/ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(原題)」は、アメリカン・ジゴロ」の監督や「タクシードライバー」の脚本家として知られるポール・シェレイダーによって製作された1985年のアメリカ映画です。三島由紀夫の歩んだ人生の回想(モノクロ)、代表的な小説3作品のオムニバス(極彩色)、自決事件を起こす現在(カラー)という3つの要素をミックスして「過去と現在」「現実と虚構」を行き来しながら三島由紀夫の人物像に迫った、伝記映画として同じような構成の作品が存在しない独創的な作品となっています。キャストは全員日本人の俳優で、ナレーションを除いて台詞も全て日本語・・・アメリカ映画でありながら日本映画のようです。

「MISHIMA ーー11月25日・快晴」という仮の邦題までつけられていましたが、右翼団体が上映反対の騒ぎが起こることを配給会社が危惧して上映されなかったというのが、定説のようですが・・・三島由紀夫の未亡人から、猛烈な抗議があり日本国内での上映を絶対に認めなかったとも言われています。三島由紀夫の同性愛的な嗜好を匂わす表現があることが、感情的に許せなかったのかもしれません。いまだに、日本では劇場公開はおろかDVD/ブルーレイの発売もなく、ケーブルテレビでの放映もネット配信さえされていない・・・日本国内に限れば”封印映画”ではありますが、海外版のDVD/ブルーレイが発売されているので視聴することは比較的簡単にできます。

まず、小説3作品の映像化それぞれ”だけ”で邦画のまるで映画一本分のようであります。「金閣寺」坂東八十助、佐藤浩市、萬田久子、「鏡子の部屋」沢田研二、左幸子、烏丸せつこ、李麗仙、横尾忠則、「奔馬(豊穣の海・第二巻)」永島敏行、池辺良、勝野洋など豪華キャストで、アメリカ映画が日本を扱った時のような不自然な表現は皆無です。本作の小説部分で映画の美術を初めて担当した石岡瑛子氏は、本作で高い評価を受けたことをきっかけに衣装デザイナーとして活躍の場を世界に広げることになるのです。本作では舞台のような装置が展開するセットが特徴的で、小説の虚構の世界観を見事に表現しています。


青年期以降の三島由紀夫を演じるのは、緒形拳・・・正直、顔が似ているとは思えないキャスティングなのですが、筋トレによる肉体改造、付け胸毛に腹毛(!)と外見だけでなく、三島由紀夫の特徴的なクセまでも演じきっていて、いつの間にか緒形拳が三島由紀夫にしか見えなくなってくるほど見事な演技なのです。多くの代表作がある緒形拳ですが、、もしも本作も日本公開されていれば代表作のひとつとして語られることは間違いありません。


クライマックスとなる切腹シーンは、グロテスクな表現ではなく、三島由紀夫らしい最期の瞬間をエモーショナルに表現しており、彼の代表作3作品の主人公達の悲劇的な最期とオーバーラップさせながらも、陽が昇っていくエンディングは明確な三島由紀夫讃歌として、清々しい(?)終わり方をするのです。「Mishima : A Life in Four Chapters」のような三島由紀夫の作家性、人間像、創作世界を総括するような作品を、アメリカ人によって製作されてしまったのは、ちょっと残念に思います。


三島由紀夫の自決事件が日本映画で描かれるのは、没後40年以上経った2011年で、若松孝二監督による「11・25 自決の日 三島由紀夫と若者たち」であります。盾の会の設立から自決事件までを描いているのですが、学生運動や右翼を絡ませてくるところが若松孝二らしさ・・・また、三島由紀夫を語る時、あまり触れられることのない瑤子夫人が重要なアイコンとして描かれるのも独特かもしれません。エンディングには日本の音楽事務所がデビューさせたイギリス人バンドのベラキス(Belakiss)の曲が流れるのですが・・・これって、三島由紀夫が最も嫌っていただろうタイプの音楽のように思えます。さまざまな証言や文献に基づくエピソードを時系列で描いているものの、あくまでも若松孝二監督の視点でしかない印象です。


完全なミスキャスティングとしか思えないのは、三島由紀夫を演じる井浦新(本作のためARATAから改名までした)・・・”モノマネ”の必要はないのかもしれませんが、あっさりとした井浦新の雰囲気は、過剰なほど男臭さい三島由紀夫とは真逆です。さらに・・・意外なほど(?)鍛えられていない井浦新のゆるい腹周りは、肝心の切腹シーンの緊迫感を台無しにしています。また、森田必勝役の満島真之介の無駄に熱い演技も空回りしていて、盾の会のメンバー達も含めて、頭のおかしくなった愛国主義者/武闘派右翼という印象なのです。三島由紀夫の”切腹フェチ”をステレオタイプ化せずに表現することが、なんと難しいことなのかを改めて感じさせられます。


三島由紀夫は映画の役柄だけでなく・・・友人でもあった矢頭保(めのおかし参照)による切腹写真も撮影しています。自決事件での死に様は、もしかすると三島由紀夫が思い描いていた”死の美学”には、ほど遠かったのかもしれません。”切腹ごっこ”が切腹に対しての自慰的な行為だったとしたら、マスターベーション”だけ”で満足できれば良かったのに・・・と思ってもしまいます。マスターベーションだけでは性的な達成感を得られなくなり、本番(切腹)をしなければならなくなることは、三島由紀夫にとっては当たり前の終着点だったのかもしれません。

三島由紀夫の自決した時の様子は、悲惨そのものだったと言われています。何度も演じていたおかげか(?)・・・小腸が飛び出るほど深く広く切開された見事な切腹だったそうです。三島由紀夫の介錯という大役を担った森田必勝は、緊張のあまり三度も斬り損じたようで・・・頸部の半ばまで切られて頭部が前に傾く体勢になってしまい、三島由紀夫は自ら舌を噛み切ろうとしたほど苦しんだらしい。


結局、古賀浩靖によって首の皮一枚残すように介錯をされ、切腹に使用した短刀で胴体と頭部が切り離されたそうです。森田必勝の後追い自決を三島由紀夫は止めていた言われていますが、森田必勝の固い意志は最後まで揺るぐことはありませんでした。考えてみれば・・・介錯の失敗で面目を失った森田必勝には、自決するしか残された道はなかったのかもしれません。ただ、森田必勝の腹部に残っていた切腹の痕は切り傷程度で、古賀浩靖の介錯による即死だったそうです。

ボディビルで鍛えられた肉体で盾の会の同志(森田必勝らが美少年かは別として)に見守られて切腹する瞬間こそが、三島由紀夫にとっての人生最高のエクスタシーであったとするならば・・・「ネクロマンティック」のラストシーン、死体愛好家の主人公が自殺しながらマスターベーションに興じる姿に、オーバーラップしてしまうところさえあります。”武士道”でも”愛国主義”でもなく・・・三島由紀夫の”切腹フェチ”の根本に、同性愛的なマゾヒズムとナルシシズムを感じてしまうのです。


「憂國」
1966年/日本
監督、製作、原作、脚色、美術 出演:三島由紀夫
1966年4月12日、劇場公開

「人斬り」
1969年/日本
監督 : 五社英雄
原作 : 司馬遼太郎
脚本 : 橋本忍
出演 : 勝新太郎、仲代達矢、三島由紀夫、石原裕次郎
1969年8月9日 劇場公開


「巨根伝説 美しき謎」
1983年/日本
監督 ; 中村幻児
出演 : 大杉蓮、長友達也、野上正義、首藤啓、山科薫、金高雅也
1983年4月 劇場公開

「愛の処刑」
1983年/日本
監督 : 野上正義
原作 : 榊山保(三島由紀夫)
出演 : 御木平助、石神一
1983年11月2日 劇場公開


「ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(原題)」
原題/Mishima : A Life in Four Chapters
仮題/MISHIMAーー11月25日・快晴
1985年/アメリカ
監督 : ポール・シェレイダー
出演 : 緒形拳、三上博史、沢田研二、坂東八十助、佐藤浩市、永島敏行
日本劇場未公開


「11・25 自決の日 三島由紀夫と若者たち」
2011年/日本
監督 : 若松孝二
出演 : 井浦新、満島真之介、寺山しのぶ
2012年6月2日 劇場公開



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オノ・ヨーコ出演のセクスプロイテーション映画を監督したマイケル・ファンドレイ(Michael Findlay)の因果応報な運命とオノ・ヨーコ(Yoko Ono)の炎上人生・・・ひとつの映画で交差した全く無関係な二人のはなし~「サタンズ・ベット(原題)/Satan's Bed」~

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1960年代は、さまざまな分野で革命が起こった時代・・・映画の世界でもヌードや性表現の規制が緩和され、”セクスプロイテーション映画”が量産されたのも、この時代です。女性の裸を売りモノにした「ヌーディスト・キャンプ/Nudist Camp」、エッチなコントと女性の裸が売りの「ヌーディー・キューティー/Nudie Cutie」などは50年代末期に誕生していますが・・・その後、男性が女性を暴力的に扱う「ラフィーズ/Roughies」と呼ばれるジャンルに派生していくのです。

早い時期から”ラフィーズ”のセクスプロイテーション映画を手掛けて、悪名高かったマイケル・ファンドレイは、ニューヨークを拠点としたアンダーグランドの映画監督・・・1964年、女性を拉致して乱暴するという「ボディ・オブ・フィーメール(原題)/Body of a Female」で映画監督としてデビューして、その翌年、オノ・ヨーコ出演の「サタンズ・ベット(原題)/Satan's Bed」を発表するのです。


オノ・ヨーコというと・・・先日(2017年8月17日)放映されたNHKテレビ番組「ファミリーヒストリー」で、スゴイ家系の出身であることや、数々の困難を乗り切った人生であったことが語られていましたが、最初の結婚についてはナレーションで触れられただけ・・・二度目の結婚や娘の存在については全く触れられることはありませんでした。ジョン・レノンと結婚する前、オノ・ヨーコは2度の結婚/離婚をしていて、ショーン・レノンの誕生以前に娘を一人もうけており・・・奔放とも言える人生を歩んでいるのです。

オノ・ヨーコは、父の仕事の関係(銀行)でアメリカと日本を行き来しながら成長したバリバリの”帰国子女”・・・1953年(20歳のとき)に家族でニューヨーク近郊に引っ越して、お嬢様学校としてアメリカでも有名なサラ.ローレンス大学に入学します。大学在学中にジュリアード音楽院に留学していた一柳慧と出会い、1956年に家族の反対を押し切って結婚(大学も退学)するのです。


当時、ニューヨークのダウンタウンで流行っていたビートニクスだけでなく・・・前衛芸術の活動には、夫の一柳慧の影響は少なからずあったようです。特に、一柳慧を通じて知り合った実験音楽家ジョン・ケージの影響を強く受けたことは明らかで・・・オノ・ヨーコの前衛芸術の基礎となる”ハプニング”に依存した「偶然性や観客参加による不確定性」は、ジョン・ケージの音楽理念そのものだったりします。現代音楽家らとの交遊関係の中で、オノ・ヨーコは新鋭の女性芸術家としてニューヨークで頭角を現していくのです。


1962年、ニューヨークで活躍し始めていたオノ・ヨーコは、日本を拠点にすることを考えます。何故、評価を受けているニューヨークを離れて、日本に戻ろうと考えたのかは分かりませんが・・・当時の夫であった一柳慧が1961年に日本に帰国していることから、彼についていったということも考えられます。帰国後、オノ・ヨーコの代表作ともなった観客が衣服をハサミで切り取るパフォーマンス・アートの「カット・ピース」、詩的な言葉の”指示”よるコンセプチュアルアートの「グレープフルーツ」の自費出版、現代音楽家とのコラボレーション・パフォーマンスなど発表するのですが・・・前衛芸術に理解の乏しかった日本では、全く理解されることはなかったのです。

日本での酷評にショックを受けてノイローゼ気味になったオノ・ヨーコは、自殺を図ります。家族と当時の夫だった一柳慧によって、精神病院に入院させられて、孤独感を強めていったといいます。そんな入院中、毎日花束を持って面会を申し込んでくる男性が現れるのですが・・・これが、ニューヨークでオノ・ヨーコの作品に感銘を受けて、彼女を捜して日本に来日していたアメリカ人映像作家のアンソニー(トニー)・コックス(Anthony Cox)だったのです。退院後、二人はすぐさま男女の関係になってしまいます。その後、早々にアンソニー・コックスとの再婚となるのは、オノ・ヨーコの妊娠が判明したから・・・一柳慧との離婚成立後の1963年6月にオノ・ヨーコは再婚、同年8月に長女キョーコを生んでいるのです。


1964年、オノ・ヨーコはアンソニー・コックスと共にニューヨークへ戻ります。その後、アンソニー・コックスはプロモーターとして、オノ・ヨーコの前衛芸術活動を支えるようになっていくのです。渡米から2年後の1966年、オノ・ヨーコはロンドンの現代芸術協会の招きで、イギリスを訪ねることとなります。当時の活気あるロンドンの若者カルチャーに触れて、オノ・ヨーコは夫アンソニー・コックスの支えを受けながら、活動の拠点をロンドンに移すことを決断するのです。

1966年11月、オノ・ヨーコの個展を訪れたジョン・レノンとオノ・ヨーコは、恋に落ちてしまいます。ジョン・レノン27歳、オノ・ヨーコ35歳の1968年、娘キョーコと共に二人は同棲をスタート・・・当時、ジョン・レノンも結婚していたので、ダブル不倫の関係になります。お互いの離婚が成立後の1969年に二人は正式に結婚します。そして、1970年ビートルズが解散・・・オノ・ヨーコはビートルズを分裂させた原因であるとされて、世界で最も嫌われる女性となったのです。

麻薬問題やら女性問題やらがあって、ジョン・レノンとの結婚生活も決して平坦だったわけではありません。メイ・パグ(May Pang)という女性を夫ジョン・レノンの愛人になるように頼み、二人をロサンジェルスで同居させて(オノ・ヨーコはニューヨークで別居)、結果的に離婚危機を回避したことさえあるのですから・・・。その後、性生活を取り戻したオノ・ヨーコとジョン・レノンの間に、ショーン・レノンが誕生するのは、オノ・ヨーコ42歳のときです。


ジョン・レノン没後、オノ・ヨーコにはインテリアデザイナーのサム・ハヴァトイ(Sam Havadtoy)という長年同居するパートナーが存在するものの、再々々婚しないのは「ジョン・レノンの未亡人」というタイトル(立場)を失いたくないから・・・と邪推してしまうのは少々意地悪でしょうか?ちなみに「ファミリーヒストリー」では触れられなかった娘キョーコですが・・・オノ・ヨーコと和解して、現在ではショーン・レノンを交えて家族ぐるみで付き合いがあるそうです。


欲望のままなのか、行き当たりばったりなのか、それとも戦略的に男を乗り換えていったのかは分かりません。「強くて独立している女性」「過激なフェミニスト」としてして知られるオノ・ヨーコらしくありませんが・・・結果的に、結婚した男性たちの社会的な立場や人脈のネットワーク、芸術的な才能と影響力によって、自らの人生をステップアップしていったことは確かです。ただ、世間から”やることなすこと”に嫌悪感を持たれて、常にバッシングを受ける”炎上人生”であったことを考えると・・・十分すぎるほどの贖罪(?)を果たしている気もします。


オノ・ヨーコについて長々と書いてしまいましたが・・・マイケル・ファンドレイ監督の「サタンズ・ベット」が公開されたのは1965年のことであります。アンソニー・コックスとの再婚後にニューヨークに戻ってきた後、おそらくオノ.ヨーコが31、2歳の時に撮影されたようです。タイトルに監督名のクレジットはありせんが、本作はマイケル・ファンドレイ監督作品とされています。実は、タミジアン(Tamijian)という映像作家による未完成の「ジューダス・シティ(原題)/Judas City」という映画に、マイケル・ファンドレイが別に撮影した映画を編集で加えて、一本の映画として完成させたという経緯があるのです。

「サタンズ・ベット」は、ニューヨークに住む麻薬売人の男のところに、嫁として日本人女性(オノ・ヨーコ)が港に到着するところから始まります。夫となる男は、売人から足を洗おうとしているのですが、元締めはそうはさせるものかとしているようです。彼女はマンハッタンのホテルに滞在しているのですが、そのホテルの従業員は、彼女を人種差別的な扱いしたり、彼女の金を盗んだり・・・遂には、彼女は強姦されてしまいます。必死に路上へ逃げだしたところ、彼女は車に轢かれてしまいます。


オノ・ヨーコの役には、英語の台詞は殆どなくカタコト程度で、日本語の台詞は棒読み・・・正直言ってかなりの大根役者っぷりです。この日本人女性の物語が「ジューダス・シティ」という映画だったようなのですが、強姦シーンでカメラがパンしてしまうなど、セクスプロイテーション映画としては少々パンチ不足で未完のまま・・・そこで撮影済みのフィルムの権利を、マイケル・ファンドレイが買い取ったというわけです。


マイケル・ファンドレイは、男女三人の若者たちが次から次へと女性を襲って犯していくという・・・「ジューダス・シティ」とは、まったく関係のない映画を撮影して、二つの映画を編集でミックスしたのであります。照明や撮影技術のクオリティーは「ジューダス・シティ」の方が明らかに高く、別撮りした部分は音声はアフレコ(撮影現場で録音しないので安上がり)になっているのですが・・・マイケル・ファンドレイが得意とする”ラフィーズ/Roughies”ならではの暴力描写を加えたことで、公開にこぎつけた作品だったのです。とは言っても、公開当時、決して商業的に成功したわけでもなく、評価が高かったわけでもありませんが。

ちなみに、マイケル・ファンドレイとオノ・ヨーコは一度も会ったことはないそうで・・・オノ・ヨーコは意図せずにセクスプロイテーション映画に出演したことになってしまったのです。ただ、オノ・ヨーコの役は、当時のアメリカ人の日本人女性のステレオタイプだったと思われる「ひと言も英語が理解できない」「金を取られても分からない」「襲われても拒絶できない」という人種差別的な設定・・・オノ・ヨーコ本人の生き方や思想とは反する役柄であることは脚本からも明確だったはずなのに、出演の承諾をしたのは奇妙なことです。後年、オノ・ヨーコ唯一の”女優”としての映画出演として語ち継がれることになるとは、彼女も思ってもいなかったことでしょう。


「サタンズ・ベット」を撮った後、マイケル・ファンドレイは次々と”ラフィーズ”を手掛けます。マイケル・ファンドレイ自身が、妻に浮気された腹いせに、ストリッパー、ゴーゴーダンサー、売春婦の女性たちを様々な道具で殺害して復讐するという陰湿な主人公を演じた「ザ・タッチ・オブ・ハー・スキン(原題)/The Touch of Her Flesh」は、クラシック音楽と詩的で残忍なモノローグという組み合わせが奇妙・・・ところどころにストリップ映像が挿入されるというセクスプロイテーション映画的なサービス精神満載の作品なのです。

「ザ・タッチ・オブ・ハー・フレッシュ」は商業的に成功して・・・「ザ・コース・オブ・ハー・フレッシュ(原題)/The Curse of Her Flesh」「ザ・キス・オブ・ハー・フレッシュ(原題)/The Kiss of Her Flesh」という続編もつくられます。これら”フレッシュ(Flesh)”三部作は、マイケル・ファンドレイ代表作となるのですが・・・これらの”ラフィーズ”の作品の監督クレジットは、ジュリアン・マーシュ(Julian Marsh)になっているのです。また、出演、撮影、脚本、音楽などでを担当している妻のロベルタ・ファンドレイは、アナ・リーヴァ(Anna RIva)など、複数の名義を使い分けてクレジットされています。

基本的にファンドレイ”夫妻”二人によって、制作、監督、脚本、編集、音楽、撮影、照明など、ほぼ映画製作の全てを行なっていたのですが・・・これは、彼らが様々な才能に恵まれていたということではなく、単純に資金的な理由だと思われます。また不謹慎な内容の映画制作に関わりたがるプロのスタッフが、いなかったのかもしれません。そんなわけもあって、マイケル・ファンドレイ監督作品は、映画としてのクオリティーは素人レベル・・・暴力とエロのギミック”だけ”が売りの低俗映画となってしまったわけです。ただ、1960年代後半のニューヨークのアンダーグランドの空気感を、生々しく伝える”タイムカプセル”のような役目は果たしているのかもしれません。


1971年・・・ファンドレイ夫妻は、アメリカよりも資金が少なくても映画を撮れるアルゼンチンへ行って「ザ・スローター(原題)/The Slaughter」を製作します。これは、カルト集団の若い女性たちが次々と殺人しまくるという・・・マイケル・ファンドレイ”らしい”作品ではあったのですが、あまりのデキの悪さに限られた上映が行なわれただけで、配給会社の判断でお蔵入りしてしまいます。


1974年「シュリーク・オブ・ザ・ミューティレイテッド(原題)/Shriek of the Mutilated」というイエティ(雪男)調査隊の学生たちが次々襲われるという低予算のモンスター/ホラー映画を”マイク・ファンドレイ”という名義で監督。ニューヨーク近郊でイエティ捜索するというのもアリエナイ設定なのですが、実は、調査隊の教授が率いるカルト集団の男が、イエティの着ぐるみを着て人々を襲っていたという”オチ”で・・・「サイテー映画」として、おもしろがる以外に存在価値のない(?)作品であります。


その後、ファンドレイ夫妻は映画をつくる機会さえもなくなっていったのですが・・・思いもしない形で、マイケル・ファンドレイ監督作品が世界的に公開されることとなるのです。それが、本物の殺人映画として世の中を騒がせた「スナッフ/Snuff」であります。これは、お蔵入りしていた「「ザ・スローター」のタイトルやクレジットを外して、撮影終了直後の撮影現場で、主演女優が撮影スタッフよって惨殺されるというエンディングを付け加えられた作品だったのです。


1976年にアメリカや日本で公開されて・・・「本物か、トリックか」という宣伝が話題になり(そこそこ?)ヒットします。注意深く観れば・・・別の女優に入れ替わっているし、複数のカメラで撮影が切り替わるし、血糊があまりにも赤過ぎるし、手や胴体が模型であることも分かるのですが・・・後年、都市伝説のように「スナッフ」は、殺人映画として語られることになったのです。

かつて、マイケル・ファンドレイが他人の撮影した「ジューダス・シティ」という映画に、勝手に自分の映画を付け足して「サタンズ・ベット」を完成させたように・・・自分の撮影した「ザ・スローター」という映画に、勝手な結末を付け加えられて「スナッフ」が完成されたとは、まさに因果応報です。クレジットを外された夫妻には興行収入も入ってくるわけもなく、夫妻は配給会社のオーナーを告訴すると脅します。結果的に示談で決着はつくのですが・・・その後、妻のロベルタ・ファンドレイは夫を捨てて、「スナッフ」の配給会社のオーナーとくっついてしまうのです。ロベルタはハードコアポルノやホラー映画の製作、監督、脚本、撮影をして、1980年代後半まで映画界で活躍します。


映画製作においての最大の協力者であった妻ロベルタを失ったマイケル・ファンドレイは・・・ジョン・アメロ(John Amero)という1960年代~70年代にセクスプロイテーション映画の監督や出演をしていた人物と、フランシス・エリー(Francis Ellie)という共同名義でゲイポルノ映画を4本「マイケル、アンジェロ・アンド・デヴィット(原題)/Michael, Angelo and David(1976)」「Kiss Today Goodbye(1976)」「ポイント・メー・トゥワード・トゥモロウ(原題)/Point Me Toward Tomorrow(1977)」「クリストファー・ストリート・ブルース(原題)/Christopher Street Blues(1977)」を発表します。

1972年にハードコアポルノがアメリカで解禁されたことにより、当時のストレートのハードコアポルノ業界は、1960年代にセクスプロイテーション映画をに関わっていた映画人たちの受け皿となっていた”はず”なのですが・・・マイケル・ファンドレイが、監督だけでなく、制作、撮影、編集まで担当して、ストレートポルノではなくゲイポルノに参入したというのは、ちょっと不可解ではあります。

フランシス・エリー名義のゲイポルノには、暴力的な描写はなく・・・マイケル・ファンドレイ”らしさ”は微塵もありません。特に「キス・トゥデイ・グッバイ(原題)/Kiss Today Goodbye」は、当時のゲイポルノの中でも王道の恋愛ストーリーとして知られる名作だったりします。ちなみに、共同監督であったジョー・アメロの兄のレム・アメロ(彼も1960年代からセセクスプロイテーション映画の監督や出演していた)が、カメオ出演(キス・トゥデイ・グッバイ)したり、衣装(ポイント・メー・トゥワード・トゥモロウ、クリストファー・ストリート・ブルース)を担当していることから、身近な映画仲間たちでゲイポルノを作っていたという事だったのでしょうか?


1977年、マイケル・ファンドレイは39歳で、突然亡くなります。前年に制作した「ファンク 3ーD(原題)/Funk 3-D」という3Dハードコアポルノのために発明した3Dカメラを、フランスの投資家に売り込むために、ジョン・F・ケネディ空港へ向かう途中、パンナムビル(現・メットライフビル)の屋上からヘリコプターに乗ろうとして、事故に巻き込まれたのです。ヘリコプターの機体の片側がビルに接触して、外れたローター羽根によって体を切断されてしまったそうで・・・これまた因果応報としか思えないような残酷な死に方であります。なお、この3Dカメラを使用して、台湾では「リベンジ・オブ・ザ・ショーグン・ウーメン(原題)/Revenge of The Shogun Women」と 「ダイナスティ(原題)/Dynasty」という2作品が撮影されているそうです。

正統派の映画史で論じられることなど”まずない”マイケル・ファンドレイ監督ではありますが・・・彼の辿った運命は、彼自身が出演し監督した映画よりも、興味深く、どこかしら切ない気持ちにもさせられます。ちなみに、マイケル・ファンドレイの死後、ジョン・アメロはフランシス.エリー名義を使用し続けて・・・「ネイビー・ブルー(原題)/Navy Blue(1979)」「ザ・デス・オブ・スコーピオ(原題)/The Death of Scorpio(1979)」「ブーツ・アンド・サドル(原題)/Boots & Saddles(1982)」など、ゲイポルノ黎明期の名作と呼ばれる作品を監督しているというのも、妙な気がしてならないのです。

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マイケル・ファンドレイ(Michael Findlay)監督のフィルモグラフィー


1964 Body of a Female(ジュリアン・マーシュ名義)
1965 The Sin Syndicate
1965 Satan's Bed(クレジットなし)
1966 Take Me Naked(ジュリアン・マーシュ名義)
1967 The Touch of Her Flesh(ジュリアン・マーシュ名義)
1968 A Thousand Pleasures(ジュリアン・マーシュ名義)
1968 The Curse of Her Flesh(ジュリアン・マーシュ名義)
1968 The Kiss of Her Flesh(ジュリアン・マーシュ名義)
1969 The Ultimate Degenerate(ジュリアン・マーシュ名義)
1969 Night Rider
1969 The Closer to the Bone the Sweeter the Meat
1969 Mnasidika
1969 Crack-Up
1970 Take My Head
1971 The Slaughter
1971 Vice Versa!
1974 Shriek of the Mutilated(マイク・ファンドレイ名義)
1975 Snuff(ノークレジット)
1976 Michael, Angelo and David(フランシス・エリー名義/ゲイポルノ)
1976 Kiss Today Goodbye(フランシス・エリー名義/ゲイポルノ)
1976 Virgins in Heat
1976 Funk in 3-D(ジュリアン・マーシュ名義)
1977 Point Me Toward Tomorrow(フランシス・エリー名義/ゲイポルノ)
1977 Christopher Street Blues(フランシス・エリー名義/ゲイポルノ)

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「サタンズ・ベット(原題)」
原題/Satan's Bed
1965年/アメリカ
監督、撮影、編集、音楽  :  マイケル・ファンドレイ(クレジットなし)
出演          : オノ・ヨーコ
日本未公開


「ザ・タッチ・オブ・ハー・フレッシュ(原題)」
原題/The Touch of Her Flesh
1965年/アメリカ
監督、制作、編集。主演  :  マイケル・ファンドレイ(ジュリアン・マーシュ名義)
制作、編集、音楽、照明、エキストラ出演 : ロベルタ・ファンドレイ
出演 : スザンヌ・マレー、アンジェリーク・ペティジョン、ヴィヴィアン・デル=リオ、ペギー・ステファンズ
日本未公開

「ザ・スローター(原題)」
原題・The Slaughter
1971年/アメリカ、アルゼンチン
監督、出演   : マイケル・ファンドレイ
撮影、声の出演 : ロベルタ・ファンドレイ
出演      : マーガリータ・アムチャステギュー、アナ・カーロ、ブライアン・カリー、リリアナ・フランチェス・ビアンコ、エンリク・ラーラテリ、アルド・マヨ、カーロ・ヴィラヌーヴ、ミーサ・マッサ、ザンティ・エリス
日本未公開


「シュリーク・オブ・ザ・ミューティレイテッド(原題)」
原題/Shriek of the Mutilated
1974年/アメリカ
監督、編集、エキストラ出演 : マイケル・ファンドレイ
撮影            : ロベルタ・ファンドレイ
出演            : アラン・ブロック、ジェニファー・ストック、タム.エリス、マイケル.ハリス、ダーシー・ブラウン、ジャック・ヌーバック、トム・グラーリ、ルーシー・ブランデット、イヴァン・アゴール
日本未公開


「スナッフ/SNUFF」
原題/Snuff
1975年/アメリカ、アルゼンチン
クレジットなし
1976年6月19日、日本劇場公開

「キス・トゥデイ・グッバイ(原題)」
原題/Kiss Today Goodbye
1976年/アメリカ
制作、監督、編集、撮影 : マイケル・ファンドレイ(フランシス・エリー名義)
制作、監督       : ジョン・アメロ(フランシス・エリー名義)
出演          : ジョージ・ペイン、リウ・シーガー、デヴィット・サヴェージ、マイケル・ガウト、マーク・ハミルトン、カート・マン、レム・アメロ、ベン・ドーヴァー
日本未公開

「ファンク 3ーD(原題)」
原題/Funk 3-D
1977年/アメリカ
監督、制作、編集、脚本 : マイケル・ファンドレイ(監督のみジュリアン・マーシュ名義)
出演          : ドン・アレン、ブリー・アンソニー、ロジャー・ケイン、リタ・デイヴィス、ニッキー・ヒルトン、エド・ラロックス、アレックス・マン、アラン・マーロウ、アニー・スプリンクル
日本未公開



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フランスの新鋭女性監督ジュリア・ディクルノー(Julia Ducournau)による「ジンジャースナップス」的なカニバリズム映画・・・少女の”性の目覚め”と”呪わしい血族”の物語~「ロウ(原題)/Raw(英題)/Grave(仏題)」~

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近年、女性の映画監督も増えてきて珍しい存在ではなくなってきたこともあり、わざわざ「女性」という”冠言葉”は不要になっている気がします。しかし、間違いなく「女性」を感じさせる映画作品もあるのです。

フランスの新鋭監督ジュリア・ディクルノー(Julia Ducournau)による長編第一作となる「ロウ(原題)/Raw(英題)/Grave(仏題)」は、少女から女性への成長とカニバリズムへの目覚めを、並列に描いていくというホラー(青春?)映画・・・ひとつ違いの姉妹という設定から思い起こされるのが、2000年に制作されたカナダの狼女映画「ジンジャースナップス/Ginger Snaps」であります。


この「ジンジャースナップス」は、日本では劇場未公開ではあったものの、翌年(2001年)にDVDリリース・・・しかし、何故かレンタルショップに並ぶこともなく廃盤となってしまったため、現在は視聴困難。(こういう作品こそネット配信して欲しい!)ただ「ジンジャースナップス」はシリーズ化され、2004年には続編となる第2作目と外伝的な第3作目が製作されています。しかし、日本では第3作目の「ウルフマン/Ginger Snaps Back: The Begining」がDVDリリース後に「ウルフマン」の続編かのように第2作目の「ウルフマン・リターンズ/Giger Snaps 2: Unleashed」がDVDリリースされたものですから、少々ややこしいことになってしまっているのです。

16歳で初潮を迎えた(かなり遅め?)ジンジャーは、ひとつ違いの妹ブリジットと自殺死体を演じて写真を撮るのが趣味という仲良し姉妹・・・「大人の女性になること」は拒否しているところもあり、学校ではイジメの対象にされているゴスロリ系のオタクです。ある夜、謎の獣に襲われたジンジャーは、治療しなくても時間が経つと自然に傷が癒えたり、傷口から剛毛が生えてきたりと、明らかに初潮とは関係のない変化が現れるのですが・・・それと同時に、急に女性らしくなりオタク系からセクシー系に変貌していきます。監督は男性ではありますが、脚本を担当したのはカレン・ウォルトンという女性なのですが、生理で血まみれになったパンティや足元にボトボトと垂れる血の描写などは「女性ならでは」と感じてしまうのです。


ジンジャーを襲った獣の姿はハッキリとした姿も分からならないのですが(低予算映画だから?)、狼に似た獣だったようで狼男ならぬ”狼女”へ変化していく過程と少女が女性へと変化していく第二次性徴期と重ねて描かれていくわけであります。狼女に変貌していく姉のジンジャーに、それを抑制するワクチンを打って何とか助けようとする「姉妹愛」の物語ともとらえられるのですが・・・みどころはオタク少女だったジンジャーが、狼女へと変貌していくにつれて、それまで拒否していた大人の女性(それも魔性のヤリマン!)へとなっていく過程かもしれません。


ネタバレになりますが・・・最後には少女どころか女性の姿ではないバケモノにジンジャーがなってしまうところは、デヴィット・クローネンバーグ監督の「ザ・フライ」を彷彿させます。「ジンジャー・スナップス」の後日談である「ウルフマン・リターンズ」では、ブリジットが狼女への変貌していくのではないかと怯える姿が・・・そして、外伝的な「ウルフマン」では、この姉妹の逃れられない因縁が時代を遡って描かれます。大人の女性へと成長する過程(第二次性徴期)と、ある種のモンスター化が並列している描くという視点から、ジュリア・ディクルノー監督が「ジンジャースナップス」を意識していたのかは分かりませんが・・・「ロウ」には「ジンジャースナップス」以外にも過去の映画作品(主にホラー映画)へのオマージュがあるのです。


「ロウ」の主人公のジャスティン(ギャランス・マリリエ)は気弱な少女・・・厳格なベジタリアンとして育てられてきた彼女は、父(ローレン・リュカ)と母(ジョナ・プレシス)から少々過保護に育てられてきたようで、誤ってマッシュポテトの中にウインナーが入っていたことをレストランで強く抗議してくれるのも母親だったりします。両親が卒業した獣医大学には、既にひとつ年上の姉アレクサ(エラ・ランプ)が通っており、ジャスティンも実家を離れて大学の学生寮に入ることとなるのです。

学生寮での初めての夜、覆面姿の上級生がいきなり部屋にと突入してきて、部屋から追い出されてしまいます。ルームメイトに女子を希望していたにも関わらず、ジャスティンのルームメイトとなったのは、性的に奔放なゲイ男子のエイドリアン(ラバー・ナイ・オフェラ)・・・そんなことに戸惑っている間もなく、新入生歓迎の洗礼儀式が始まります。蛍光灯だけの暗い外廊下を、四つん這いで移動させられる様子は、ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の「ソドムの市」のワンシーン(若者達が肛門チェックのために集められる場面)を彷彿とさせます。ただ、目的地に着いてみれば学生達が踊りまくる歓迎パーティーではあったのですが・・・。


新入生たちに上級生たちからの洗礼は続きます。真新しい白衣を着た新入生たちは、頭の上から動物の血を浴びせられるのです。コレは言うまでもなく、ブライアン・デ・パルマ監督の「キャリー」の有名なシーンを連想させます。先輩から後輩への”イジメ”がフランスにもあったんだと驚いてしまいましたが、アメリカの大学でも新入生への洗礼儀式があったりするので、世界的には珍しいことではないのかもしれません。そう考えると・・・無理に飲酒させるような飲み会などなくなった日本の大学というのは、随分と優しいと思えてしまいます。


血を浴びせられた後、新入生たちは列に並ばされてウサギの肝臓を”生”で食べることを強いられることになるのですが、ベジタリアンのジャスティンにとって動物の内蔵(それも生!)を食べるなんてアリエナイ事・・・しかし、同じく厳格なベジタリアンとして育てられたはずの姉のアレクサは平然と食べてしまいます。さらに「食べた方があなたにも良いんだから」と、ジャスティンの口に生肝臓を押し込んで食べさせてしまうのです。

奇妙なのが・・・血だらけのままシャワーさえ浴びずに、その後、新入生たちがランチしたり、授業でテストをしたりしているところ。主人公が学校に入学してみると妙なしきたりがあったりとか、不吉なムードを漂わせるところは、ダリオ・アルジェント監督の「サスペリア」を思い起こさせます。

生肝臓を食べた夜、ジョスティンにはアレルギー反応が現れるのですが、翌日には”かさぶた”になって、まさにジャスティンは”ひと皮”剥けてしまうわけです。気付くと”肉”を食べたい衝動にかられてしまうジャスティン・・・カフェテリアでハンバーグを万引きしてしまったり、ルームメイトと肉入りのサンドウィッチを食べに出かけたり、夜中に冷蔵庫に入っている生のチキンをこっそり食ったり・・・挙げ句の果てには、自分の髪の毛を食べた毛玉を吐き出したりします。この時期の少女の摂食障害とも重なるような描写です。

ここからネタバレを含みます。


ある晩、自分の変化に悩むジャスティンは姉アレクサの部屋と訪ねるのですが・・・そこで「ブラジリアンワックスやってないなんてありな~い」ということになり、早速ビキニラインのお手入れをすることになるのです。お股のクロースアップ(ムダ毛までありありと!)で脱毛シーンの生々しさは、女性監督ならではと思ってしまいます。


ワックスが剥がれないので、ハサミで毛を切ろうとするアレクサを、ジャスティンが足で蹴ったところ・・・誤ってアレクサは中指を切り落としてしまいます。切り落とされた指先は、そっくり見つかったものの、救急員が到着するまでの間・・・何故かジャスティンは、その指を食べたい衝動にかられて、まるで手羽先を食べるかのように姉の指先の肉に食らいついてしまうのです。ジャスティンの中で、カニバリズムのスイッチが入った瞬間であります。


退院後、アレクサはジャスティンを人気のない並木道沿いへ連れて行きます。すると、アレクサは急に走行中の車の前に飛び出すのです。避けようとした車は路側の木に激突・・・運転手は血だらけでほぼ即死状態となってしまいます。そういえば・・・本作の冒頭のシーンは同じような場面だったのですが、ここでやっと”その意味”が分かるわけです。実はアレクサもカニバリズムの嗜好を持っていて、このように自動車事故を起こしては、死にたての運転手の肉を食べて欲求を満たしていたということ・・・それを、わざわざ実践してジャスティンに教えたのであります。


次第に、カニバリズムの欲求を自覚していくジャスティン・・・その矛先は、ルームメイトのエイドリアンに向けられます。垢抜けなかったジャスティンは、化粧も、着る服も、態度も、聞く音楽の趣味も、急にセクシーになっていき、性欲にも目覚めるという展開は「ジンジャースナップス」を思い起こさずにはいられません。

ジャスティンが就寝中、シーツの中で何者かに襲われる妄想に囚われる姿は、まるでウェス・クレイヴン監督の「エルム街の悪夢」のワンシーンのようですし・・・寮の一室で行なわれているパーティーでは、青や黄色のペンキをぶっかけ合って騒いでいるのですが、これはジャン=リュク・ゴダールの「気狂いピエロ」を思い起こさせます。このように「ロウ」には、様々な映画のオマージュとも思えるシーンがあるのです。


パーティーで知り合った男子学生の唇を思わず噛み切ってしまったジャスティンは、もうカニバリズム欲=性欲を抑えられません。部屋に戻ると、ゲイのルームメイトのエイドリアンにのしかかって、ヤリ始めるのですから・・・。性的興奮が高まってくるとカニバリズム欲も高まるようです。何とか自分の腕に噛み付いて我慢するものの、明らかにモンスター化しています。


肉体関係をもったことで、エイドリアンを男性としても、獲物としても(?)ロックオンしたジャスティン・・・しかし、ゲイのエイドリアンにとっては、一夜限りのハプニングでしかありません。まだまだ”女の子”の一面のあるジャスティンは傷つき荒れて、パーティーで泥酔してしまうのですが・・・そんな妹をアレクサは(死体を使って!)からかうのです。それを知ったジャスティンはアレクサに掴み掛かり、お互いを(まさに)噛みつき合う大喧嘩になってしまいます。

翌早朝、新入生を集合させるためのサイレンで目が覚めたジャスティン・・・ベットの横にはルームメイトのエイドリアンが寝ています。しかし、掛け布団をはがすとエイドリアンは息途絶えていて、太ももを噛みちぎられていているのです。もしかして、自分が襲ってしまったのではと、不安になるジャスティン。実は、就寝中にアレクサによって、エイドリアンは食べられていたのです。カニバリズム欲を満たして呆然としているアレクサ・・・そんな姉を責めきれないのは、二人が共有する哀しきカニバリズムの宿命をジャスティンが理解したからなのでしょうか?


当然のことながら、アレクサは逮捕されて勾留されます。実家へ戻ったジャスティンは、再び厳格なベジタリアンの生活に母親から強いられるのですが・・・そこで、カニバリズムは母親からの遺伝であることを、父親の”ある行動”で知らされることになるのです。「ジンジャースナップス」だと思っていたら・・・なんと”オチ”は「肉」(2013年のカニバリズム映画)だったのであります!


本作はホラー映画にジャンル分けされる作品ですし、多少ゴアっぽい描写もあります。しかし「ジンジャースナップス」がそうであったように、作品の印象は少女の心を丁寧に描写していくカミング・オブ・エイジの青春映画でもあるのです。そして「カニバリズムの目覚め」と「大人への成長」を同列で語ることにより、誰もが通り過ぎた危うい十代を思い出させるかもしれません。


「Raw ロウ(英題)」
原題/Grave
2017年/フランス、ベルギー
監督 : ジュリア・ディクルノー
出演 : ギャランス・マリリエ、エラ・ランプ、ラバー・ナイ・オフェラ、ローレン・リュカ、ジョナ・プレシス
2017年6月25日フランス映画祭2017にて上映
2018年、日本劇場公開予定


「ジンジャースナップス」
原題/Ginger Snaps
2000年/カナダ
監督 : ジョン・フォーセット
脚本 : カレン・ウォルトン
出演 : エミリー・パーキンズ、キャサリン・イザベル、クリス・レムシュ、ミミ・ロジャース、ジェシー・モス
日本劇場未公開/2001年7月25日、日本版DVDリリース


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オールドミスの甘酸っぱい恋物語じゃないサイコな怪作で”ドMの女王さま”っぷりを発揮したジョーン・クロフォード・・・ナット・キング・コールが歌う名曲とは無関係な”おキャンプ映画”なのっ!~「枯葉/Autumn Leaves」~

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ジョーン・クロフォードは1920年代半ばから1970年まで(何本かのゲスト出演を除いて)主演作品しかないという・・・まさにスター女優の中のスター女優であります。しかし、30代を過ぎると”年増”扱いされることが当たり前だった昔のハリウッド映画界で、それほどの長期に渡って主役を貼り続けるということは並大抵のことではありません。ジョーン・クロフォードが40代半ばを過ぎた1950年代になると、主演といっても格下の男優が相手役の「B級映画」ばかりが目立つようになり、その迷走っぷりは明らかになっていきます。


1952年に発表されて大ヒットしたナット・キング・コールの歌う「枯葉」を主題歌/テーマミュージックとした1956年制作の「枯葉」は、骨太な映画で知られるロバート・アルドリッチ監督が撮った女性映画のひとつです。全編に渡って「枯葉」が繰り返し繰り返し流されますが、本作は「枯葉」の歌詞とはまったく無関係であります。

本作が撮影された頃というのは、アルドリッチ監督のアメリカ国内での評価が、まだ高くなかった時代・・・一方、ジョーン・クロフォードはハリウッドの大御所として君臨しており、撮影直前になって降板をちらつかせて台詞の書き直しを要求するほどワガママ放題だったそうです。それを、アルドリッチ監督が頑として突っぱねたため、撮影は険悪なムードでスタートしたらしいのですが、あるときアルドリッチ監督がジョーン・クロフォードの演技に涙したことがきっかけで二人は和解・・・6年後”あの”「何がジェーンに起ったか?」で再びジョーン・クロフォードを起用することになります。


在宅でフリーランス(?)のタイピストをするミリー(ジョーン・クロフォード)は、ロサンジェルスに暮らす淋しいオールドミス・・・コンサートのペアチケットをもらっても、誘う相手が家主のおばあさん(ルース・ドネリー)だったします。若い頃、ミリーは父親の介護を優先してしまったことで、結婚を逃してきてしまったのです。


ひとりで行ったコンサートの帰りに偶然立ち寄ったカフェテリアで、年下の男バード(クリフ・ロバートソン)から強引に相席を求められます。最初は冷たくあしらうミリーでしたが、彼の強引さに負けてしまい、戸惑いながらもバートとは次第に打ち解ていくのです。年齢差を理由にミリーはバートの誘いを一度は断るのですが、それでもしつこいバートに根負けしてミリーは海辺のデートを承諾します。


バートの視線を意識するミリーは、水着姿になることを躊躇してしまいますが・・・そんな事はおかまいなしに一人で海へ走って行ってしまうバートは、まるで子供。案の定(!)ミリーは溺れかけて、そのドサクサに紛れてバートは熱烈なキスするのです。


波が打ち付ける浜辺で抱き合いキスする二人は、本作公開の3年前に公開された「地上より永遠に」(1953)の有名なシーンのまんま”パクリ”。あっさりとバートに身を委ねてしまったミリーでしたが・・・デートの最後には年齢差の理由に「もう二度と会わない」と一方的にバートを突き放しまいます。

それから一ヶ月・・・ミリーは再び孤独な毎日を送くりながらも、どこかでバートを忘れられません。そんな、ある日バートがサプライズで訪ねてくるのです。百貨店でマネージャーの仕事についたと語るバート・・・それをお祝いしようと友達のように二人はデートへ出かけます。そつない態度のミリーに煮え切らない思いを募らせたバートは、突然「愛している」と訴えて、プロポーズをするのです。

再び年齢差を理由に断るミリー・・・しかし、自分の心に素直になろうと、ミリーは土壇場でプロポーズを受け入れるのです。そうとなったら「すぐにでも!」ということになり、二人はメキシコまで車を飛ばして(当時はアメリカ国内で手続きをするようりも簡単だったため)結婚をします。


本作の前年に公開されたデヴィット・リーン監督、キャサリーン・ヘップバーン主演の「旅情」のような、オールドミスのヒロインの心が、揺れ動く甘酸っぱいメロドラマだと思っていると・・・二人が結婚するやいなや、本作は妙な方向に展開していくのです。

ここからネタバレを含みます。

結婚後、二人はミリーの住んでいる部屋で一緒に暮らし始めます。毎日仕事帰りにプレゼントを持って帰ってくるようなラブラブの新婚生活なのですが・・・それまでミリーに語っていた出身地や経歴とは違うことを、バートが語り始めます。問いただすと「別な男性と勘違いしている」と、とぼけるのですが・・・バートは本当にそう思っているような態度なのです。


そんなある日、ヴァージニア(ヴェラ・マイルズ)という若い女性が、バートの留守中に訪ねてきます。彼女曰く・・・最近バートとの離婚が成立したので、財産分与の手続きのためにバートにサインが必要だとのこと。この財産というのは、元々バートの母親のもっていた財産らしく、ヴァージニアが分与を受け取るためにはバートの同意が必要となるらしいのです。

離婚した理由は、ある日突然バートが姿をくらましたからと説明するヴァージニア・・・バートに結婚歴があることさえ知らなかった上に、幼い頃に亡くなっていると聞かされていた父親は存命しているし、行方不明になる前には万引きのトラブルも起こしていたと聞かされたミリーは、ことの真相を確かめるため、バケーションでロサンジェルス滞在しているバートの父(ローン・グリーン)を訪ねることにします。父親は息子であるバートを「嘘つきの出来損ない」と見放している様子・・・ミリーはバートを守るのは自分しかいないという思いを強くするのです。


百貨店に立ち寄ったミリーによって、バートはマネージャーではなくネクタイ販売員であることがバレてしまいます。さらに、毎日のプレゼントは給料のツケで買ってきたものだったり、売り場から盗んできたものだったようなのです。ヴァージニアのことを尋ねると「忘れていた」と言い訳をする始末・・・バートは何かしら衝撃的な体験してトラウマになっていることが分かってきます。しかし、過去から逃げているだけでは問題が解決することはないと、ミリーは嫌がるバートを説得して父親に会うことを承諾させるのです。


先にホテルに到着したミリーは、偶然バートの父親とヴァージニアがプールから出てくるところ目撃・・・実は、バートの父はヴァージニアとデキていたのです。部屋に戻る父親らと入れ違いに、バートがホテルに到着・・・エレベーターを乗り過ぎたミリーが父親の部屋の前に到着したときには、既にバートは父親とヴァージニアが一緒にいるところを目撃してしまった後で、呆然と廊下で立ち尽くしています。バートの抱えていたトラウマというのは、新婚6ヶ月の頃、バートが父親とヴァージニアがいちゃついているところに鉢合わせしてしまったことだったのです。


再びトラウマを経験して憔悴したバートを、父親とヴァージニアは容赦なく尋ねてきて、財産分与の書類へのサインを求めます。二人は、バートを精神的に追い詰めて、バートの母親の残した財産までもを奪おうと画策していたのです。「バートを精神病院にぶち込め!」という父親に対して、毅然とした態度で対峙するミリー・・・苦境に追い込まれても戦う”ドMの女王さま”っぷりを発揮したジョーン・クロフォードの真骨頂といえるシーンであります。


しかし、精神的に追い詰められていたバートは、ミリーが父親らとグルになって自分の財産を狙っていると勘違いしてしまうのです。そして、否定するミリーの頬を平手打ちした上に、タイピストにとっては大事な手に重いタイプライターを投げつけてしまいます。


バートは自分がミリーの手や顔を傷つけたことを忘れてしまうこともあるようで、以前のようにラブラブでご機嫌な時があったり、トラウマに退行して泣き叫び出す時があったりと、精神的に不安定になっていきます。バートには精神病院での治療が必要だという専門医からの強い薦めもあり、ミリーは苦渋の決断をするしかありません。たとえ、治療が成功したあかつきには、ミリーへの愛情をバートが失ったとしても・・・。


バートは病院の職員に連行されて精神病院へ入院・・・後悔や不安を感じながらもミリーはタイピストの仕事をこなしていて、かさむ入院費を負担して、孤独な毎日を再び過ごしています。バートは電気ショックや薬の投与による治療により、次第に回復していくのですが、ミリーには手紙一通さえ書くことはありません。それでもバートの退院が決まると、精神病院からはミリーの元へ身元引き受け人として連絡がくるのです。


すでにバートは自分のへの愛を失っているかもしれない・・・それどころか、精神病院に入院させた自分を恨んでいるかもしれない・・・それでもミリーは退院日にバートを尋ねることにします。バートの過去のトラウマと同様に、自分もバートの人生からは離れるべきだと伝えるミリーに対して、出会った頃のように優しい気遣いをみせるバート・・・ミリーはバートの愛を取り戻したことを確認して、二人は抱き合って熱いキスを交わすのです。

ハッピーエンドっていえばハッピーエンドではありますが・・・この先ミリーが幸せな結婚生活をバートと送っていけるのか不安を感じられるにはいられません。なんでもかんでも精神の病気のせいにしてしまう時代ならではの物語であります。

それにしても、出会いから年齢差で悩み、夫のトラウマに苦しめられ、肉体的にも精神的にも苦しめられ、入院費を負担するために必死に働かなければならなず・・・なんとも遠回りの幸せです。年上女が若い男と幸せになるためには、これほどの努力と犠牲が必要だともいうのでしょうか?

ミリーの立場でみると、なんとも悲惨な(?)ハッピーエンドの物語とも思える本作ですが・・・常に気丈に困難を乗り越えていくジョーン・クロフォードに、観客が同情を感じることはありません。あまりもの打たれ強さに、観客は「もっと苦しめ~!」とサディスティックな気持ちになってしまうのです。

ジョーン・クロフォードとクリフ・ロバートソンが過剰なほどの熱演している本作が”おキャンプ映画”として語られる”もうひとつの理由”は・・・当時50歳を前にしたジョーン・クロフォードが、30代前半のクリフ・ロバートソン相手に”年上の女性”を演じているにも関わらず、少しでも”若く”スクリーンに写りたいという執念を感じさせるからかもしれません。本作にはアリエナイ場所にアリエナイ影がたびたび出現するのです。


下あごの”たるみ”は光の加減次第では、非常に年齢を感じさせてします。そこで本作では、ジョーン・クロフォードのアゴから首の周辺に、何の影だか分からない謎の影が作られているのです。女優ライトで顔正面にはたっぷりと光が当てられていますので、顔上半分は浮き出るように白く写り、アゴの下はまっ黒く写り、下あごは見えなくなってしまうというわけであります。

このような不思議な影が出現するシーンは全編に渡っており、撮影現場での照明や美術のスタッフらの苦労が垣間みれるのと同時に・・・完璧に影をつくりだす立ち位置と絶妙な顔の角度を、完全に把握しながら演技するジョーン・クロフォードに、真の”女優魂”を感じさせられずにはいられないのです。

「枯葉」
原題/Autumn Leaves
1956年/アメリカ
監督 : ロバート・アルドリッチ
出演 : ジョーン・クロフォード、クリフ・ロバートソン、ヴェラ・マイルズ、ローン・グリーン、ルース・ドネリー
日本劇場未公開、WOWOWにて放映

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華奢でもなく羽根のようにも軽くない”ブランチ・デュボア”!・・・良くも悪くも”大竹しのぶ”は”大竹しのぶ”なの~「欲望という名の電車」@シアターコクーン・オンレパトリー2017 DISCOVER WORLD THEATRE VOL.3~

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15歳のとき、ボクはリバイバル上映されていた「欲望という名の電車」を映画館で観て、主人公のブランチ・デュボアというキャラクターの虜になり、原作の戯曲を繰り返し読んで、ブランチになりきって(!)ひとり芝居をするほどのめり込んでしまいました。

何故、15歳の少年がブランチと同化しまうのか、当時は全く分からなかったのですが・・・精神的に不安定な中年女性に共感してしまうゲイのビョーキの一種だったことに次第に気付いたのは、ずっと後のことだったのです。以前「おかしのみみ」というブログに書いた記事があるので、そちらも閲覧してみて下さい。

ボクは映画は繰り返して観ていますが、舞台は1980年に日生劇場で杉村春子がブランチを演じた公演を一度観たっきりです。当時、74歳だった杉村春子の迫真の演技に引き込まれて、非常に衝撃を受けたことを覚えています。共演者のキャスティングも(今、振り返って思うと)かなり豪華で・・・スタンリー役に江守徹、ステラ役に大地喜和子 ミッチ役は北村和夫(スタンレー役を長年演じていた)だったのです。


その後、舞台を観る機会があったのが、まだボクがニューヨークに住んでいた1992年・・・ブランチ役ジェシカ・ラング、スタンレー役アレック・ボールドウィンで「欲望という名の電車」がブロードウェイで期間限定で公演された際、チケットを購入していたのですが・・・公演日にグリーンカードの面接(日本で行なわれた)が組まれてしまい、泣く泣く諦めたということがあるのです。ちなみに、この二人でテレビムービー版が1995年に制作されています。

友人から、シアターコクーン・オンレパトリー2017 DISCOVER WORLD THEATRE VOL.3「欲望という名の電車」の初日の招待券を頂き、人生で二度目の「欲望という名の電車」の観劇となった次第です。招待券を頂いておいて・・・辛口の感想を書くのは大変気が引けるのですが、ここから書くことは「欲望という名の電車」に取り憑かれた頭のおかしなゲイの戯言だと思ってください。


今回の「欲望という名の電車」のキャスティングについては、正直、首を傾げてしまうところがあります。

ステラ役を演じる鈴木杏は年齢的にまだ若くて(と言っても30歳だけど)、ポーランド系の肉体労働者の男の性的魅力に堕ちてしまった元上流階級の女性のセクシャリティを表現することが出来るのかなという感じです。

ミッチ役を演じる藤岡正明は、あまりにも若くてハンサムすぎで絶対アリエナイ・・・台詞にもあるように、ミッチは大柄ガッタリ体型の中年男という役柄で、そんなパッとしない男がブランチの王子さまとなるのがミソなのですから。

ボクが受け入れるのに苦しんだのが、ブランチを演じる大竹しのぶであります。映画でブランチを演じたヴィヴィアン・リーのイメージが強いということがありますが・・・大竹しのぶの身体的特徴が、どうしても華奢なブランチのイメージには繋がらないのです。

昔、ボクが持っていた大竹しのぶのイメージというのは・・・「事件」や「あゝ野麦峠」で数々の演技賞を総なめにした演技のすごく上手い若手女優、素顔は田舎臭い天然系というイメージで、当時の好感度は決して低くはありませんでした。しかし、その後、大竹しのぶは数々の男性遍歴と多くのスキャンダルにまみれて”魔性の女”と呼ばれるようになっていきます。そして、大御所の演技派女優として年齢を重ねていくうちに、すっかり”おばさん”になっていったのです。


2009年に、ブロードウェイミュージカル「グレイ・ガーデンズ」の日本人キャスト版を、ボクは観劇しているのですが・・・大竹しのぶは、ジャクリーン・オナシス・ケネディの従姉でボロボロの豪邸で母親とと二人で暮らしていた実在した女性を演じていました。狂気の中にも上流階級出身の品性を感じさせるべき役柄なのにも関わらず、大竹しのぶは庶民的で”下品”なだけ・・・母親役を演じていた草笛光子が、どんなに髪を振り乱しても凛とした品を失わないオーラを発していたのとは大違いでした。どれほど演技が上手くても、品性を演じることはできないものだと感じさせられたものです。

テレビのバラエティ番組では、相変わらず甘ったるい天然系のイメージで出ている大竹しのぶですが、テレビや映画で演じる役柄は”魔性の女”のタイプキャスティングばかりで、下品な中年女役ばかりをやっている印象しかありません。当然、与えられた役柄を演じているだけだと思いますが・・・ゲッソリするほど素晴らしく下衆く演じるので(ある意味、褒め言葉)最近は大竹しのぶが演じている姿を見かけるたび、胸くそが悪くなるようになってしまったのです。


2002年5月に、蜷川幸雄演出で大竹しのぶがブランチ役を演じた「欲望という名の電車」が公演されていたようなのですが、この公演は、ボクは完全にスルーでした。ステラ役には寺島しのぶ(!)、スタンレー役に堤真一、ミッチ役に六平直政というキャスティングで、非常にソソられるところがあります。また、あの蜷川幸雄が、どんな「欲望という名の電車」を演出していたのかも大変気になります。

ブランチ役というのは女優にとってチャレンジしてみたい役柄のひとつではあるようで・・・杉村春子没後には、浅丘ルリ子(舞台を日本に置き換えた)、篠井英介(世界で初めて女形で演じた)、水谷良重、岸田今日子、東恵美子、樋口可南子、高畑淳子と「なるほど」という名前が連なっています。そういう蒼々たるメンバーの中で、別な演出家によるプロダクションでブランチ役を二度も演じるのは、大竹しのぶだけかもしれません


さて、今回の「欲望という名の電車」は、演出がフィピップ・ブリーン(Phillip Breen)で、美術や音楽もイギリス人スタッフによるものとなっています。中心となるスタッフがイギリス人ということが関係しているのかは分かりませんが・・・海外戯曲ものを日本人キャストで演じるとき、大袈裟な手振り身振りの”ベタ”なジャスチャーを交えて”外人”になりきろうとする傾向って、日本演劇界にはあるように思うのですが、本公演では、わざとらしいジャスチャーはありません。マシンガンのように早口で飛び交う台詞をやり取りしている時も(山場となる感情が高ぶるような場面以外)イスに座ったままだったり、立ったままだったりと・・・まるで歌舞伎のお芝居のようなのです。


舞台上には、ステラとスタンレーのアパートメントの2部屋が、リアルな家具や調度品と共に再現されていますが、2階への階段はなく・・・2階へは舞台袖にはけるという演出になっていました。スタンレーの暴力やブランチへの仕打ちに我慢できずに、ステラが逃げる先が、物理的に今住んでいる場所より「上」の2階というところに意味をボクは感じていたので、本公演の装置は意外でした。

第1幕ではリアルに再現した部屋であるのが、ゴチャゴチャしていて芝居をこじんまりとさせてしまっているように感じたのですが・・・第2幕でブランチの幻覚や妄想が舞台奥に現れて、アパートメントの現実との比較が明確になることで、あえてリアルな部屋を再現していることが腑に落ちました。印象に残った音楽の使い方としては、場面が変わったり時間経過を表す暗転してる時のジャズ音楽で、ブランチの精神の崩壊していくにしたがって、旋律やリズムが乱れていくところが効果的だったように思います。


スタンレー役の北村一輝は、役柄にハマっていたとは思うのですが・・・そつなくこなしていた印象。ミッチ役の藤岡正明のミスキャストは、最後まで違和感は拭えませんでした。鈴木杏からは、ステラがスタンレーの動物的なセックスに魅せられている生々しい性は感じられませんでした。

また、エンディングの演出で気になったのは、ステラがブランチを見送り立ちすくむ”だけ”で終わってしまったところです。「もう二度と家には戻らない!」と、これまでのスタンレーの横暴に堪忍袋の緒が切れて2階へ駆け上がり、ステラの名を絶叫し続けるスタンレーの姿で終わるはずなのですが・・・2階へ続く階段がない装置なので、立ちすくむようにしかできなかったのでしょうか?

なんとも尻切れトンボな終わり方で、演出にも装置にも疑問を感じましたし、ステラがスタンレーを受け入れてしまっているようにしか解釈できなくて、原作とは真逆であるような印象さえ持ちました。


ブランチ役の大竹しのぶについては、やはり女優”大竹しのぶ”の底力を見せつけられた気がします。舞台女優としては当然のことのかもしれませんが・・・叫び狂う台詞も、ささやくような台詞も、マシンガンのように畳み掛けるような台詞も、しっかりと言葉のひとつひとつが意味を持って伝わってきて、本公演の他の役者たちとの役者としての技術な差を見せつけていました。

本作で最も有名なのは、精神病院の迎えにきた医者が紳士らしい振る舞いで差し出した腕に、淑女のように手をかけるブランチが言う台詞「どなたかは存じ上げませんが、わたくしは見知らぬ方のご親切を頼りにして参りましたの」だと思うのですが・・・本公演では、意外なほどサラッと流してしまっていたので、ちょっと腰砕けでした。もっともっと溜めて言って欲しかったボクにとっては重い重い台詞です。

舞台では、役柄の身体的特徴と演じる役者が一致しなくても良いという考え方もあるのかもしれませんが・・・ミッチがブランチを持ち上げて「羽根のように軽い」という台詞があるので、ブランチが今にも崩れてしまいそうなほど華奢であることは必須なのです。大竹しのぶが持ち上げられるシーンでは、思わずボクは心の中で苦笑いをしてしまいました。まぁ、新しい”ブランチ像”と言えるのかもしれませんが・・・。

大竹しのぶの台詞まわしからは、上流階級出身であるブランチから滲み出てくるはずの品性は感じることはできませんでした。大竹しのぶの演技のクセが強くて・・・「後妻業の女」感が抜ききれないのです。大竹しのぶは、役柄が乗り移ったかのようになりきってしまうタイプの女優ではなくて・・・良くも悪くも”大竹しのぶ”は演技のうまい”大竹しのぶ”でしかないような気がします。「欲望という名の電車」さえも、女優”大竹しのぶ”を見せつける題材として、どの大竹しのぶの出演作と変わらないのかもしれません。

シアターコクーン・オンレパトリー2017 DISCOVER WORLD THEATRE VOL.3
「欲望という名の電車」
作  : テネシー・ウィリアムズ
演出 : フィリップ・プリーン
出演 : 大竹しのぶ、北村一輝、鈴木杏、藤岡正明
2017年12月8日~12月28日、Bunkamura シアターコクーンにて公演


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ポーランドの新鋭監督によるポップでキッチュな2作品・・・アグニェシュカ・スモチンスカ(Agnieszka Smoczynska)の不思議ちゃん系人魚ホラーミュージカルとクパ・チェカイ(Kuba Czekaj)の男の子の悪夢~「ゆれる人魚/The Lure」「ベイビー・バンプ(原題)/Baby Bump」~

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ポーランドの映画監督というと”アンジェイ・ワイダ”が、まず頭に浮かんでしまうのは、日本の映画監督というと”黒澤明”という名前を挙げてしまうようなものなのかもしれません。世界的に評価されているポーランド映画は、社会主義国家ならではの政治色の強い作品が多く・・・少々取っ付きにくい印象もあったりします。

ただ、他にもイェジー・カヴァレロヴィッチ、クシシェトフ・キェシロフスキなどの巨匠級の映画監督もいるし、ポーランド出身の映画監督というと、ロマン・ポランスキー、ワレリアン・ボロズウィック、アンジェイ・ズラウスキー、ヴォイチェフ・イエジー・ハスなど、なかなかクセのある”ヘンタイ”監督(!?)を排出しているお国柄だったりします。最近、たまたま観たキッチュな2作品が、ポーランドの新鋭監督による作品だったもの偶然ではないと思えるのです。


「ゆれる人魚」は、一見すると日本人が好みそうな”不思議ちゃん系”の映画・・・新鋭女性監督アグニェシュカ・スモチンスカによる長編劇映画デビュー作品ですが、日本での劇場公開も決定しております。人魚の姉妹がワルシャワのクラブで人気歌手になるという突拍子もない設定なのですが、そもそもは姉妹の歌手(人間の!)の物語だった脚本を、あれこれ試行錯誤しているうちに姉妹を人魚にしてしまったという経緯だったそうです。ただ、人魚といっても・・・「スプラッシュ」「リトルマーメード」「愛しのアクアマリン」などの過去の人魚映画から想像される”美しい”もんじゃないくて、パッと見は”ウミヘビ”?という印象を持ってしまうようなグロテスクな人魚であります。


1980年代のワルシャワ・・・人魚の姉妹シルバー(マルタ・マズレク)とゴールデン(ミハリーナ・オルシャンスカ)は、海辺で歌声に誘われるように沖に上がりナイトクラブに辿り着きます。まだ社会主義国だったワルシャワに、これほどカラフルなクラブが存在していたのだろうか?なんて思ってしまいますが、これは、本作の監督や脚本家が、子供時代を過ごした1980年代の残像ということ・・・ニコラス・ウィンディング・レフィンやギャスパー・ノエを彷彿させるジャーロな色彩センスにはノスタルジーも感じさせます。

人魚姉妹の人間社会からの扱われ方は、異文化/移民への対応であったり、ひと昔前の女性の扱われ方だったりを連想させるところがあります。ただ、男も女も人魚姉妹の生物を超えた性的魅力にメロメロで、人魚の姿の彼女たちとのセクシャルな行為に耽ってしまうというのは、なんとも怪しげであります。また、本来の伝説に基づいているらしく、人魚姉妹は人間の”男”を食べなければ生きていけないというのがホラーです。


しかし、シルバーはバンドメンバーの一人のミテーク(ヤーコブ・ジェルシャル)に恋に堕ちてしまうことで、物語は悲劇的な方向へ向かっていきます。人間に恋をした人魚が、その恋を成就できない時には泡となって消えてしまうのですから。人魚が人間の姿のときは生殖器も排泄器もないツルツル状態。ミテークと(肉体的にも)結ばれるため、シルバーは(魚の下半身を失えば声を失ってしまうにも関わらず)人間の下半身を移植して人間になることを決意するのです。

先日、このブログでも取り上げた「RAW~少女のめざめ~」と同じく、グロテスクな本作ではありますが、アンビエントなサウンドが際立つミュージカル仕立ての本作は、あえての”ダサおしゃれ感”を狙ったようなキッチュでポップ場面があるかと思えば、ダークなシリアスドラマのような場面もあります。少女(人魚ですが)の性のめざめの物語のようでもあるし、女性へのハラスメントを告発しているようでもあるし、童話「人魚姫」どおりの切ないファンタジーでもあるし、いくつもの映画がひとつの作品になったような印象もある不思議な映画なのです。


もうひとつのポーランド映画「ベイビー・バンプ(原題)」も、新鋭男性監督クパ・チェカイによる長編劇映画デビュー作品で、こちらも・・・ある意味”不思議ちゃん系”かもしれません。主人公の11歳の少年ミッキー・ハウス()の心理的な現実(?)を、昔風のアニメーション、雑誌のようなポップ、斬新な編集、奇抜なインターカットなどをコラージュしており、”カミング・オブ・エイジ”系ではあるのですが、幼少期から思春期へと成長していく少年のぶっ飛んだファンタジー映画でもあるのでもあります。


「悪夢」「現実」「仮想現実」「空想」「疑似体験」が、カット毎ぐらいに入れ替わるので、物語を追うのに混乱してしまうのですが・・・シングルマザーの母親から溺愛されていることの不満や、思春期の身体の変化(夢精や勃起など)の不安を感じているようです。上級生のいじめっ子たち、執拗に絡んでくる同級生の女子、母親にモーションかけている警官らも加わり、現実と非現実はごちゃまぜで描かれていきます。

また本作は、さまざまなシンボルや比喩を多用しているので、一度観ただけでは訳の分からないことばかり。ただ、ミッキー・ハウスのアルターエゴとして登場する耳の大きなネズミのアニメーションキャラクター(このキャラクターだけ何故か台詞は英語)が、時にはミッキー・ハウスに助言をしながら、観客に対して解説の役回りも担っているような気もします。

この耳の大きなネズミを(まさに!)吐きだして、踏み潰すことで、ミッキー・ハウスは自我を確立して・・・母親と卵を奪い合いを制して、たまごから生まれ直す(!)ことによって、幼少期から思春期へ脱皮するするのです。男性にとっては、性の目覚めよりも居心地悪く感じられるようなビミョーな時期の描写に、なんとも居心地の悪さを感じるところもあるのですが、女性にとっては少年がこんな過程を乗り越えていたとは考えもしないのかもしれません。ティーン以前の少年の心と体の変化を、これほどグロテスクに(!)表現するとは・・・クパ・チェカイ監督の恐るべしのデビュー長編作品であります!


「ゆれる人魚」
原題/The Lure
2015年/ポーランド
監督 : アグニェシュカ・スモチンスカ
脚本 : ロベルト・ボレスト
出演 : キンガ・プレイス、マルタ・マズレク、ミハリーナ・オルシャンスカ、ヤーコブ・ジェルシャル、ジグムント・マラノヴィッチ、カタジーナ・ヘルマン、マンジェイ・コノブカ、マルチン・コヴァルチク、マグダレーナ・チェレツカ
2017年9月17日第10回したまちコメディ映画祭 in 台東にて公開
2018年2月10日より劇場公開


「ベイビー・バンプ(原題)」
原題/Baby Bump
2015年/ポーランド
監督&脚本 : クパ・チェカイ
出演    : カクパー・オルツォウスキー、アグエツカ・ポドシアディク、カイル・スウィフト、セバスチャン・ラーチ、ウェロニカ
日本未公開

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「現代アートの欺瞞」「スウェーデン人の国民性」「エリート白人男の傲慢さ」を皮肉る同族嫌悪的なシニカルさ・・・悪意のないミハエル・ハネケ節コメディにゾワゾワさせられるの!~「ザ・スクウェア 思いやりの聖域/The Square」~

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第70回カンヌ映画祭(2017年)でパルムドール賞に輝き、第90回アカデミー賞の外国語映画賞部門でもノミネーションされている「ザ・スクウェア思いやりの聖域/The Square」は「フレンチアルプスで起きたこと/Force Majeure」のスウェーデンの映画監督リューベン・オストルンドの最新作であります。


「フレンチアルプスで起きたこと」は、休暇中のスウェーデン夫婦が雪崩に遭遇して夫が先にひとりで逃げたことをきっかけに家族がバラバラになっていく・・・というダークコメディ(!?)。ちょとした台詞や行動によって夫婦間に起こる不調和感の「あるある」を絶妙を描いていて・・・何とも言えない居心地の悪さにゾワゾワさせられてしまったのです。

原題の「Force Majeure」はフランス語で「不可抗力」という意味で、暗に夫の行動を肯定しているような印象・・・ボク的には邦題の「フレンチアルプスで起きたこと」の方が、曖昧さがしっくりくるような気がします。今回も、原題の「The Squre」だけでは何のことだか分からない感じですが「思いやりの聖域」というサブタイトルを邦題に加えたことは”正解”ではないでしょうか?

実は「ザ・スクウェア思いやりの聖域」には、ボクの友人の旦那さん(スウェーデン人)が、VFXのプロデューサーとして関わっているという事もあり、以前から話に聞いていたのです。その後、カンヌ映画祭に出品されるという運びになり、その様子を彼のフェイスブックで見るたびに「スゴイ、スゴイ!」と興奮していたら、パルムドール(グランプリ)獲得という展開に、何も関係のないボクまで嬉しくなります。来月(2018年3月4日現地時間)に発表となる第90回アカデミー外国語映画賞も受賞するのか期待です。


本作は、ストックホルムにある現代アートの美術館のキャレーターのクリスティアン(クレス・バング)を中心に、様々なエピソードが平行して語られていきます。タイトルでもある「ザ・スクウェア」は、クリスティアンの手掛ける次回の展示作品で、現代社会の格差やエゴイズムを訴え、平等の権利と救済の手を差し伸べるべきである空間(思いやりの聖域)を表したインスタレーションアートなのですが・・・物語はそれとは反するように皮肉に満ちているのです。

ここからネタバレを含みます。


冒頭のアメリカ人ジャーナリストのアン(エリザベス・モス)によるクリスティアンへのインタビューの中身のなさから分かるように、本作は「現代アートの欺瞞」を小気味よいほど暴いていきます。

アーティストの講演会で語られる薄っぺらい”コンセプト”を遮るのが、客席にいるトゥレット障害者(意図せず冒涜的な言葉を吞む発作的に発してしまう)から言動というのも、なんとも居心地の悪かったりします。また、作品と真逆なメッセージ動画をネット上で拡散させて”炎上商法”を狙うという、愚かなマーケティングによって世間からバッシングを受けることになり、美術館もクリスティンも窮地に追い込まれていく展開には、苦笑いするしかありません。


道で寝転がっていホームレス、カフェテリアにたむろする移民、小銭をねだる慈善事業ボランティアなどを無視して、通り過ぎていくストックホルムの街角の人並みのカットが繰り返した挿入されるのですが`・・・これもまたアート作品「ザ・スクウェア」のコンセプトと真逆にあ「スウェーデン人の国民性」も垣間見せているのです。


或る朝、クリスティアンが出勤途中男女のイザコザに巻き込まれて、iPhoneと財布をを盗まれるのですが・・・遠巻きに傍観する人々の無関心さだけでなく、すられたことに気づいたクリスティアンが助けを求めても、誰も関わりを持とうとしないのは、ちょっと冷たい過ぎるように感じてしまいます。

20数年間ストックホルムで暮すボクの友人に「スウェーデンの国民性をひとことで言うと何?」と尋ねたことがあるのですが・・・「人と人の関係において情が薄い」という思いもやらない返答をもらったことがあります。スウェーデンは、気候的には厳しいし、税金は高いけれど、福祉国家として良いイメージをボクは持っていたので、彼女の言葉には少々ショックを受けたのですが・・・逆に”情の薄い国民性”だからこそ福祉を充実させる必要があったと言えるのかもしれません。


現代アート界を支えるのは金持ちのブルジョワ階級であると言えると思うのですが・・・彼らが他人のトラブルとは関わらない”情の薄い”スウェーデン人の国民性を発揮するのは、本作の海外版ポスターになっているディナーパーティーでの場面です。「猿の惑星」でのモーションキャプチャー演技で知られるテリー・ノタリーのパフォーマンスが暴走して、ゲスト客を恐怖に落とし込んでいくのですが・・・女性ゲストが強姦されそうになるまで、誰一人として関わろうとする者がいないのですから”ことなかれ主義”にもほどがあります。

本作ではクリスティアンに代表される「エリート白人男性の傲慢さ」も描かれていきます。盗まれたiPhoneの在処をGPSで貧民街のアパートにあると突き止めたクリスティアンは、全部屋に返却を求めるビラを全部屋に配るという作戦に出て、見事にiPhoneと財布を取り返すことに成功するのです。しかし、全く無関係の移民の少年はビラによって親から盗っ人の疑いをかけられてしまいます。少年はビラを配ったのがクリスティアンを突き止めて謝罪を要求するのですが、クリスティアンは少年の心に寄り添うことはありません。追い払うことしか考えられず、思わず少年を階段から突き落としてしまい、助けを呼び続ける少年を置き去りにしてしまうのです。


打上げパーティーの後、アメリカ人ジャーナリストのアンとクリスティアンは、その場の流れでエッチをしてしまいます。クリスティアンにとっては一夜限りの関係・・・行為の最中でさえ、クリスティアンの視線はアンではなく、天井のシャンデリアだったりするのです。行為の後、使用済みのコンドームの攻防戦を繰り広げるバカバカしい「あるある」には、思わず苦笑いしてしまいます。後日、アンがクリスティアンの職場に押しかけて、二人の関係を問い詰めてクリスティアンの化けの皮を剥がしていく様は居心地悪くなるほどです。


この”居た堪れない”ゾワゾワした感じは、ボクが”不快映画の巨匠”と呼ぶミハエル・ハネケ監督を思い起こさせるところもあるのですが・・・それほど”悪意”に満ち溢れているわけではなく”滑稽”であるところが救いかもしれません。ただ、2時間半を超える上映時間というのは、内容的には長尺な気はします。

最後の最後、クリスティアンが自責の念にかられて、少年を探して謝ろうとするのは贖罪の気持ちなのでしょうか?考えてみると・・・監督と脚本のリューベン・オストルンド自身を含めて、本作に関わっているスタッフ多く(ボクの友人の旦那さんも含めてかもしれない)は、クリスティアンに似た存在の人たちであるのかもしれないので、本作で描かれるのは同族嫌悪的な「あるある」なのかもしれません。


「フレンチアルプスで起きたこと」
原題/Force Majeure
2014年/スウェーデン、デンマーク、フランス、ノルウェー
監督、脚本 : リューベン・オストルンド
出演    : ヨハネス・バー・クンケ、リサ・ロブン・コングスリ、クリストファー・ヒビュー、クララ・ペッテルグレン、ビンセント・ペッテルグレン、ファンニ・メテーリウス
2015年7月4日より日本劇場公開


「ザ・スクウェア 思いやりの聖域」
原題/The Square
2017年/スウェーデン、ドイツ、フランス、デンマーク
監督、脚本 : リューベン・オストルンド
出演    : クレス・バング、エリザベス・モス、ドミニク・ウェスト、テリー・ノタリー、リンダ・アンボリ、クストファー・レス
2018年4月28日より日本劇場公開


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日本の最先端技術と伝統的職人技でつくられるオートクチュールな「新しくて古い未来の服」~「HARMONIZE」YUIMA NAKAZATO EXHIBITION @ 21_21 Design Gallery 3~

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先日、21_21 Designで入場無料の「HARMONIZE」という展覧会/展示会が行なわれていて、久々に(!)「ファッションの未来」ということを考える機会がありました。「Fashion/ファッション」という英語の言葉には様々な意味があるけれど・・・そのなかの「流行」が「服」そのものを表しているというのは、”はやり””すたり”が「服」のスタイルを中心に移り変わってきた時代だった20世紀には、正しい語彙であったように思えます。

女性のライフスタイルや意識までをも変革した1920年代、造形的なデザインが昇華した1950年代、ストリートからカジュアルや若者のニーズから既製服が生まれた1970年代・・・その後、シルエットからスタイリングによる流行(エスニックとか、メンズライクとか、グランジとか)へと移行していくと、デザイナーによって提案されるスタイルが「流行』となっていくのです。

スタイルが焼き直されて再生を繰り返すようになると、次第にマンネリ感を招いてしまったような気がします。毎シーズンのスタイルは、単なる”情報”として人々の意識のイメージとして消化されていくようになったようです。また、トップデザイナーによって生産される服は、実際の「流行」とも乖離してしまがちで、個々のデザイナーが確立した「スタイル」の継続であったり、手の込んだ職人技術(クラフトマンシップ)を駆使した「オブジェ」だったり、もしくは・・・美術館に展示される「アート」として”みる”ものとなっていきつつあります。


「未来のファッションとは?」「21世紀の服は?」という”問いかけ”は、20世紀のファッション業界が模索していたことだったのかもしれません。”未来”を夢見ていた1960年代後半、”アンドレ・クレージュ””ピエール・カルダン””パコ・ラバンヌ”らによって発表された未来志向の服”は、当時の「流行」とはなりましたが・・・21世紀に生きている我々からすると「懐かしい未来の服」という”古い”スタイルでしかないのです。


ボクがファッションデザインに興味を持ち始めた1982年にアメリカで出版された「FASHION 2001」を、改めて今読み直してみると・・・「未来の服」というのは、その未来を語っている時代のスタイルでしかないことが、よく分かります。ただ、多くのデザイナー達が「個性(individuality)の追求」「テクノロジーの発達による素材と生産効率化」を語っていたり、未来では「オートクチュール」と「ユニフォーム」に二極化するというのは、ある意味、21世紀のファッションを言い当てているとも思えてしまうのです。

デザイナーがファッションショーで発表する「服」が「流行」でもあり「着る服」でもあったのは1980年代までだったかもしれません。今振り返って考えると・・・1988年のクリスチャン・ラクロアの出現が、ファッションデザイナーが打ち出す「流行」がファッションの流れをつくる仕組みの「終わりの始まり」だったような気もします。(日本のファッション界では違ったかもしれませんが、欧米では少なくともそうでありました)1990年代に入り「セカンドライン」というビジネスモデルが登場したことにより、その後の「ファストファッション」への”低価格化”という避けられない流れも明確になってきたのです。

「ファッション」がステイタスとなるのは、経済的な成長を認識する過程なのかもしれません。かつてのバブル経済時代に日本人がそうであったように、今では中国、東南アジア、ロシアなど、近年経済的に成長した国の人々が、高額ブランドの購入者となっています。経済成長のピークを過ぎた欧米や日本では・・・見てすぐ分かるブランドだったり、全身ブランド品で身を包んだりすることは、逆に”おしゃれ”とは思われなくなっていくという現象は「ファッションの終焉」かもしれません。

機能を追求した「ユーテリティウェア」や日常的に着れる「リアルクローズ」が支持される現在・・・「デザイナーネーム」と「不変的なデザイン」が結びついた「コラボレーション」という新たなステータスは、ファッションを求める消費者さえ凡庸なデザインに満足しているということなのかもしれません。「21世紀の服」は、着ることで得られる機能(軽い、暖か、涼しい、着ていて楽とか)をもっているとか、生産体制や販売流通の効率化で高品質な服が低価格で手に入れられるようになったとか・・・それほど面白くもない着地点に落ち着きそうであります。


そんな時勢のなかで「未来の服とは?」に答えを投げかけるという意味で「HARMONIZE」という展覧会(展示会?)は刺激的でもあり・・・同時に20世紀的な”古さ”もあったのです。


デザイナーの中里唯馬(なかざとゆいま)氏は、芸術家である両親の間に1985年に生まれて、2008年日本人としては最年少でアントワープ王立アカデミーに入学/卒業。アントワープ王立アカデミーでは英語で授業が行われているらしいのですが・・・殆ど英語が話せないにも関わらず、18歳の時(2003年?)に入学試験に臨んだそうです。実際に入学できてからは、ICレコーダーを駆使して授業についていったそうで、大変な努力家であります。在学中に、欧州で開催されるITS(インターナショナル・タレント・サポート)で2年連続受賞という快挙を果し、卒業の翌年2009年には「YUIMA NAKAZATO 」を設立するのです。

活動が衣装デザインであったのは、アート志向の彫刻的なファッションを目指していたらしいので、当然だったのかもしれません。ファーギー(ツアー/2010年)、ブラック・アイド・ピーズ(ビデオ/2011年)、レディ・ガガ(テレビ出演/2013年)、三台目 J Soul Brothers(ビデオ、ツアー/2012年)、EXILE(ビデオ、ツアー/2013年)、宮本亜門演出の舞台、小栗旬主演の「ルパン三世」などで衣装デザインを担当しているのです。

ブランドコレクションとしては、2009年からアクセサリーのコレクションや、ユニセックス(?)のコレクション(男性モデルによるランウェイ)を継続的に発表・・・衣装デザインの延長線上という印象は否めませんが、独自の世界観を表現しようとしているのは、YOU TUBEにアップされている動画から強く感じられます。


2016年夏には「nippoppin」と「天野喜孝」とのコラボレーションによるバッグや、ホログラム素材のオリジナルバッグ(一部受注生産)を、伊勢丹新宿店/TOKYO解放区で販売しています。


大きな転機となったのは、2015年暮れにアントワープ時代の知人(オートクチュールに参加しているブランドのマネージャーをしていた)に、パリのオートクチュールに参加するには「どうしたら良いのか?」と問い合わせたこと・・・2016年3月にはオートクチュール事務局長との面接まで辿り着きます。以前よりオートクチュール協会のコレクションウィークに参加する敷居は低くなったは言っても、非常に重い扉であることには違いありません。アントワープ時代に繋がりをもった欧州ファッション界の大物らの推薦状が決め手となり、中里唯馬氏は森英恵以来二人目の日本人オートクチュールデザイナーとなったのです。

中里唯馬氏は、日本の最先端技術と伝統工芸の融合を提案して、2016年からオートクチュールコレクションを発表しています。価格的にはドレス1着が200万円(アクセサリーや靴などを含めると1000万円以上)からということなので、オートクチュールとしては一般的かもしれません。EXILEの衣装デザインのために開発したホログラムをスーパーオーガンザという世界一軽い糸を織り合わせた素材、江戸切子職人によるガラスに会津若松の漆とホログラムの粉を混ぜたものをコーティングした木製の玉をあしらったアクセサリー、ホログラム釉薬を使った有田焼の装飾パーツ、最新3Dプリンターによって制作される靴など・・・まさに過去(伝統)と未来(技術)を融合しているのです。

デビューコレクションの2016~17年秋冬「UNKNOWN」で発表されたのは、PVC素材をプロッターマシーンで細かなカット入れて、細かく折り畳むことで立体的なフォルムを構築するという作品・・・氷、空、海、オーロラなどの自然界の色彩をホログラムにしているので、角度によって色や輝きが変化して、まさに「未来的」であります。着る”オブジェ”としての完成度は高い「作品」で、シルエット的にはフセイン・チャラヤン、または、ジュンヤ・ワタナベ・コム・デ・ギャルソンのコレクションで発表される服に近いかもしれません。また、折り込むことでフォルムを構築するという手法は、三宅一生の「プリーツ・プリーズ」も思い起こさせます。

2016-2017/AF 「UNKNOWN」

2017年春夏コレクション「INGNIS AER AQUA TERRA」では、ミリ単位で正確にカットされたユニットに凹凸をつけて、ひとうひとつはめ込むという大変手間のかかる服を発表します。縫製のないユニットによる服の製法が「YUIMA NAKAZATO 」のシグニチャーとなっていくのです。

2017/SS 「INGNIS AER AQUA TERRA」

続く2017~18年秋冬コレクション「FREEDOM」では、各ユニットのサイズを微調整することで、顧客ひとりひとりの体のサイズにフィットさせるというオートクチュールらしいコレクションを発表します。各ユニットはDNAのようにナンバリングされて管理することも可能ということ。また、PVC素材だけでなく・・・コットン、ウール、ナイロン、レザーも、パーツ素材として使用できる技術も開発したことで、ジーンズやライダースジャケットなどにも応用できるようにしたのです。


2017-2018/AF 「FREEDOM」

2018年春夏コレクション「HARMONIZE」では、それぞれのユニットを自由にリサイクルできる循環システムをもつ「未来の服」を発表。服の一部が破けても同じサイズのユニット(別な素材でもOK)を用意すれば修理できるというのは、物資が限られる宇宙開発の現場で活躍するそうです。


2018/SS 「HARMONIZE」

「ユニットのサイズを微調整して体にフィットさせる」「ユニットをリサイクルさせて循環する」などのコンセプトは・・・ハッキリ言って”ギミック”と言ってしまえば”ギミック”でしかありません。細かいユニットによって構築される服というのは、平面の布地を型紙どおりに裁って縫い合わせるという古典的(?)な服とは、まったく別な構造を持っています。画期的な製法であるが故に、生産過程に於いても、着る人にとっても、その技術で作られていることが理にかなっていないと、単に”ギミック”で終わってしまう恐れがあるのです。そういう観点では、三宅一生の「プリーツ・プリーズ」は全てに於いて理にかなっていたと思えます。

ユニットによる服の製法をギミックとして終わらせない方向性が見えるのが、今回の展覧会/展示会で発表されていた「TYPE-1」かもしれません。ホースライドレザーとウルトラスエード(Ultrasuede PX)を素材にしたライダースジャケットを生産するシステムで・・・3Dスキャナーによって顧客の寸法を正確に入手、コンピュタープログラムよって自動的に各ユニットの形やサイズを計算するオートパターンメイキング、デジタルファブリックカッターにより自動裁断、各パーツを繋げる部品も3Dプリンターによって自動的に作成するというのです。この生産システムを「TYPE-1」として実店舗に設置することで、顧客ひとりひとりにオートクチュールのような”一点もの”として提供できるというのです。縫製不要の服には、縫製工場さえいらないということであります!


残念ながら・・・膨大な数のユニットをプラスティックの部品で繋げていくという行程は、現在のところ手作業で行なうしかないようで、この作業までも機械化されないと、商業化するのは難しいとは思います。ただ、ライダースジャケットとか、デニムジーンズとか、20世紀から慣れ親しんできた不変的なデザインを、新しい技術やテクノロジーで”一点もの”として生産するというのは、何十年か先に振り返ってみたときには、今の時代に共感される「未来の服」でしかないわけで・・・巡り巡って”新しくて古い”のかもしれません。

「HARMONIZE」YUIMA NAKAZATO EXHIBITION 
21_21 Design Gallery 3 
2018年2月21日~2月25日開催

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3D対応テレビが市場から消えても”PlaySation VR”で観れば良いのだ・・・3Dブルーレイの「BEST」から「WORST」を「実写映画」「アニメーション」「ドキュメンタリー」「パフォーマンス」「クラシック立体映画」「3D再生映画」のジャンル別でリストアップ!

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有機ELテレビやプレミアム4Kテレビの普及が進むなか、逆に消滅してつつあるのが3D対応テレビです。2010年に登場した3Dテレビは、2012年をピークに減少傾向にあるようで、家庭用テレビ市場は緻密な画質の4K(または今後の8K)や、有機ELという新技術のテレビに移行していき・・・いずれ3D対応テレビは市場から完全に消えてしまう運命にあるのかもしれません。

2016年10月13日に発売以降、ずっと売り切れ状態で入手困難だった”PlaySation VR”が、2017年10月14日にマイナーチェンジの新機種をカメラ同梱版で(実質的に5000円値下げ)発売しました。その後、VR対応/専用ゲームが次々とリリースされたり、先日(2018年3月29日)には販売価格がさら1万円値下げされて、いよいよソニーも”PlaySation VR”の普及に本気度を出してきたようであります。PLAYSTATION 4のヴァーチャル・リアリティ(VR)拡張機器ではありますが・・・VR対応のゲームだけでなく、3Dブレーレイの再生にも対応しており、目の前に巨大なスクリーンが現れて3D映像を観ることができるのです。

3Dテレビの場合、3Dメガネをかけてテレビの前で視聴するのですが、”PlaySation VR”の場合、装着した時の体勢を保てば、どんな姿勢でも視聴可能なので、仰向けに寝ながらでも3D映像を観ることができます。付属のイヤホンの音質がイマイチ(ヘッドセットの構造上、ヘットフォンが装着しにくい)という欠点も補うほど、視聴の体勢の自由は個人的にはポイント高いです。4Kの映像と比較すると明らかに低い解像度も、3Dブルーレイ視聴に限れば気になるほどではありません。構造上、複数の人数で視聴するには各自”PlaySation VR”が必要となるので、あくまでも一人で観る状況限定ではありますが・・・3Dブルーレイを視聴する環境として”PlaySation VR”はお薦めです。

自宅で3Dブルーレイを視聴する大きな利点として「字幕なし」という選択肢があるということがあります。劇場で3D映画を見る場合・・・「日本語吹き替え版」か「日本語字幕版」のどちらかになるわけですが、吹き替え版だと(実際の声を知っている)俳優が、日本人の声優の声になっているので、ボクは非常に違和感(アニメーションの場合は、それほど気になりませんが)を感じてしまうのです。また、字幕版だと一番手前に見えるのが”字幕”になってしまい3D映画の味を損なわれている気がするのであります。

数年前まで、海外で3Dブルーレイが発売されても日本では2D版しか発売されないことがありました。しかし、最近はアメリカ以外の国(日本とか)でしか3Dブルーレイが発売されないことが増えてきてはいるようで・・・ブルーレイという物理的なメディア自体が時代遅れになるアメリカ市場では、3D映像もネット配信へ移行しているので、ブルーレイディスクという物理的なメディアは、今後は4Kを売りにした”コレクター向け”商品となりつつあるのかもしれません。

ピーク時よりは減っているものの・・・そこそこの本数の3D映画は映画館で公開されています。しかし、3Dブルーレイが発売されるのは、初回限定版のみだったり、高価な4Kブルーレイとの抱き合わせだったり、ブルーレイの購入後に専用サイトから購入(MOVIENEX)しなければならなかったりします。また、3Dブルーレイの廉価版が発売されることも、それほど多くはありません。最近では、3Dブルーレイを店頭で扱わない店も増えてきているので、3Dブルーレイ観賞のハードルは高くなっていると思われます。将来的には、ほんの一部(評価が高いのに流通量が少ないなど)のソフトがプレミア化・・・それ以外は(視聴する環境がなくなくなるので)ゴミ化していくかもしれません。

一概に3Dブルーレイといっても様々なジャンルがあります。「実写映画」「アニメーション」「ドキュメンタリー」「パフォーマンス」「クラシック立体映画(1980年代以前に製作された3D映画)」「3D再生映画(過去に2Dで製作された作品を3D変換した作品)」「アダルト系」に大きく分けられると思うのですが・・・これらを同じ土俵で比較/評価することは難しいことです。そこで、それぞれのカテゴリー別にリストアップ(アダルト系は視聴したことないので除く)しようと思います。

あえて順位はつけたり点数や☆をつけませんが、リストの上からお奨め度合いが高い順とします。作品の内容ではなく、あくまでも3Dでの視聴に対しての評価で「EXCELLENT」「GOOD」「AVERAGE」「BAD」に分けています。なお、このリストは随時更新していく予定です。

**********実写映画**********

 

3D演出はCGによる特殊効果によることが多く、”実写映画”と”アニメーション”のボーダーラインは曖昧になってきているように思えますが・・・主要なキャラクターが人間によって演じられていて空間が実写で撮影されている作品を”実写映画”として考えられると思います。

2Dで公開することを前提として撮影されたものを、3Dにデジタル変換する作品も多いこともあり、変換技術の差によって3D映画としての出来の良し悪しがあるようです。ただ、年々変換クオリティは向上しているようで・・・あえて3D映画として公開されている作品/3Dブルーレイ版を発売する作品の3D効果は、より自然に、より効果的になってきているかもしれません。

EXCELLENT

アバター圧倒的な臨場感を感じさせる3D演出と舞台設定。
ヒューゴの不思議な発明物語の流れに自然で映画的に優れた3D演出。
ゼロ・グラビティ3Dでの視聴が前提で作られており空間演出が巧み。
アメイジング・スパイダーマン2メリハリのある視差と迫力ある3D演出。
ジュピター独特の映像世界が正統的な3Dで表現されている。
パシフィック・リムサイズ感や質感が伝わってくる迫力の3D。
マイティ・ソー バトルロイヤル視差が強く3Dを強調する見せ場が多い。
アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン細部に渡って3D感がある。
マッドマックス 怒りのデスロード3D変換で2Dよりも迫力のある映像。
白鯨との闘い細部にまで3D変換されている。
ドライブ・アングリー 3D強調した立体感とエグい3D演出。
オール・ユー・ニード・イズ・キル素早いカメラワークでも立体感がある。

GOOD

キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー視差のある変換で目まぐるしいほど。
アントマンサイズ感が3D演出によって際立っている。
ドクター・ストレンジ存在しえない空間を3D化に成功している。
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス変換は良いが3D演出が単調。
マレフィセントかきわりっぽい変換ながら迫力の3D映画になっている。
ワンダー・ウーマン3Dが活かされているシーンがいくつもある。
バットマン vs. スーパーマン ジャスティスの誕生視差のばらつきはあるが迫力はある。
スパイダーマン:ホームカミング3D変換は自然だが迫力に欠ける3D演出。
キングコング:髑髏島の巨神3Dを意識した演出は多いが変換は平均的。
マイティ・ソー/ダーク・ワールド3Dが効果的なシーンがいくつかある。
ジャスティス・リーグ変換は十分だが3Dを活かした演出は多くない。
キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー控えめの3Dだが変換は自然。
センター・オブ・ジ・アース極端に強い視差とクドいほどの3D演出。
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー平均的な3D変換だが見せ場もある。
メン・イン・ブラック3ギミック的に3D演出が効いているシーンがある。
ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅奥行き感は抜群だがCGが嘘っぽい。
スパイアニマル・GフォースCGは3D効果抜群だが実写は普通。
カリフォルニア・ダウン演出はド派手だが3D効果の質はイマイチ。
ファイナル・デッドブリッジエグい飛び出す演出が見せ場になっている。
ザ・ウォーク立体感を生かす場面は少ないが高所恐怖症には目がくらむ演出がある。

AVERAGE

キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー平均的な3D変換で見せ場は少ない。
インデペンデンス・デイ:リサージェンス視差を強調した派手な3D変換。
ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日3D映画としての見せ場は限定的。
アメイジング・スパイダーマン見せ場は少なめで3D効果も平均的。
トロン:レガシー/3Dは仮想空間のみなのでリアルな質感に乏しい。
ブレードランナー2049 IN 3D変換は自然だが3D効果は乏しい。
アベンジャーズクライマックスのバトルシーンだけは迫力の3D。
スノーホワイト/氷の王国 3D3D演出と効果共にごく平均的。
アイアンマン 3効果的な3D演出は少しだけある。
ジュラシック・ワールド変換が不十分で3D演出が活かされていない。
マイティ・ソー変換が控えめで効果的な3Dシーンは少ない。
ピクセル IN 3D平均的な変換だがピクセル部分だけは立体感がある。
ホビット 思いがけない冒険 エクステンデッド・エディション3D感は薄い。
X-MEN:フューチャー&バスト3D映画としては平均的だが独特の演出。
ワールド・ウォーZ3D効果は平均的以下だが独特の演出はみられる。
X-MEN:アポカリプスいくつか迫力のある3Dシーンがある。
トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン迫力を意識した3D演出だが効果は薄い。
ゴーストバスターズ(2016)ギミックとしての3D効果は効いているところはある。
センター・オブ・ジ・アース2 神秘の島嘘くさいCGで3Dにリアリティがない。
オズ はじまりの戦い3Dを意識した演出が多いが背景が”かきわり”っぽい。
リンカーン/秘密の書3D変換は合格点だが基本的に2D映画で3D演出は少ない。

BAD

グリーン・ランタン平均的な3D変換で演出も凡庸。
グースバンプス モンスターと秘密の書全体的に視差が浅く立体感も乏しい。
グリーン・ホーネット IN 3Dスローのアクションシーンのみ3D演出がある。
オデッセイ平均的な3D変換で立体感を活かしている場面は少ない。
猿の惑星:新世紀視差の浅い変換で3Dを強調したシーンも少ない。
47 RONIN3D変換は平均的で演出が陳腐な印象。
アリス・イン・ワンダーランド/3D変換の強弱にバラつきがある。
プロメテウス3Dが生かされている場面は限定的。
ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち平均的な3D変換で見せ場は少なめ。
ジオ・ストーム不自然な3D変換でサイズ感や奥行きがおかしい。
パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々:魔の海3D効果は陳腐。

さらば 愛の言葉よゴダールらしい実験的3D映画で視力が酷使される。
ピラニア3D質感の乏しい3Dで飛び出す演出が多い。
アイ・ロボット立体感を感じられる場面もあるが全体的に薄らとした3D。
ダーケストアワー 消滅3Dを意識した演出があるが変換が雑すぎ。
ジャッジ・ドレッド歪んだ変換で立体感に欠ける。
エクソダス:神と王奥行きの感じられない3D変換。
パニック・マーケット 3Dサプライズで飛び出す演出ばかりの3D。
ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島視差の浅い薄い3D変換。
アサシンクリード立体感が乏しく演出も3Dを意識されていない。
プリースト IN 3D立体感を感じられる場面があまりない。
ウルヴァリン: SAMURAI/3D効果が殆ど生かされていない。
華麗なるギャツビー3Dである必然性が感じられない。
ポンペイ大雑把な3D変換で位置関係が雑。
SEX & 禅どうでもいいものばかりが立体的に見える。
インモータルズ 神々の戦い人物さえも”かきわり”っぽい3D。
バイオハザードⅣ アフターライフ奥行き感が感じられず飛び出す演出ばかり。
ブラディ・バレンタイン 3D飛び出す演出が数カ所あるだけ。
フライトナイト/恐怖の夜/殆ど3D効果はなく数シーン飛び出すシーンがある程度。
飛び出す 悪魔のいけにえ レザーフェイス一家の逆襲それほど飛び出してさえもいない。
パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉/立体感を感じられるシーンが殆どない。
ゴーストライダー2立体感は殆どなく特別な3D演出もない。
ジョン・カーター/3D映画だと気付かないほど立体感なし。
映画 怪物くんたまに飛び出す陳腐な演出があるだけ。
タイタンの戦い全編に渡って立体感が乏しく3Dだと思えない。

**********アニメーション**********



3D映像としての完成度が高いのは、空間からキャラクターの全てをCGで製作することのできるアニメーションだと思います。3Dアニメーションの黎明期に作られた作品は、最近の作品と比較すると見劣りする場合もあるかもしれません。緻密なCGによって質感や動きにリアリティを追求する作品が、近年の方向性でもあるようです。

セル画アニメと3Dの相性は悪いこともあり、アニメ大国である日本の3D作品が少ないのは残念なことです。海外のアニメーション作品は、キャラクターデザインにクセのある作品が多く、見た目で食わず嫌いされがちかもしれません。日本劇場未公開だったり、国内版の3Dブルーレイ未発売だったり、認知度が低いマイナー作品も数多いのですが・・・クセのある見た目を受け入れてしまえば、素晴らしい作品が多くあります。

EXCELLENT

マダガスカル 3全編に渡ってめくるめくようなド派手な3D演出。
ガフールの伝説気色が悪いほど写実的な3DCGとダイナミックな演出。
ヒックとドラゴン緻密な質感と迫力のある3D演出。
タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密リアルなCGアニメーションと巧みな構図。
メアリーと秘密の王国圧倒的な立体感とスピーディーで迫力のある3D演出。
ヒックとドラゴン2緻密な質感と立体感をより強調する演出。
塔の上のラプンツェル効果的な3D演出が数多くあり躍動感に溢れている。
少年マイロの火星冒険記リアルなモーションキャプチャーと3Dが見事に融合している。
シュガー・ラッシュレトロゲームの世界が見事に3D化されている。
ボルトアクションシーンが3Dで生き生きとしている。
STAND BY ME ドラえもんセル画ではなくCGにして正解。
Disney's クリスマス・キャロル写実的な3DCGにより生々しく表現されている。
ファインディング・ニモ 3D一般的な海洋ドキュメンタリーよりも3D感がある。
アナと雪の女王自然な3D演出が物語性を高めている。
SING/シング質感のあるCGとダイナミックな3D演出。

GOOD

コララインとボタンの魔女3D効果が活きる設定や物語。
カールおじさんの空飛ぶ家3Dであることが物語や設定と合っている。
カーズ2全編に渡って3Dが効果的に使われている。
フランケンウィニー独特の空間を感じさせる個性的な3D
KUBO/クボ 二本の弦の秘密派手な3D演出ではないが効果的に使われている。
ポーラー・エクスプレスリアルさな動きとダイナミックな3D演出。
キャプテンハーロックゲーム画面のような映像だが3DCGは良い。
トイ・ストーリー3ナチュラルな3D演出が物語に溶け込んでいる。
カーズ/クロスロードキャラクターの立体感がある。
モンスターズ・インク 3D3D化されたことにより効果的な演出になっている。
ナイトメア・ビフォア・クリスマス/パペットの立体感リアルに3Dに変換されている。

AVERAGE

ペンギンス FROM マダガスカル ザ・ムービー /ハチャメチャでスピーディー過ぎて3Dを感じる間もない。
トイ・ストーリー23D化されたことにより構図が生かされた場面が多い。
ボス・ベイビー3Dの構図が生かされた場面は多い。
メリダとおそろしの森3Dアニメーションとしては平均点のできではある。
トイ・ストーリー 見せ場は少なめだけど2Dから3Dへの変換はナチュラル。
くもりときどきミートボール2 フード・アニマル誕生の秘密3D効果はあるが演出がくどい。
ルイスと未来泥棒/3D効果を生かしていない演出とハチャメチャ過ぎる展開。
ウォーキング with ダイナソーCGで描かれた恐竜の3D感は良いが映画の内容は幼児向け。
モンスター・ハウス3Dのツボを抑えた演出だがCGが古い。
くもりときどきミートボール3D演出もギャグもくど過ぎ。
チキン・リトル /キャラクターは立体感あるが3D演出は少ない。

BAD

モンティ・パイソン ある嘘つきの物語~グレハム・チャップマン自伝~3D効果は極めて限定的。
劇場版3D あたしんチ 情熱のちょ~超能力♪母大暴走!セルアニメなりには立体感あり。
ライオンキング3D/造形的な画面構図は3D化に多少有効には働いている。
I LOVE スヌーピー THE PEANUTS MOVIE/CGが記号化してしまっている。
リトル・マーメイド 3D/”かきわり”が何層にも重なったような3D。
美女と野獣 3D(アニメーション)/”とびだす絵本”のような3Dで立体感に欠ける。
劇場版イナズマイレブンGO 究極の絆 グリフォン3Dと親和性のないセルアニメ。

**********ドキュメンタリー**********



一部の3D映像好きにはネイチャー系のドキュメンタリー(特に海洋モノ)の評価が高いようですが、個人的には強くお奨めできる作品はありません。(そもそも、あまり本数は観てはいませんが・・・)3D映像を初めて体験するという方には適しているとは思うのですが、立体感だけが”売り”のアトラクション的な映像なのです。

EXCELLENT

ジェームズ・キャメロンの深海への挑戦 3D全編が完全3D映像化されている。

GOOD

シャークス 3D接写されているシーンが多く3D感を満喫できる。

AVERAGE

ドルフィン&ホエールズ 3D大きさや質感は感じられる。
オーシャン ワンダーランド 3Dウミガメ目線で珊瑚礁を観察できる。
IMAX: Deep Sea 3D3D映像の体験用としては適している。
3D ザ・ベスト3Dのサンプル映像集でしかない。

BAD

世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶3Dがまったく活かされていない。

**********パフォーマンス**********

 

ライブ映像というのは、3D映像で効果的に見せるのが難しいように思えます。ステージでのパフォーマンスを3Dで撮影したからといって、単純に臨場感を感じさせるわけではありません。ただ、ステージにこだわらず、自由な構図で映像作品として演出されている場合には、映画作品とは違う面白さがあるようです。また、パフォーマーの存在を近くに感じられるので、熱烈なファン向けの需要はあると思います。

EXCELLENT

シルク・ドゥ・ソレイユ 彼方からの物語 3D控えめな3Dだがライブ感が伝わる演出と構図。
Pina 3Dパフォーマンスと空間を表現した3D作品として完成している。

GOOD

Kylie Minogue Aphrodite Les Folies Live in London 3D3Dによる臨場感は感じることできる。

AVERAGE

Katy Perry the Movie: Part of Me視差は浅めの3D映像だがライブ会場の雰囲気は伝わってくる。

BAD

新日本プロレスリング レッスルキングダムⅤ in 東京ドーム~3Dスペシャルエディション~/画質や構図は酷いが3Dならではの生々しさはある。
ayumi hamasaki ARENA TOUR 2009 ~NEXT LAVEL~ 3D3D的な演出が活かされていない。

**********クラシック立体映画**********



1950年代~1980年代に製作された3D映画は、アトラクション的要素が強く、立体感を”ギミック”とした作品が作られており、映画史的なノスタルジーを感じることができます。初公開の劇場以外では、2D映画として視聴するしかなかった作品が多く、3Dブルーレイの登場により改めて3D映画として観ることができるようになったのは嬉しいことです。ただ、近年の3D映画と比較すると、単に技術的なことだけではなく、演出面に於いても進化を感じさせられると思います。

EXCELLENT

It Came From Outer Space3D効果を最大限に活かす演出と構図。

GOOD

キス・ミー・ケイトギミックとしての3D演出が随所にある。
大アマゾンの半魚人奥行きよりも浮き出てくる白黒の3D映画。

AVERAGE


3-D Rarities3D映画史を知るには面白いが映像自体はたわいもない。
肉の蝋人形ナチュラルな立体感ではあるが3D的な演出は少ない。
ダイヤルMを廻せ!節度のある奥行きはあるがサイズ感が歪むシーンがある。

BAD

ジョーズ3稚拙なCGと全く立体感の感じられず3D映画でさえない。

**********3D再生作品**********

 

2Dで完成している作品を「何故3Dに?」としか、個人的には思えません。アメリカのTNT(クラシック映画を多く放映していたケーブルチャンネル)が中心となって白黒映画の”カラー化”という流れが一時期あったのですが・・・これと同じように、なんでもかんでも3D化すれば良いというもんではありません。デジタル変換の技術の良し悪しと長時間をかけた労力が、3D映画としてのクオリティに直結しているようです。

EXCELLENT

タイタニック 3D細部に渡って丁寧に変換されており3D映画として完成度が高い。

GOOD

ジュラシック・パーク 3D変換によって3D映画として観れるレベルになっている。

トップガン 3D3Dの効果は微妙だが3D映画らしくはなっている。

AVERAGE

オズの魔法使い 3D奥行きと位置関係を感じられる3Dには変換されている。
プレデター 3D3Dへの変換の努力は垣間みれるが効果はイマイチ。

BAD

バトル・ロワイヤル 3D血しぶきが飛び散る”だけ”の”なんちゃって3D映画”。
羅生門 3D不十分な変換による不自然な位置関係で3D映画でさえない。

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「お薦めのブルーレイソフト」をネット検索してみると、その評価基準はさまざま・・・ボクは飛び出す演出を低く評価しがちですが、逆にそういうのが好きという方も多かったりします。また、視差があまり強くない方が好みという方もいるようで・・(こう言ってしまっては元も子もないのですが)3Dブルーレイソフトの見え方には結構個人差があって、その良し悪しの判断はさまざまです。

個人的な結論としては「空中、水中、地上の移動シーンが多い」「手前と奥にモノがある空間が舞台になっている」「大きなサイズの差があるキャラクターが登場する」「巨大な建物や自然が崩壊したり爆発したりする」という要素が上手取り込まれていること・・・3D映画ブームになった数年前ではなく、ここ2~3年に3Dブルーレイ化された作品の方が”ハズレ”が少ないように思います。



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プライベートのジョーン・クロフォードの姿に最も近いと言われる”おキャンプ”な主演作・・・嫌われ者の”女王蜂”を抹殺して屋敷を乗っ取る若き”女王蜂”!?~「クィーン・ビー(原題)/Queen Bee」~

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ジョーン・クロフォードが主演作の中で最も自身に近い役柄を演じたというわれるのが、その名もズバリ「クィーン・ビー(原題)=女王蜂/Queen Bee」という1955年のメロドラマであります。「親愛なるマミー/ジョーン・クロドードの虚像と実像」を書いた養女クリスティーナ・クロフォードによると、あまりにも役柄が普段の姿に近いことに衝撃を受けて、本作の上映途中で退場してしまった逸話もあるほどなのです。


低予算の映画が多い1950年代のジョーン・クロフォード主演作品の中では比較的制作費をかけた本作は、1949年に発表されたエドナ・L・リー著のロマンスノベル「The Queen Bee」を原作としており、その映画化権はジョーン・クロフォード自ら得ています。「自分が主演すること」「映画制作スタッフの選択権(「ミルドレッド・ピアーズの脚本家だったラナルド・マクドュガルの監督デビュー作となった)」「衣装/メイク/ヘアーの完全なるコントロール」を条件に、コロンビア映画へ売却したというのですから、映画会社だけでなく本人的にも肝入りの作品でもあったわけです。ジョーン・クロフォードはとっかえひっかえ豪華な衣装につつみ、陰影が美しく奥行き感のある構図が印象的なフィルムノアール映画としての完成度は高く・・・本作は1956年度アカデミー賞の撮影(白黒)と衣装部門でノミネートされています。


ジョーン・クロフォードが演じるのはジョージア州の大きな屋敷を仕切るエヴァという女性・・・美しくて気も強く、毎朝完璧に身支度をして、身の回りの人々をコントロールするというジョーン・クロフォード自身そのままという役柄です。なお、本作でイブニングドレス姿で階段を下りるシーンは「愛と憎しみ伝説/Mommie Dearest」でも印象的なシーンとして再現されています。

エヴァの夫アヴェリー(バリー・サリヴァン)は、南部の上流階級出身で一族は工場主・・・顔に深い傷があり、一族からは「Beauty(ビューティー)」という皮肉なニックネームでで呼ばれています。1日中飲んだくれているアル中で、とにもかくも妻であるエヴァを憎んでいるようなのです。屋敷には、アヴェリーの妹キャロル(ベッツィー・パルマー)も暮らしており、工場の運営をしているジャッド(ジョン・アイルランド)と結婚を前提に付き合っています。


未亡人だった母親を失い一人っきりになったエヴァの姪っ子のジェニファー(ルーシー・マロウ)が、エヴァからの招待でシカゴから、この屋敷に引っ越してくるのが、本作のはじまりです。ジェニファーが屋敷に到着した時、客人として屋敷を訪れていたのは、名家出身のスー(フェイ・レイ)という女性と彼女の弟タイ(ウィリアム・レスリー)・・・そこへエヴァが帰宅するのですが、彼女が応接室に入って来るや否や部屋の空気が張りつめます。夫のエヴァリーはもとより、義理の妹のキャロルもスーもエヴァのことを、あからさまに嫌っているようです。実は、スーは元々エヴァリーの結婚相手だった女性・・・式当日にエヴァリーがエヴァと駆け落ちしたため、花嫁姿で待ちぼうけを食らったという因縁があったのです。それ以降、頭がちょっとおかしくなってしまったらしく(?)ジェニファーを幼馴染みの娘と勘違いしてしまいます。


屋敷の中で孤立しているエヴァに同情心を感じつつ、自分を引き取ってくれたエヴァに感謝しているジェニファーは、憧れも抱いているエヴァのパーソナルアシスタントの役割をかってでるのです。ある日、タイがジェニファーをデートに誘いたいと、エヴァに許可を求める電話がかかってきます。デートの誘いにエヴァの許可を得ることに違和感を感じたジェニファーは玉の輿にも関心がなく、タイの誘いに乗り気にはなれません。しかし、エヴァから強く肩を押されて、セクシーなドレスを着てデートに出かけることにするのです。デート当日、アヴェリーとジャッドは、着飾ったジェニファーを皮肉まじりに見送ります。


その日、屋敷にジャッドが泊まることを知ったエヴァは、仮病を装ってまで友人との夕食会をキャンセル・・・実は、ジャッドとエヴァは10年ほど前に男女の関係にあり、アヴェリーをエヴァに紹介したのもジャッドだったのです。名家一族の娘であるキャロルと結婚をして、ジャッドは逆玉に乗ろうとしているのではないかと疑惑をもつエヴァは、キャロルとの関係を好ましく思っていません。また同時に、男性としてジャッドを忘れられないエヴァは、ジャッドを再び誘惑しようとするのです。電話のコードをジャッドの首に巻くシーンは、エヴァの支配欲が感じられます。


その夜、ジャッドはキャロルとの婚約を家族の前で電撃発表・・・デートから帰宅したジェニファーをにこやかに迎えながらも、エヴァの苛立ちは抑えられません。真夜中に、ジェニファーはエヴァの息子テッドの鳴き声で起こされます。テッドをあやすキャロル曰く・・・エヴァの運転する車に乗って大きな山に向かっている夢を毎晩のようにみて、テッドは泣き叫ぶというのです。キャロルは屋敷の図書館でみつけた本に書かれていた女王蜂について語り始めます。そして、エヴァは自分に歯向かう者を抹殺する”女王蜂”のようだと忠告をするのです。ジェニファーは、何故、皆がエヴァを悪くいうのか理解できません。


ジェニファーが寝室へ戻ろうとした時、暗い応接室へ忍び足で入るエヴァの姿を見かけます。ソファにはジャッドがおり、やがて二人は口論を始めるのです。ジャッドはキャロルとの婚約発表を機に、エヴァとの関係を完全に解消したいのですが、そう簡単にエヴァは諦めません。そんなエヴァを病気に例えて、今はウィルスの免疫があると拒絶するジャッド・・・エヴァは「必ず後悔させてやる」とタンカを切ります、その一部始終を盗み見していたジェニファーは、エヴァがこの屋敷の”女王蜂”であることを理解するのです。


翌日、エヴァは精神科医を自宅に招いて息子テッドの悪夢について相談・・・エヴァの美しさに惑わされた精神科医は、テッドが夜泣きする原因はキャロルの甘やかしにあると、エヴァにとって都合の良い診断を下してしまいます。それを聞いてエヴァは、すぐさまキャロルの寝室を屋敷の別棟に移動させるようとするのです。ジャッドと結婚して屋敷を出るのだから、今すぐ部屋を移さなくても・・・と言うジェニファーに、エヴァは「本当に結婚するかしら?」と微笑みます。


勝手にキャロルの部屋に入ったかと思うと、ヒステリックに片っ端から調度品を投げ倒すエヴァ・・・アヴァリーと駆け落ちして結ばれて玉の輿にのったものの、保守的な南部の上流階級で”よそ者”扱いされ続けた疎外感から、キャロルに敵対心を募らせていたのです。長年の孤独感を涙ながらに訴えて、血縁者であるジェニファーを屋敷に招いたのも、自分の味方になってくれる人が欲しかったからとエヴァは告白します。そして、屋敷を出たいというジェニファーを、エヴァが今までしてきた経済的援助などを理由に引き止めるのです。


アヴェリーの無関心がエヴァの疎外感を生んでいると感じたジェニファーは、アヴェリーの部屋を訪れます。その場限りの火遊びだったのに、エヴァが強引で別れられずに結婚したんだと告白するアヴェリー・・・酒に溺れていたののも、エヴァと向き合うことを逃げているからかもしれません。酒に逃げずに一族の長としての役目を果たすようにと意見するジェニファーを、アヴェリーは抱き寄せてキスします。お互いの秘められた恋心が、目覚めたのかもしれません・・・。


アヴェリーは家族を集めて、キャロルとジャッドはすぐにでも結婚すべきだから、今度の日曜日に結婚式をすると宣言・・・それ聞いて祝福するジェニファーの頬を、エヴァは苛立ちのあまりひっぱたくのです。エヴァが気に食わないのは分かりますが、唐突の暴力にはただあっけにとられます。


その夜、アヴェリー、キャロル、ジャッドが、ささやかな結婚祝いのディナーをしていると、エヴァが割り込んできて「パーティーは女にとって戦場だから」と、ジャッドにパーティーの会場まで車で送るように要求します。エヴァが支度をしている間、アヴェリーはジャッドにエヴァとの過去の関係をキャロルに話すのかと尋ねずにはいられません。ジャッドはアヴェリーが妹の幸せを願い、真実を話してしまうのではないかと疑っているのです。


その夜遅く、キャロルはジャッドと暮らす家の設計図を広げて、ジェニファーと楽しくおしゃべりしています。そこへ、エヴァがパーティーから帰宅・・・設計図を踏みつけて、キャロルにジャッドの過去の女性関係について語り始めるのです。「ジャッド本人に確認すれば?」と脅しながら、男女の関係をもっていたのは”暗”に自分だったと、キャロルに暴露してしまいます。憤るジェニファーに、明日にでも屋敷を出て行けと言い放つエヴァ・・・ジェニファーは屋敷に残ると言い返すのです。


翌朝、ジャッドとジェニファーがキャロルを探して馬小屋に入ると、そこには梁から首を吊ったキャロルの姿があります。エヴァとジャッドの関係を確信したキャロルは、自ら命を絶つことを選んでしまったのです。化粧台の前で訃報を聞いたエヴァは、フェイスクリームを鏡に塗りたくりながら嗚咽します。ジョーン・クロフォード本領発揮の”やり過ぎ”演技炸裂です。


キャロルの死後、エヴァは規律に厳しい乳母を雇い、子供たちも管理するようになります。ジェニファーは積極的に子供たちと接して、子供たちの心を癒そうとするのですが、エヴァにはおもしろくありません。一方、アヴェリーはジェニーに意見されたことで、一族の工場の経営にも積極的になり、以前のアル中だった時とは違って仕事や家庭のことにも熱心です。乳母の乱暴な叱り方を目の当たりにして、即クビだと言い伝えると、乳母はアヴェリーとジェニーの不適切な関係をエヴァに告げ口してやると、まったく怯みません。

乳母をアヴェリーの独断で解雇しようとしたことは、当然のことながらエヴァの逆鱗に触れてしまいます。もしも、離婚しようなんて考えているならば、ジェニーとの関係を法廷で訴えるというのです。法廷では、乳母は重要な証言者となるだろうし、エヴァ自身が何を語るかはスキャンダルになるに違いないと脅します。アヴェリーのエヴァへの憎しみは、この時を機に殺意に変わるのです。

キャロルの死後、屋敷から遠ざかっていたジャッドは、工場の仕事を辞めてニューオリンズへ引っ越すことを決意し、仕事の整理のために久しぶりに屋敷を訪れていたのですが・・・そこで、キャロルにエヴァと自分の過去の関係を話したのは、アヴェリーではなくエヴァだったことをジェニファーから伝えられます。ジャッドはエヴァへの復讐を誓うのです。


この頃から、アヴェリーはエヴァに対して愛情が甦ったように振る舞い始めます。妻から信用を得たところで、交車の事故を起こして無理心中しようというのがアヴェリーの計画なのです。夫の態度の変化に戸惑いながらも、2度目のハネムーンが来たと歓びを隠しきれないエヴァ・・・アヴェリーから高価なジュエリーをプレゼントされて機嫌の様子であります。アヴェリーの愛情を再び勝ち得たエヴァの変化は噂になるほどになり、ジェニファーは自分が屋敷に滞在する意味はなくなったと、今度こそ本当に屋敷を出ることを決意するのです。

ジェニファーの屋敷での最後の夜・・・大雨にも関わらず、アヴェリーはエヴァを連れ立ってパーティーに出かける予定になっています。アヴェリーが顔の傷を負うことになった車の事故もエヴァが同乗していたことから、ジャッドは不穏な気持ちに襲われて屋敷にやってくるのです。アヴェリーの計画を確信したジャッドは、エヴァをパーティー会場に自分が運転すると言い出して、エヴァだけを誘い出します。


車内で、アヴェリーが無理心中の機会を伺うために、愛情が甦ったフリをしていたことを暴露するジャッド・・・運転中のジャッドにエヴァがつかみかり、ジャッドはハンドル操作を誤って車は崖から落ちてしまいます。二人の後を追ってきたアヴェリーは、燃えさかる車を、ただ見つめるのです。警察から交通事故について呼び出されたアヴェリーに付き添うのは、屋敷を去るはずだったジェニファー・・・二人を阻むモノはもうありません。暗い屋敷から外に出ると、空は輝くほど晴れ渡っています。


原作の小説は未読ですが・・・本作の筋は、ジェニファーが様々な障害が乗り越えて、叔母の夫と結ばれるという略奪愛の物語でもあります。”女王蜂”と比喩されるエヴァは、二人の愛を阻む”邪魔者”なのかもしれません。ただ、本作はジョーン・クロフォード主演が条件での映画化であったため、エヴァというキャラクターに焦点をあてることは絶対的な映画化の条件だったのです。実際、ジェニファーを演じるルーシー・マロウは、それほど華がある女優でもありません。

それにしても・・・エヴァは、それほど皆から嫌われるべきキャラクターなのでしょうか?見方を変えれば、エヴァは可哀想な女性でもあります。確かに、玉の輿にのる強引さとしたたかさ、義理の妹の婚約者となる男に執着したり、家族を高圧的に支配していたり、上から目線で意地悪で厭味ばかりだったり・・・決して”いいひと”ではないかもしれません。

しかし、夫だけでなく夫の家族や家族の友人たちからもよそ者扱いで疎外され続け、昔の男からは一方的に関係を断ち切られ、引き取った姪っ子には結果的に夫を奪われ、最後には殺されてしまうのです。二人の子供たちに対して愛情がないわけではありませんし、アヴァリーから愛情を示したならば女性的なかわいいところあったりします。観客がエヴァに同情を感じる間もないほど疎ましく感じてしまうのは、ジョーン・クロフォードという大女優の存在感と、お得意の”やり過ぎ”演技にあるのかもしれません。

逆に、純粋そうなジェニファーですが・・・エヴァの招待により屋敷に入り込み、誰からも好かれるように上手に立ち回って、最後には全てを手にするのであります。エヴァから信頼を得ることは容易かったし、結婚を応援することでジャッドからもキャロルから好かれていますし、名家出身のタイからは一目惚れされるし、アヴェリーの心も次第に虜にしてしまうのです。ジェニファーは自らの手を一切汚すことなく、屋敷の”女王蜂”であるエヴァだけでなく、ジャッドもキャロルさえも亡き者にして、一家の長であるエヴァリーに寄り添う存在として、新たな”女王蜂”として屋敷を乗っ取ったとも解釈できるのではないでしょうか?

そう考えると・・・本作は、1950年の「イヴの総て」の亜流作品とも言えるのかもしれません。ジョーン・クロフォード演じるエヴァはベティ・デイヴィス演じるマーゴ・チャニングに、ルーシー・マロウ演じるジェニファーはアン・バクスター演じるイブに重なるのです。ただ、いかにもメロドラマといったジェットコースターなご都合主義の展開と、登場人物たち同士(ジェニファー以外)が放つ厭味な台詞のやりとりによって、本作は立派な”おキャンプ映画”として成立してしまったのであります。


本作の撮影時、ジョーン・クロフォードはペプシ・コーラ社社長アルフレッド・スティールと婚約中で・・・結婚後は、ペプシ・コーラの広告塔として活躍することとなります。まだまだ女性の社会進出がアメリカでも珍しかった時代であったにも関わらず、1959年に夫が亡くなった後(1973年まで)元社長未亡人という立場で会社役員として、ジョーン・クロフォードは”女王蜂”の如くペプシ・コーラ社に君臨し続けたのです。本作のエヴァのようにジョーン・クロフォードも、ペプシ・コーラ社の他の役員たちから疎まれ続けた「嫌われ者」だったことは言うまでもありません。


「クィーン・ビー(原題)」
原題/Queen Bee
1955年/アメリカ
監督 : ラナルド・マクドュガル
出演 : ジョーン・クロフォード、バリー・サリヴァン、ベッツィー・パルマー、ジョン・アイルランド、ルーシー・マロウ、ウィリアム・レスリー、フェイ・レイ

日本未公開


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ハードコアポルノ映画のパイオニア/ジェラルド・ダミアーノ(Gerard Damiano)監督の”後味の悪い”作家性~「ディープ・スロート/Deep Throat」「ミス・ジョーンズの背徳/The Devil in Miss Jones」「爛れた欲情/Memories Within Miss Aggie」「スーパーラブマシーン・ジョアンナ/The Story of Joanna」~

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ハードコアポルノは「スタッグ・フィルム/Stag Film」と呼ばれて、アメリカやヨーロッパでは20世紀初頭から存在していました。当初ムービカメラは非常に高価でしたし、撮影や照明にも技術が必要で、誰もが映画を製作できるわけではありません。映画館で興行することはできないので、お金持ちのコレクション用、または売春宿で客に上映するために、高額で闇マーケットで取引されていたそうです。

アメリカでは「ヘイズ・コード/Hays Code」(1968年廃止)により、性的な映画表現は厳しく規制されていましたが「ループス/Loops」と呼ばれる短編ポルノフィルム(その多くは無声だったらしい)は作られていました。ストリッパーが徐々に脱いでいくというソフトなものから、緊縛系のSMプレイやフェチもの、ただただ性行為を撮影したハードコアポルノも存在してそうです。ビデオブースの中で観賞するスタイルが一般的だったようで、いくつかのパートに分かれていて続きを観るためには課金し続ける必要があったと言われています。

1960年代になると、ループスやスタッグを上映するアンダーグランドの小さな映画館のようなものも存在していたそうですし・・・性教育という名目で性行為を見せる”ポルノまがい”の性教育映画や、ヨーロッパ(主にスウェーデン産)のセックス描写のある映画なども上映されることもあったとようです。厳しい規制の中でもアメリカではポルノ業界は存在していたわけで・・・「性の解放」や「表現の自由」が反体制的な政治思想と結びついて「ハードコア映画の解禁」という流れになっていきます。


アメリカ国内の”映画館”で上映された最初の「ハードコア映画」には諸説あるようなのですが・・・1969年6月に公開されたアンディ・ウォホールが製作、監督、脚本、撮影、配給した「ブルームービー/Blue Movie」(別タイトルは「ファック/Fuck」)のようです。多くのウォホール作品がそうであるような即興演出と撮影で、アパートメントのひと部屋でカップルがベトナム戦争について語ったり、実際に性行為に及ぶという内容で、いわゆる”ポルノ映画”とは違うような気がしますが、「ポルノ・シック/Porn Chic」の先駆けかもしれません。

”商業的”映画館で上映された最初の「ハードコア映画」は、1971年11月にニューヨークの劇場で公開されたゲイポルノ映画「ボーイズ・イン・ザ・サンド/Boys in the Sand」と言われています。初めてゲイを真っ正面から扱った舞台劇/映画「真夜中のパーティー/Boys in the Band」をもじったタイトルですが、内容的には全く無関係。3部構成(浜辺, プールサイド, 室内)になっており、主演男優(ケイシー・ドノヴァン/Casey Donovan)が複数の相手役と様々な性行為をするという・・・その後のアダルトビデオの原型を完成させていると言えるでしょう。

「ボーイズ・イン・ザ・サンド」公開の翌年となる1972年6月に、ジェラルド・ダミアーノ(Gerard Damiano)監督の「ディープ・スロート/Deep Throat」がニューヨーク市内のブロードウェイの劇場で公開されて、2年半という記録的なロングランとなります。ちなみに(ソフトコアですが・・・)日本では前年の1971年11月に日活ポルノ第1号の「団地妻 昼下がりの情事」が公開されており、ポルノ解禁の流れは世界的であったようです。また「ディープスロート」の公開から僅か2ヶ月後には、もうひとつの「ハードコア映画」黎明期の大ヒット作「グリーンドア/Behide the Green Door」がアメリカで公開されています。

ジェラルド・ダミアーノは、ポルノ業界に進出するまでは、ニューヨーク市クイーンズ地区で妻のヘアサロンを手伝っていた美容師だったのですが、既婚女性と接する機会が多い職業であったことから、当時の女性達たちがいかに性的不満を抱えていたかを知ったそうです。低予算で自由に表現できる手段としてポルノ(ヌード)映画を制作することが若い世代(ヒッピー)に流行っていたこともあり、仲間を集めて短編のループスを撮影するようになります。当時のポルノのビジネスは、反社会組織(マフィアなど)が牛耳っていたこともあり犯罪的な行為でもあったわけですが・・・思想的な革命としての意義を若い世代は見出していたのかもしれません。


そんなダミアーノ元に、チャック・トレイナーという男が自分の妻リンダ(後のリンダ・ラブレース)を売り込みに来ます。それまでもリンダはポルノ女優としてループスには何本も出演していて、その中には犬との獣姦というトンデモナイものもあったそうです。胸が大きいわけでもなく、顔もどこにでもいそうな平均的なルックスで、ポルノ女優としてはイマイチだと思われたリンダでしたが、ハリー・リームスと共演したループスの中で、喉の奥までアレをくわえこむという得意技を披露して、ダミアーノに「ディープ・スロート」のアイディアを与えます。当時、ループスは16ミリ撮影で数時間で撮影するのが通常で、35ミリで撮影された「ハードコア映画」というのは存在していなかったのですが、ダミアーノ破格の2万5千ドルという資金を調達して、ロケーション撮影やオリジナルでサウンドトラックも製作するという本格的な”映画”として製作するという勝負に出たのです。


エッチしても絶頂を感じた経験がないリンダ(リンダ・ラヴレース)は、欲求不満をつのらせています。それを聞いた淫乱な近所の主婦ヘレン(ドリー・シャープ)は、男達を集めて次から次にリンダとヤラせてみるのですが、鐘が鳴り響くような(!?)快感を感じることができません。そこで、ヘレンが奨めるヤング医師(ハリー・リームス)の元を訪れます。診察によると、リンダのクリトリスは喉の奥にあることが判明・・・さっそく(!)ヤング医師自身のモノでディープ・スロート(喉の奥まで吸い込む)を試すのです。するとリンダは鐘が鳴り響くかのごとくオーガズムを感じて、ヤング医師はロケット発射のように果ててしまいます。オーガズムを知ったリンダは、ヤング医師の助手看護婦となり、男性患者の元を訪れてディープスロート治療(セラピー)をするようになるのです。強姦プレイ好きのボーイフレンドのウォルバー(ウィリアム・ラブ)からリンダはプロポーズされるのですが、アソコのサイズが合わないからと断りそうになるのですが・・・ヤング医師の手術で、どんなサイズにもできると分かって「めでたし、めでたし」となり映画は終わるのです。


「ディープ・スロート」の商業的な成功が「ポルノ黄金期/The Golden Age of Porn」を導いたことには違いありません。「クリトリスが喉の奥にあったら」という(冗談のような)設定、フェラチオという行為に特化したポルノが当時は少なかったこと、それまでのポルノにはなかったコメディタッチ、”ディープ・スロート”というキャッチーな造語により、世間の注目を集めるわけですが・・・上映禁止を訴えるアメリカ全土規模での裁判沙汰や、ネットワークテレビのトークショー(ジョニー・カーソン・ショーなど)で取り上げられたことが、何よりも宣伝になり興行的な成功に拍車をかけたと言われています。


余談ですが・・・モザイクだらけで公開された日本では「元祖・巨根男優」として有名なハリー・リームスですが、実際は比較的普通のサイズ(16センチ程度?)なのです。映画の中でリンダが「9インチ(約23センチ)ないと満足できない」と言及するシーンがあるので、その台詞に由来して日本では「25センチ砲」などと宣伝されたのかもしれません。ハリー・リームスの「巨根伝説」が日本限定であったことは、実物をモザイクなしで観ることができなかったことが幸いした(?)こともありますが・・・当時の日本人がアメリカ(広くは西洋人)に持っていた肉体的な劣等感があったのではないでしょうか?


「ディープ・スロート」の公開当初、女性が積極的にオーガズムを追求するという描写に、保守的な男性たちはドン引きし、先進的な女性たちは共感したそうです。しかし「フェラチオで女性も感じている」という男性にとって都合の良い思い込みを増長させることが指摘されるようになると、女性運動家たちから問題視されるようになります。リンダ・ラヴレースが「ディープ・スロート」で受け取った出演料は僅か1250ドル(当時の為替で45万円程度)だったそうですが、世間から”時の人”としてセレブ扱いを受けていた時には「有名になれたから構わない」と語ってたそうです。しかし、その後「ディープ・スロート PART 2」などのソフトコア映画には出演したものの、再び「ハードコア映画」には出演することはありません。


「ディープ・スロート」公開2年後には、チャック・トレイナーと離婚して、一般男性と結婚したリンダは「前夫に脅迫されてポルノ出演させられた」と告発して、女性運動家たちと共に「反ポルノ活動」に参加します。しかし、リンダやチャックと関わりのあった多くの人物からは、リンダが自らの過ちを正当化するために捏造したと指摘されていて、女性運動家に利用されただけという見解もあるようです。実際、世間の風は厳しくて、リンダの改心は素直には受け入れられず、一般人として働いていた職場を追われることも多々あったと言われています。不慮の事故で亡くなる数年前(2000年頃?)には、自身の伝記本の宣伝のために50歳にしてヌードグラビアに登場して世間を再び驚かせましたが、告発の主張を変えることはことはなかったそうです。長引いた裁判、主演女優の告発、反ポルノ活動の標的となった「ディープ・スロート」は、決して後味が良い作品だとは言えません。


「ディープ・スロート」の興行的な成功(と多くの裁判沙汰)の中、ジェラルド・ダミアーノ監督は「ミス・ジョーンズの背徳/The Devil in Miss Jones」を制作するのですが・・・これがトラウマになるような後味の悪い作品です。

ニューヨークに暮らすジャスティン(ジョージナ・スペルヴィン)は、セックス未経験のまま30代半ばになってしまった孤独な未婚女性・・・ある日、浴槽で手首を切って自殺してしまいます。気付くとジャスティンは、天国と地獄の中間の”リンボ”という場所(本作内では質素なお屋敷のひと部屋という感じ)にいて、アパカ(ジョン・クレメンス)という天使から「自殺したので、天国に行くことはできない」ことを伝えられるのです。処女を守って罪なき人生を歩んできたのに、たった一度の自殺という過ちのために、地獄へ行く選択しか与えられないことに苛立ったジャスティンは、生前は決して犯すことはなかった”肉欲”を満足させたいと懇願します。すると、アパカは十分欲望を満たしたと彼が判断したら再び呼び戻すという条件で、ジャスティンの願いに応えます。


ジャスティンは、ザ・ティーチャー(ハリー・リームス)が待つ部屋へと導かれます。ジャスティンは自らの欲望を剥き出しにして、思う存分男性のモノに頬ずりしたりしゃぶったりして、自分から跨がって念願の処女喪失も叶えるのです。ザ・ティーチャーは痛がるのもおかまいなしにジャスティンのアナルを犯すのですが、次第にジャスティンにとっても快感へと変わっていきます。その後・・・女性と濃厚なレズビアン行為をしたり、水道ホース/果物(バナナ)/生きている蛇などでマスターベーションしたり、何人もの男の精液を飲み干したり、二人の男から前と後ろに同時に二本挿しされたり、すっかり”セックス中毒”となってしまうのです。ここに居残りたいというジャスティンの願いも虚しく、欲望を満たすのに許された短い時間は終わりを告げ、アパカによりジャスティンは地獄へ送られることになります。


ジャスティンが辿り着いた地獄とは、想像のハエを捕まえることに執着しているセックスにも女性にも無関心な男(ジェラルド・ダミアーノ)と、永遠に狭い部屋に閉じ込められること・・・それは、ジャスティンがいくらセックスを懇願しても応えてもらうことはなく、どれだけマスターベーションに耽ってもオーガズムを得るができないという”肉欲”の罪を知ったからこその”地獄”だったのです。


「ディープ・スロート」のコメディタッチとは真逆のダークな物語は、”性の歓び”を真っ向から否定しているかのようで、ポルノ映画の観客である男性を萎えさせそうであります。さらに、ジャスティンを演じる主演女優のジョージナ・スペルヴィンは、撮影時30代半ばを過ぎで普通に”おばさん顔”なのですから・・・。ジェラルド・ダミアーノ監督はイタリア系アメリカ人で、カトリックの家庭で生まれたことが影響を与えているのかもしれません。おおらかに性(セックス)を受け入れるというよりも、背徳感や罪悪感を伴った”業(ごう)”を感じさせるところから、そもそもポルノ映画としての”機能”を果たすことさえ否定している気がしてしまうのです。

日本では1975年に「ディープ・スロート」と「ミス・ジョーンズの背徳」の2作品を再編集して、日本独自で追加撮影したシーンを加えた2部構成で公開されています。当時の規制は大変厳しく、あまりにもカットされたシーンが多く、一本の映画として成り立たなかったための苦肉の策だったようです。ボクは、このバージョンを1980年頃の名画座で観たような記憶があるのですが・・・白く抜かれた大きなモザイク、同じカットを繰り返す編集、構図の一部を切り取った粗い画面で、一体何が行なわれているか全然分からなくて、ストーリーも記憶にありません。そんなシロモノでも、映画館で上映して商売になったことに驚いてしまいます。


1974年に制作された「爛れた欲情/Memories Within Miss Aggie」は「ミス・ジョーンズの背徳」よりも、さらにダークな物語で・・・もはやジャンルとしては”ホラーサイコサスペンス映画”と言えるのかもしれません。今回取り上げたジェラルド・ダミアーノ監督作品の中では、それほど語られることがない作品ではあるのですが・・・映画としての出来はなかなかです。


雪が深く人里離れた小屋に、リチャード(パトリック・L・ファレーリ)という車椅子生活の男性と同居するアジー(デボラ・アシラ)は、見た目からして幸の薄そうな貧しい中年女性・・・いかにしてリチャードと出会い、一緒に暮らすことになったかを思い出そうと、鏡の中の自分に問いかけています。過去を振り返るときのアジーの姿は若くて美しく、またリチャードも中年男の姿ではありません。アジー役も、リチャード役も、エピソードごと違うキャストによって演じられているのです。


小柄でブロンドの髪をもつアジー(キム・ポープ)は、まだ男性を知らない純粋な娘・・・ある日の帰宅途中、見かけたことない青年リチャード(エリック・エドワーズ)と橋の上ですれ違います。お互いにひと目惚れしたアジーとリチャードは、アジーの小屋で愛を確かめ合うのです。処女のアジーに優しくキスをするリチャード・・・オーラルセックスでお互い感じ合って、アジーはリチャードこそ待っていた王子様なのだと確信します。しかし、これは実際に起こったことではなかったと現実のアジーは気付くのです。


黒髪の娘アジー(メリー・スチュアート)は、素行が悪いという理由で母親によって納屋の二階に閉じ込められている孤独な娘・・・淋しさを紛らわすかのように、人形を入れたリ出したりしてマスターベーションに耽っています。干し草を届けにきた近所の農夫のリチャード(ハリー・リームス)を納屋に誘い込んで誘惑・・・興奮したリチャードは服を脱いで自分の股間をアジーの目の前に差し出して、アジーにしゃぶらせるのです。アジーにとって自分に関心をもってくれる誰かがいることが嬉しく、リチャードに性的な奉仕することも歓びのようで、四つん這いで犯されて苦痛に感じても、ただ耐えるのであります。しかし、これも実際に起こったことではなかったと現実のアジーは気付くのです。


娼婦のアジー(デボラ・ロイド・レインズ)は、引っ込み思案な客のリチャード(ラルフ・ハーマン)のためにオナニーショーを演じて見せるのですが、眺めているリチャードはアジーとの激しいオーラルセックスを妄想しています。そして、しゃぶるまくるアジーの顔にリチャードは発射してしまうのです。しかし、これもまた実際に起こったことではなかったと現実のアジーは気付くのです。

「どうして思い出せないんだろう」とアジーが話しかけたリチャードの姿は、ミイラ化した黒い死体・・・しかし、アジーにとっては、まだ男性の姿が見えているようです。ここからの回想は、中年女性の姿のアジーとリチャードになります。ある日、一人暮らしで孤独なアジーが教会に立ち寄った帰り、行くあてもなく彷徨っているリチャードという中年男と偶然出会うのです。アジーはリチャードを自宅に招き、風呂を沸かし食事をつくって”もてなす”のですが・・・「ずっと、あなたのような人が来るのを待っていた」というアジーに正直リチャードはドン引きしてしまいます。それでも「ひと晩だけでも泊まっていって」と懇願するアジーにリチャードも折れれ滞在することにするのです。


その夜中、アジーは白いアンティークのドレス(まるでウエディングドレス!)を着てリチャードの眠る部屋に侵入します。それまで男性との経験はないアジーは、リチャードに処女を捧げるつもりのようです。明らかにアジーに対して気持ちがないリチャードではありますが、アジーの強思いに心を動かされてしまいます。「誰だって淋しいんだ」と、リチャードがアジーを受け入れるような優しい言葉を投げかけた途端・・・アジは隠し持っていた大きな包丁で、リチャードの目をひと突きするのです。それから、どれほど年月が経ったのかは分かりませんが、リチャードの遺体はすっかりミイラ化しています。実際には起こっていない記憶を辿っては記憶が甦り・・・そして、その現実に耐えきれずに再び記憶を失ってしまうということを繰り返しながら、これからもアジーは孤独に暮らしていくのです。


同じ女優と男優の絡みでは飽きてしまう・・・というポルノならではの事情もあったと思いますが、同一人物である役柄を全く違うキャストで演じるというのは、斬新なアイディアだったのではないでしょうか?アジーの多人格性を表していると同時に、冴えない中年女性のアジーが自己投影しているのは、若くて美しい全くの”別人”であることに痛々しさも感じます。死体となったリチャードと、これからも妄想し続けながら生きていくアジーの孤独に、絶望の底に落とされたような気分にさせられるのです。

原題の「Memories Within Miss Aggie(直訳:アジーの内にある思い出の数々)」は、少々ネタバレ気味のタイトルかもしれません。エンディングのオチは「サイコ」の影響を受けたことは、ダミアーノ自身も認めているようですが、当時盛んに作られていたサイコミステリー映画にありがちの展開にも似ています。「過去に犯した殺人の記憶を犯人自身が失っている」という設定は、今でも十分通用するようで・・・最近の邦画(「ユリゴコロ」「彼女が その名を知らない 鳥たち」など)でも”サプライズ”として使われているのですから・・・。


ポルノ映画界の巨匠となったジェラルド・ダミアーノ監督が、破格の予算をかけて製作したのが「O嬢の物語」からインスピレーションを得たハードコア大作「スーパーラブマシーン・ジョアンナ/The Story of Joanna」です。豪華な屋敷でのロケーション撮影されて、全編に渡ってクラシック音楽が流れて・・・”重厚なアートフィルムのような作風”と”練り上げられた猥褻な台詞”は、ヨーロッパのエロティック大作に匹敵しているかもしれません。


舞台は1920年代、もしくは1930年代・・・大富豪のジェイソン(ジェイミー・ギリス)は、ナイトクラブでジョアンナ(テリー・ホール)を見初めて、広大な屋敷に招き入れます。優雅な食事のあと、愛とセックスについて哲学的な論議をしていたら、いきなりジェイソンはジョアンナに屈辱的な指示を与えて、痛がるジョアンナのアナルを無理矢理犯してしまうのです。ジェイソンの目的は、ジョアンナを愛の見返りを求めずに快楽を与えることだけの性奴隷とするため・・・それからは、全裸で男性ダンサーとバレーを踊らせたり、三人の男性ゲストたちにジョアンナを犯させて眺めたり、首輪をつけてオーラルセックスを強要したりと、ジェイソンのサディスティックな調教が続きます。実生活でもアナル大好きで”ドS”でもあるジェイミー・ギリスが演じているのですから、なんともリアルなのです。


ただ、優しく愛されてセックスしたいと願うジョアンナに、ジェイソンはジョアンナの寝室に執事のグリフィン(ザベディー・コルト)を送り込むのです。グリフィンはジョアンナを崇拝するかのように、ジョアンナが求めていたような優しく愛情溢れたセックスをして、ジョアンナをたっぷり満足させます。ポルノ黄金期のハードコア映画の中で最もエロティックなセックスシーンと言われているのですが・・・日本公開時には殆ど何も観ることはできなかったのではないでしょうか?自分以外の男で性的に満足した罪により、ジョアンナは鏡張りの部屋(「上海からきた女」のパクリ?)で、ジェイソンから鞭打ちを受けることになります。メイドもメイドで・・・鞭の持ち手をジョアンナに挿入したり、傷の治療をしながらレズビアンセックスをしたりと、やりたい放題です。


ジョアンナはジェイソンに忠誠を誓うため・・・長い髪を切り落とします。実は、ジェイソンには死期が迫っていて、自分の処刑人としてジョアンナを選んでいたことが分かるのです。ジェイソンはピストルを自分の頭部にあてて、ジョアンナに引き金を引くように命令します。銃声とともにジェイソンは即死・・・それでも、いつもと変わらずに夕食の準備をするようにと執事のグリフィンに、新しい女主人としてジョアンナが指示をするところで、本作は終わるのです。


さて・・・本作には、当時のポルノ映画(ストレートもの)としては衝撃的(?)なシーンがあり、それ故に一部の観客からは後味の悪い作品として記憶に残ることになっています。執事のグリフィンが、全裸のジェイソンをオイルマッサージするシーンがあるのですが、徐々にグリフィンの手がジェイソンの股間に伸びていき、極普通のことのようにフェラチオし始めるのです。ゲイポルノ、または、バイセクシャルポルノとして宣伝していないストレートのポルノ映画で、男性同士の性行為をズバリ見せるのは、絶対的なタブー・・・男性の観客がドン引きしたことは容易に想像できます。観客が予測できる限界、常に超えようとするジェラルド・ダミアーノ監督の、チャレンジ精神なのかもしれません。

現在の感覚では、これらの作品を”ポルノ映画”として観ると正直古さを感じるでしょう。しかし、ジェラルド・ダミアーノ監督の”業”のような自己矛盾を垣間みれるところが、後味の悪い作家性として今でも心に突き刺さるのです。

「ディープ・スロート」
原題/Deep Throat
1972年/アメリカ
監督 : ジェラルド・ダミアーノ(ジェリー・ジェラルド名義)
出演 : リンダ・ラブレース、ハリー・リームス、ドリー・シャープ、ビル・ハリソン、ウィリアム・ラブ、キャロル・コーナース、ボブ・フィリップス、テッド・ストリート
1975年8月16日、日本劇場公開「ミス・ジョーンズの背徳」との再編集版

「ミス・ジョーンズの背徳」
原題/The Devil in Miss Jones
1973年/アメリカ
監督 : ジェラルド・ダミアーノ
出演 : ジョージナ・スペルヴィン、ハリー・リームス、ジョン・クレメンス、マック・スティーブンス、リヴィ・リチャーズ、ジュディス・ハミルトン、スー・フラケン、ジェラルド・ダミアーノ
1975年8月16日、日本劇場公開「ディープ・スロートとの再編集版

「爛れた欲情」
原題/Memories Within Miss Aggie
1974年/アメリカ
監督 : ジェラルド・ダミアーノ
出演 : デボラ・アシラ、パトリック・L・ファレーリ、キム・ポープ、メリー・スチュアート、デボラ・ロイド・レインズ、エリック・エドワーズ、ハリー・リームス、ラルフ・ハーマン
1976年2月28日、日本劇場公開

「スーパーラブマシーン・ジョアンナ」
原題/The Story of Joanna
1975年/アメリカ
監督 : ジェラルド・ダミアーノ
出演 : ジェイミー・ギリス、テリー・ホール、ジュリエット・グラハム、スティーブン・ラーク、ジョン・ブッシュ、ジョン・コヴェン、ボブ・ステーブンス

1981年12月、 日本劇場公開

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